連載は続く~ SF掌編『‟概念‟を揺さぶり、時に落ち着かせてみる』編


 中央集権とか分権とか一応対応関係で成り立つ概念について、それらがいつから、どういった文脈において使われだしてとか、それにあたって、実は翻訳されてあてはめられた合成語だとかなんだとか、すると、更に元になった外国語のことばの起源を一応探さないとな、とか、これから素人老人が指摘してみたい使い方での使用の場合、そこらをちょっとでも押さえておかないと、その使い方においては落ち着かせにくくする、ということが起こりうる。
 ここでは、中央集権と分権という概念がある程度、それがたとえ知識をしっかり育てた層に限ってより明確に概念として共有され使いまわされている事態であっても、継承性が既に育っていて、幾世代も通じて、それが重宝に使いこなされてきて効果なりが発揮されても来たと、するなら、・・・ということで、以前から何度かふれている易姓革命を採用しなかった列島、という事情をよりリアルに引き寄せて、より学問的追及を厳しくする流派が世界各地に活発であったとしても、こんなことも触れないでまぼろしを提示しているだけじゃん、程度に腹のところで流されない程度の落ち着かせ方を試みる場合、程度の持ち出し方を試みたい。

 また、ド素人がネットの便利さを使わせてもらって、急ぎまとめてみただけで、だけど、この程度の整理もそこそこ参考にしてもらえるならありがたい的、同じド素人諸氏ほか、既知の膨大量に辟易しているような諸氏以外の方々への発信の試みの面も含む。

 ネット経由から山鹿素行氏が、『』にて万世一系発想を継承する必要からか、万世一系を既知とし、しかもそれ以外を中国の歴史に見て反省的意味合いも込めてか、その他の思索を経てかして、持ち出したのが有力な経脈となっている。
 だから資料検証を経て、事実的把握から易姓革命批判を打って出たわけではない。
 今なら、日本書記を読むことすら困難だ。専門家諸氏ほど、より慎重にそこでの記述をどう読みこなせるか一々困難を伴わせつつ、暫定的に読み解くような読みのみ可能になっている。
 その列島古代相手ということでの考古をめぐる半島経由知見、列島経由知見が実は地道に交流的に積み重ねられていて継続中だ。
 5世紀と6世紀の半島は加耶系の各集団の営みが渡来しての影響は、文献以前ということで、日本書記がそこらをどう含ませているのかを探る作業が継続中だ。
 後の持統・天武・・・そして聖武期を挟む時期での中央集権化についての当時のことばとか概念とか、思惑とかが前提となって編まれた日本書記のことば使いは独特のはずで、その時点におけるその昔の5世紀、6世紀の実情を語りうることば以外の発想が相当に邪魔していると素人老人からの推理においてだけど、想像できる。
 桓武期のころまでその趨勢は活発だった。
 とにかくわからない当時においての全列島事情について、たとえば平城期には『大同類聚方』を中央集権政府の仕事として編集させている。
 各地伝承の医療と関わる知見の集大成になっている。
 論者によっては帝国をめざしたのではなど歴史家っぽい大げさノリで推論される諸氏もおられるくらい、各地への関心とまとまりを広げた時期だ。
 けれども考古が語ってくれるように、端緒は285年以後の時期にあり、その後、日本海ルートの広範さゆえか、列島各地に、そこまで空白域ともなっていた土地柄も含め各地へと加耶系独特の各地性を備えた集団の営みが定住地を求めて住み始めた。規模が九州のこじんまり系とはまったく異なる。
 九州での昔からの営為を指摘する専門家諸氏は九州域の権力的タイプたちは大げさな古墳にこだわらなかったのでは、と仮説される諸氏が結構おられるようだ。
 騒動もあったり、それを経て、各地にとりあえずの自律系集団の営みの共存が平行的に継承されて、半島の三国のような対中国関係での王国っぽい誇張ではないタイプでの営みが継承されていたところが、やがて三国との付き合いもあってか、似たタイプでの対中国関係も採用するようになって、そうなると、これまでの列島内共存ということの先には不具合を巻き込みやすくしたのかも、と素人老人、ここらはいい加減に指摘しているのだけど、660年頃の気運(各地の有力層がしっかり者として、各国として治めるのを試行してもらいたいことなど)を受けて始まった明確に理念的にことばも整理された形での中央集権化試行ともなると、リアルな現状とのすり合わせ等、かなり面倒な事態を招きかね無そうな辺りは、今の人々からも想像しやすいのではなかろうか。まして、中央集権と分権というやりくり上手も可能な辺りを考察しうる概念としての中央とか分権とかを持ち合わせていたのかどうか。だから万世一系発想は、便宜的にも使いやすかったとも想像させる。
 元九州系権威筋(誇大広告にこだわらない層)と伽耶の雑多な各地系の有力層(こちらは巨大古墳を作ったりハッタリ発想も使いこなす勢力だし、もともと鉄知見も膨大に持つ遠隔地交易系も含む層だ)とが、いかに中央集権化をまとめきれるのか。
 両方の代表的だれかたちが関われたのか、それとも、一方の発案にもう一方が乗った形だったのか、それとも、第三者的有力層が、両者を取り持ったのか。
 すぐ後のことを現知見からたぐりよせるなら、それまでは、中央集権化利害からことばにはできるようなタイプの行政組織などなかった。歴史家諸氏はそこらを歴史家独特の大げさ発想から中央集権なり分権なりの立派な行政組織育ちの人員が成しているような描き方をされるけれど、それはありえなかった。
 ある時期をもって急遽開始された、巨大な中央集権化の試みゆえの様々なアイデアや実際の事業を経てすら、各地、典型的には元々伽耶系の各地集団が移りすんで各地性で十分に自律的だったのを中央集権化してなんとかしようとしたことの概念不足とか、その類が災いして、戦国のような事態にまで試行を延長させることになる。
 有力層は結局命がけのような事態の中で、なんとかまとめあえて、列島に、とにかく中央集権の試行錯誤体を準備することに誘えた。
 なんとかだったのであり、その時期にさえ山鹿素行氏程度の概念持ち出ししかできないくらい文書保存はしっかりしておらず、今になって、なんとか諸外国の資料や考古の知見を積み重ねて、列島古代の知見的復元をよりリアルに厳密に試みられている途上だ。
 それを踏まえて、万世一系ではなかったかもしれないけれど、中央集権化を成功させて、中央集権と分権の組み合わせの妙を使いこなし方次第では、より各地性での営みよりは列島領域においては、人々の生活に資するようにできそうだ、とより明確にでも、ニュアンス程度であっても提示できるようになれば、聖武期(当時の主脈が山口博氏が紹介する広く大陸諸国の諸文化の営み(生活の底辺も含め)をイメージできるようなタイプたちだった)以来の仏教脈も一安心といったところではないか。

 

   川柳もどき

    午前中の陽ざし
     荒川沿いに平野を斜めに走る相当に長い土手(今では巨大堤防になっている)
     そこを部分的にそれができた時点ころから道としても使って、上って、降りて      そして川を渡って、また上って、降りて、目的地へ地元の人々が呼びならわした名の付く街道を辿(たど)る
     その昔ならうねるような川筋を脇目に、比企の丘陵や秩父の山並み、その背後には更に高い山々を、いまでは信じられないくらいにくっきり見ながら、だから多分、近さの錯覚も生じさせて、自分ちは、そこらかな、とかなんとか空想していたかどうかは、ウソっぽくなるけれど、リアルに見ながら、丈夫な足腰を更に丈夫にするようにしてあるきつづけていたそうな
     関東平野央部には台地も足か手の指のように広がっている。
     時刻を間違えなければ、夕方は夕方ですばらしいのだけど、午前中も独特に照り返す
     気候の条件次第では、今、ネットでも評判の通り、イチョウの巨木並木では葉が目いっぱい枝をおおっていて
       しかも落ち葉までゴミじゃありませんから、と、その時だけは主張している
      土地のこやしにもなりえた落ち葉たちがどうしてもゴミにしかならない時期にたまたま居合わせているだけ、のようにもことばにはできる