連載は続く~ SF掌編『自分ってどういうやつ?』編


 たとえば神社と言ってしまうだけでも、勘違いの暴走系に近い。
 そこらに気づけるとき、ないし、ドラマ『CSI:サイバー』にて、根拠を他者の行為によって失ってしまった誰かの立場が、主に次々とやってくる移民諸氏によって構成されるお国柄ならではの(根拠なしの)実質を持ってしまうことの成り立ちやすさをいくらかは振り返れそうな土地柄の住人諸氏にとってみれば、だれもが生まれ育ちの過程抜きに個々にとっての人生などありえない基本中の基本を素材にしてみて、"神"(用語であり概念でもある)以前、"神社"以前の或る頃、なんらか根拠性の一端を担っていたはずの繋ぎを意識できる脈において大切に継承されてきたなんらかの象徴性とともにあった土地のか、"氏"のか、血脈のか、納税ほか生産のなにがしを持ち寄った集団性ゆえか、観念操作上の儀式とかも含めた対象を意識できることの根拠性は、各地、個々にありえたくらいは想像しやすい。
 継承そのものが契機として勘違いを持ち込んでしまう。伝統芸能にしろ、引き受けて次第で、どこを継承すべき急所かは、人生のその時点が入り口となり、判断の担い手となるのだから、いつもすっかり同じになりうるなどはできぬ期待に近い。
 形の同型的継承を第三者が見ていても、内実としてのどこらに重きを置いての継承かで、その継承の実質が内実となっているので、観測上も、起源を探れない限りで、起源での肝心の、急所に当たる、のなにがしに気づけなければ、観測そのものを失敗してしまう。 そういう出来事を扱いうるけれど、扱える以上のことを成すことがそういうわけで、とても難しくなる。
 恐らく伊勢系の試行錯誤すら、起源から外れて、時の中央集権化の要請に応じるようにしてなにかしら変えている可能性があるのでは、と素人からすると想像してしまう。
 だから今日各地に姿を見せ、一種画一化した神社の在り方は、本当に生真面目な、今の人々からすれば想像を超えるような堅物たちが、とりあえず要請に向けて、ある階層構造に向けて頑張って、そしてずっと頑張ってきたわけだ。
 端緒の記憶を継承できていても、そこから多用へと分岐を再開させてしまうことには躊躇する方で継承してきた諸氏のはずだ。
 ここらは以前ふれたけれど、伝承の構成として、それを同型的にずっと継承する立場を意識せざるを得ないだれかたちの脈や、そのあり方をある程度客観視できて、このままだと先細りか流行次第の波で翻弄され続けるなとか心配して、改良をめざせ、その中に、じゃあ、と改良に出る流れを生むタイプもいれば、考えるだけで案として残す程度のタイプも含まれる。まったく埒外の意識から、事態を見るには見ているだれかたちも大勢身近にいたりしてきた。
 各地の祭り行事にも、そういう大局の流れの中で相当に変成されてきたと想像する方が無理は少ない。
 それに、藩とか藩以前の、武士系の集団の集団移動とかでの地付きということが膨大に起こっているのだし、その過程で、娯楽他の意図から持ち前の教養を踏まえて祭りとか儀式的な様々を土地に根付かせるようなことも試行錯誤されている。
 だから土地のもともとの工夫の発展形というタイプの中に、歴史の時点、時点において、外から持ち込まれその時点から根付いて継承されてきて、更に、なんらかのきっかけで変成を受けたようなことだらけのようにも、素人には映る。
 だからこそ原型を復活させるべし、の論、を素人が言い放つつもりで指摘しているわけではない。ここはしっかり押さえてもらいたい。
 グローバル発想からする世界国家構想系の諸氏においては、なにが故郷だ!?と腹のそこではあしらわれそうだけど、素人老人的には、何度も言ってしまうがグローバルなまとまり感をいつかは実現できるとして通過点としてローカル発想起源からするアイデアを絶やすとちょっとやばそう・・とか思えていて、ローカル発での発信を試行することにした。その後のずっとその後の老いぼれ人生での途中経過発信に近い。
 故郷なしの都会に出た諸氏の膨大量は、ずっと繰り返されてきた。
 だからって、まったくの根なし、という諸氏はまず居そうにないのが列島条件だ。
 それはそれで、窮屈な個の関係性を一面で想像させやすいけれど、ネット経由から戸籍を抹消されたとしても、きっとだれかしら知人友人とか目撃者とかが現れる。
 知らないことに、見ていないことに、して平穏さを一応保つ、密集して、沢山が住み分けている列島環境だけど、仮構の意識から抜けて、一時的に、見たことあるかも程度の証言はよっぽどのケースでも、してくれそうに、老人的な過去の経験感触からは、思えたりする。
 ドラマの舞台USは広すぎる。
 金融がらみでの世の中の成り立ちについて、ある程度の押さえどころを指摘できないと、中々今時を語りにくい。
 でも、そこは端折るけれど、端折っても、なんとなく気づいてもらえそうな話を添えたい。
 先日テレビにて、いかにもグローバル発想系な経歴の人物が今年以後の世の中について経済絡みで語っていた。
 氏はいかめしく、去年以来のインフレの現象として、物価高の趨勢を語り、(インフレということで)それゆえの影響関係としていかめしく語っていた。
 そこで、素人老人は、グローバル発想脈の当面のくせを濃く感じ取った。
 そうかインフレという用語を多用して説明してしまうんだ。そういうことなんだ、と。 素人的に、だから、ローカルからの発想と発信は欠かせないな、としっかり思えたりもした。
 その安易さをいかめしく振る舞って事態説明と対処案として提供されて、実際にはきっとしっかり"本当の”事態把握に近いところでいかにもグローバル発想なやり方を採用する、にしても、表沙汰として世論はいかめしくインフレ用語をからめた話として沢山の話として世に出て、その線で世の中は話題沸騰して、いつのまにか事態はとりあえずおさまるわけだけど、そういう仕切りばかりでは、問題群の要所は、先送りの繰り返しにもなりかねないとか、急ぐわけではないが、ローカルな要請を逐次解決刺せないと的な、ゆっくりでオーケーなケースもあれば、直ぐにでも対応が要りそうなことも混じりがちな巷の喧噪を身近に感じられるローカルな素人老人の位置からして、別の発想、発信をしたくさせた。

 歴史系の諸氏はとにかく本を膨大に読みこなし、資料も更に膨大に触れ得、読みこなされ、歩き、人と会いで、碩学として、専門家として、本などでの知見公開も惜しまない。 そういった諸氏が担う歴史が、ある時期的表象性を、いつだって帯びうる。
 古代、中世、近世タイプの流れ発想とかは素人にも印象づく。
 歴史を学ぶ諸氏はだから、教科書的知見をしっかり以上に押さえたうえで、更に、そのたらないところ、間違ったり、修正したりが必要な辺りに気づきながら学問、研究され続ける。
 考え方、発想法など教科書として暫定的にまとめられた事態を、踏まえる、といった感じになる。
 素人は、教科書的な、とつい使ってしまうけれど、教科書の変遷や、今時の教科書の内容に精通しているわけではない。
 だから自分流でのこなしに近い。
 それでも、記紀とか、それを踏まえた研究者・事情通諸氏の公表された資料・本などに目を通しやすいネット環境を利用できて、土佐日記紀貫之氏が書いた古今和歌集の仮名序などに目を通して、意欲の辺りに気づいたりも含めて、更に、何度もふれてしまうが、山口博氏による万葉から平安期の諸作品読みが氏にもたらした発見的発想を学べたつもりになって、それらをもヒントにしつつ、記紀の推古期前後から冬嗣氏くらいの頃までをざっと眺められるときに、中央集権化を志した当時の列島でのある部分における熱気を感じてしまえた気がしたわけで、その中央集権化を思いついて、できれば目的の先における平穏な人々の生活が、過程としても平穏に進行できるに越したことはない、と一応は思念できる人々のように受け止められた時、そのプロセスの困難についても、素人ながら考えないわけにはいかなくなるわけだ。
 民主制の定義をおろそかにすると、みんなでワイワイやって平穏無事に物事が決まるような安直な議論の場を捏造して前提にさせかねない。
 参加者諸氏が熱心に物事を個々において熟慮して、提案なりを持ち寄って、我が意見を通そうとする場がそこだとすると、平穏無事にするには、それなりの、別の仕切りが必要になるくらいのことは、ヒトの生きざまを生きている諸氏において気づけぬはずがない。 それくらい、ヒトの観念の働きは落ち着かせることが難しい。
 諸説紛々(ふんぷん)ということで、落としどころはとか、工夫できる人々が育っていたら話は別だけど、そうでない場合、どうかなる。どうかのところは、乱暴な方で様々に起こりうる。
 ただ、ヒト(現生人類)は馬鹿じゃないから、歴史性として、多くを学び、学べたことを継承させることも意識的にこなしてきた。奥義の類をリーダー層は間違いなく継承しあっている。
 子作りとかその系統の引き合いの馬鹿力をも邪魔としない程度に、クールなのか熱いのか、満遍なく参加対象各氏を観察しまくって、必要な対処をこなせるだれかをもリーダー層は担う。
 それくらいだから悪事にも機能させうるのだけど、通常は、便宜の方で活躍しまくってくれる。
 集団性を嫌って、孤島とか、僻地に住居を構えて、だけど、家族を持ってしまう限りで、集団性との付き合いの歴史が繰り返す方へとすぐに復帰させられる。
 すると、やはり役割分担的に、生活とか人生の継承性が違ってくる。
 ほとんど、まったくたいていの人々にとっては、そこらとは距離を置いて、日々の生活に邁進できるタイプを選べる。
 が、そこらに、疑問を持って、現場から発信できる、利害がすみわけ状態になってしまって、自分たちの関心を吸い上げてもらえてない感が、より濃くなるような時期、民主制について特定の時期的性格をもった案が芽生える。
 自分たちが大局と関わる位置に就いて、事態へ関与する、となる。
 忙しいし、余暇も欲しいし、でも、大局を考え、判断して、という立場は、自分の利害を相当量はみ出す。てなわけで、安直に打って出ただれかにとっては、とんだ場違いな所に来てしまったと素直になれそうだが、初めからそのほかの利害をいっしょに担いでその場で出てきた誰かたちにとっては、そうも言ってられない。
 博愛だよ、は、ヒトの(内面とか行いにおける)雑多性からして、無茶を強いるから真面目系ほどヤバいことになりかねない(不可能なことを目指す暴走ゆえ心の病に誘われたり、行動としての大胆な方向、だれもに自らを晒すとかに出たり、極端かもしれないけれど、真面目さを通して、耐えかねたごく少数諸氏はそういうことになりがちにする)ので、大局でのだれもへの目線を配れて、人々のために仕事をこなす発想としては、大雑把に細かすぎてしまう。
 奥義を実のところで継承し続けているのかどうか、そこらも心配の種にしがちな今時を踏まえるなら、持ち回り役割分担の論も、素人に限らず、それなりに説得を持たせそうにも思える。
 その代わり、持ち回りということで、熟練を前提にできないことからする制約を指摘できる。達成できる目標の置き方に、高望みタイプを持ち込めなくなる。
 偶然に何事かを可能にして、人々が大いに喜ぶということは起こるかもしれないけれど、前提にはできない。
 地表面での人々の活動が、ある分野には精通していても政治ほかでの場数が少ないし、官僚組織も持ち回り組織になっているから、熟練はほぼいない状態で、その人々が熱心さだけで何事かを成そうとしている。
 そこを踏まえて、高望み計画は事前に抑制しておくことになる。
 できることが限られる地表面でのヒトの活動という姿がそこに現れる。
 今時も、各地が理念上考えられたリーダー的熟練諸氏が担っているわけではないので、実質のところ、リーダー層人脈と官僚組織の熟練工諸氏が工夫しあって何事かを成している格好だ。そこへ制御としての、アイデア注入源としての人々とか巷発の意見などが介在する。
 素人であっても仕事に適切に設計された道具を持つことで相当な仕事は可能になる。それくらいの道具開発が今時は成されている。そこで、うっかりすると熟練は要らない、という勘違いを誘う。仕事の熟練度はそれほどでなくても、知識と道具がそこらを見えなくしているだけなことに世の中が気づけない。そういう質の世の中が営まれやすい。
 ここらも19,20世紀を受けて大国US下で成されてきた時代相、と素人老人的には今時のありさまの一面に過ぎないけれど、指摘できそうに思えている。
 いい仕事にはべらぼうな給料が伴う、という具合に他の趨勢として形作ってきていた。 少しいい仕事をできてしまう熟練諸氏は、仕事を失いがちにしてきたし、だから継承者も他の仕事を探して去っていった。

 列島での中央集権化に向けた試行錯誤は、明治以後の新宗教系と混同しない方が内実を保つために要ると素人老人は考えるのだけど、仏教の列島在住人脈解釈が作用し続けて、大変な経路をたどりながらも、一応の、まとまり感を得て、それでも試行錯誤の中だろうと、察する。
 各地の元気を保ちながら、だけど中央集権でまとまった感を保てたヒトの集団活動の列島版がどよめいているような事態が、各地の元気という条件をこれまでないがしろにしてきたつもりがなかったとしても、実際には、集住地の偏りとか、住宅地の乱開発からする自然災害とごいっしょ状態を生じがちにしている。
 世界の趨勢を担うとか担いたいとかで動き回る金回りも当然よい人々とも上手に付き合えなければ、世の中の平穏無事を継承させ続けることは難しい。
 そうだとしても、過程で、様々な意味合いからする弱者をも含む避けうる犠牲を生じさせてしまうことは、極力避けられるように事前に金回りを工夫できるに越したことはない。
 それに加えて、19,20世紀の中の些細だったかもしれないが、諜報利害を暗躍させてしまった要因を、広瀬本からも、他の列島出版からも簡単に察知できる知見豊富な列島環境からして、その諜報利害の担い手になれるほどの超大国が、それに引っ張られ過ぎな裏作業を豊富に使い過ぎて、地表面利害をこんがらからせていることも明らかなように素人老人からは映る。
 USは今だに、出す出すと時のリーダー層が発信してきたにも関わらず、JFK事件の事の真相をわかりにくいままに放置する策を奥義継承脈は継承し続けているようだ。
 でも、基本、USの評判の底固めは、時々出てくる情報公開(犯罪タイプも含め)による事態の真相究明に役立ったりするヒトへの信頼だ。
 そこらはグーグルの地図で列島も隠すところは隠していそうだけど、結構あっけらかんにオープンにだれもが地図から各地を訪ねて、今に近い姿に接せられる。そこらはUSも列島も共有できている。
 そんなオープンさは、地表面規模で、共有できて、極端な乱暴を、各国の警備が、しっかり制御してくれていれば、それは安心材料になる。先のように悪事にも向けうるから、そういうことに使われない工夫はとことん必要だけど、
 敵味方発想で地表面規模での出来事を眺めるように仕向けてしまうと、安心材料をも提供させるはずの警備としての武装の出動であっても、敵対的行動のようなニュースにしかねない。一方で、どういった脈絡においての武装行動なのかについて、わかりにくいままより暴走する、という突発時が起こっては元も子もないので、そこらへの、各国間と土地柄内での制御の工夫が不可欠なことは言うまでもない。そこらがこなされているなら、グローバル環境において、お互いにたよりになる警備部門という認識にも通じる。
 そこらのためにも、各地に各地から人々が訪れて、それなりに土地感、土地観を得て、迎えた人々、訪れた人々間に、それなりの触発が生じて、良かったね体験が歴史的に積み重ねられ続けていたり、行政ほかの諸部門が人の行き来や情報の行き来で万が一の錯誤の際でも突発時を避けうるなにがしを育(はぐく)み続けて継承し続けられているような状態というのも、欠かせそうにない。
 ヒトの雑多性からして、政治家についてのプライバシーの考え方にも修正は要るくらいのことは言わずもがなか。惰性発想だと、政治家を個々の習性の標準形からの逸脱度合いからワイドショー的に貶め発信での政治かけひき発動にさせがちだった。
 賄賂とか、法律系諸氏も含めて、懸案にすべき事柄は列挙できそうに思える。
 そこらはプライバシー観点でなく公人観点から判断材料にされてしまう。そこらの現代ならではの視点は要りそうだ。
 でないと、政治家は巨額出資者とか極端に強力な支援者の抱きかかえの末端役になりかねない。そうでないと弱者になってしまうようでは、代議制は脆(もろ)いままだ。
 保護する発想ではなくて、いたずらにワイドショー的に貶められて議員の立場を無くすようなことにならない代案的なこと。

 だからと突然に、ほとんどを端折ってしまって、グローバルに工夫できることとは、と素人老人なので大げさな話も連続的に持ち込んでしまうのだが、19,20世紀を引きずった超大国USの仕切りは、あることがその後のUSの情報公開を支える発想の地表面展開には、邪魔をもたらし続けて今日に至っている、と素人的に見ているので、これからグローバル地表面規模での仕切り役をになってもらう候補諸国には、そこらの、一見切羽詰まった弱者性とかなんらかの根拠が示されたとしても、長い目で見て、対処を誤らないようにして、そこらへ、地表面各国もそういう過去の轍(てつ)を踏まないように工夫を提供し合える関係で途中経過を担いあってもらいたい気がする。
 とはいえ、表向き、敵味方での貶し合い設定を今のところ採用して、大手のマスメディア部門のニュース発信用の用語集はそれで行こう、になってそうで、実際の事態推移はもっともっと実質のところで工夫しあっているとしても、耳にとっては参考にしにくく、まとまり感醸成っぽさも欠くという意味合いから不快でもあるし、ニュース番組作者諸氏の発想切り替えも必要なのかな、とかここらはまったくひどすぎる素人発想だけどここらも老人ゆえと御容赦願う次第。


  川柳もどき

   ブレークダンスは怪我のもとにもなりかねないんだよぉ・・・、とは漫才氏発信。
    テレビには、並みの若者より運動芸が達者な老人諸氏
     さすがにラップのりは無理っしょぉ・・・
     ところが先日のいつか、ラップおばさんも登場
     はっきりしてるのは、女性は90歳代がざらな、公式発表
     男性も少し周回遅れで追っている
     こりゃ、まったく面白い、世の中、だ
     そうでもない土地の人々も、
       ネットで、見て、刺激として、元気に長生きしてくれ