連載は続く~ SF掌編『猛暑の中、ほんの少し列島古代史に戻る』編


 放送大学1988年開講門脇禎二氏による古代日本史講義にて、日本海域における半島・大陸系諸文化圏との交流がありえた様をその当時知りえた考古知見など交えて紹介してくれていた。
 宣明暦が渤海経由で伝わったことから渤海と列島との結びつきなども指摘される。
 1990年以前の知見やその整理の状態において、とにかく、日本海域各地と大陸・半島域との船を使っての往来が盛んな辺りへ関心を誘ってくれていた。
 素人老人は岩波版『前方後円墳』での申氏(*1)の指摘を参考にしたくさせている現状から、門脇氏も氏が紹介していた先行の日本海域に注目されてきた諸氏もが、渤海国へと連なる人脈の前後ということを氏らもまたその後の趨勢としても注目されたろうことは素人老人であっても想像位はできる。
 その延長のどこかしらとして今時を押さえられるなら、遠く扶余の頃での列島奈良盆地三輪山近辺での出来事との連関が押さえられる考古知見ありとすれば、申氏ヒント発信はその後の趨勢が何かしら語ってくれていることを先取りしてそうだ、と素人老人からは読める。
 扶余人脈、高句麗人脈、加耶人脈、渤海人脈・・・・①
 そのすべてが列島にまとめてやってきたわけではないことを押さえつつ、古代ネットワークということを想起しておきたい。
 しかも、人口規模からしてスカスカ列島に集団の営みの形とともにやってきた諸勢力でもありある共通性も持ちえた人々、という具合に押さえて置ける。
 列島の九州域には、対中国外交を担って、しかも帯方郡が営まれた頃にはその出張所さえあったということで、列島内対中国的権威筋は既成事実だったとこれも押さえたくさせる。
 そこへ、なんらかネットワークを有した関係性応用の形での移住がありえた。
 だから推測としては、権威筋は尊重され続けた。
 素人老人の仮説として現段階は、それら各地性の方が勝っていた列島状況へ白村江の件ではなく、660年の出来事こそが、重みとなって、中央集権化を対中国外交の担い手中枢(および対中国外交の権威付与の辺りを認識し合えるリーダー層も含め)が担うことになって、列島中を巻き込む事態としての困難を引き受けることになった、という風に見る。 ただ、遣唐使の一方で渤海使も活発で、宣明暦を遣唐使がもたらしたのではないとか、対中国関係よりも優先させていた外の集団の営みの勢いを重視することを忘れないでおきたい。
 それが①人脈ということになる。
 力士でもあった福信氏(背奈・高倉 709-789)は実は主流に近い脈だった、と想定可能になる。
 ①ということでは新羅も無縁ではなくなる。
 だから半島でのもめごとはともかく、列島に移住してきた主要3脈については、脈絡を元々持っている人々だったとみてよさそうだ。
 つまり言葉の問題については、それなりの暫定的通用性を有した応用を成していたと押さえられる。
 巷の人々のうちどれほどがそれらを理解して使いこなしていたかは、調べる必要ありだけど、一応、リーダー層か実務層に関しては問題は無さそうだ。
 東山道武蔵路のかつての武蔵国で現吉見町の辺りは広く丘陵となっていて、そこにも古い遺跡が今の時点で確認できるようになっているのだけど、その丘陵部の外縁を回る形で武蔵路が通っている、というのが現暫定的考古知見だ。今の東松山駅近くを北上する街道の延長が熊谷へ抜けて更に利根川に向かってのかつての筋から、もう少し、鴻巣寄りの荒川を渡ってその延長(『幡羅郡』本から)を通ってややぐるっと迂回して利根川を渡る感じ。
 吉見町の丘陵部を突き抜けてもよさそうなものだけど、そうはしていない辺りに、ひょっとしたら人脈を想起させるヒントが隠されているのかも。
 また比企氏は鹿児島の古い人脈とは密接なことは、今ではドラマとかあって衆知となっている。
 それだけではなく、古くから大変な出来事とも遭遇してきたにも関わらず、一方で子々孫々の続くことをしっかり大事にもされてきた人々だ。
 今でも川島町が先の吉見町の丘陵からすぐのところに位置しているけれど、ドラマでもお馴染みのお寺も残っている。
 大雑把には、素人観測として、中央集権化事業がどれほど関わる各土地に難題をもたらしたかを想像させるのでは、と素人老人的に投げかけてみたい。各土地の自律性を尊重したいけれどそれ以上に慣れない中央集権化事業を行うにあたって、不慣れ故の試行錯誤上の強引な面も数々出してしまった。
 意見は大事だし、必要条件だ、としても、時間を意識したときに、端折ることが要る。でも、その端折る度合いについての場数は少なすぎて、心配性過剰の心情のまま遂行され続けたという想像も可能。
 情報源の渤海滅亡とリンクしてそうな列島政治の動態を探れれば、それなりの人脈連携の辺りも探りやすくしそうだ。
 それでも中枢は権威筋が支えたと、現状、素人老人は押さえている。
 だからこその旧新唐書で記事になっている。前方後円墳は担い手中枢が土地を離れた箇所は無残な扱いを歴史年月を経て被りがちにしたことも、傍証とできそうだ。一方で、巨大土盛り説も有効と見ている素人老人なので、それが放置すれば簡単に崩れるのを崩れないないようにする仕掛けとして、土固めのために重要ななにかにして(人々が歩いたり、ジャンプしたりで地固めしてくれて)おく知恵を働かせたということは、史実上でも色々な事例がありそうなので、古墳だけ例外とすることもないと思える。

*1
  その昔、申氏と柳田氏との間に古代史をめぐっての論争というよりは玄人筋からするとちょっと眉を顰めたくなるタイプの出来事があったそうだ。そこらはネット上に紹介されている。http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuudai 参照
  今だと、半島、列島各地の考古知見をおしみなく出し合って、それぞれが持ち帰って研究に使えるような環境を活性させておけば、発見の数々が必ず成果にも結び付けやすくする、と素人老人は見るし、期待だ。

 


   川柳もどき

    セミは飛んで高木のどこかに止まってさんざん鳴く
    セミの抜け殻が見上げるほど(大人の3人分くらいの高さ)高いところに
    それも一か所どころではない
    セミの幼虫は確か地面の下から這い上がるはずだ
    羽化を邪魔されたくないセミの‟気持ち‟も
     わからないわけではないが
     早朝からうんざりするほど猛暑の今夏
     そこまでするのは
     ほかに理由でもあるのか
     今時、ジョギングとか散歩で早起き老人がわんさかいらっしゃるから
     ひょっとして・・・・か