連載は続く~ SF 掌編『ローマほかの帝国の話に向かう助走』編


 万葉集についての不可解についても、歴史家語らずで、謎のまま放置されがちにされやすい話題の一つのようだ。
 そう気づかされる前に、興味から周辺にふれつつを経てしまう素人ゆえ、山口博氏の万葉集成立史の辺りを偶然にも知ることが出来たりの紆余曲折を可能にできたりが起こる。
 すると古代史をめぐる専門家、事情通諸氏こそがふれないでやり過ごす、事態把握の精度が必須なのにも関わらず、またその時期の全体把握が必須にも関わらず、材料整理がいまいちな学問的条件が揃って、関心のあるそうが様々に仮説を提出するしかない状況も生じさせる。
 そんな事情すら知らない素人だから、そこらも素人なりに押さえた資料から先達の言及を手がかりに探ったりを少々程度でも可能にして、素人流整理など試みれば、謎のいくつかの提示ないし残し方こそが素人にとっては幸いして、列島古代史においての試行錯誤の熱気と初歩の試行ゆえの様々の手触り程度に気づかされたりも偶然、起こる(と一応素人なので勝手に受け止めているわけだ)。
 だから菅原道真氏に関するここらは素人にとってのなんだけどもやもやを解消してみたくもさせたのだが、どうやら道真氏に関しては、個人特定可能な資料が結構あってそれらを総合しての道真氏像がかなり確固としてそうだった。
 山口氏の説に相当刺激されてしまった素人ゆえ、万葉集の公式版の最終的完成が道真氏の時期という前提から物事の推移を考えるくせも心がけるようにしている。
 そこから、空想上は、道真氏の万葉集とか初期中央集権勢力への強い関心はどこらから由来しているのだろう、と考えさせる。
 ひょっとして九州人脈のお一人?
 山口氏の示唆により添うなら、文献資料により密接な立場上であることと、文字資料としてのしっかり整えて残すことのなにかしら自らの信念と結びつく意欲のようなのの両方を想定したくもさせる。
 この二つの方向へ分岐させかねない素人空想でも素人だから多少なりとも、根拠・理由のあたりを探りたくなる。
 で、既知の整理が実はもう成されている。
 ただちょっとばかり素人流ということで差し挟めそうと思えるのは、記紀にしろ、現時点での思惑とか方向付けの作為を想定できる文書郡が中央集権化に当たって濃厚に作用し易かったという特殊事情のあたりだ。
 それぞれの事情(数百年間にわたって時差をおいた渡来系が各地に集住したり、誘われたりでの、今日からの視線でまとめてみればそこに列島の人々を見ることができても、自然的列島のばらばら感の方が先行しかねない古代列島(ここらを早くから中央集権が成ってと雄略期あたりに目を届かせてしまった専門家諸氏にとっての思い込み過剰現象が後々の混乱の現象把握に歴史物語の大団円っぽい作家性に誘う要因を読めそうだ))の集住状況へ先例から学びないしヒント発信を得たりがありえて、中央集権化の道を採用して急発進した時期を持つ。
 そこらが数々の専門家、事情通諸氏の少数がそこで未解決の問題群とした適時してきされてこられた目立つのについて、かなりの答えを用意させる、と素人は見た。
 たとえば問題にしやすい九州政権のことについてなら、ここもあくまでも素人流にすぎないけれど、九州勢の多くが近畿圏へ拠点を移していることと、九州権威筋が九州に残って営んでいたことの並行性は充分に成り立ちうる。
 しかも古代の土木という重要ごとを関わらせれば河川を使う運搬も不可欠ということで、海岸線違いの立地の場合、大抵が近くへそれなりの河川とともに集住圏とのセットを条件に地図を眺めることができる。
 すると吉野ヶ里もそうだけど、筑後川筋として山脈とのセットは一つの地図観察上のヒントにできる。
 更にその延長で日田が宇佐なり別府という列島のその先を列島在住者が得たその先に広大な土地が連なり、一応時期的には九州よりは噴火が少なそうと思えたかどうかは素人でも怪しく思えるが、土地の展開自体は厳然と感受できたはずで、その九州の出入り口としての宇佐、別府辺りとの結節点でありえた日田の持続性も素人には無理なく空想させてくれる。
 河川は運搬+灌漑と直結する。人口が(密度分布ということで)そこそこの列島の江戸期ころまでは、水理との相談での開拓事業はそれなりに思い切って動かせたはずで、使えそうなところは大半宅地化して、危ない所を開拓して、そこらをもやもやっとさせて得ってしまうとか無理に住み着いてしまう危ない系が跋扈するよりは、仕方なく、そこが身の安全を確保しやすかったからというような時代的境遇が発生し易い頃と混同もできない。
 列島の中央集権化の試みが仏教技術家集団とともにありえたことの偶然のなごりをテレビドラマに登場する東北のかなりしっかりした寺の建物にたたずむ主人公諸氏の姿と重ねて想起できることで、また、外交上も明治の初期頃は寺が使われたとかのエピソードも、それなり、と素人にはヒント発信になってくれる。

* 水谷氏と音羽氏が名コンビで冴え(発想と取材しまくり(土地土地の紹介になる))の陣容が事件解決に挑むムードを醸す(日テレ系)浅見光彦第二弾伊豆の天城と東北の遠野周辺のエピソードから
* 八女・吉野ヶ里~日田~宇佐・別府→列島各地(先住地中国地方迂回路、四国、記含む近畿、信州圏、越圏、武蔵圏・・)

 というわけで、道真氏素人整理は中途半端なままなことを長々と。

 

 さて肝心の介護世界のこと。
 ここらは昨今の物騒な世界情勢と絡めてことの順をたどることの重要性をちらっとくらいはふれたくさせる。
 超大国がそもそも論になってしまうが、ネオナチとか危ない勢力を使い捨てにするような手法を諜報利害だからって使いすぎることが、各地の努力のバランスを崩させる要因となりうることを教えてくれるのではないか、と問いかけてみたい。
 左・中・右どの勢力にしたところで、誘いかけに応えて、過激の意味を取り違えて、敵は殲滅してもかまわないのだと思い込める連中は、誘いがあったからといって、そうやってしまうことにおいて危険だと断定できることは間違いない。
 けれども、誘って質を試すということの危険性の一面をやはり、示していいやしないか。
 そう世界情勢に疎い素人ではあっても投げかける程度は出来そうに思える。
 確信とか信じ込みとか信念とかで凝り固まって集団指導してしまう層はやっかいだけど、その時々の境遇からついつられてのタイプ諸氏は、いつでもありがちで、境遇次第ではそれほど世の中にとっていいこともしてくれないかもしれないけれど、ひどすぎる関与もしないで、ほとんどの諸氏同様に、個人の可能性のいくつかに挑みつつ途中下車的人生を全うされると思える。
 そして今時の知見では、危険な政治勢力だと言っても資金源さえ把握できれば、それなりの対処が可能になっている。超大国を自他共に認めるUSがそこらを自ら応用してきた。
 ただし、お互いに自治を認めあう国レベルの、外交的関係が必須の間柄で、そこらを応用することは、質の判断を間違えているように素人からは運用上のバランス観点から指摘したくさせるので、今回の騒動のように国の枢要にまでネオナチ勢力が進出可能になるような超大国側の思い切った手法は危険の程度を超えている、間違った手法と素人は見なしたくなる。
 その結果が今で、使い捨て策が遠謀としてあったとしても、資金的な支えが超大国から身ということでは、膨大量の端々に群がるワルたち現象も伴わせるから、他での騒乱担い役勢力の世界各地のばらつき同様、超大国の諜報手法には、情報の根幹を支える要素を素人でも気づけるけれど、麻薬同様に危険を巷に及ぼしすぎ要素も相当と思えるので、ほとんど映画からのヒント知見の素人だけど、心配は指摘しておきたくさせる。
 おとなり中国には尭舜の伝説ありと、列島史では知られてきた。
 今なら世界中がウィキペディアを介してでも、中国語の原語でも翻訳して読めそうだ。
 指導層が裕福にもかかわらずという境遇を良しとしない指導層がいたらしいし、世の中がそれなりに円満におさまっていることを細心の注意から検証もするくらいだった。
 素人はそこらを前提に、武則天氏と高宗氏の頃の唐の指導層の発想を振り返りたくさせる。
 順の論に戻れば、19、20世紀を経たUSで、極端な格差が安全圏を逆に構成しやすくさせて・・という辺りをまったくの方で突き放すつもりがあるわけではない素人の観点からして、やはり軌道修正が必要な時期には違いないとぼそっとくらいは指摘しておきたい。
 詳細をふれられる知見的実力皆無な素人なので傍証程度のことを指摘するにとどめることになるけれど、先日もふれたように要諦は雇用と物価の安定で両方だ。
 そして原因との絡みで解決を試みることもわかりきったことだ。
 物価上昇を目論むという建て前を通した日銀リーダーはその限りで見当違いも華灘しいと素人でも指摘できるけれど、その同じ素人は銀行金融から株式市場頼りの金融への比重移行の時期を経たことを知らなさすぎる素人であって気づかないわけにはいかない程度の発信が盛んだった時期にマスメディア発信に触れえている偶然もありで、中央銀行の低金利策が経済学者の精鋭諸氏からは顰蹙を買う程度の愚策と明確に指摘されても貫く要因を素人だからこそ今の時点でも指摘できる。
 銀行の金利が資金運用に向かないならどこへ向かわせれば・・と資産家諸氏は考える。ない資金運用部門が考える。
 そういう趨勢を刺激し続けてきたわけだ。
 銀行は庶民の預金まであてにした。
 だからか株式投資も一般投資家まで参入させようと励んでしまった。
 端折ってしまうが、金融論の政治経済学版はこれからも実際的応用可能性を含ませた学問的試行錯誤が必要のようだ。
 そういう世の荒々しい事象に活躍する主だった諸氏に限らず端々で関わってしまう大人たちが介護と関われば即、弱者虐待系に変身しかねないあたりをつい先日ふれてみた。
 だれもが追々、どうしょもなく老齢系の弱者となっていく。
 しかも個々性の本源の方ではなく、人生上身につけた個々性をより発揮し易い状態での事態だ。
 だからプライバシーとここでは安直に受け止められかねいけれど、安易に持ち出してみたい。
 弧を介護する側の事情として前回あたりで用いた。
 でもそれは一方から摺る思い込みに過ぎない、ということには恐らく多くの諸氏が気づかれる。介護を担っている諸氏ならば、当然のように気づいてしまう。
 そしてそこらは情報共有の必要性とともに、辺りに切実な問題を投げかけることになる。
 だれそれはどうこうだから、これこれするとより介護を円滑にはかどらせる・・っぽいこを情報共有のためにことばにして伝え合えることの半面の危険性だ。
 危険性とどぎつく聞こえるかもしれないが、先の暴虐性発揮可能性大の現代のヒトの条件と重ね合わせれば、どれほどのことがに即気づけるはずだ。
 しかもヒトはおしゃべり好きなので、どうしたってことばにして話してしまうとまたたくまに広く伝わってしまいがちにする。
 その"秘伝"が(介護の過程を荒立てることのないよう)コツとしてこっそり(入居のご老人諸氏にとっての(つまり虐待系の情報漏れが必須なことに対して))守秘も機能して、介護職諸氏がストレス圧に逆切れする機会を滅多に持たないで済むようにしてくれるならば、いいのだけど、すでに持っているストレス圧からくる不満の類を知りえた老人諸氏の捕らえようでは弱点ともなりうる情報をワイドショー的に話題にして場を賑やかにしてみたり、実際にうわばらしのように、その弱点を応用してしまったりが起こっては元も子もないわけだ。
 だからそれなりの介護職経験を積んで情報扱いに制御の方で慣れた熟練に向くのが(実際に介護ストレスを避けうるタイプの肝心の)情報共有の手法ということを指摘できる。
 ということで、巷のおじさん、おばさん感覚で他人の情報をぺらぺらじゃべってしまう介護職の経験の段階と見なしうる諸氏に、情報共有手法のそれさえあれば介護ストレスをかなり避けうる、というタイプの情報提供をなしづらい、ということを指摘できるということの意味合いに気づかされそうに思える。
 技量伝授でかなりを制御可能なことは、何度かふれている。それに加えて、入居各氏の様々を感じ取れてことばで表現できて、それを理解して心身化できていることは技能の応用のためにも欠かせないのだが、かえって、お年寄り諸氏の個々性、生活習慣そのほか膨大な個々性を形作っている身心に関わる個人事(ごと)の細部は、熟練間でも共有させうるだろうか、と素人老人的には疑問を持つ。
 そこらを大事にし合えることでの介護上の信頼を築ける。
 医療中の医療を担う医師諸氏は、そばに看護師が付くという形が一般だろうから、そこらが近づきの距離の制約となってしまう。もう一歩、本音の本音の本音程度くらいまでは、ことばのこんがらかりの、ニュアンスの起点とかをたどれるかもしれないけれど、そこどまりになりかねない。介護の場合、それだと、晩年の晩年に向かいつつある時期への対応に親族の中の偶然身近を可能としただれかほどの近づきは不可能だけど形だけでも、対応が可能になるそれまでの信頼関係くらいなら、偶然にしろ順をたどれることである程度可能になりうる。そこには、他言無用をきっちりできる介護職である限りのだれかがいるわけだ。
 相性のいいかなりの程度進行した認知・記憶を不得手とするようになった老人諸氏の表向き通じてるはずがないのに一緒に時間を過ごせている凄さ感形成が、そこらの守秘を可能にしている間柄感において、介護職ともいくらか成り立ちうる辺りの不思議と似ている、と指摘できそうだ。
 失した諸氏は、客観的にはあけっぴろげにプライバシーとしての破綻の様を見せびらかしてしまう。でもそうだとしても、接するだれかたちが、大雑把過ぎる言い方を取れば、他のだれかたちとその失敗を話題にしたりのかすかな気配さえないし、ましてや介護の事情からそこらを話題にしてしまうような気配さえちらっとも感じさせず、だから他のだれかが間違ってもそういった話題を介護職間で話題にしてそうな気配が出るわけも無く、という完璧さが、最低限の条件のようなことになってしまう。
 つまりと更に大幅に端折ってしまうと、一人の介護職が多くの老人諸氏の面倒を見るというタイプの介護は実際問題として成り立つのかどうか、という辺りを世界の介護事情へ問い、投げかけうる。
 それができないなら、現状、介護施設は成り立たないよ、世界中から返されそうだけど、多分、そうだ。
 一人で、一人の老人の晩年と付き合う。これも大変だ事態だ。でも、その場合に、交代交代でなら24時間の介護は可能になる。もう一人の人生としての介護職の生活が可能な介護のやり方なら、今流の8時間制約で、残りの16時間、それと週休2ないし3日間や食事休憩、中休み、トイレタイムほかはなんとかする、というやり方だ。
 ただしここにも注意は注がれる。
 逆に閉じた環境となりやすいと見なせそうだから問題発生要素も含ませてしまうと指摘可能だ。
 施設的営みの中で、担当辺りの人数が一人で・・、となれば、それなりに相互の目配りは現状程度には可能だ。
 しかも情報共有とは言え、奥義が不可欠なあたりは、指摘したとおりだ。
 日常の関係性と切り離してしまうのではないから、波乱万丈の機縁と無縁ではありえそうにないにしても、個々が弱体化していく過程において、個々が制御し得ない不可抗力的プライバシー開陳がもたらす問題群の発生は極力抑制させうる介護職ということは、個々が自力で晩年を貫く時になら普通に可能になる事態であることを想起しておきたい。