連載は続く~ SF 掌編『起源を想起しつつ近づけそうにないことにどうにかする』編


 化学のエネルギー状態に住まう地球生命たちにとっては出会いこそがなにごとかを生じさせてしまう。
 ヒトも例外ではない・・・というより、出会いが変化をもたらす様を率先して表現してきた。
 というように化学のエネルギー状態は、熱しなくてもそこに変化を生じさせてしまうタイプだ。
 熱して・・ということを想定していないわけではないが、特に熱しなくても、起こる。
 そこらの反応し易さについては、『星屑に生まれた世界』(渡辺正訳・化学同人社)にて著者ベンジャミン・マクファーランド氏が一般向けに教えてくれていた。
 細胞も既に構造には違いないが、ともかくそれが集っての各組織という構成を想起してもらえた時、それらとて相当に脆そうなことは想像し易い。
 出会い次第では、簡単に変化をとげてしまう。
 その変化がまとまった上でなりたっていた個体の生命系に不都合だったりすればたちまちその生命系としての保ちは壊れる。
 そうはいっても多分変化後をいつでも地表面は現象させているということで、"進化"の結果であるしで現状の生き物たちにとっては余ほどの意外な変化と遭遇するようなことにならない限り、出会いでの崩壊というようなことは起こりにくい。地表面での長年月を今の残り具合から察知できるとして、そういう変化のあり方で来たんだろうな、くらいは気づかせる。
 熱(ねっ)したりが関わることなく出会いが崩壊をも誘うような出来事は、だから人為というか、わざと、故意にとか、別の意味での力が関わって起こり易い。
 それでも化学結合での保ち性が個々にとってのまとまりを支えている。
 膨大な崩壊を経て、今に残り易さゆえの時々の偶然を経て、だから、残り易さにとっての条件次第では、折角残ってきたその性質こそが邪魔となりうるはずだけど、大抵のことが生じてきたと想起できるなら、これからも滅多にその耐性を台無しにするような出会いは起こりそうにない。
 だからつい忘れてしまいがちにするけれど、体も化学結合に相当程度頼っている。
 もまれにもまれた結果、成果なりが今時残ってきた生き物たちの性質という観点を得られれば、生命体の各部を都合よく付け替えたりができそうでできにくい辺りも表現上は漠然とだけど頷(うなづ)けてしまえる。
 ちょっとした変化に耐えてしまうそういう耐性の脈絡を稼動させていると見ることができそうだ。
 しかも個々ということでのヒト界についてだって、微妙にも大胆にも様々な出来として繰り返され続けているわけだから、そこでの変異などは流れの中ではむしろ邪魔にならないタイプのようだ。(動物たち全般での受け止めはいざ知らずヒトに関してなら、生きるうえで結果的に好都合だったかどうかなど個々で色々に受け止めうるくらい、生命というより生、生い立ちの中での波乱万丈とも結びつくくらいの重みをもたらす。)
 かつてを細胞の中に閉じ込めたか、忘却させたかして沈潜できていたのを起こして、アポトーシスの入り込む余地無しのような活性を得て統御が効かなくなる状態すらヒトは年を取れば取るほど経験し易くなる。
 ヒトは意識を普段の姿として持ち歩けるけれど、動物たちはその濃い形は表現してそうにない。それを億年か数千万年か分端折れて意識を意識できるように誘えてしまえることは、ヒトが用いる意味での幸せな事態かどうか。
 なにかしらが気になってしょうがなくなった時、そこから急速に短時日のうちに、一応、意識のまとまりは形成され易い。ただ未だに、それにもてあそばれている状態と伺えるヒト段階からして、空腹とか食うとかでも時差を意識できたりの相互作用を想起できる辺りはヒントになってくれそうだ(動物たちもの辺りに気づかせる)。
 化学結合に支えられているからと言って、意識が誕生しないはずがない辺りのヒントになってくれそうに、素人からは思えたり。
 ただそちらへと関心の向きを移してしまうよりは、ここでは、積み木細工のような具合にいかない肉体性の辺りへの関心を保たせたい。
 たとえば治癒に向くやり方としてはアポトーシスへ誘えるような外科的な一つのイメージを持ち出せそうだ。レーザーは切り口の予後に問題ありだ。
 地球での生き物たちと関わる成分の循環は、今時になって相当に想像し易くなっている。
 深くて広い海に沈んだ成分が循環に乗らないままだと、生き物界にとっては大変不都合なことになりかねない。
 実際は、進化と関わるようにして、そういうことも起こってこなかった。巡る。
 それに乗って、生き物たち個々が、成分を合成、組み合わせて、それぞれの形を成し、好都合な脈絡をたどって壊れ、巡りに乗って、代々地球的生命をつなぎ続ける。
 が個々にとっての都合を無視するわけいにはいかない、と意識的にヒトは指摘するはずだ。
 しかもその視線の先には、微細な生命現象を観察した上での知見として化学結合のエネルギー状態のはずだが、扱いにくさとか、それゆえの安定性とか、解決したいけれど研究誌続けなきゃのような事態をいつでも招来し続けている。


 中央集権化の起点を想起できたとき、順のことも同じように想起できてしまう。
 産土系で各地に、ないし、渡来の時期ごとの発想を身につけたもろもろの集団の営みが(時期的、地理的に)重層的に関わり合って、根の辺りを構成しつつ公的なうねりと関わって"神"用語を用いるタイプでの中央集権化を後日的に成して、文献信じ込ませ手法もたくみにこなせて、それでも江戸期、明治期と混乱や混乱後やをまじえて、なんとか今日のまとまり感を得ていると見て良さそうだ。
 すると、明治の廃仏毀釈のみょうちくりんさ加減に嫌でも気づかされないか、と素人的には、問いを持ち出せる気がする。
 明治期の激動だけは、奥義(おうぎ)の伝承脈とはかなり異なる脈が、関わる形で生じていそうだ。
 色々な人々が世の中に変化をもたらすのに関わっていいことじゃないか、という押さえ方にさせない要素を指摘しておきたい。
 中央集権化の機軸に仏抜きはありえないのが列島の基礎教養のはずだから。
 仏系による中央集権の流れから"神"系の中央集権が成っているので、人脈とか発想とかの脈の継承性として、仏のみならず、"神"において、そのこれまでの素養を欠く、役が、自前のなんらかの発想から明治のなんらかに関わったと見るほかなさそうに素人からは思える。
 もちろん、産土系発想でもって、生まれ育った土地ということでの集団の営みの中での生起しやすい力関係由来の窮屈なあり方を素人だって想像できないわけではない。そしてそういう脈絡でもって産土系を持ち出しているわけでもない。もっともっと個々のせいぜい家庭くらいのところまで細かく気遣って、そういう個々たちが故郷から離れて過疎地にして、ということを趨勢にしない工夫として持ち出したい。
 19、20世紀的引きづりの中での広くプロパガンダ台風にさらされやすい生(せい)を想起しておいて、相互性の圧として機能するから、下手するとそれに抗うようなことは即孤立っぽい境遇を得易いとか、敵対関係に陥るとか険悪を誘い易かったりもありうる。その照り返しとしての仲間内大事のような圧も働かせ易い。
 そういう落とし穴にはまらないで、もう少し気安く生きぬけるような、ちょっとした普通の自信めいたのを、生まれ故郷での育ち、感受性を育てた経験とかに気後れの方ではない、少しだけ頼れるなんらかにできる起点として、土地土地での生まれ育ちも込みでのその後の人生の肉付けのようにできたらという感じか。
 とはいえ、ヒトは雑多に通常は生き抜く。整然としているわけがない。日々の気持ちの移ろいの波乱加減だって疲れない程度の覚えていたりすれば、それなりの事態だったりするはずだ。
 列島版の中央集権化事業試行錯誤の途中経過が素人老人に発信してくれているのは、中央集権の恩恵要素を満喫し続けられる条件は、個々、各地の独自的試行錯誤の余地を台無しにしないだけじゃなく、機会を見てこっそり(この黒子性が重要)支えたりできること、しかも、中央集権のまとまり感を達成した各地のまとまり圏にとってはこちらのまとまり感は外部だし、こちらからすれば、外に膨大な活動圏を観察で来てしまうといった具合だ。
 それら外との付き合いも大事なことだ。だからつい安直に地球圏で一つを実際事にしたくさせそうだけど、地表面各地の条件違いをしっかり押さえて、それゆえの各地性、独自なやりくりの貴重さまで込みで、協働性・共同性くらいは発想できないと、余計なお節介の本物版にさせかねない。
 もちろん先人諸氏は、そんなことは百も承知で、色々を試してきた。相互性のための工夫も、好事家による旅行をはみ出した、行楽としての旅行の膨大量などは、無駄かもしれないし、つながりのか細い努力の進行形という質の体現のようにも映る。
 そして列島版においては、いきさつには触れず、とにかく、過疎問題の趨勢が現状奈事は、それゆえの様々な問題をこれからも当分は生じ続けさせると素人でさえ心配できたりする。

 

  川柳もどき

   世界各地が黒子としての密な(察知し揉み解(ほど)いて組み立て直して認識に載せて・・・)情報網を駆使できることは、暫定的に大切と思える。
    ただし、19、20世紀版はいただけない。込み入った難事を持ち込みやすいだけにしている。
    どこかで、鉄道のような転轍機を働かせて、工夫の脈絡替えが要る。
    お互い、ある程度、なのだが、軽く生き合えるようにしてやる(と老いぼれ調になってしまうが)ことが大事だな。