連載は続く~ SF掌編『ヒトの観念系はいつも黙ってはいられない』編


 38億年も待てない・・・、とか想起される諸氏もおられようが、ホモサピエンス都合ということでは、10万年から20万年間程度にさえ耐えきれず滅んでしまうくらいの規模に(人口の規模を)激減させる可能性を、現状の粗っぽさ発揮の度量からして素人の老人でさえ想像できる。
 土壌は5億年間を経験している。
 だから地衣類の死骸との濃厚な関係を持つ土壌よりも微生物の方が遥かに先輩で、多くを経験してきている。
 そして落ち着くところを得ている。
 ならば、と多分ヒトの観念系は作動させてきたはずだ。
 結果の落ち着きを先取りできないか。その落ち着き状態を是とできるなら、その状態をヒトにとっても状態としておきたい。
 が、そこにヒト観念系ならではの、方向性とか合成順をめぐる錯覚が介在しやすくなりそうだ。
 とりわけオートマチックな手法を好む面倒くさがり脈を主脈の中に抱えるUS人脈においては、数学を駆使できるだれかたちに期待して、更には計算機の性能向上とかの好条件を得たつもりになれて、条件付けによってヒトの方を制御しようと賞とか莫大な金額とかを誘因にして、アイデアを募ってきている。
 土中微生物群の場合、それぞれが自らの働きにおいて、関与し合う中での志向性において"その機能"を使いあえることで、浸食し過ぎない共生の状態を保てている感じだ。
 条件付けの相当初期の頃という環境もあり得たかもしれないけれど、むしろ変異の中で、自らそうする働きを場に応じて働かせられるなにがしとして、今に継承されていると見なせそうだ。
 条件付けを使いこなすことでやっかいなヒトの個々性として発揮されがちな癖の類を制御して結果疑似的に微生物の強制風に近づけようと目論む。
 それも条件付けのところは多少労力を用いるもののその後はできれば自動装置のように機能させたがる。面倒だから。
 動機もそうだとすれば、それ自体がやっかいな作用因のようにも素人老人には映ってしまうが、それよりもなによりも、38億年を要したことを結果オーケーで先取りしてしまう、というアイデアの肉付けに、自らの志向においてとか生理的につい、そちらに傾くというのではなく、他からの刺激が誘導するように、それぞれの関与における浸食系の作用因を制御して、ヒトの観念系の嵐のところが仮に発揮されざるを得ない場合であっても、寸止め可能な自ら関わる制御系においてバランスさせてしまうという微生物から学べるリアルに寄せる代わりに、とにかく条件付けしてヒトを一括して目論むある状態へと制御させるというのは、魂胆の類に近づかせそうに素人老人からは想像しやすい。
 ヒトにおける生理作用と関わる情動やの激動を無視することなく、ないし発想系が働いている際の浮沈の激しさをも圧し潰す方で単調に制御を考えてしまうのでもなく、ことばの運動状態についてもそこでの試行錯誤が人生上の育ちとともにの必須の過程であること程度でも認め合いつつ、ヒトにとっての無茶ではない程度問題で済ませられるか、場の使い分けで対処可能かなどなど実は未解決事件というか、未解決事項は、時勢でのたまたま状態をいいことに流してきたことで、芸術部門すらがそこらをただ置き去りにしているだけというようなヒトにおける観念系の扱いづらさ程度をも考慮できて、自らのそうしたことで快とも近い作用系がめまぐるしく人生の中で育つようなヒトどうし、各生き物との付き合いにおける微生物からの学びという感じで、成立できた場合以外での、条件付け手法ぽい逆方向は、ただやつらは面倒くさがりだから・・で流しておいて済むものではなさそうだ。

 傍証的なことにふれて今回を終えたい。
 分権という場合、それはどこまでも分権を貫くタイプなのだろうか?
 いやいや現実問題として考えてもらえば十分だよ、で済みそうか。
 やはりヒトの観念系は他へ、言うことを聞いてもらいたがる。聞いて、できることならその内実の指すなんらかへ従ってね、と言いつけたがっている。
 だから中央集権ということばをわかりにくい方へ誘いかねない中央集権化についての知見を応用できるように中央集権を理解してみることが要る。
 ある種のまとまりを得た状態が継承され続ける、ないし、生々しく変化が絶えない現実的条件を踏まえられるならば、そのまとまりをまとまらせている構想が想定する実際が変化してしまいつづけているのに、ずっと同じ前提からの構想では、観念系が身体感覚からの反発を得て、修正を迫るようになる。それが用意されて集合的に意識的に細部にわたって関与しての事態を誘えるなら軋みも問題的事象を生じさせにくいかもしれないが、生々しく個々性が拡散的に時間経過を経てしまうと、気づけたときには、乖離のあたりをだれもが意識しがちにする。
 けれども分権的な自在性を得られた気になれるには、一応まとまり感が共有できてこその急所の辺りへの配慮が欠かせそうにないことくらいは、現代だからこそより多くの諸氏において気づかれていると察する。
 分権的な方向性によりヒトの観念系がこだわりたくなる場合の一つとして、中央集権がまさに中央だからと上からの圧として権力作用の強めな制御を働かせられて、分権の実質を得にくいと感じられるようなときと一例を想像してみる。
 そういういかにも映画の欧米の王様イメージの独裁っぽいのが強く出てきたときには分権を勝ち取れとか独立だ、とかことばをつい放ちたくさせそうだ。
 けれども、まとまり抜きに、あるいはネットワークを勘違いして発想して、なんらか観念系での共有できているまとまり感抜きに、分権という程度には集団の営みが各場面で活性していて、物流がある種の落ち着きの下、円滑に日々継続している様を想定できることは、まずありえそうにない。支払い手段なりの通用性、関係者間での秤なりがいつも初顔合わせからのつり合い相談で時間を割いて・・のような商売では、現代が経験できているある種の円滑さとは雲泥の差のある世界と見なしうる。
 個々が尊重し合えて・・・も、まとまり感を共有できているたとえ(観念系が作用し合えているだけとかで)幻に近くても、分権とかを発想する場合同様に、前提となるまとまり感抜きには達成は難しそうだ。
 ヒトにおける試行錯誤は、いつでも初期の経験とすることもできるし、経験を継承している事態とすることもできる。
 初期的な場面では、まとまり感を得る過程での、時間節約が必要にしがちなので、当面の主脈以外はできれば黙(だま)っていてほしくなる。それはより拡大する問題群の端緒になりうる。
 歴史の展開は大抵、そういった一種わかりきた事態展開の繰り返しにヒトはしがちにしてきた。
 けれども、近現代の無謀な力の行使の結果、ちょっと疲れたヒト世界が落ち着きを求めてしまったことで、まとまり感と個々や分権が機能することゆえに、ヒト世界が様々を駆使してよりヒトの多くを包摂しうる活動を保持、育成させうることを実際的に知ってしまっている。今はそれ以後をヒトは生きている。ただ、学問や思想やでそこらを掬(すく)い上げ切れているのかどうか(と素人老人はそこらの専門家筋とか考える諸氏における発信の少なさを印象しているのだけど、ただ知らないだけなのかどうか)。
 まとまり感前提の巧みという辺りに無関心のまま分権でもなんでも反独裁的発想と自らは思い込んでの政治的勢いは、うっかりする言うことを聞かない支えになっている各部門というか巷の各地性に、政治権力を行使したくなってしまいがちにする。そういう失敗に陥らないためには、と歴史の方が教えてくれるわけだけど、とりあえず、この範囲内でのまとまりとか色々の通用性を共用、共有し合えて、そこらはお互い様で大切にし合いながら個々での試行錯誤をも認め合いましょう、で、軋みへの準備には法律的な準備も怠らないようにしておきましょう、とか、順とか、建付けについてもお互い様状態にしておければ、これほどいいことを目指しているのに聞く耳さえ持たないだと、我慢ならん!!とか激することなく、日々を営み続けられる。

 微生物たちが結局、膨大な年月の近所付き合いから付き合いの巧みを身体化できたように、ヒトだって、関係性の中で、お互いを一応尊重し合えるタイプの付き合いだと大げさに感じられるようなら、お互い様でいいわけで、利害の別々がたまたま三方で済ませられるなら三方良しの手法を応用する観念系をさどうさせられれば、お互いがなんか、事後的に気持ちいいんだよねぇー・・となるわけだ。

 


   川柳もどき

    金の出所が明らかならば・・で巨額の寄付金が動く選挙を好む土地柄
    この土地柄は選挙も経済対策の方で活用したがっているわけだ
    個々の貧富の状態が選挙での同等のアピールに不利・有利に働くことのない
     仕組みにしておきたいものですね、と元政治家老人が口にできる土地柄も
     忘れないでおきたい