連載は続く~ SF 掌編『そろそろ、と空を見ながら』編


 今時の欧米勢は人権ほか近代の理念を一応育てようという発信は派手目だ。
 一方で世界規模での投資活動の行方へかなりの程度かかわり続けようともしてそうだ。
 その並行下、仕掛けの部分が作用して、地表面規模での格差が今後も拡張し続けて地味に働く膨大な仕事人諸氏を追いやるかもしれない危機を密かに包み込んだ状態で、自ら撒いた種である問題群とも付き合おうというか解決の糸口くらいはさがそうとしているようにも伺える。
 皮肉にも、そこらを解決し損ねれば民主化理念のことばの数々を雲散させかねない。
 発想の源がそもそも・・の素人発案を強引に持ち出すなら、長年月人々と共にで列島在住の諸氏ならば、うすうす気づかれていそうだけど、起点ないし途中経過だとしてその時点での状態如何が、その後の試行錯誤過程と結果を相当に規定してくる、というタイプのその先の論を直感できる程度の発想の向きだ。
 だから力づくででもという起点からは望むことがいつも力づくによることの処理の常態というのであればその通りだし、その世の中は世の中としてストレスの加圧過ぎからして自滅的とシンプルに指摘できそうで、それにヒトは多くの場合、そういう手を使ってでも次なる平穏だったり安定だったり、とにかく構成員のより多くが自在な立場により近づけて積極的に人生と関わって、おのおのが人生を全うしていけるような世の中の営みをリーダー的な発想から望んでいたりする。でも、力づくが条件付けの初発として影響し続けるはず、というのが列島在住の多くにとっての経験的な予想として思い浮かぶのでは、とここらは一億人の諸氏に聴いて回ったわけではないので、当方がランダムに関わってきた膨大な人々から得たヒントからの発想としておきたい。
 途中経過の論なら、芸術系諸氏に尋ねることで大変なヒントを得られるはずだ。
 波乱万丈で気持ちの極端なくらい凸凹で揺れ動かされてきたとうぬぼれるかしている芸術系のどなたかが、しかし、そうは言っても芸術家としての表現を成したい、と一念発起する時には、"雑念"とかのことばを持ち出すと余計な尾ひれまで付きまとわせてしまうから、ここでも一応避けるとして、相当に自らの"生"(説明的な内容解説は省く)に素直になれて、自分は自分だけれど、今を生きるだれかのようでだれかではありえない混沌を引き受けて、すると時代との交わり具合があからさまとなってしまうので、表現が到達できるどこそこの足りなさ具合程度は認識できて、しかも、今の時点で表現せざるをえない、とか純芸術発想というわけでもないしポップカルチャー迎合というわけでもないけれど、芸術ということばの含みのつい誘ってくる辺りにちょっとだけこだわれて、その線でいざ挑戦、というわけだが、自らがその過程において自らの力量にも気づかされ、というわけで、芸術するのも相当に骨が折れる・・とか愚痴りつつ、一応、吐き出すとかひりだすとか、熟練技を見せ付けるとかで作品を具現してみせる。
 世の中へのより政治趨勢込みでの関与も例外ではなくて、それまでの人生が邪魔するかもしれないとしてもそのままなら、邪魔は自らが気づける以上に作用してきてもおかしくないけれど、とにかく、一旦は、望むところに近づいて、そのノリを想像できるだけ身に帯びるようにして試行錯誤に望む以外に、目標を設定して、それが万人向けと標榜できるタイプであればあるほど、目標達成して持続している状態のだれかになって取り組める必須を指摘できる。

 戦争とか経済とか政治とかでの敵対話とか猛暑をさらにうんざりさせるようなニュースがまかり通りがちだけど、一つ、水をたっぷり溜め込んでいたダムが決壊しての後日談を紹介してくれたニュースは今時の列島水害事情に貴重なヒントを投げてくれた、と素人老人は受け止めている。
 たっぷりもたっぷり水を貯めて、それが決壊した時、もちろん、時間がたてば(一週間とか二週間とか)洪水をもたらした水位の状態は下がるほうで落ち着いてくれる。
 大洪水がうそのような晴天の日々を迎えていたりするかもしれない。
 でも、決壊したその時点から、毎日がヒトにとっては生命活動更新の時間に充ちているから、それを極端に阻害するような条件をヒトに強圧するようなことにしてしまう。
 たっぷりの量次第で、直後の水かさが大体推(お)し量(はか)れる。
 最近の列島水害対策事情はというとスーパー堤防タイプでの防御策が流行ってそうだ。
 つまりニュースに登場したカホフカ水力発電所ダムの如く、たっぷりもたっぷり大雨の水量を溜め込んだ大河川を堤防が支える。
 堤防の一部を水流が越えて流れ出すと、それまで堤防の側面を急速で流れていた川の水は、堤防越えの方向にも水圧として流れてくるから、報道によれば、数時間で通常は破堤するとのことだ。何時間持たせるかの辺りに工夫が試行錯誤されているそうだ。
 スーパー堤防はかなりの量を溜め込めるので、その水位までは大雨でも漏れでる心配をある程度回避させてくれそうだ。
 しかし、万が一それ以上の水量となって、しかも堤防越えの水流を生じた時には、スーパー堤防によって守られていた膨大過ぎる地域住民は猶予数時間内になんとか高台に逃げる必要に迫られる。とにかくたっぷり以上の水量、これまで経験したことのないスーパー堤防サイズの水量がたとえ一時的であってもかなりの勢いで襲ってくる。
 多分、列島サイズの場合、数日とか1、2日程度で水は引いてしまうけれど、たっぷんたっぷんの水の流れがごく短時間、一面を覆うことになる。

 発想の転換とか発想次第ということの貴重さに、列島も気づける時が来ているようだ。

 話題は突如変わるけれど、鉄の問題。大宮の氷川神社は鉄系だ、と地元埼玉の歴史家氏は貴重にも素人が読める本やネット発信にて紹介してくれている。そしてそこらは何度かふれてきた。
 その鉄と半島南部の鉄産地での人脈交換成って、扶餘系加耶の人々が列島にやってきて、広範な交易に不可欠なことばを応用して列島在住の諸勢力とも円滑に棲み分け可能にして驚くほどの展開と影響力を発揮しつつも力的には背景に居ることを選択したような事態推移を想像できるようなあり方を選び、中央集権化事業には関わってそうだけど黒子以上ではなさそうな辺りの不思議と鉄産地を離れて、交易系の応用力をフルに使いこなした人々は今、どうしているのだろう。
 各土地が、昔を地面の下にしてしまうような凄いことが1000年間ちかく繰り返されて、一応の平穏を得たと素人老人は見るけれど、中央集権化できると医療とかインフラ整備とかそれなりの事業のための力量を皆の力のようにして実現できたりもあるから、とかで今ならば説得できたのでは、とか空想するのも素人老人ならではと、素人丸出しの思い込みだけど、乱暴狼藉系ではないはずの未来志向の渡来系を含む昔のメジャーな各地で住み着いて活動していた人々の土地柄は、その中のだれそれか、その思いを知らず知らず伝承してきた人々か、とにかく廃寺跡や古代の遺跡ほかも含めて、今でも営々と集団の営みを支え続けているあり様を列島の各地に見聞できる。
 単に古代を引きずっているというよりも、有志諸氏は現代の趨勢を毛嫌いせずにその線で応用しまくり、でも各土地柄の貴重さに気づけている諸氏はその継承のなんらかを絶やさずに乱開発はしない工夫をこなして1000年以上を経てこの先を見据えられているようだ。
 ここらは4K化したNHKの昔放送した列島版紀行番組なども大いに参考にできる。
 また1980年代ころから現在までの捜査ものドラマも各地を舞台にしていて、変遷と継承の部分を垣間見せてくれる。(フィルムで撮影されていたのか、それなりに今の放送分も昔のテレビ放送映像よりは遥かに鮮明だ)
 ユーラシア域での他宗派を殲滅しあわない共存の事実を紹介されるように、多分、列島でも戦闘は儀礼系発想での激しさが通常だったのではと思わせるくらい、古代に偶然居合わせた、半島では喧嘩ばかりしていた諸勢力が競り合いつつも共存してお互いを活かしあえて来たのが続いているのは多分、ユーラシア域発想からすると奇跡ではなさそうだ。
 なんとか遺産のたぐいが底に戦闘とその防備系の建築(だから列島でも戦国の平城が持ち出されやすい)とかを極端に多く含むその発想の貧しさを素人老人は感じたりするのだけど、そこらは沢山見ていないからで、という言い訳をしておいて、今回はしめくくりたい。

 

   川柳もどき

    雷も・・・種類!に拠るけれど
     待ちわびる時だって・・・
     もぉぉっ、暑い。もう・暑い、猛、(空ける)、暑。