連載は続く~ SF 掌編『高品質薄利多売商法における地方銀行業界』編


 高品質商品を薄利多売する。
 この方式は、独特だ。
 これまでのヒトの営みにおいても、日用品にはいつかどこかで採用され続けてきた。
 並行して、贅沢品市場も活性化させてそれなりのぼろ儲(もう)けを目論むことを忘れないようにしている。
 今時の贅沢品といえば武器兵器の類を持ち出せそうだ。宝飾、衣装、家具なとはその昔からのことだ。
 列島環境も例外ではない。江戸期に大いに栄えた商人なり流通業の人々も、ちゃっかり差異の利益原意を応用してとてつもなく財を築けた。
 その機会を失えばただ衰退するだけというのもありがちなことだ。
 一方で、日用品の市場というのがいちばとして賑(にぎ)わう。
 とはいえ、参勤交代のようなとくべつ出費タイプの経済の流れも取り込んでの町々の栄えだったことは、それを歴史として振り返れる今時からする視線において、各地に確かめることが可能になっている。
 ないし、産業的なブームが生じてその流通のルートと関わる各地の町々ということも振り返れそうだ。
 つまり商業的な盛衰は相当に実は激しい。商人諸氏は、そこらを時代とともにで動くことで得ることの持続性を志向してきたと想像できる。
 その盛衰を更に長い目で見て深謀遠慮を働かせて、産業を地場の産業として育てうるし、日用品市場ならば、地場であることの有利も応用できそうということで、たとえば酒蔵の酒造のテクニックを含めてのシステムとして(三方良し商法の)近江商人系の人脈が江戸期に全国展開したことは地味に浸透した知見の一つだ。
 今日、たまたまテレビで知って引用してしまうのだけど、薬売りの富山発ということの歴史事情的リアルも面白い。
 沖縄は昆布の消費量がついこの間まで相当だった。富山はその中継地だ。北海道産の昆布は富山の人脈を介していた。
 そしてその富山の人脈は沖縄で昆布を裁いて、薬草の類を中国からの中継基地としての沖縄で仕入れて持ち帰っていた。そういうことだったのだ。
 薬草の生産・流通の土地柄次第。漢方処方の信頼度とも絡んで、消費地・消費量次第ということで、富山の工夫が響き合う。
 日用使用において、使い続けるという質と量に耐える品質をずっと、ずっと作り続けられることでの高品質なのだけど、それを日用に合致する価格で満遍なく提供できている状態は、雇用や年金がしっかりしていれば需給も安定ないし動態対応可能状態ということで円滑さのイメージを持てそうにする。
 その場合、扱っている物によって色々を加味しながらも、一応、金融が、支払いの様々な場面でのやりくりの潤滑油を保てられるようにしてあれば、それなりに持続的な営みが動いていると見なせそうだ。
 だから、ここらは以上な市場原理依存のUS各地でも、そこらの応用ができれば、今のような賃金の上下動依存や、値段上下動の激しさ依存のような営み方とはまったく違ったヒトの営み応用へと誘えそうに思える。
 今時の列島の日用品については、中国産の品質が安定してきてやっと落ち着くようになった後の数十年間の現状と指摘できそうに思える。
 古財を使いまわせる技能持ち諸氏がいつでも育っている時代ならば、その応用としての民間建築を流行らせることも可能だったと想像するけれど、そういう時代ではない条件下での想像は使い捨てか素材の素材へと誘ってのリサイクルになってしまう。
 地震はせいぜい数分閑だ。たいてい激しくても1分間か2分閑程度だ。
 それを支える組み立ての要所を日用知識にした住人諸氏が生まれ育つ世の中になっているならば、避難所の規模の要請もある程度にしておけるだろうし、自らの力によってかなりの復活も可能にできるとか、しょげてばかりもいられない機縁ともできそうな空想に誘う。
 日用品を製造したり、その他の基本のところを用意するのに使う諸々が製造費用からも高額商品になってしまうことが避けられないとして、その値段で流通することも、高品質日用品の薄利多売という膨大規模の市場が育っていることと矛盾無く、形成持続可能のはずだ。
 そして列島では、そこらは栄枯盛衰の波を掻き分け掻き分け、今でもそれなりに試行錯誤され続けている。金融もそれに応じるような地味な巧みを継承してそうだ。
 経路上の工夫の数々こそは事情痛諸氏ならではの知恵が詰まってそうだけど、少なくとも金融からの支援とか工夫の術が育っていることで成り立ち易くしている面は、諸外国が偏った市場依存に陥っているならば転換の為にもヒントにしてもらえそうに思える。


 川柳もどき

  オークションは値をめぐって 或る共犯的心持ちへと誘う実験場だ
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