連載は続く~ SF 掌編『古代の東山道那珂川沿い』編


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秋田

・  多賀城
・  ・
↑  ↑
小野 玉前
 ↑ ↑
  V
陸路の分岐
   (柴田)
阿武隈川





阿武隈川

社川と阿武隈川が合流
(明新上/下ノ内)

(猫啼 北須川が合流)

(真明田 矢武川が合流)

(城山/永昌寺 殿川が合流)

(樋ノ口 藤乃川が合流)

"白河関"/社川の上流域
[北↑]   三蔵川→
(追分)* 白河関への道から東へ逸れる
    ↑
奈良川・三蔵川
(伊王野)
  ↑
 V
黒川・三蔵川
(館下/下坪)
  ↑
 V
余笹川・黒川
(本秋陣/睦家)
  ↑
 V
那珂川・余笹川
(杏掛/平淵)
  ↑
 V
 那珂川
 ・
 ・
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那須国造碑
(湯津上 湯殿大橋)
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(梅曽/佐良土/箒橋 那珂川へ箒川が合流)
 ・
 那珂川

那須官衙遺跡
 ・
 ・
上神主・茂原官衙遺跡
 ・
下野薬師寺
 ・
下野国分尼寺跡
下野国分寺跡
 ・
下野国府跡
 ・
 ・
足利


参照
http://www.sakaekai.net/ から、"東山道について"ページの図
https://kodokiko.com/ から、"東方守護の要・下野薬師寺東山道"ページの図
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 古代の列島を知る手がかりとして、石碑に刻まれた文字を資料にできる。
 ところが、それらをテレビドラマの刑事もののようにDNA鑑定質であつかえているかとなると、現状、状況証拠的あいまいさを匂わせ、DNA鑑定質のあいまいさのような絞り込みにはなっていないようだ。
 それでも、これまでの考古知見からして、ということでの絞り込みはできているようで、素人老人的には、とりあえず、証拠の数々の一つとしてこの時点では取り込んでみた。
 将来、もう少し確定的になってくれるとありがたい。また確定的に時代は下る資料と見なされることになる可能性だってありえないことではない。
* 上野の三碑(山之上碑、金井沢碑、多胡碑)
  那須国造碑、多賀城碑など

 ここでは那須国造碑に関心を持つ。
 なにしろ律令制施行直前時期を記録している。
 素人老人観点からすると、660年以後、701年以前の時期として、ということになる。
 大田原市のページに『湯津上村誌』が載っている。
URL (https://adeac.jp/otawara-city/table-of-contents/mp000010-100080/d100080)
 "第二編 歴史 / 第二章 古代 / 第二節 律令制下の湯津上地方"の
 那須郡衙跡
を参照する。
 那須郡衙の敷地と建物はというと、
方二町(220m四方)の土地に、瓦葺の建物は
間口27m、奥行9m (9x3x9・・・今時の畳にして50畳x3=150畳)

 ここで、一応、素人老人が押さえている律令期の行政
 中公新書(虎尾達哉著『古代日本の官僚』'21)や山口博氏の古典文学読解を参照して、大前提には生き物たちのひとつヒトであることは欠かせないけれど、とにかく工夫してきてその人々がなんらかを試みて、たとえば列島においては、年代がばらばらの渡来系諸氏が集団を成していて、昔のことだから時間をかけて列島各地を歩き回る人々の情報も得ていただろうし、生活への関心からより多くは、土地土地での工夫により時間を費やしていただろうし、で、大国との付き合いの流れを経て権威筋が出来上がっており、そこへ知り合い筋との脈絡もあり、半島からより集団の営為を積み重ね、大国経由の文化も身につけられる可能性大の営みとして、しかも各地集団の個性も伴わせて、大挙、渡来する契機も積み重なって、その時点で一挙に列島の広域が定住域を形成することとなって、それでも権威筋が強力な中央集権にでることはないままでいたのだが、戦に負けたとはいえその土地土地のリーダー層は国へ帰って再び国をしっかり営みなさいという大所高所を有意期に使いこなす発想を持った高宗・武則天の時期との巡り会わせから、660年のきっかけは、列島においてなら、中央集権化への意欲となって、相当な労力を必要としたはずの道路建設もこなし、やがては列島各地に計画的に官衙や外交施設にも仕えるくらいの仕立ての寺を建ててしまう(明治に移ったばかりの頃、外交施設として寺が使われたエピソード参照)。
 そうはいっても俄(にわ)か仕立ての行政"建造物"なので、今だって未完なくらいの官僚層はほんの極僅かに過ぎず、ほとんどは、面食らってしまう仕組みのなかで汗をかいてくれていたっぽい(虎尾本参照)。
 だから藤原道長氏の頃にはもう集団を支え食っていくための資産をめぐる混乱が列島各地で生じている。古墳時の棲み分けへ理念的試行錯誤としての中央集権化の作業はどうしたって軋みをもたらしがちにしていたようだ。
 その端緒である時期の証拠となる那須国造碑なわけで、古代の専門家諸氏が指摘するように河川こそがより重要な運搬路だったことを彷彿とさせる如く、白河関が天辺(てっぺん)の位置になり、南に那珂川(太平洋に注ぐし、霞ヶ浦とか貿易発想の平氏とも近づく)、北に阿武隈川(多賀城となるわけだが、北上川経由で後の中尊寺藤原氏とも関連付く)山岳地帯の川筋だから平地も広がり労力と衣食住さえ確保できるなら、道路+土地開発も可能だ)が流れ、河川の連続性を流れ次第では応用できた(半島の南北を結ぶ経路も参考になる。漢江~洛東江)。
 記号的漢字使用という形式発想からすると那須国造碑の文字配置および文字はしっかりした作りと素人老人には映る。
 列島在住での文字扱いに慣れた人々からするとかっきりしすぎた感じだけど、上野の三碑の方の字は、そういう列島文字扱いに慣れた人々にとってはしっくりくる文字並びを見ることができる。乱雑そうで手紙とか文書の文字の羅列に似ている。
 那須の人物は、国造を担い、やがて評制においては評督を担った。
 その人々には、那須国造碑を成してしまう発想の持ち主が取り巻いていた感じだ。

 その後を追うとき、加耶系の集団の営みの各地を営んだ人々と(元九州筋や加耶筋や仏教からみでの高句麗筋や半島からみで問題含みの新羅筋と残党と主流が入り混じる百済筋、そして雑多(時期ばらばら)な先住筋)権威筋との間での中央集権化発想をめぐる軋みがありえたとして、どのように折り合うことを試みたのか、など素人老人の多忙さを更に忙しくさせる興味は尽きそうにないが、老人だぜ、という自戒が自壊とならないようなちょっとした注意くらいは振り返れた方が良さそうだ。

 

  川柳もどき

    パスサッカーの醍醐味は
     パスの出し手に
      動いてパスコースを示す
      その動きの重層性にあり
    同じ体を動かし続けて疲れも溜まるかも・だけど
    それならば、自分も観客も楽しめる動作でそうなってみたい
    と選手諸氏がおもってくれているか・な・・・
     動いてきて止まって、シグナル出してパスを待つ動作
     相手選手の動きに応じて隙を見通して動いてパスコースを誘う動作
      それぞれ体を作動させる発想とか生理が微妙に異なるから
      動作を形作る端緒、きっかけの時期、初心が
       年寄り観点からすると、大事そう、だ
      でもボール扱いに熟練した10代、20代のサッカー選手諸氏にとって
      いつでもその気になればその体の反応系に誘える工夫くらいは
      いつでもこなしてくれそうにも、つい想像してしまう
     列島各地でトレーニング、トレーニング試合がこなされているようだ
     先日の男子サッカーでも、前日の女子サッカーでも国際試合においても
     工夫してみようじゃん、の意欲など、素人老人は感じた気になった次第