連載は続く~ SF掌編『猛暑故老人式‟飛行‟』編


 ヒエラルキーとかハイアラーキーとか階層とかで言い慣れているかどうか、そこらもそれなりに関わってくるけれど、普段のお付き合いほかで、なんらか忖度の類が働いてだれかを立ててが仲間内の慣習程度にはなっていたりの事例を振り返れる諸氏においてなら、それも一つとして数えていただけるような、巷は巷なりに適時対応からそれなりに階層構造を持ち込んでしまう。
 そこらは実際的な相互性ゆえのいつもの暫定的解答めいている。
 それと固定的で権力作用とも濃く関わらせてしまう史実としての階層構造を混同させないでほしいとかの話が出てきそうかなと素人老人は憶測してしまうが、むしろそう考えてしまうことこそが、ヒトのくせの辺りへの無関心と指摘しておける。
 ヒトは関係性を落ち着かせるためにとことん実際的だ。
 地域地域でのお偉方には、目立つのは、偉ぶりたいタイプたちの中から、風よけ用に使えそうなだれかを選出しておくことだったりする。
 そういうケースの場合、ご本人の勘違いでもない限り、お互い様でちょっとしたよいしょ体験を経て、また他のだれかがその役を引き受けることになる(実務の各分野をそれなりの力量と活力を持つだれかたちが占めている。合算のアイデア次第の閃きタイプが生じるかどうかは、個人の指揮力ほど即効性を生じさせにくい)。
 大中小の場合において、階層構造を持ち寄ってしまうのがヒトの集団における営み方だ。そこらを踏まえられて更に、それぞれの自発的活動性に委ねられる方向性も可能だけど、勘違いしてしまう場合がヒトには多いので、指図するか、指図されるかの位置関係で立場を測りたくなってしまうだれかたちが、多数を形成しやすいと素人老人的には察する。
 そういう階層性を嫌って、だれもがカジュアルなことば使いを徹底する風を持ち込む圧をかけ続けてきたと思えるUSの場合は、そうでないUS各地はあっておかしくないけれど、とにかく、いつでも生々しく、その場が競争の場にさらされがちにする。だれが仕切るかのルールは市場原理発想から勝者と決まっている。明解だけど、いつも生々しく、その場がそれになるようにしがちだと素人老人は想像する。結局、階層構造は常態だ。

 固定した階層構造が機能している時期と、慣習化して、形の継承を本来と思い込んだ権威筋が荒らしまわるようになると、実質本末転倒で、折角機能していた階層構造は、秩序系に作用するよりは不平不満増幅装置に成果(なりは)てかねない。

 今のなでしこチームのだれかれが、インタヴューにこたえる時に、ニックネームによってパスの出所や出す先をシンプルに説明しているのには、階層構造不要のケースに無理に先輩後輩階層構造を持ち込まないことでの時間節約可能性と心理的な解放感の共有が発想にも瞬発力をもたらすしで好条件を持ち込ませてそうだ、とか素人老人は勝手に想像を楽しんだ。

 民主主義と一言は簡単なのだけど、内実を実際的な集団の営みとともに人生を歩む各地のリーダー層に説明とか説得ができるかどうかとなると民主制なり民主主義なりの側の自らの思い込みに突っ込みを入れる度合いが、つい優しく優しくか暴力を使ってでも勝ち取ればそれが民主主義だとか、ワンパタン発想だったりで、相当に研鑽不足の可能性のありそうな辺りを21世紀が始まったばかりなのだから、ということで素人老人は、諸氏に投げ掛けて見たい気がしている。チャーチル氏のたとえ話は論外と素人観点からは指摘できる。何をもってそこでの現に進行中の民主制としているのかの辺り。

 どの土地柄でも中央集権化に当たって、意見の乱立の愚を避ける工夫というか力業での答え方がつい採用されてひどいことを伴わせてきている。
 けれども、仕切り役諸氏において、人々が安心できて取引出来て、必要なものを得やすく、個々の生活が円満に過ごしていけるような志は持っていたように素人老人的には勝手に思い込みたい。

 リーダー的位置のだれかがつい疑心暗鬼の悪循環に陥りやすくなることを巡ってのヒト学なりが整理されて、少なくとも取り巻き連中に悪意がないならば、それなりにリーダー発の暴虐政治くらいは制御しておけるようにしておけることが、そのほかの干渉となる介在システムを既存にできている諸政治試行錯誤の各土地柄にとっては安心材料にもできそうだ。

 そういうタイプとしての多段の制御装置を組み込めている欧米タイプの政体においては、メディア活用術もなんとか育てようとしてきたようだ。
 子供スパイというか少年と青年の間位な感じの人物がMI6の別動隊のような組織のスパイを一時こなし、その後も活躍して大変な経験をしてしまうという話の再放送をつい先日NHKのBSで見ることができた。
 初回(4K放送版)の頃、3話くらいまでみて、子供主役の制約の辺りが気になりだして見るのを中断してしまったけれど、一気の再放送ということで、後半の8話を連続してみた。(全16話)
 テーマ曲はちょっとばかりビートの効いたもので、今風かちょっと最近のかという風に受け止めたが、世間で今を生きる諸氏の反応は聞いていない。
 見方にもよるけれどCIAとかMI5,6のリクルート用ドラマとも取れないこともない。
 なにしろ、今時のノリであるならば、そこでのビートはその倍のノリで発信されている必要あり、と思えたから。お行儀よく、若者を相手にリクルートしてる風を感じ取れた、と素人老人は空想していた。
 子供にどこまでスパイが演じそうなことをさせられるか。
 子供の心身を前提に無理のない設定が可能とする表現が求められてしまう。
 人間関係においても、子供たちと大人たちが混在しての出来事にしかならない。
 それゆえか、第15,16話はとにかく倍速以上での視聴でないと辛くなっていた。
 子供の頃、どうして正義の味方の典型に強く惹かれるよう誘われたのかさっぱり思い出せない。正義ということがニュアンスとして探りずらいとかではなくて、型通りの方がすんなり味方しやすくなる脈絡を心身ごととして身近に振り返りにくい的。
 とはいえ、サギの類でなくても、印象操作に瞬間においては結構ひっかかってドラマを追っていたりするから、子供同様の今が失せていない可能性もあり、そこらを整理してみることもそれなりに参考にできるカモなど想起も素人老人なりにできる。


 朱は列島の古代において鮮紅色っぽいニュアンスで今時の人々が受け取れる色としてそれなりに各地で使われていた。
 それは水銀とイオウの化合物だ。
 天然にもその色で見つかる。水銀としても見つかるのが列島だ。
 そして鉄とも関係する。
 水銀精錬手法には温度が利用された。
 その道具として穴の開いた須恵器のツボとかも考古知見となっている。

 埼玉県の北部では幡羅郡の考古的作業が地道に継続している。
 だからと強引に素人推量してしまうなら、全国にその種の地道に精密な調査が考古知見として膨大に蓄積中のはず、と言い切れそうだ。
 一つの注目的箇所での考古的発掘は、注目箇所ゆえに古代のネットワークとの連結のどこかしらということで、ネットワークを探れる関連の考古的知見も伴わせうる。
 先の幡羅郡の件ではより精度よく東山道武蔵路の跡をさぐるヒント発信になっている。 以前ふれた川越市の資料でも東松山・吉見域の辺りの武蔵路経路を幡羅郡知見と相性良くオルタナティブな推察を提供してくれている。
 今のところ、入間川以南については、既報への大幅修正のようなのはないようだ。

 機能性により注目して形にする趨勢を生じているような時勢ならば、その機能性を発送する際にヒトが生活し続けている辺りへの感受性を間違っても失わないでもらいたい。
 江戸期に残した土木建築の類は、今でも自転車スピード以下で十分に安全に環境を楽しみながら通過できる仕掛けに充ちている。
 でも田舎の安全対策とかで柵とコンクリの溝で固めた用水の脇を通っても水生生物への関心も強いてならともかくなんとなく気になったりはしずらい。
 江戸期の水運は上下で活躍したので、水流を高速にすることを選んでいない。そのため自然的にそうさせたはずのうねうね感たっぷりの流路が形成されそれがそのまま残っていたりする。地形に沿わせて流路を作った場合もうねうね感を削除していない。
 とりあえず、そういった背景どうこうを無視して、住宅立地優先で実際に住まわせてしまった後を今の人々が生きている。
 だからダムが放流すれば秋田県でのように膨大な水害は生じさせやすくなる。
 驚くほどの水位を見ることになる。
 けれども、釣り人が毎日楽しめて、行楽で家族連れが、週末とかたまに楽しめる空間はうねうね系の流路と空き地の緑だったりするし、そこらを潰(つぶ)さずに残してきた知恵は行政も有している。ただ現役バリバリの方は広大な高速流路だ。
 旧流路に工夫のちょっと加えて水の流れを持ち込むだけで水生生物はたちまちはびこってくれる。
 植物系は鳥たちが持ってくるから、時間さえかければたちまち人の手で整頓しないと大変なくらい回復してしまう。
 今後の100年とかを考慮して、住宅とか商業そして農業の立地とその住宅地の高さになんらか考えを持ち込めるようになれば、水害ほかへの備えともなりうる。
 稼いで納税した分が住環境として返ってくる実感を持てるような土木建築ほかの行政も夢じゃない。

 


   川柳もどき

    桃栗三年柿八年
    カキのわかばがもう〇年目
    実がなる前に
    花が咲く
    期待だけは老い惚れだ