連載は続く~ SF掌編『列島の古代からやがて少し大げさっぽい話へ』編


 列島在住の人々はそれなりに中央集権化後の列島での生活を経験出来ている、と素人老人は押さえてみたい。
 しかも、達成はめちゃくちゃ勝手な地方自治の集合体のようなスタイルだった江戸期まで遡れることが鮮明だ。
 明治については、先日ちょっとふれた宗派・宗教の布教時に純化圧を用いるの勢力が強く関わったか、そうでなかったかの辺りと関わると素人的に見立てている。
 儒教系の人々の交流ネットワークを図表化してみるだけで明白になるくらい、戦国以来のイエズス会とローマからの働きかけゆえか、キリスト教関係者との密接な関りを見ることになる。しかも京都は重要な経由地だ。京都の主流はいただくものはいただいてで済ませても、そういう知見とか見抜く関係性を持っていない各地では、純化圧を濃く受けてしまった人々は、伝統から離れることは容易だったにも関わらず新たな信心の方向については純化圧を経ての布教として対象だった故にオタク化へと誘われてあくまでもその中での個々における受け止めが軸とはなるのだろうが、その純化、雑多さをはぎとるような達成の喜びを一つ一つ積み重ねるようにし続けることのうちにいつも引き込まれる生(せい)を選び取らせがちにしてしまう。
 その線で、朱舜水氏と遭遇してそれなりの感化を得た水戸の黄門氏は、テレビではそういう人脈ということで知る人ぞ知る人脈が作動して選択され続けてきたと、明治の異様さを想起する素人老人観点からは、指摘することになる。
 神とひとくくりにしてしまうことすら無謀かもしれない古代での各地各地域での信心の具体性についてはもう少しわかりやすく整理できるとすれば、申氏の仮説(285年と400年と鉄生産の半島南部域とそこでの歴史的出来事について重要性を指摘されている)を受けての素人の押さえ方は以前指摘させてもらった。
 列島に申氏の指摘される地域性ある文化的要素が各集団とともに日本海ルートで大量に入ってきたことが考古から裏付けられるようなことになると、前方後円墳の捉え方は九州権威筋に伽耶からの新しい参加組がどう関わったかの実証という方で関心が絞り込まれる。
 しかも権威筋は規模の大小に関わりなく対中国との関係で半島にまで影響を及ぼしてきたそれなりの公開的権威筋だ。半島の各集団の営みにおいて各時期時期にその権威をどう見たかなどの検証も要るし、濃淡の辺りは調べられるだけ調べた方が良い性質の事象と察する。
 それでも権威筋であることは公の事実として東アジア域での公然の事実としておけそうだ。
 流れとして、中央集権化に意欲を持つようになった経緯(いきさつ)なども経時の事実羅列で押さえる必要くらいはありそうだ。
 だから森氏の指摘などのヒントを端緒により詳しく好奇心的な広角の関心アンテナも張って、当時の編集の有様を再現できてこその記紀読解とか、素人なので大げさっぽいことばになってしまうが、そういったことを専門家諸氏には是非、そして早く、お願いしたくなる。
 列島は呪術師系の権威筋とすでに半島で鉄取引など国際関係にさらされて文明化していた伽耶地域の集団の営みの移住現象とその後の列島での伝統の積み重ねが考古上は目立たせて展開しているようだし、でも、多分日本海ルートはもっと豊かに各地の集団移住系が関わってそうだし、現に史実としてでも高句麗新羅百済伽耶の集団移住とは別に記録になっている。
 スカスカ列島に押し寄せてもラッシュの状態にはなりえない古代列島において、各地文化として伝統を継承させやすかったと思えるのが素人老人だ。
 一方で、伽耶集団の場合はある程度の共通性を意識し合える交流の継続性も想像可能だ。
 権威筋は棲み分け状態に昔から慣れている人々だ。しかも呪術系だ。
 でも各地に継承伝承が伝統化(数百年間はヒトの場合、結構すれ違いとかも生んでしまう)しつつで、そのままならば各地性の分散状態と摩擦事象の解決案件のちらかりとかがくりかえされがちだったかもなど素人老人からは想像しやすいが、考古や文献からはどう整理されているか。安直に記紀の引用は先のように禁物扱いに近いはず。
 だから半島脈由来の仏教それも大乗発想を担った形で入ってきたのを得て中央集権化を模索する列島という事態は、その次代制約からして、すんなりくる。
 各地の信じ込みのなんらかを軸にして皆それに集え、ではどうにもならないのは、素直に各地の祠と言ってしまうと既に勘違いの方に誘導してしまうことになって厄介なのだけど、ここではとにかく個別性でこそ生々しく切実な継承に値する内実を有する"氏なり生まれなりと関わる神々だったりもっと自然の様々な事象とのかかわりで神扱いした対象の数々"として、拡散の方へと誘う"神々"の方向性だけは押さえておきたい気がする素人老人だ。
 そして列島での中央集権化でも神々でも、仏でもが布教に当たっては純化テクニックを取り込んでなさそうなのだ。
 世界各地で軽々と驚くほどの年月信心してきた宗教的な営みのまとまりを放棄して、純化テクニック付加での布教を得て、それらとのこれまでのような距離感を取れなくなってしまう不幸を人生にしてしまうことの不思議。
 純化発想が含ませる剥ぎ取り発想は、純にそれぞれの対象の限られた要素へと変貌させて、一時的にうっとりさせる。美しい!とか。でも、恐らくすぐにそういう事象とては飽きさせられる対象化するはずだ。ところが純化テクニックが布教時に用いられて作用し続ける限りにおいて、飽きるとか、そうあるべきでない自らの反応がオタク的に、なにか純化する上でやり足りない何かを探しにかかり、更に純化へと時間を使える口実ができあがってしまう。それの繰り返しとなりうる。しかも一事象だけに限らず、万象にオタク的に付き合おうとするから、切りがない。本人諸氏においては、絶えざる目標達成に意欲を燃やせる仕組みだ。
 多くの歴史上の半端な各時期に登場して生活習慣にまで浸透した宗教的現象には、今の人々にとっては専門分化した衣食住に関わる専門家たちがひしめいている。
 巷の人々が何年かかってもひょっとしたら発明発見工夫をし損ねたような改良を施して、実用的だったり、ちょっとはったりめいた精密さだったりを提供してしまう。
 精密さを可能にすることは、それが要る技術の集積物を制作すると、途端にどれほど有用だったか、待たれたかが実証されることになる。
 けれども専門分化するなかで職的な立場に固執しただけでそこでの主要な要素、生活とも密接で、考え方とか観念的営為での試行錯誤と衣食住の持続性に向けた試行錯誤との相互検証性質を専門分化の年月が分断して、実際にはわけのわからない棲み分け状態にしてしまっているのが現状と素人老人的には推測している。
 とにかく仏は列島での中央集権化を支え続けてきてくれたし、中枢の人々は賢いのなんなのか流されつつもそこらをずっと踏まえても来たとここらも素人老人的には推測している。
 体制論とか敵対する勢力を想定させる闘うの論は、その埒外に居られやすい限られた勢力が考え出した新案の可能性大、と見るのが、その昔、トウダイ卒の当時でも老人であった氏からヒント発信された弁証法の病理だ。必ず漁夫の利勢力の思惑を考えてみることが、争い事を避ける重要なヒントに使える。いつでも悪知恵を使ってけしかけるやつはいる。しかも、不平不満程度で済まない問題群もひしめいてしまうのがリアルな集団の営みだ。けれども・・・の辺りに、人知(レヴィストロース氏の放送大の講演が紹介してくれる人類学の知など既存の整頓された知見以外の蓄積も参照が要る)を及ぼせるかどうかだ。
 直接のヒントになるかどうかはわからないけれど、バタイユ氏は『内的体験(L'expérience intérieure, '43)』(出口裕弘平凡社ライブラリー版 '98)中 p249-256 の"ヘーゲル"の章でヘーゲル氏の結論付けの辺りを評している。
 こんな表現もされている(あくまで日本語訳からの引用)"夜は非ー知への渇望を鎮める。しかし、不在は休息ではない。"(p255中段 引用ここまで)など。
 近現代を推進しているはずの欧米発想からして、世俗化させたはずが、実は純化圧の影響を被って、サイエンスの純化の方向性に知らず知らず別の純化圧を意識させてしまっている可能性だって考えられないわけではない、と素人は仮説してみたい。
 ということで、現純化圧行使後の明治以後の新興宗教系の諸氏において、その布教に当たっての何が純化圧として作用してしまえるのかを探れる内側からの紹介を20世紀までのお荷物一掃とか棚卸のつもりで、紹介しまくってもらえるようになるとありがたい。
 世界中で、伝統の迷信的迷惑発想も含まれていたかもしれないとしても、生活を支えもしてきた英知も含まれていたはずのを簡単に捨てて、別を取り入れて、アレンジしたりがあったとしても建前上は、別を選択して、それをずっと続ける気でいられる異常性は、銃加圧が使われていたからだ、というのが素人の仮説で、ここらが解明されれば、傍迷惑が明確なカルトの暴走的布教活動とかも、関わりやすい事態に転換できてしまう。
 既存の新興の宗派の諸氏の多く、そしてイエズス会以後のキリスト教とかで信じ込むことにした諸氏において布教に当たっての詳細を学問的関心旺盛な研究者諸氏へ公開していただいて、実は、どこらが純化圧として機能してしまって、他に気が移ったりよりは、傍目には固執する方を選びがちにしてしまうか、のリアルが、より鮮明になりそうだ。
 そこらは洗脳研究をごく一部とできる、より広く事象を包摂して、各集団のばらばらな営みの貴重さを支え合えることに貢献できそうだと予想する。
 また世界が逆ユートピア的中央集権化に向かわせることなく、まとまり感を達成しながら各地が元気にやりくりできる地表面ヒトの活動群に向けても役立たせられるように素人老人的には空想してしまう。