連載は続く~ SF掌編『2010年代すら古臭いのに1970年代とは・・』編


 1970年代の日々、東京の若者たちの中に芸術・芸能分野においてなんらか芽ばえを感じ取らせる動きをそれらを含むより多くの若者たちは明確にせよ、なんとなくにせよ気づき始めていたように、素人老人は想起してみたくなる。
 だから組織だって企画して表現のまとまりへと誘うその要素だけは、散らかって居続けていたとも言えそうだ。
 ただ現素人老人からして、その生々しい東京とかその周辺地域は未だ列島の時事的混乱の趨勢の後を引きずっている時期で、既に野党だ、与党ではない、というだけでは宣伝にならない時期にも入り込んでいた。そこらは各地方・地域で明確になりつつあった。
 つまり3割明確支持層の与党と1割明確支持層の野党第一党という形式にほころびが、各地方、地域では生じつつあった。
 今時の発想くせからすると投票数での政党支持分類話程度の意味しか発信できにくい表現かもしれないが、マスメディアの誘導利用が今ほどには浸透していない時期のことで、それなりの情報が巷にいきわたりやすい時期での事象と見た方がリアルに近そうだ。
 そういう一方の趨勢ではあったけれど、ヒトの営みにおける芸術・芸能分野と大雑把に括れる関心を向けうる知や芸や身体(運動性の様々)やと関わる具体性において、試してみたくなるほどには蓄積できていて、しかもこれまでの内輪以外にも、というきっかけさえありうるなら、それが表現媒体提供ということで、今時発想での芸能界進出物語とは別個のように、ちょっとだけ押さえた方がリアルに近いとは思うけれど、マスメディアとの利害からそれらが用いられるという恰好以外のなんらかとして賑やかさなりが、出現してもおかしくなかったかな、の辺りは、ちょっぴりふれておきたい。
 そんな頃に、更にもう一方で、列島では公害のことばで括れる問題群をマクロにもミクロにも深刻にこだわらせていた。
 で、左・中・右の"伝統的"な議論が誘う落とし穴に気づける若者たちもそれなりに出現していたのだった。(産業革命後の趨勢(企業活動を支える金融他様々なメカニズムを含ませて)へのオルタナティヴ模索程度だったか、それ以上のヴィジョンを準備できていたのか・・・。それに当時において年寄世代が弁証法役割分担の問題をヒント発信してくれていたわけだ。それこそ世界をめぐる悪循環の根の一つじゃないの)
 何度も引用させてもらっているけれど、広瀬本は当時、それなりの情報力を発揮してくれていたわけだ。
 そういった若者たちの機運の中で、広瀬氏もはっきり石炭のオルタナティヴ性格を紹介していた。だからエネルギー需要に答える素直な代案提示の類だ。
 ゴールド氏の説には異論反論も活発なままのはずだし、一方で、そういった不毛な議論の持ち出し方をせずに、可能性を探って持続的に火星生物痕跡の探索に貴重な資源が投入され続けてきている。
 ゴールド氏の説を踏まえるなら、石炭→石油→ガスの連続面を想起して、今時のエネルギー問題の話題の絞り込み方にも理屈はありそうだな、くらいはありうる。
 しかし、石炭も石油もガスもだめにして、核爆弾のためのサイクルを応用しただけの現原子力発電の仕組みに依存する話となると、緊急時の各国政府のべらぼうな支出とその緊急事態が軍事と関わって、兵器の類もべらぼう出回りやすいとかの条件を生じさせるような事があった場合、時間を経て、それらが地表面各地で事件屋稼業によって小出しに使われだして、そんなことがなくても大忙しな地表面の世の中に、とんでもの忙しさをわざと招くことにさせかねなかったりする。余剰資金は、デモとかの示威行動いいことに、わざと乱暴狼藉にでる個々や組織を動員しやすくする。ドラマに出てくる本格調の刑事たちが活躍してくれれば一網打尽という即解決策も十分に起こりうるような事態を使いこなす勢力も地表面で一応信任を得ているような国政政治が生々しい今的特殊事情の時などでは、危ない要素の継ぎ足し現象にさせかねなかったりする、と素人老人は察する。
 だから太陽とか風とか地熱を利用した発電に金を注げ、という話にしたくなる諸氏はいらっしゃるだろうけれど、地表面各土地柄に応じて千変万化の条件が待っている。
 列島のことを考慮できただけでも、風?太陽?地熱?だろう。
 (燃やして)タービンを回しての発電を基本としているなら、小学生でも習う基本的な理科知識を人々は立派に使いこなしていることになる。
 燃やして効率よくその熱を熱として使いたいなにかに使う。
 電気は燃やして、電気としてつかいたいその(電気の)形にして使う。
 だからここらも1970年代の話題としては、熱がほしいならできれば燃やす方の効率の良い何かを改良し続けて使う方が相応しかろう・・という話で落ち着きがちだったのではないか。
 現行形式の原発は危険(これは今でもだれも否定はしない)だからと、メタンハイドレートの論も持ち出してくれたのは当方にとっては室田氏だった。
 ただ、そこらは映画とかでシェールオイル産出の過程で生じる地面の動揺現象などがエピソードとして採用されるなど、その後の温暖化要素としては二酸化炭素以上の論以前から警戒視されるようにもなった。
 熱源としての効率はだから、高い。けれども、メタン排出とその大気圏での構成度合い次第では温暖化の危険あり、ということになった。
 石炭を安易に各家庭が燃やしだして煙だらけという巷を想像できるのは、SLに乗ってすやすや眠る体験を持つ"ガキ"たちだろうが、実際、そこらへの工夫を欠けば石炭依存は相当にヤバいわけだ。
 それと同じくらい、資金の闇へのばらまきや武器の大判振る舞いやウランサイクルの放任は、仕切れる誰かたち以外にとっては、とても嫌な要素ということになる。
 ニュースネタが欲しい業界は嫌々受け入れやすい構造を構成しやすいので、巷にとっては困った現象だ。そして、そういうことを自らの内輪ネタとして一応これまでオープンにしてきてくれたので、素人老人すらがこんなことにふれることができる。
 それに、そういう暗躍応用での超大国的秩序の持続性追求では、結局巷の快調な方の元気を削ぎつつの肥え太り作用を肥大させかねないことがほぼわかり始めて、軌道修正の必要位はインサイダー諸氏においても多分、気づかれていそうだ。
 ただし、いつでもそうだけど、その時期時期での主導脈にとっては、自分たち以外に億人単位規模での人々の営みへそれなりの秩序だった活発さを保ちながら営みの継続性を提供出来はしないのでは、という心配の下、厳格な観察眼を日々働かせてきたと察せられるけれど、その心配症は下手すると超大国役の暗躍技の暴走を見逃させるし、オルタナティヴ趨勢の種への育てと芽を出させることをかえって邪魔させかねない。
 フーコー氏は、だれもが小さな政治の中で翻弄されてしまうリアルを晩年の方では特にほのめかし続けていた。
 生々しい生はヒトの場合、生まれるときから細胞の様々として同じようには生まれ得ない。どれが完全に近いかとかの話をすること自体がナンセンスになる。こう考える向きへのヒント発信になってくれていた。
 完璧な装置へ世の中を改良できればいつでも完璧なだれかを生み育てることができるようになって世の中からはちょっとした軋み発生要因すらなくなって皆仲良く楽しく暮らしていけるようになるそういう自動運転状態をもたらすことができるとか、半端な古典を読み込んで思い込んで弧考の高見にうっかり立ってしまうともうイケナイわけだ。自らの全能性において他を改良できる気になれてしまう。困っただれか、だろうが、こういった状態の本人に正気を誘うのはちょっと難しい。信念の塊ということで一般化すると、色々がありうるからかえって弊害を生じさせるけれど、その度合いということでは相当の部類といえそうだ。
 フーコー氏の思考にヒントを得られるなら、変異のそれぞれが集まって、なんとか一応ヒトと括れる発想を得られていることは幸いだけど、お前はヒトの定義から反するからなんとか改良したいとか希望を他人に持ち出されるようになるその先へはかなりの工夫と心配が要る、ということだ。
 心理的に一歩踏み出せないだれかをちょっと背を押すたとえタイプのケースだと、その手の工夫を作用させることでヒト諸氏は意外に元気に目指す方へとだれかれともなく誘ってもらって、あとくされもなかったりする。でも、そういう事態として理解し合えなかったり、一方の無理強いの度合いが強かったり、思惑の錯綜がそこに介在すれば、シンプルな経験知応用のケースでは済まなくなるから、一般化して語ることはそれなりに難しい。 移行の過程を上手にこなせれば、ヒトが為してきたトンでもな歴史的出来事の数々を為さずに、より目的地に近いところへと誘えるようにする。
 壊して世の中を改良することを是として革命的なこと大好きできた土地柄だと、巷にとっては折角の平穏で賑やかな営みは到達地点よりはいつでもたまたまの経過の一点のような事象とさせかねない。
 壊しても古材として再利用するかそのうち再利用しようと保存しておくとか、そちらに考える時間、関心の向きを使える土地柄では、たまたまそういった発想を日常にできている人々とともにの集団の営みの中に自らの生活の場があった場合、一種の循環、持続タイプの生活の知恵を人生の中で学ぶことができたりする。
 だから地表面各地のどこそこがそのうちの片方にだけ偏った人々が集まっている、とかはまったくありえないから、それら発想が混在して、上手にバランスを取りつつ、壊して壊し切ってヒトを痛めて、という発想の間違いに気づける諸氏をすこしずつでも古材再利用発想に転換してもらえるよう工夫されているのではと素人老人は空想している。
 ことばは単語そのものが、個々の過程とともに熟成していくから、その少しまとまった形としてなら方言のような形をとって、意味の過不足を補うニュンスを持ち込ませてしまう。それでも、個々の表現する中身を自らにおいて使い慣れたやり方で用いてそう熟成させてしまう。ことばの教育として平準化を近代の試行錯誤は探ってきたはずだけど、そこには個々にとっての息苦しさを我慢しましょうねと諭(さと)す圧が働いている辺りは謙虚に受け止めておく必要を素人老人として指摘してみたい。
 つまり端折れば、ことばに頼り過ぎればただただバラけるだけなのだ。
 暗黙の行動において感じあえて、それなりに信頼感を養いあえるなら、そちらで相当な事業をこなせてしまえる。
 一対一対応をある特定の時期に限って可能になる専門家させた語彙・記号を用いた"設計書"を使って、ある程度厳密なことを協働で可能にもする。精度について、ある具体性においてお互いが検証し合える関係において、作業としての再現性もその関係の中では起こりうる。
 でも系を外せば、お互いにとって、確かに精度検証は可能なんだが、自ら望むところではない観が付きまとうような経験を誘うことになる。
 極端に断言するだれかと遭遇して、多分列島育ちのだれかたちにとっては、その中身の一面性以外のなにものでもないことばの塊の発信者に、どう応じたらよいのか、一瞬でも戸惑うはずなのだ。
 そうわかった場合もあれば、言っていることをつかみ損ねている場合もありうる。
 つかみ損ねてというよりは、持てる知見からは理解のための脈絡を誘えない状態、ということもありうる。
 中には曲解の暴挙とかもてあそびにでる輩も関わらないとも限らない。
 だから一対一での対話でのその断言なのか、複数が関わった場での断言なのかでも色々が生じうる。そしていい足りていないというか包容力を期待しすぎてはいけない語彙やその組み合わせということをうっかり忘れて論理とかをかなり応用できるとか思い込めてしまうと、スポーツ好きになれるのは、ルールに沿ったその事態の動かし方として楽しめるからとも異なる言葉の自転に逆に翻弄されることもたまに起こる。
 言語とかの分類で日本語と言ってしまえる。確かにそうだと思えるが、方言の通じにくさを楽しめる余裕があるならば、そこでの物わかりの良さが、ばかげていることにも気づかされるはずだ。
 ここらは列島古代での鉄取引で外との交易を成した加耶の諸氏が、列島に来てなぜ広がりを持てたかの不思議はちっとも不思議ではなくてそういった性質のことばを生々しくしていたからだ、と言えそうだ。それに対して、その現象に気づけるまでは、九州のごくローカルでやっていたはずの対中国外交に関してはプロ中のプロであっても他から一目置かれるどころかほとんど付き合いの埒外にしておくしかなかった事情と対照的だ。
 遠隔地貿易を営む脈々は現生人類の経過の中、とにかく各土地柄から知恵を膨大に得られる機会に恵まれ、そういう情報の状態の変遷の中で、ノーベル賞なりが発明されて、それを受賞する人々を輩出してしまう。
 近代の試行錯誤が大学とか特別な研究所をより発達させて、やがて輩出先はそちらへと移ろう。
 各地に特殊技能(当然そのための知見も育てている)を育て継承しながら、その土地、その土地での継承と応用のその先を試行錯誤する機会をもちにくくしていた。
 九州でも、多分、それに近いことが起きていた。中国での歓迎にあったり町を歩いて、なんらかを学び真似がしたくなれば、材料ほかを集めてそうすることもできる。
 列島の場合、それは仏が入ってくる頃までは内側からの発動としては、目立たない。
 むしろ加耶の人々の土木・灌漑とかが目立つ。
 鉄取引を介して使う実用的なことばだから、生々しく栄枯盛衰して変動しまくる場合もあるだろうし、少々長年月継承されることもあったと勝手に想像する。子と母親たちとの言葉継承のタイプとは異なるから、どうしてもそういうことになる。
 でもことばとはそういう作用をしてきてくれている。
 どうして?と気づけた九州勢は、教えてもらったか、よーく観察してか、とにかく、自分たちの影響圏を広げることに関わるツールをこれだ、と思えたわけで、列島になんらかを生じさせたはずだ、と具体的な指摘は素人なのでと言い訳して、流す。(5世紀(400年代)は加耶勢が影響力を発揮した。6、7世紀(500、600年代)には九州勢も表立ってきたと見る)
 加耶勢の場合、一番のトップ人事は他人任せと中国史書には載っている(そして殉死の風習。列島では家光氏の頃にその風習を改良する向きが強く生じた(つまりエリート層には加耶系の諸氏がそれなりに影響しうる位置に関わり続けていた可能性も、とは素人考え))。
 色々紹介される倭国のリーダーは実務家タイプの一面をほのめかすように、中国史書からは素人は受け止める(明確には呪術系)。
 加耶の交易用ことばがネットワークを形成した列島各土地柄でそのことばをやりとりできる層はその後もずっと列島の広域を意識した活動身体を保持できた、と推測する。
 というように、ことばは個人が発するけれど、実はつきつめるとだれかたちがそう言うように仕向けている現象の一つの性質を免れないことも既知のことに属する。
 けれども、一応、素人老人なので、ここはそう強くではないけれど、断りつつ発信してみたい、と素人老人は思うわけだ。
 列島ことばの使い手諸氏は列島受容タイプの仏のこともあるし、実際的な生活のタイプでもあるしで、地表面各地の似た諸氏同様に、自分がこうこう言うという事態について、リアルな感受性を発揮して、ことばを用いてきたそのままのことばの営みを演じていそうに素人には思えたり。

 

   川柳もどき

    ムシムシするね
    ・・・・
    ムシしてるでしょ?
    ムシムシ
    ムシね・・・ム、シ。
    空梅雨でもなく、降り続いて、でもなく
    そんな土地では
    蒸し蒸し蒸し蒸し蒸し蒸し昼寝かな