連載は続く~SF掌編『ギリシア風彫刻』編


 いつでもその手のことは繰り返されてきた。
 ある時期において、だれもが空気のように貴重だけど、気付こうともしないあり方というのが起こりうる。
 時期時期に流行る人々の所作における形式というのはありがちにする。
 そのあり方次第で、あることはすぐ気づかれて、それを表ざたにしてことばにすることは作法上よろしくない、とか、逆に、いちいちとりあげるまでもなくごく日常の所作の一部でうっかりすると視野の中に納まっているにもかかわらず、気づいていないかのように流してしまう。
 けれども、あるべきそれが仮にない場合、違和を生じさせるのには十分な要素となりうる。
 家の外にトイレをわざわざ作って利用することが日常の土地柄だと、家の中のトイレを画面におさめて日常の含まれるだけの一シーンであっても気にするだれかが居る可能性を指摘できそうだ。
 わざわざ映すことなかったのでは、とか類。
 近現代では衣食住の様の当り前感がほんのりで表現できるように、ちょっとトイレ・・くらいのシーンは時々入り込んでくる。
 何度か引用してきた映画のシーンをここでも使いたい。
 旦那が開業医の夫妻。内面の個々の意味系まで探らないとお互いが誤解とか難解とかで悶え合いそうな会話までこなすご夫婦だ。だからその日常のニュアンスを観客に感じ取らせるには、欧米風のトイレの使い方を踏まえたご婦人のトイレ利用のところも、普段着のご夫婦の寸景として取り込まれている。なにげに見ている方には世話しない夫婦だなぁ…と受け取るしかないようなシーン。
 多分、ほとんどの観客諸氏にとって、なじみのある日常を切り取った、でも、それなりに夫婦のあり方が伝わってくるシーンのように受け取りえたのでは、など振り返りたくさせる。・・・・・『アイズワイドシャット』から
 最近は若い男たちもかなり化粧するようになっているというから、より話にしやすいと察するのだけど、女たちはずっと近現代の流れの中で圧化粧の万全を心掛けるような方向性圧みたいなのを他性からすると想像したくなるように関係性を保ってきたように思える。
 それも自分たちにとっては当たり前だからストレスとか面倒とか思ったことないよ、ということばの方が出てきやすそうだけど、今に至って振り返れる老人目線からは、多分、特殊だっただろうなと思えている。
 列島はじめ各地でこれから人口減少を趨勢とするようになる。
 だから生業としてのサービス業のある部分は自ずから減少する。縮小する。
 巷にヒトがあふれて、仕事探しに困る頃ならばサービス業の応用が賑わって、なんらか吸収領域となっておかしくなかったけれど、条件が違ってくれば、そこらにも変化が生じておかしくない。むしろ、必要な職場に円滑に人の流れを生じさせる工夫が必要になってくる。しかも徐々に減っていく趨勢に応じた継承のあり方まで工夫が必要になってくる。
 でも規模としてはかつてたっぷり経験した姿なのだから、けっして慌てることなく、現代版での適応っぽいのが必要になってくる。
 化粧関連産業にも多分その線からくる変化のなんらかを意識されていそうだ。
 芸術媒体は、何気にそこを避けてしまうことの一種の安心感とそれ以上のそれを覆い隠してきたことのストレス蓄積面を秤量して、ヒトにとっての開放的で持続性のある姿の取り込みを試行錯誤できる分野を構成し続けてきた。
 欧米生活にとっての窮屈さの19世紀、20世紀初頭をクールベ氏は斬新に突破させている。
 でもその後の紆余曲折は人々の影の面をも誘うような経路を取らせた。いきなり晴れ間てギラギラのまぶしさを心身に浴びるような体験ということにはならなかった。
 ないし闇への偏見の一つくらいを払しょくし去るような経験ともしえなかった。
 でも芸術活動の前途には、いつでも、そういった日常が実は隠しつつでもそこは突破できてお互いの視野にとりこめる事象として受け入れ合えるようになれば、近代試行錯誤のその先のなんらかの一つとできるような積み上げ経験を図れたりする。
 市場原理にもてあそばれないように、という内実は案外お互いに分かり合えそうだ。日常での様々についても、"煩い奴ら発の巧み技に遊ばれないように"で禁じる方を逞しくして集団の営みの結果的失敗を招きやすくするよりは、観念系の工夫の方でいくらでも開放的対処可能だ、くらいはわずかずつではあるけれど、ヒトの集団の営みは古くから試行錯誤して経験を積み上げてきている。心配するよりは慎重さを忘れないようにしつつ試行錯誤とか挑戦してしまう方が手っ取り早くヒトに気付けるようにする。

 大量の出血で失血による死へと至りやすい。
 呼吸がなんらか邪魔されて窒息の状態を招き死に至りやすい。
 もう一つ、介護知見からは、心が砕けてしまうことも死へと追いやる、と指摘しておけそうだ。
 ここらは、立ち位置は異なるけれど、込み入った今日を生きる言論系のお二人(浅田氏と矢崎氏)の発信に耳を傾けながらふと思い浮かばせてもらえた。
 お年寄りの心身状態は、脆い。なんと元気なご老人!だけどちょっとしたきっかけでガタガタっと崩れ去る。去っていく。
 それでも、こけて骨折して、病院でろくにリハビリを得られない諸氏はやはりその後早い場合あ多いけれど、適度にリハビリを得て、退院して、自らも動くことを億劫がらずに地道に慎重に動けることを意識した動作を続けていると、その骨折が無かったかのように立ち直ってしまう。ヒトの身体は馬鹿にならない。否、凄い面を有する。
 ところが、ちょっと心を砕くような強圧的な介護指示っぽいのを何度か程度でも浴び続けてしまうと、直ぐにボロボロになって骨までボロボロになるような衰弱が訪れやすい。生きる意欲が砕かれてしまう感じだ。
 老人では露骨に表現される。
 若者だって同じだろう。
 そこらを回避する思潮は渦巻くようになった。一方で自発的に目指すことを探し、取り組む過程が、より多くということにおいては、頼りない条件付けがはびこっているようだ。
 部品組み立て業の技能保有者を沢山育てたい趨勢を、欧米のりの方で用意して営んできた流れを指摘したくなるのだけどどうだろうか。
 ここらへの異論としては、万が一の際、とにかく手仕事に慣れただれかが多ければ多いほど緊急時の回復は早く可能、ということで、多くを感じ取っていただけるとありがたい。
 出来あいの部品を組み立てるのは特異だけど、材料を細工して・・となると二の足を踏む、どころか、手が出ない、となると回復は遠のく。
 強風でも吹き飛ばない程度のバラックをありあわせの材料を工夫して建てられるくらいの技量はより多くが持っていた方がなにかと安心材料にできる。


 これも何度目かの話になるけれど、1990年代のテレビドラマだと、普通に救急車を呼ばない。勝手に即決で死亡判断していたりする。
 そこらをいたずらなリアル求めとみなしたくするか、流せない気持ちの瞬間的違和を生じさせるかの辺りが当たり前の次元変化をもたらす突破力、芸術業にまつわる突破力とか志向と関わってそうに思える。


 川柳もどき

   動きが鈍い 6日には関東圏も なのか 7日だろうか 風、強いのか そいつは1・1うるさいな、という