連載は続く~ SF 掌編『素人爺さんが放言してたそうな』編


 個人的イメージ話なんだけど、元素で整理されている数々が、実際にそう要素からして構成されているはずの一々について、それができるに当たっては・・・と素人爺さんにとっては勝手にイメージできてしまうわけです。
 その瞬間、極端に動いている状態であっても均一な運動をしているわけではなかったので、パチパチッという音がしたかどうかははっきりイメージできないのだが、エネルギーの塊の膨大量が"弾(はじ)け散(ち)り"、その一つ一つの条件というのが関わって、瞬間的にブッチギレの朝ミクロな事が起こり、その数によって元素のどれかが決まるようなことになる、電子という概念から想定できるなにがしとしてのまとまりへと瞬時だけど変化する。そこではブッチギレと大勢としての動きはスピンのような動作として現れているので、外から見れば静的なあるまとまり扱いできてしまうし、重さもそれゆえに表現できている。
 そこでの不均一ゆえのブッチギレが生じて、核とその周りの現象という動き回るゆえのまとまり感を呈してくれている。
 反発と引き合いのバランスが成り立って、一応安定っぽく振舞っている。
 だから、そうなりうる遡及可能な過去を想像しないとまずいが、そこでもスピンを生じさせるけたたましい動きくらいなら素人爺もつい想像したくさせる。
 それでも、それらはごく瞬間にありえた激・劇した状態なので、一連のできる過程はごく短期という想像は素人であっても無理なくできそうだ。
 ということで、そこらから強引に教訓めいたことを引っ張り出せるのが素人ゆえ許されるかもしれない強引さということでは、核融合にしろ核分裂にしろ、ぶつけて崩すとか、無理やり力づくによって融合の真似事をさせてしまうとか、ちょっと、エネルギーの振る舞い上、浪費に向かわせる手法ではないか、と素人想像なり妄想へと誘ってもらえたわけだ。
 仮に地表面か地中深くかにおいて、とてつもないエネルギー動態の状態を用意できれば、瞬間的に物質の元素の様々を生じさせる。領域を極端に限定できて、つまりはみ出しを完璧に制御できた上で、その瞬間をコントロールできるならば、エネルギーも、物質も瞬間的にボロボロ製造できてしまう。
 ちょっとだけ振り返って、けたたましく動いているゆえに球状の壁のような形成をみせびらかして、制止的物体のように扱えるのだけど、中味はとてつもなくエネルギーに充ちている。ヒトの営為では、そこに無理やりの力作用を加えて、弾かせてエネルギーを取り出したり、瞬間的一度きり現象での元素の生成を、人為の力づくでのくっつけ、繰り込み作業によって別の元素へ誘ったりをこなしている、と現状をイメージさせる。


 さて、あたかも科挙の試験にでも合格する気でいたかくらいの万能な教養や心身能力を人名事典の上では伺わせる藤原冬嗣氏については、そういう評判だけではまったくイメージしずらいはず、と素人爺さんは空想した。
 そこで早速図書館のお世話となる。
 後撰和歌集に4つ載っているというから、ページをめくってメモしてきた。
 *以下()内は漢字の読み(引用先が採用していたもの)
①なをざりに折(をり)りつる物を梅花(むめのはな)こき香に我や衣そめてん

 人のもとより暁帰(かへ)りて
②いつの間(ま)に恋(こひ)しかる覧(らん)唐衣濡れにし袖のひる間(ま)許(ばかり)に
③ふるさとの佐保(さほ)の河水今日(けふ)も猶(なほ)かくてあふ瀬はうれしかりけり

 あひ知(し)りて侍りける女の身まかりにけると、恋(こ)ひ侍ける間(あひだ)は、夜(よ)ふけて鴛鴦(をし)の鳴き侍ければ
④夕されば寝にゆく鴛鴦のひとりして妻(つま)恋(こ)ひすなる声(こゑ)のかなしさ


 ワイドショーを見すぎて、どっぷり系な諸氏においてはその方向で、人生の色々を演歌でもって官能されている諸氏においてはそれなりに、忙しい限りで暇なしな諸氏においてならその線で多分腹に落とし込まれると(素人的には)想像する。
 引用はここでは省略してしまうけれど、文華秀麗集という勅撰の漢詩集にも6つ採用の作品が載っていて、今時の諸氏においてはなんて難しい!とことばにするしないに関わらず読むのを一瞬躊躇するような難解漢字をたっぷりつかいこなしらっしゃるのが、冬嗣氏だ。
 漢字のニュアンスを空想しつつ2・2・3とか2・2とか区切り内の使用漢字数に応じた略式読みを試せば、なんとなく大意くらいは伝わってくる。ところが、漢字そのものが意味を取るのに晦渋発散タイプで、伝わってきにくかったりすると、その簡略手法も素人にとってはつかいずらい。ということで、漢詩の方は、冬嗣氏の発想を探るといっても、もう少し慣れないと素人爺さんには無理そう、ということだから、という言い訳の方ではないのだけど、今回は触れずに置く。
 和歌の方は、ご覧いただいた通り。そういう内容が「閑院左大臣」というポジションの人物の和歌として歓迎されるものであったのだろう、くらいをまず感心しながら目を通した。
 漢詩をふれないとしたけれど、相当に作りこむタイプとちょっとだけ感じたので、和歌も作為性の方から接近できるのかな、とすると、色、艶っぽい仄かさとその背後に含ませるなにかしらの企みも読み込んだほうが礼儀になるのかどうかなど、ちょっと半端だけど、そんな風に押さえてみた次第。


 ということで娯楽版川柳もどき。
* 虫の螻蛄(おけら)の写真と豆腐のおから(卯の花)の空想写真を用意する。(一まわり大きい四六版のを)

  ネットに写真を貼り付ける
  ここに四六版二枚の写真
  ひとつは オケラ ひとつは オカラ
  声を出して言ってくれ 声を出して言ってくれ
  写真を交互にめくる 出たほうを
  声を出して言ってくれ 声を出して言ってくれ
  オケラ オカラ オケラ オカラ オケラ オカラ(好きなだけ繰り返す)
  声を出して言ってくれ 声を出して言ってくれ
  あわてて出たもので・・・・
    (見)メッケ 大当たりだ 美味(うま)そな昼食コンビニ弁当
    レジにて サイフ出して 中には何も入ってない
    なにも入ってない [サイフのどアップ画像]
  声を出して言ってくれ 声を出して言ってくれ
  オケラ オカラ オケラ オカラ オケラ オカラ オケラ オカラ(好きなだけ)
  声を出して言ってくれ

* オケラ(螻蛄) ことばでクスっとなる世代には通じるかもな・・ということで掲載。