連載は続く~ SF掌編『平穏のために、地方自治は藩自治へと帰るのだろうか』編


 命の流転については、個々の日常感覚ということで身近か、というと、近現代への志向、試行の中で、より希薄にさせがちにしてそうだ。
 一方で報道の表現として、ちょっと驚愕!っぽい動画とか静止画に出会い勝ちにしているかも・・など老人的には指摘できそうだ。
 ヒトは本能的にしない方をより選好してきた。
 文明イメージをとにかく観念操作してきた。
 だから、すべてにおいて一応演技性を帯びざるを得なくしている。
 役者だった織本(順吉)氏は、自分の娘に死期を取材させた。娘の希望を受け入れたようだ。
 娘氏自らの紹介から、銀行員ののち放送作家修行を経ていらっしゃる方とわかる。
 死に際近く、織本氏はその娘氏に向って、自分の血を継いでいるとかのニュアンスのことばをご本人に向けて発している。
 親しい友人のお一人で、テレビのドラマでは今時の諸氏にとってもお馴染みの役者氏が拍手を送りたいほどに最後の場面を見事に演じきったようなことをことばにされている。 介護施設でか、病院でか、ご自宅でか、路頭でか、人々は様々に死に場所を選んできている。そして現代風に、そのごく当たり前の場面をより多くの人々が観察しきれるようなことはごく少ない。
 職業柄、その場面と濃密に付き合うことになるケースは一方で日々膨大に連なり続けている。
 職業柄ということで、数としては少ないけれど、ヒトがそうあってほしくないな、というタイプの死の場面との付き合いが身近、という諸氏もきっとおられる。
 そしてなぜかより親しくしてきた多くの諸氏において、この取材動画のようにずっと付き合い続け、その日常の様々の経験しうることの各部分は経験したけど、ヒトって、こういう過程を経るんだな、と学びなおせた感じで受け止められた方がより多いのでは?と介護職ゆえに立ち会うことになる多くの場面は知ることになる素人老人は感想を持つ。
 だから、役者織本氏が自らその巷のだれかとして死へと誘(いざな)われる過程を、放送作家なり、役者の娘なりのなにがしに期待して取材させて・・という可能性まで想像したくさせる、娘氏による取材動画は、貴重だ。
 長寿は苦労が絶えない。心身にとって耐え難かったりするようだ。だから死を志向の方でつい口にしがち。その一方で、体調の良いひと時をとても気持ちよく過ごす姿を周りに見せつけもするとことばにしたくなるくらい、対照的な姿を拝見することになるわけだ。 相反するなんらかを内にも外にも表現し続けて、それを多分、馬力にされている。
 どうでもよい、悟りっぽい感じになって死を受け入れる。
 でも気持ちが元気なままなタイプは、最後の最後まで抗うこともできてしまうとも想像しやすい。
 その姿は七転八倒タイプではありえない。体がそもそも、死を準備しきっている。
 それでもできることに賭けている感じは残す。
 織本氏は、ある典型を演じきっておられる。
 だから死の過程の巷版として、ことばを用いての叩き台役をこなしてくれている、とも取れる。
 娘氏は距離をいくらか取れる位置にいるようだ。だから、思い込みの方でのこいつ認めてやるものか、のノリで取材しきろうとする一方で、許したいとか100%受け入れるドラマのような展開を密かに期待しているニュアンスもごく少し伝わってくるけれど、織本氏の本妻氏がまったく本気でその複雑さを生きておられるので、娘の譲歩が一人歩きになるくらい、巷での死の過程は、騒がしくも、寂しいし、物語に落ち着かせどころがあるのかどうかすらフワフワして、そこに見る側が、親しいだれかたちとの別れのリアルとして気づけるだけでも、ヒト観念の不思議に多少の落ち着かせ方その1くらいは、学習できたかな程度の受け止めができた気になりそうに素人老人ゆえ、思えた。
 生まれる場面も様々だし、死の場面も様々なのだけど、生まれることと、年月を経ての死の場面はごいっしょ、とても密接なことをすんなり受け入れて、人生時間を使いこなすっぽい発想について時に、変化をこうむることもありうる。

 


   川柳もどき

    長く生きる生き物たちは、覚えてくれる感じだ
    あいかわらずソウギョなんだけど、少しだけ小さい方は、いつも遠目にしがち。
     でかい方は、きょう、近づいてきて、イルカタイプの水面飛びを見せた
     老人、もう、それだけで、うれしくなってしまうのは、ただ、ただ単純系なタイプだからとみなされそうだけど
     気分がいいという観念をこばむこともないな、とこれまたお気楽
     暑い!けれど、梅雨の後にくる猛暑までいってない、さてどうする