連載は続く~ SF掌編『好天にめぐまれた関東平野の日々』編


 シラサギのフン害に住民の憤慨っぽくテーマによっては時に録画しておいてみる番組の一つが駅前開発をめぐっての込み入った事情を東京での例を取材して紹介してくれていた。
 素人の老人年代的には、そこへ誘いこまれず、距離を取って、事態を落ち着かせてから、みたいな反応に向いた。
 端折り過ぎは素人老人、しょうがない。となにがなんだかわからない言い訳をさせてもらった上で、かつて、リドリースコット監督の未だに人気が衰えることなくしばしば再放送され続けている映画『』をとりまく関心のあり方など思い返したくさせた。
 テクノ世代がそれなりに感化された作品だったのでは・・というのが、大雑把すぎるけれど素人老人の感想で、60代、70代が今という世代の諸氏がその棲み分け状況を込みにして、それは問題にできるテーマだけど、仕方ないよねで流して、ただ流すだけではなく、趨勢としての冨とそれがもたらす住居形式を伴わせる棲み分けの姿を具体化してしまいたくさせる欲動にすら作用してそうな辺りを、指摘してみたい。
 未だに、その欲動の突き動かしに抗うとかのことばも誘い込むような、そうではない住居なり街区のあり方に向かうよりは貧富が住み分けたあり方イメージに縛られがちにしている世代が、支払い手段において街づくりに参加可能なだれかたちが、未だに無視できない数量でもって事態の推移に関わってそうな辺り、いかがだろうか。
 タワーマンション発想につい惹かれてしまうだれか、諸氏はいらっしゃらないだろうか。
 人で賑わうかどうかはともかく、生活の場を構想するときに、貧富が棲み分けて・・その間の軋轢がドラマを作るのさ・・とかついそちらの発想で引っ張られて行政をもうごかして実際の形にしたくなってしまう。
 後で気づいても手遅れ。そして、(仕事ということで真面目に)その繰り返し。
 江戸の大火によって何度も建て替えられてきたような貧弱な木造建築が何年も住んで老朽化して・・そんな住宅群だったら立て直せるものならそうしてより快適に住み続けたい、と思えることに無茶は伺えない。
 対して、建築のための膨大費用ゆえの普段使いにおける家賃か購入のための資金が高額過ぎる住居の入ったビル建築ということの無謀はそれだけからは想起させづらいとしても、メンテナンス継続性、老朽化後の後始末のこと、オルタナティヴ発想が湧いて建て替えるにしてもその費用はとかのその後の高額過ぎる度合いが桁違いに近づくことなどを想像できれば、普段使い発想とはかけ離れたところでのやりくりだろうな、くらいの想像はつきそうだ。

 色々な思惑があるのだろうが、高層を一つ立てただけで景観は変わってしまう。
 後始末が厄介なのだし、それを避けえないこともわかりきっているから、膨大な支払い手段前提での話として、継承されるしかない。もう一つの経済の営みの世界前提に成り立つ事業に近い。そのもう一つこそ問題ありと見なせるならば、それ抜きに成り立たない住空間作りにも制御を加えやすくする。

 ヒトは勘違いしやすい。
 膨大資金を得て他人を雇って多くの大事業も完遂させてしまえる。
 民主主義発想は突き詰めると、自らの発案にだれかたちを従わせることではなさそうなことに気づきだす。
 自らが自らのアイデアを自らの力量において形にする地道な一々の過程の積み上げだったりする。アイデア捻出に苦悩しているだれかたちは、成果を見聞して真似してみたくなるかもしれないが、それは民主主義発想に反してとはなりそうにない。
 だれもが‟黙々‟と日々、自らのアイデアを形にし続けるけれど、誰のアイデアが優(すぐ)れ、だれのが劣っているかなど、品定めにかけるようなことはしないのが、民主主義発想のはずだ。だから、だれもが黙々と自らにおいて試行錯誤し続ける。
 他人を巻き込むことはないか、そこらは難しい。他人の労力抜きでどれほどのことができるのか。
 資金、支払い手段集めにしたってそうだ。
 別に民主主義(とかその発想の下の民主制)が深化したわけではないのに、資金集めや他人の労力を応用しやすくしている時期にたまたま遭遇できているとしてみる。
 すると集めやすいだれかたちにとっては、それで自らにおいての試行錯誤を為してなぜ悪い?となりやすそうだ。
 他人にこれに従えと強制することもなく、法治の下、自らのアイデアを形にしているだけ、と思い込みたくさせる。それがなぜ問題を生じさせるのだろう?
 百歩と三歩分くらい譲って、いかにも関係性において公正と見なせそうな出来栄えだとして、超高層化の極致数千mの高層住宅を想起してみたときに、即気づけるのはそれが実用性にとって偏り過ぎている辺り。
 上下移動に要する時間がもったいないだろうと思えないか。素早くできるエレベータの類を想像しただけで嫌になる。特殊訓練を経て強烈な加速度に耐えうる身体を成しただれかたち専用ということにさせかねない。
 縦移動も横移動もG課題を避けられない。
 地べたとの親近性をわざと失せさせるような生活をして地表面とより多くが付き合えてこその発想から産物が生じさせ得ている辺りへの目測に誤りを持ち込ませかねないし、勘違いをたとえ一時的であっても主導層に爆走させていいものかどうか。

 維持に膨大なエネルギーを食う生活を相対的にごく少数が可能にするあり方にも、数々の工夫としてのビルトインスタビライザー装置を外ししてきた20世紀後半期以後の錯覚が幻想を常世と錯覚する方へと主脈を誘いつつあるちょっとしたブラックな諧謔を見せるようにしていないかどうか。
 インフレ云々を言い訳にする以前に、ビルトインスタビライザー要素を含ませている世の中ならば、景気対策のための財政の使い方は自ずから、抑制に働くようにできている。
 そういう限定的経済の営みの世界で集約できる。それを極端におおげさにインフレとかことばを遊んで、景気を貶めて、その副産物的にたまたま物価が下がってとかで、政策の間に相関ありということで、手段は間違っていないとかやり合っているうちは、世の中、いい具合に動いてそうだと思いきやまたまた邪魔が入りましたぁ・・なんてことがくりかえされがちにする。
 話は逸れるが、金利の問題は、選択の問題、自分たちはいったいどういう世の中の営み方にしたいのに響く選択に属する。変えた時の瞬間風速的変化事態が混乱を誘って相関に見える問題だったり改良だったりの現象の方で判断されてきたことは通過点でしかなかった。むしろ金利のあり方が、世の中のあり方へ影響して、その水準に応じた工夫を求められるように人を仕向ける。そこらに気づければ、今時の騒乱の一つか二つくらいなら、何徳のなにかしらとして事態を落ち着かせやすくしそうだ。
 意地悪勢力は、自分たちが思い込みで金利を上げて世間のあり方に一定の圧を行使するようにしてしまった以上、同じように他も誘い込みたいとかで色々誘い圧をかけたくなっているかもしれないが、そこらも、マクロの視点に気づければ、修正したいならした方がいいとシンプルに答えを導ける。
 だから長引かせ局地戦の異常さに気づけた方が尚良い。
 列島は、昔から(といってこの用語自体がそう古いものではなさそうだけど)、地震雷火事おやじということば慣れしてきた土地柄だから、しょっちゅう入用ということで蓄財できる人はごく限られてしまう。それくらい費用のかかる土地柄だ。
 けれども(インドネシア同様)火山大国でもあり、風光明媚だし水も美味(うま)いしと、いいことづくめの一面も備えて、だれも他に移り住みたいとは思いにくい土地柄の面も持っている。
 そのためつい自信(地震)過剰になって、後でまたもや家屋敷が壊れて大変な費用に苦しめられてきた。
 基盤が安定している土地柄の事を、キミィー・・・想像できないの?とバカにされそうだ。
 しかし、それでも、多分、実際的建築発想ではなさそうと、言い切ってみたい。
 津波の時助かるかも・・へも、完結した住空間にどこまで意味があるのか、のような問いかけをしてみたくさせる。含みは膨大と察してもらえれば。

 色々な意味で工作に支払い手段を膨大に捻出してこそ成ってきた世の中の秩序系を発想できている人脈諸氏には、膨大量を支払い手段として得にくくなる規模の経済への移りは心配事の種になりそうなことくらなら、素人老人でもそのひとつまみくらいは想像がつく。
 そういう手法での秩序系がどこまで浸透して成っているのかはわかりにくい程度かも、の素人老人的には、それ以外、オルタナティヴな秩序系への試行錯誤も充分にこれからも可能とみたくさせる。ここらは、事情通諸氏以外でもいろいろ試論を提示できる材料をお持ちの諸氏からの発信を学ばせてもらいたい気がする。

 人口の巨大化は、様々な人手を得られた好機だった、と素人老人は過程的に押さえがちにしているのだけど、人口肥大化の際の困難をサイエンスの自然データから押さえる諸氏においては明治頃に既に経験済みでそこでのやりくり上手を更なる試行への可能性を含ませて、人口減はその時期に戻るだけと心配過剰にしていない。
 膨大な日々(の生活上の諸々)を担うだれかたちいてこその、余禄としての巨大建築だったり巨大プロジェクトだったり、膨大な無駄を経ての大事業の成功だったりしているその基本のところは膨大な人口だったんだな・・と後で気づいても祭りのたとえどおりになってしまう。
 人口を定常的な水準で保ち続けるということを想起する無謀もだれも試行しようとはしてきていない。水準とか、数の多さについての楽観は、どちらかというと持たれてきていない。
 素人老人的には、楽観とかいうよりもそうなってきて現膨大人口ゆえに可能になっているかけがえのない現状というあたりが支えだ。
 しかも動き変化し続ける。
 さて世界のテクノ世代に変容はありうるのかどうか。

 

    川柳もどき

     荒川の広い下流
      夕方
       沈んでしまった夕陽を隠して山々がそびえている
       くっきり
       特に・・・・・富士山
        噴火の時にはやっかいななにかに変貌するに決まっているのに
        今は橋の上の人々を魅了して、歩みを止めさせている
      そう言えば・・スタジアムのファンの声に
       ベレーザは空いたスぺースをもっともっと使いこなせ!
       と応援モードでの声圧でことばを交わしてたのが耳
        に入
          ってきた