連載は続く~ SF掌編『雨の日曜日』編


 ことばを使い慣れて、その土地柄ではお互いが通じやすい言葉運用の状態を得ている場合、使用中の場でのちょっとしたことばのニュアンスが、様々に相互性において作用因を構成しえしまう。
 事情が優先順としてとにかく中央集権化へ向かわせないことには、秩序を探り合ってみようじゃないか程度のきっかけすら招き寄せそうにないと構成主要メンバー諸氏の間に、わだかまりとか心配とか疑念とかが生じがちにしているような偶然のある時期を空想できるならば、言葉運用上の都合として、そこに、今でいう敬語の類の、権威付けを誘う上下関係が言葉使用と密接になるように構成することが目論まれても、現象として充分にありうると素人的言葉運用における試行錯誤の様々な起点史としては持ち出しやすいと察する。
 でもそれが指揮命令系の落ち着き以後、使い慣れたより多くにとっては、無用な使い分けを強いられるような落ち着き状態でもあったりすれば、それら敬語の使い分けということにおいては、改良が求められ、でも、秩序を保ちたいこととの相談を意識する脈脈からは、ちょっと慎重に・・が生じて、順調な改良作業というわけにはいかないことだって起こりがちにする。
 そこらを歴史知見として持てている土地柄においてなら、余計な労力をことば運用にもたらす敬語の過度な使い分けは要らないだろうくらいは、簡単に秩序のメンテナンスを職業とか立場からより濃く意識しないといけない人々においても、考え、持ち出せるようにしていると思える。
 けれども、ことばが細かいニュアンスとともに通じやすい言葉運用の土地柄においては、間違っても丁寧語的使い分けの巧みを排除するような代案は出てこないと推理したくさせる。
 色々と巷の人々の構成が入れ替わりやすくて、細かいニュアンスよりもとりあえず通じ合えていればいい、という言葉運用の状態の土地柄だと面倒くさがって、ことばは使い慣れてくると相当に細かいニュアンスを使い分けて用いないと、集団の営み上の不都合をため込みやすくするし、作業のきめ細かさを伝え合える機会の巷次元での普及を邪魔しかねなくする、などなど、を端折って、傾向としては粗っぽいことばを投げかけて応酬し合ってそのばを流すタイプとか、実務的に事をはこべればそれで良しタイプのことばを育てはしても、人口密度の濃い土地柄を支え続けることはいつも困難というか、棲み分けのきついのが生じがちにしてしまうものだ。
 言葉運用において、そういったニュアンスを大切にできることばを育てお互いが通じやすくできている巷にまで達せるには千年とかの年月を要しそうな気配だ。だから、新しい元気な土地柄の人々はことばのその細やかさがどれほど貴重か、育つまでの年月とかに、触感的にも論理的にも気づきにくかったりして、とかく広い世界において誤解の渦を生じがちにさせてしまう。
 でもネットを育ててしまった偶然の短期間が、よりニュアンスを伝え合えることばそのものと時間の要ることを底流としては要請し始めた時期に入っていそうだ。
 簡単に伝え合えることが、その含み、包含力の育ち具合次第では、下手すると、使い慣れした人々からすれば安直な理解を下敷きにしたやりとりから猛スピードでもってことを安直になせてしまえる危険性として察しが付くけれど、ど真ん中でそれを使いこなしていて熱くなれているだれかたちにとっては五月蠅い外野の声程度にしか受け取れなかったり、耳を貸す暇もなかったりして、今時の人工知能言葉運用程度のからくりでも充分に物まねされてしまうようなことば運びしかしてない実態を透けてみさせるようなとこでの会話上のことばのやりとりだったのか・・とがっかりする機会さえ奪いかねなかったりしている。
 論文書きだって、若者なら、それなりの余分の思惑から、気の利いた発想を盛り込みたくなるだろうに、ありがちの膨大な文例のどれかをちゃっかり表現してくれる人工知能系作文術で満足するなんてちょっと昔は若者だった諸氏からすれば信じられないようなことになりがちになっているのだろうか?実際には、多分、そうはなっていない、というか、論文作文自体がそういう扱いに若者の方では見なしているような、そういう学問とかの側のあり方の問題の方が、事態の実相なのでは、とか素人老人的には想像したくなる。

 ここらは、色々データ、資料を提供してくれて放送大学の古代中世史の講義を毎回見聞しているのだけど、記紀読みの試行錯誤は昨日今日のことではないわけで、そこらの積み上げの試行の辺りをどれほどくみ上げての時代描写になっているのかは、専門家相手なので、素人からは厳しく見なしている。
 大学の授業だから現見識がどういった疑問とか不確定要素を踏まえて、暫定的にとか、ここらはどの程度の確度で指摘可能かは、これこれの材料を踏まえているからだ、とかが当然授業の中でふれられて、学問の学問という感じで営みの進行形がひしひしと伝わってくるからこそ覚える義務教育期とは相当の違った教育の場でありうるし、そこから知見が生まれてくるという生の場でもあるはずだけど、中々、そういう漸近線を感じさせにくいというあたりが、若者の多くにとっては人工知能に任せておいて残った時間で人生をより豊かにしようとかへ向いてしまうのでは、など老人的には空想したくなる。


 地球生命が誕生して、様々の苦難を生き延びて、そして今はびこっている生命こそがそれら困難を勝ち抜いた勝者なのだ、的に、まとめたくさせる進化を語るときのことばのニュアンスを発揮させやすいのが現状だ、とすると、それは誤解を招きやすくするし、学問としての試行錯誤に挑むときのヒトの身体に悪戯な作用を先行して植えつけかねいということで、先日は地球生命のとらえ方を素人老人流に指摘してみた。
 たとえば食物連鎖ということでお互いが、生き物たちの多種がそれにおいて支えあえているのだ、という見方をより濃く受け止めやすくできるように誘いたい。
 食い合っているとか、弱肉強食ニュアンスを払拭したい。
 だってそうでしょ、ヒトの実際を思い起こしたい。
 雑食性からヒト以外の生き物たちの生き死に濃すぎるほど関わってきた。
 だからヒトの営みはいつの頃か、とことん大昔から、乱獲を避ける考え方を、文字以前ならば物語のような伝え合いで継承の機会としてきている。
 倫理的に作用することばも発明して、信じる方で使いこなしてきている。
 有難いとか、供えるとか、頂きものだとか、最近ではマスメディアで働く人々でさえそういうことばを投げかける番組を多用するようになっている。
 それもだけどことばを使い慣れた土地柄からすれば、使い過ぎれば嘘っぽく響くようになるし、実際の狩りの現場でなら動物たちの悲鳴くらいは響くだろうから、そう綺麗事過ぎるように描いても、即、子供たちの方が余程実際との乖離に気づいてしまいそうだ。
 だから、動物映像を介して、そこらはなんとなく伝わるようにもヒトの営みはこなす。
 だいたい、19,20世紀は狂暴な世紀として知れ渡っていて、ヒトがヒトのことを分離して支配工作のおかげかどうか、散々殺しまくってしまった。
 指揮命令系ゆえ、勢いに載せられることが巷には生じることがあっても、時間を経れば、だれだって気づける。ヒト同志がべらぼうに殺し合ってどうなる?!おかしいだろう!!
 するとトリックというか、巷でも簡単にもめごとがおこるだろうが!と返ってくる。
 追い打ちするように、そして殺傷沙汰だってめずらしくないだろ?!とくる。
 不意打ちだと、多少言葉が達者な連中も、そうかも・・とち騙されてしまうが、ヒトの世は大抵は知恵が育っていて、争い事も"やくざ"な連中ならいざしらずほとんどは避けるし、お互い事として鎮静化させることばの巧みとか性別分業の巧みを昔なら上手に使いこなしていた。
 今時だと男がとりなし、それでもだめならたまたま武術の達人級の女が近くにいてくれて、力の作用をちょいちょいと使いこなして、力む男の気勢を削いで、そこへ囲んだだれかたちが入って、頭を冷やせ、となって、難なきを得たり。
 自発性の拠点となりうる営みを同時に育てつつ中央集権の巧みを取り込んでいるような世の中を幾分か含ませているような土地柄なら、ともかく、さみしいやつらを集団の営みの中により顕在化させるような状態にしていたりすると、ちょっとした扇動刺激を与えられると、それをすれば他人が傷つく、ということがわかっているのに、我が主張よ届け!と"甘えて"(他人が傷つくことがわかっているのにという観点から導き出せると察する)乱暴にでる口実にするだれかも稀だけど非常に困った事態として生じさせる。
 でも経路的には明確なのだから、ちょっと昔だと不良仲間間の情報のやりとりにおいて、やつは危ないとかアンテナ機能が働いていて、察知できて、ただ、分かってはいても制御する担い手がいなかったりすると事態が困った方に傾くこともありえた。今時は、そういう回路がさび付いている感じだ。不良になることはないけれど、観察できている巷の活発さとかきめ細かい配慮とかのネットワークが、公式の見守り行事っぽいノリで五月蠅がられやすい方に傾きがちにしているのかも、など老人的には憶測もできる。
 小魚とかではなくて熱帯大型魚や動物系のペット商売が列島に蔓延り始めたのはそう昔のことではない。そしてその趨勢と世の中での迷惑な出来事とが並行してきた辺りの不思議は世の中観察系諸氏には、言わずもがなとは思える。
 そそのかすだれかたちは限られているけれど、そそのかされただれかたちが紛れ込んで、事態を整理するのが難しくなる、という構図はテレビドラマシナリオのりから指摘しやすい。
 ただここらも分断して支配する、US流(他の諸国は同じ大統領制でも別のやり方も採用しているから)大統領制(は黒幕が政治支配に介入しやすくする)が象徴的だけど、19,20世紀ノリが置き去りにしたお荷物と素人老人広瀬本読後感は指摘したくさせる。

 主流のなれ合いは巷の人々や活発な連中にとってはえこひいきの感じをつい持ちたくさせるから、広く秩序のなんとなくの達成にとっては時に致命傷ともなる。
 けれども、構成要素間が、巧みをこなして、協力し合えている実際をいつも表示できていることも巷にとって、活発な連中にとって、生きがいとかに通じさせもするし、一種の満足感を得させやすくする。そういう大環境の中で、それぞれが個々の事情ということでそれなりの人生と遭遇しているわけで、そこらを法治の安定性が、バランスをとってくれるというもう一つの経路も並行して体験できているようならば、ヒトの営みとしては、それなりに、過去から学べた状態と言えそうではないか。
 これもたまたま4K放送時、1から3までを(番組放送をしらなかったため)録画できず、10から12までは、こちらのミスから録画せずにいた『沈黙的真相』ないし『ロング・ナイト』を偶然、第4話からの放送をNHKBSにて深夜というかごく早朝に見ることができて、行政、司法の法扱いのプロたちが、周辺の出来事へのフォローを怠りがちでは、と主人公たちの失敗の数々を苛立ちながら見てしまっていたりしつつ、解決の仕方は、法治の方でバランスよく、狂暴な勢力を追いつめて、しっかり法治の手続きの下裁く経過をシーンにしていて、巷が法治の下、ぎゅうぎゅうに押しまくられているわけではない分、危ない要素も介入しやすいけれど、いざということで法治が動き出すと、バランスよく法治を作用させてみせるあたりのニュアンスはなんとなく伝わってきたように感じさせる番組だった。プロが、そこを見逃すのか、と途中経過のシーンの数々は法治の担い手不信に誘いがちにしたように受け止めたけれど、一応、最終的には落ち着かせてくれた感じだ。

 中央集権と自発性育てを並行させる仕組みには、公務系と関わる汚職を制御できる見方、見識とそこから生まれる法とかがどう工夫できるかがそれなりに関わってきそうだ。
 自発性の担い手(構成メンバーすべてだけど)諸氏が、そこでの中央集権のあり方を継承したくなっている思惑が世代間でも継承し合えていること、そういう中央集権の中身とか状態を話としてどうな風に描けたりするか。

 

  川柳もどき

   列島では季節を伝えるのに巧みなことば系芸能をずっと育ててきた
   実際の植物観察からよりもそっちの発信の方がリアルに感じられることもありだ
   感じ
   だから五月・・・なら
   次は六月
       ということで、えっ?と今年は意外な感じで、「梅雨」を思い出した
   音楽づいているついでに、季節・空気のBGMに作詞作曲の巧みかと老人感想の
     雨のウェンズデイを流す