連載は続く~ SF 掌編『前提を探る』編


 列島では閉じたタイプの個室がもっぱらだ。
 前回の続き。
 そこらをこまやかさにも大雑把にも押さえたい。
 そして対比的になるけれど、医療現場、介護現場を想像してもらいたい。
 隔絶する。
 いつもじゃないかもしれないし、比較的いつものことにもなるかもしれないし。
 閉じた個室に慣れた心身にとっては居心地は決していいとはいえない日常を敢えて受け入れるような事態に近づく。
 病気だから、年取ったから・・で流せるものだろうか?!
 意外とそこらは専門家諸氏においても流してきた場合が多そうだ。
 けれども、病気のために一時的、というわけではない介護の生活においては、お年寄り諸氏は、ある諦(あきら)めを密かに迫られる、ないしそういう通過点を経る。
 そこらを芸術技を駆使して、スカッと展開を持ち込めるかどうか。
 観念処理と実際上の工夫の向き次第で、なんとかなってしまう。そういう現場に改良をも誘ってしまうような未然のなにがしを、芸術仕立ての上では成ってしまっていて、年寄りたちが落胆を経ないそこらを生きている。

 ある種のニセガネ作りが、金本位制を止めることで可能になって以後を地表面の人々は生きている。
 それがべらぼうな額として支払い手段化の過程を経て、巡るようになって長い。
 正規の方についてなら、刷って沢山出して、とか引っ込めすぎてとかで問題を生じさせたり解決させたりのようなかつてをイメージしたままで支払い手段について、ジャブジャブとか形容を使っても、勘違いの可能性を指摘できるし、多分、大方はそこらを熟知した上で、経済学の出る幕が遠ざかってしまったか、口出しするにしても、経験からとか、数式表現できた規則性の指摘とかの原則の当たり止りで、実際の経済現象への関与は、現象を追いまくる様々な指標産出用の道具を使い慣れた人々からの発信任せのようなことになってそうに、素人老人からは伺える。
 しかもそれが意図されて初めからめざされていたのかどうか、今日の様々なお金のかかるサイエンスとも濃く関わる事業すらが可能になっているし、どこも似たり寄ったりの超高層ビルが核となったような拠点大都市が地表面各地に出来上がり続けてきた。
 インターネットの携帯端末がかなりの程度普及するほどの(ご当地資金循環技とか分配技とかを巧みにしている集団の営みが育っているかどうか等リサーチが不足したタイプだが)一種のばら撒き策としては機能させてきた。
 現代版、なんとかの塔とは、簡単に持ち出せそうだけど、そう言えたからといって、なにかがわかりやすくなるわけではない。
 なにしろ、観測装置の数々でさえそれら現象に依存している。
 莫大なニセガネ発生装置によって世の中が回っている。
 需要ばかりが走りすぎたり、求めても生産がついてこないといった辺りを制御できていれば、たとえニセガネ膨大量だとしても、動かせている限りで、支払い手段の流れについて見やすい観測が並行できて、問題発生を抑制状態にしておきやすい。
 じゃ、それでいいのか、という話が要る。
 今でも余剰はひどい貧困を沢山含む格差問題の解消役にはなっていない。
 地表面各土地柄において円滑に各自が経済活動に参加できるような経済状態、めぐりめぐって状態を可能にできることの方が、ヒトをあきさせずにだけど、欲望が欲望を生むタイプの危なっかしさも巻き込みづらくして、そこそこの世の中運営が可能になりそうに思える。
 怪しい分野が次々に生じて、そこをめぐって更に怪しい支払い手段の循環路まで育って・・という想定も可能で、そこらの心配が、だれもにとってのそこそこの豊かさが蔓延することに躊躇させる動機となってそうにも思え、それこそ杞憂(きゆう)だと素人老人は指摘してみたいけれど、どう説明することがより説得的かどうか。
 挑戦は、失敗も沢山ともなわせてしまう。
 多分、それこそ普通にありうることと察する。
 それでも、いかなる集団の営みの組織化だろうが、一般化して、投資に当たる支払い手段の集り方の必要と、それを集めることの必要が支えとなって、人の力、道具の力を寄せ集めて、なんらかへと投企(とうき)できるようにする。
 そのためには目指すことへ向けて自ら働くこと、振り返って、経営上の支払い手段の流れについてのバランスを図れる力量も注がないと成り立たない。労使ということで弁証法を働かせたくなるかもしれないけれど、円滑にヒトの営みとしての経済活動が動き出すと、だれもが両方の要素を持って、やりくり上手になっている様に近づく。
 実際に使う側、使われる側がそこに成立しているよ、ということだけど、片方の利害からだけの論は単に不毛だ。両者が両面を踏まえた発信を必須となることに気づければ、むしろ問題群の中から、より急所の部分を見出しやすくする。
 大抵は、そこで生じているのは、意見の通り易さにおける方向性の片方性だったりするものだ。そこらを権力とか力の論で一面は説明し易い。でも足元を見詰め合える間柄を想定できれば、むしろ話し合い術の巧み如何、という観点も持ち出せそうだ。
 柔(やわ)そうでそれこそ迂回になるかもしれないしショート可能になるかもしれない、相応しい辺りに近づけうる。
 列島は歴史的偶然が初期段階に働く環境を得ていて、各地に独自に自発的に活動性を持てている人脈が、その後の中央や、各地からの移入者、乱入者をごちゃまぜにして、だけど左右中どの立場の指導的立場の諸氏においても一目置いておくことへと誘われるような、それにもかかわらず一つの国の営みとしてのまとまり感くらいは保ち続けてきた。
 ただその核、軸について特定化し過ぎて、うっかりするとそこを至上に見立てすぎる論を張って抗う他者性へきつく出てしまう失敗も時に生じさせてきた。そこらは、ある種のあいまいさを応用して巧みとできたゆえに、途中の紆余曲折はあったものの列島広域圏でのまとまり感の裾野を含む形で保ててきたことを、仏でも特定の宗派というよりは時代時代に生じさせた、移入された仏系の試行錯誤がつなぎの役割をかなりこなし、その基盤には、各地が神社的中央集権圧を相当程度受けながらも土地柄や各人脈に応じた"神々(この名称はここでは暫定的に用いている)"やその支えとしての対自然観とも関わる日常感覚に治まるようにして大切に扱う生成し続ける諸事象との付き合い方が答えとなるような観念がなぜか継承され続けてきた。
 脆いがゆえに強固だしあいまいなまとまり感がどういうわけか可能になっているとしか言いようがない、と素人老人からは受け止められる。
 そして実際の行政的な営みは、各時代ごとの工夫の発見に基づいて、それが採用されて実務に活かされてきた。
 そこらのカラクリの列島版については最近の以前に、ここで、そこにずっと長年月住み続けて、土地柄の諸性質に習熟した人々や、地元性を欠く中央役人系や、なんやかやで他の土地からやってきた勢力や、近所の土地から移り住んできた人々やが、巧みを発揮できればそれなりに長年月を地元の知恵を応用しつつより改良を重ねて世代交代も成功に導いているだろうし、それをこなせなくなってくると過疎地とかに誘うことも起こるだろうしのようなことで指摘してみた。
 ただ列島の"日本"での出発に当たった時期はとにかく東大寺のイヴェントのことを想起するだけでも、海外を大国のおとなり中国を意識しつつもそこに集ってくる諸外国、諸土地柄の人々の勢いをも感動を持って迎え入れてしまうような、列島人脈における好奇心に治まらない熱気が感じられるような偶然も含ませている。視野としての地球表面を今時の一般教養ならことばにできそうだけど、当時の知見からの広がり観が当たり前にできた沢山の"(対外的に用いた)日本"の指導層を持てていた。
 しかもそのより具体的な意味合いからする長い目でみたプロジェクトの行く末は、確かに六国史で閉じてしまう。
 今見ることができる国分寺跡的な、活動の衰退を伴わせてしまう。
 ただその同時代を共有できた観念たちはその後も元気に活動を継承し続ける。
 地表面は温和に共同性を保ち合えるはずだ、の理念を、自らも発揮、継承して、世界とずっと対話し続けている、と素人老人的には想像する。
 果敢な今を盛りの欧米系な諸氏において、そこらを汲み取って、応用できるところは採用しつつ、だけど油断とか隙を生まないかどうか、多分、その向きからして心配になってしまうと想像する。
 各過程が、練りに練った帝王学を身につける単位となりうるようならば、あせらず、逞しく、共存可能性を探り合い続けるかもしれないけれど、そういうことは時間的に無理とも思えるので、やくざな野心で手下たちを乱暴狼藉に使うことも厭わないだれかたちの芽吹きに注意しながら(ミクロ局面)、大局を営む、というやり方の難しさを試行中という一面くらいも想像したくなる。
 核を持って、メンテナンス継承を可能にしている諸国は表向きは時にお笑い系、時に恐怖系、時にずぼら系、時に、しっかり者、時に・・と様々を演じつつ、相当に厳格に管理機能はお互いのものにして継承技を磨き続けているはずだ、と素人は一応の信頼を置きたい。その上で、世の中の基本は個々がある程度自由に自発的活動を相互的にこなし続けるわけだから、なにかしら不可抗力的に危険要素も持ち込んだりしかねない。そこらをめぐって啓蒙系の映画やドラマが色々な危険を材料に物語を作って楽しませながらも、注意報役をこなしたりしている。


 川柳もどき

   打ち出の小槌は 手品の種っぽい だからなかなか手の内は見せてくれない
    でも 太陽エネルギーは億年かけて様々に形を変え