連載は続く~SF掌編『気になる?気になら・・ない?』編


サヴァイヴァル状況になってからでは遅い。
心身の状態のこと。
そこらが、規則正しい生活を相対的にはできていたかもしれないその昔、今時の乱れがちな生活と対比できる厖大な過去のことだけど、その時期は今ほどに栄養バランスを万遍に摂取できる条件からは離れていたように思える。
摂り過ぎとか、バランスの悪さでこの今、散々なことになっている諸氏も後悔は先に立たずとは思うけれど、そこは自分のことだ。
根を詰めての働きすぎも良くない。ここらは安保氏知見だ。
身体の見栄えから、今騒ぎのCOVID-19的には、危険で、実際にその系統の人々に重症や死亡例が目立つと報道されている。
その割に、と素人観測は疑問を持ってきた。
US事情のことだ。
ニュース報道に限られるくらい、映画映像以外ではふれることの少ないUSの巷事情なのだけど、いわゆるビア樽体形のメタボ典型な諸氏の姿を世代とか性別とか関係なく目にし易かった。だから、死亡者数などうなぎ上りでもおかしくない。なのに、今程度で済んでいる。なにかしらカラクリがあるはずだ、と素人はルーサー刑事やモース刑事を見過ぎている昨今、早速想像していた。
プロの連中だって、頭の中で、間違う試行錯誤を何度も繰り返している。ここは素人、勢いで、少し推理してみるか、そんな今日この頃だったわけですが、トランプ氏のプロレス動画も一時期紹介されていて、そんなのもきっかけとなって、そうだ!となったわけです。
以前も別の脈絡で時々触れたりはしたけれど、ナスカーとか、フットボールとかね、それとそのプロレス。心身的には相当に負荷を負いやすい条件なのに、免疫系はそれなりに元気そうだ。麻薬など薬物系に馴染んで免疫系がボロボロな諸氏、カジノとか博打にのめり込んで心身がガタガタの諸氏などは、それでもちょっとヤバそうだ。そうでない、派手な娯楽で憂さ晴らししている諸氏などは、ニュース報道の面貌からしても、陽気のようだ。そう、心身がそういう派手目な娯楽を通過させて”陽気”の状態になっているのではないか、と思えた。だから初めて系の感染症に出くわしても、その性質次第では、免疫獲得には作用しても、予想されるメタボゆえの症状へと向かわせることをある程度抑制できたのではないか。
もしも、ここらが確かな要素を含むならば、ともう少し言ってしまうと、結局日ごろの身体作りということになる。
ワクチン期待は風邪系の場合、期待を持たせ過ぎは返って社会不安を直後からもたらしかねない(だから今の前のめり策について素人観測は、間違っている方に傾いてるかなと心配している。ただ幸いというか、(ワクチン調達に今一の状況とか)実情の方が付いてこない列島事情らしいので)。どういう性質の風邪感染症をもたらすウイルスの類が流行るかも不確かだ。それへの多少”副作用”に対して賭けとなるような免疫作戦はヒトの知見から即座にこなすことは間違いないとしても多くの人々にとっては、そうはいかない。そこで心身の状態の事前の準備、ということになる。事前の準備ってたって、いつやってくるかわからないことにいちいち心を配っては居られない。当たり前だ。だから日常の中に無理なく組み込んでおけるタイプの準備しかない。
それで、できるだけメタボを避ける(US的娯楽は支払い手段に余裕がないといつものことにできそうにない)ことは言うまでもない(ここらは介護事情の当面の課題への答えにもなることは以前からふれてきている。自らに降りかかることへの回避策だ)が、それだけでは済まない。身体を動かすことに慣れていること。無理な運動は不要だけど、動かしてちょこっと動くことを億劫がらないで済むたとえば筋肉状態や気持ちの状態にしておく。
食と排泄のリズムは個々バラエティに実質富んでいるはずで、そこは個々のリズムに沿ってでいいし実生活の構えがそういう個々性に対応できる就業、就学形態に近づくといいなとは年寄り的には夢想してしまう。
栄養を摂り過ぎになるくらい食うことには困らない昨今なのだけど、そこを中身を工夫して、楽しみながらを続ければ、心身には効果となる。それは貯金みたいに、その次の局面にも効果となってくれる。
養生知見は出版を初め列島啓蒙事情においては、探せば必ず見つかるくらいに熱が注がれている分野だ。分別は個々に委ねられるから、色々な意見を通過させ、挑戦、試すなどを繰り返して、確実なところを個々において探っておくことは不可欠。
医療業界がロビー活動ニュアンスの政治駆け引きに走り過ぎて、この騒動に乗っているとしたら、別の意味で後悔先に立たずのようになってしまいかねない。
与野党ともに、政治家諸氏が風邪タイプへの対処としてこのノリで良いのかどうか早めに軌道修正を期待したい。
いつものかぜ、インフルエンザについてでさえ!どういう扱いに落ちつくかは経験が確かなところを伝えてくれる。
ワクチンは特殊な部門(介護施設とか)では半強制のような感じで接種される程度で、多くは個々の判断に委ねられている。それくらいの”効き目”の実質をしっかりふまえられている。
特効薬も特にない。対症療法で常態に近づけるための異常症状への緩和を医療部門はもっぱら引き受ける。そしてその方が上手く対処できている。効きすぎない方がいい。
そして多くが体調次第で罹りやすいかどうか左右することを熟知している。
初めて系の年齢層へは配慮がいつでも働いている。罹れば子供たちへは、親たちの(病状介護など)温かさが薬となってくれたりする。そして治って免疫を獲得している。
風邪系への対処には慣れることが最優先されてきている。罹らない封じ込めはありえないはずで、万が一今回のが上手くいくなら、それは性質の異なる別種のなにかとして整理し直される必要を素人だって指摘可能になってしまう。

リラックスがどう良いか。報道番組でも明らかだ。
トランプ氏は他者に大いに言わせ、自らも言う、で両得系としてUSマスメディアを稼がせてきたようだ。
だからか、報道番組内で素人関心の焦点の一つ選挙の実際についての情報公開面で、貴重な発言を得た。
法治だから合法かどうかは重要な判断の肝となる。
で、USの今回の大統領選の前に州独自に、ザル法と指摘されてもおかしくない立法があったそうだ。
大統領選で問題とされた郵便投票と、選挙集計マシンのうち、前者の郵便投票についてだ。
一人一票の実質を保てない投票の余地を合法的に与えてしまった。
無茶苦茶とだれもが事後にはわかっている。けれど、合法だから手続きとして調べることすら差せないで済ませられる。疑義を挟めない。それでも調べて、色々わかってしまった、けれど、合法。
マシンの方の話題がどう扱われているのか、もやっとしたままで、そこらは素人は急がず、ニュースが出たら、という感じでいる。
つい先日の別の報道番組にて元大使の杉山氏がUSの法治の性質を啓蒙してくれるような事例を紹介していた。
合法であることは非常に重い。だから実際的観点で不具合を察知できても、そう簡単に対応することはできない。にもかかわらず、USの中で、工夫してくれて、きちっと対処してくれた、という話で、レーガン政権の時の話だ。
雑談風に、より知っている物が偉ぶらず、後輩たちにこんな事情もあるんだよ、それを踏まえると色々気付けるでしょ?なんていうノリで話題を提供してくれていたりすると、それなりに、貴重な知見も出てくる。素人にはそう受け取れたわけです。

漢方応用なのに、病気診断を実は先行させてそれに沿わせているだけのような話になってしまう諸氏も結構いらっしゃるようだけど、コウノメソッドはじめ、漢方の魂のところを上手く応用するタイプも列島では普通にいらっしゃる。
気の状態をさぐって、それを踏まえて、”処方”に向かう。
””付きにしたのは、そこで漢方だと薬と直結させがち。でも薬に頼らない、養生の方で漢方発想を応用できるならば避難所生活にも日常知として応用できそう思えている。

連載は続く~SF掌編『ほんのり時事事情へ一言のつらなり』編


ヒトが関わることでの奇跡的な出来事は、とにかく、だれかれとなく関われている状況が不可欠。
もちろん、熱心に関わり続ける様々な要素も忘れるわけにはいかない。
けれどもそれらがより優先して関わりうるかどうかなどは成り行き次第なのだから、当てにしては混乱の元だ。
弁証法役割分担思い込み過多の状態での思想信条割拠の下、様々が(いがみ合っているとか温和に認め合っているとか様々を込みで)棲み分けている状態の惰性で成せることではない。
それぞれの向きがたまたま同一に向くようなシンプルな求心力が機能して、しかも働き掛け合いの同様の力の向きが作用してくれて、更に、人々の面従腹背のあり方における焦点のおぼろげがそれなりの方向性を持てるようだと、時に偶然というか奇跡的な機会ともなりうる。
集団活動に慣れた思考だと、個々のバラバラ性をついまとめたくなるだろうけれど、通常、ヒトは生き物だから、個々バラバラの思惑を人生の内に育て続ける。しかもお互いを大切に(実際的な範囲で)し合う。
そこらは、どの地域性においても通用する考えと察する。
その観測を邪魔するのが、より近い時期まで戦闘状況を経てきたかどうかだったりする。
女子供への守りの姿勢を担う性があるならば、それらは、守られる側からすれば、暴力的、強圧的とも取れるような、心身を育てている。そしてそれは日常の感覚からすれば、恐らく異常に映る。その当たり前感覚を失ってしまうと、あたかも伝承のような発想で、事態をその土地柄は見做してしまうから、事態収拾は面倒なことにしがちだ。
更に、そこには宗教的信じ込み圧も、と言い及ぶ段で、宗教ということをふれておきたい。
端折った云いになってしまうけれど、ヒトにとっての確実さをめぐって、宗教ということばで括れるヒトにとっての事象を説明しやすくする。
宗教というよりは神概念、を持ち出してしまう。
ヒトが疎の状態で生業(なりわい)をこなしていた頃から大きなうねりのように粗密を繰り返して、今日の状態へと至る。氷河期を生きている以上、今後もきっと似たうねりに巻き込まれやすい。こう予想することは、た易い。
けれども、いつの時代でも、ヒトは確実さを希求し続けている。
どう確かに次を踏めるか。
そのために様々を工夫してきた。
サヴァイヴァル状況では、空気を読め!系な諸氏という迷惑な連中をあぶり出すことは非常に簡単だ。でも、集団の営みの力学が働いて、その馬鹿げた方法に従わらせられる圧から逃れやすい諸氏も居ればそうでない諸氏も居るようなことになる。
そういう不可抗力も働きやすいけれど、通底しているのは、確実さを内面では追い続ける。
どうすれば、その窮状・急場を凌げさせるか。
ついでに、実際的であることが通常としてきた列島育ち系には、空気を読め系はごく少数派だ。世論作り系のなんらかの思惑が、別のことばをたまたま一時的に流行らせたと想像するしかない。巷では空気を読め系のように他を依存する独り立ち不足のだれかを警戒する。そうするし、だけど表向ききつく態度を示すこともない。実害を生じさせそうな時にはだれかれとなく、力を削ぐような工夫を注ぐ。
確実さを探る営為の過程で、観測とか素材の処理をめぐって、どれをどう・・的な、秩序系をも揺るがすそれなりの、取捨選択をめぐる面倒が介在しやすい。
それでも相当に確実さの手順を育て伝承する地域性を育てることに成功し続ける。
そうはいっても、既知の、手持ちの”道具立て(観念系が育てててきたのも含めて)”では、どちらもどっちと表現手法上は似たり寄ったりにしてしまう争点も生じる。そういう時に、構成員諸氏にとって確実と受け止めさせる実際的手法を要請させる。
今時の多数決とかその類の工夫を模索し続ける。
いつでも自分らが正しいと、個々性において、ではなく、集団の営みの部分要素として、成り立つようなことも生じやすい。ヒトは一面、面倒くさがり屋だ。
でも、それは墓穴へと通じさせやすい。
墓穴直行組はその通りに自滅していったはずだ。
そこまで自らを誇張しない小集団の営みでは、自活組織化して、例えば宗派のような営みとして、育ち、伝承の循環を可能にしてしまう。
こういうと昨今の時期での宗派の営みを担う諸氏においては貶めることばのように受け止めるかもしれない。今は今で、ヒトにとっての集団性の不可欠の要素から、部分性を謙虚にしてくれていればの話で、充分に欠かせない要素を担いうる。
ヒトがハグレザルのように人生を全うできることは相当に難しい。
恐らく、育て続けてきた観念系という働きがそれを許さない。バランスよく育ち続ける必須の要素としてのもまれ合う集団性が要る。
何らかの導き要素も、それが洗脳的秘密兵器となってはまずいのだけど、時々の惑(まど)いでの導き手、助力としてなら、充分に働いてくれる。観念系はいつでもぐらつきがちだ。
だからこそ活かせるとも言えるけれど、そう気づいていても、ぐらつく。
ただ、確実さの担い手として自己主張できるし、力関係次第では、それっぽく振舞うことを可能にしてしまうのだが、そういうことは集団の営みの中では、非常に迷惑なことになる。むしろ個々の営みと、それら試行錯誤を可能にする下積みの支え役になることができる。
しかも色々とか、十人十色的な押さえ方で、済む事態ならばいざ知らず、そうも言ってられない多くとか深刻にヒトの人生を左右するような事態は一人一人の人生においても結構起こりがちで、そういう時に、確実さを提供できる必要がある。それができれば苦労はない。そういうことだけど、だからと言って、個々の試行錯誤を無用とするわけでは決してない。
しかも、だからなんだけど、ヒトが何かを成す、成し続けるに当たっては、それが沢山を巻き込んでしまうことなの?或いは、お互いの距離を測って、棲み分ける方を優先させながらの試行錯誤の過程なの?のような大枠を提示できたりもする。
これはこれで話が長くなってしまう。
確実さを求める作業の困難はサイエンスの営みとして一応結実させているのが現状で、方法をある程度尊重し合えるならば、派手な争いにしないで済ませられる。
確実さの度合がかなり近い場合、ないし、別次元発想同志と認め合えれば、それら夫々として試行錯誤の場を持てることがなにより、となるわけだ。
ただヒトのくせをしっかり押させることもそこには重要になる。
しっかりまとめて整理できた教科書を仮定して、それをしっかり頭に詰め込んだ専門家の状態だと、慎重にならざるを得なくする。観念の働きのくせだ。たくさんの確実さ、分岐を読み取れ、しかも既知において、そう認識できる、という事態くらいは、認知できる頭脳を想定できる。
これからか今そこで、発明、発見、観測がありうるかもしれない。そういう事態まで込みで思考、観念操作できている。
一方で、それら観測や研究の集中段階を経験しているところの諸氏においては、謙虚云々どころの話ではなくなっている。既知への疑問などが背景に働いていたりする。それでは確実さは得られない。この発見をまとめることで、きっと既知の整理の制約をなんとかできる。そう予想立てていられるしその確度への強度は相当に働いている状態だ。
だからサイエンスの事態についても個々の姿勢にざっと二様くらいは指摘可能だ。
そして、バタイユ氏の指摘も踏まえておくことが要る。
個々における観念の育て方の入り組みにおいて、理解されやすさ、難(にく)さ、が、単調な形ではなく、いつでもありえている。
この地点は実際性においてのわかりにくさだ。
確実って?とならざるをえない。
しかも実際的にヒトは振舞う知恵というのか経験を積み重ねてきている。
その込み入った事態を出来るだけ温和に通り過ぎさせる知恵は、個々の営みを他者巻き込みの実害を少なくできる工夫込みで、尊重し合える、その後への展望次第だ。
アラビアの知賢は、宗派系が発達して、ヒト観念の自由を奪い兼ねない趨勢も紛れ込むようになった人世紀に、神を確実さの試行錯誤へ引き寄せて、ブラックボックス手法応用において神と成している。確実さを説明し切るほど現ヒトの実力は及ばないにしろ、神にとっては全てが熟知されているし司っているだろう。それらこそ前提に出来るのだから、後は、入力と出力の間に再現性の確実さを認めることができるならば、御の字とすることができる、という便法であり、明確な工学的確度認識手法だ。
そこでのブラックボックスを神秘とした。現状ヒトでは届かないけれど、神からすればわかりきっている。なぜなら確実な再現性を得ているのだから。わけのわからないことを差して神秘としたのでは決してないことが重要だ。工学発想は相当に昔から育てられていたし、宗派系が覇権を競うようなヒト観念にとって危ない時期であろうと、そこを押しのけて、ヒトの営みを妨げなかった。そうだからこそ、今日を迎えられている。


放送大で『地球史を読み解く』を担われた丸山氏のことは何度も印象させてもらっている。
生命発生についてどう仮定しているか、昨今のRNAウイルス(SARS-CoV-2)騒動を踏まえて、少し調べたくなっていたわけだ。そのために youtube にて公開されているビデオの最新版(’20)をその箇所前後を見ていた(全体を通すと一時間以上の長尺もので、中身が濃い分、通して見るにはそれなりの準備が要る作品)。すると、プレートテクトニクス発生、起源についてしっかり仮説を提示されていた!
ここらは、丸山氏ら(ここが大切、”ら”です)がハビタブルとかのことばによって、生命が居るかどうかについて判断するためにいくつかの条件を持ち出せることとも関わる。かけがえのない偶然の重なり。歴史性とも言える。ことばの上で同じことが生じるなら、同じことが起こってもおかしくないよねめいた。安直な推論。そういうことを歴史性ということで、可能性の度合を自ずから想定させる。
巨大小惑星が原始地球に衝突。衝突のエネルギーが、いくつかの要素を生じさせて、当時の海部、陸部が意味を成し、衝突クレーターの凹地の海の衝突地点でのホットスポット的な動きが隆起を生じ、その流れで、重みによるプレートの横動きを伴わせ、陸部に寄るところで沈み込みを生じ、となると、図式的な今日慣れ親しんだ(20世紀の途中から身近になった考え)プレートテクトニクスの動きの一面そのもの。
で一度動き始めると、もう後は、成るように動くだけ。帰結は地球の形がある限りの話。


待てない連中は明治維新前後を生じさせて、今でもそこでの殺傷事の悲惨から怨念を消し去ることはできないようにしている。
伝承を担うことは非常に大変そうだくらいなら、だれもが想像できそうだけど、内実を確実に伝承できるものなのか、への疑問は、だれも、他人のことだから、で終わりにしたい話に違いない。
それくらい、実はかの藤原氏でさえ、初期から今日へとその思惑の内実が伝承されてきたようには素人には思えないでいる。
実用の情報力は20世紀前半期での近衛氏の情報力の凄さを示すご自身の文章から察せられる。でも明治の特殊性を踏まえた、江戸の奇跡と天皇の位置づけなど、考慮できていたのかどうかとなると明治とその後が答えとなる。

似たようなことは、支持者を装う待てない連中が、いくらでも状況へ作用させるようなことが起こる。

大統領府では、やる気のある部門がいつも作戦を推進中だ。
だから恐らく現場に慣れてしまった思考が惰性化した内部の人々にとってはそれも作戦の一つと捉えがちにして、その質量について細やかな感受を瞬時にこなすことには慣れない状態にしがちと想像してしまう。
そういう状態では、作戦部門のやりたい放題の少し近いところで事態が進行しがちになってしまう。
けれどもトップの成り手次第では、一般の感受アンテナを発揮できて、それって単に戦争やりたがりと違う?!と即時反応できたりする。そしてその人物含め、進行に横やりを入れることを可能にして、市民社会の安泰をなんとかなんとか保つことができるようにする。

(だからということではないが)政党とかの勢力争いにわざと沿わないことばを用いたい。
今のコロナ騒動は、大勢として軽く済む風邪現象と確実に見なせるので、対処を誤らなければ、ないし思惑過剰の”作戦”の構想に固執しない限りで、そちらへの費用を節約出来る上に、経済の営みを、問題点など事態の進行の中で見え見えにもなったなどは、禍転じて福となすの事案として大いに使いこなすことにして、回復へと持って行けるし、それまでの窮状を引き受けることに再び気付けるようにもする。
BSの報道番組では、風邪を蔓延させないで縮小するということばを選びがちにしていた経営の実の担い手諸氏には素人ながら、今回の特徴を踏まえて、蔓延させて、ほとんどは軽く回復して、実働の方に向かわせられ、今年のこれからはほとんど心配しないで、大変な経済状態へと向き合えるようにもすると、発想転換を促す方でアドバイスしたくなる。
氏は詰まった医療現場について、一面、粗製乱造医療専門家部門への危惧も含ませたアイデア発信をされていたのだけど、危ない方ではなく、詰まらない、医療現場の準備へと思考を向かわせる提案は実際に応用力ということでは貴重だ。
ワクチン以外の策を大胆に研究させて即効性のある列島の実際的思考の持ち主、素質の持ち主を信じて、成果を期待したい。
いざという時に、数か月でも長すぎるのだ。現場で専門家が次々に”討ち死に”では、話にならない。より多くの患者を診ることで傾向を素早く整理・察知して、次なる応用へ繋げないと、間に合わない。
そのための免疫が要る。防御も大事だけど、生命を前提に、免疫を持たせるに越したことはない。(ウイルスとかとの)お互い様の安心感をいち早く大勢に、だ。
風邪を経験してきているヒトがなによりもそこらを実は熟知しているにも関わらず、専門知の棲み分け方に失敗したのか、日常知としての経験の応用に繋(つな)がりにくくしている。
だから、意外に政治をやっている諸氏が実際的感覚を失っていないことに気付かせた。
医療部門の専門家諸氏は対症療法発想をしっかり身に着けている分、ファウチ氏がトランプ政権時に、イギリス産変異ウイルスのデータからの知見を聞かれて、変異が重病化をもたらすようなデータは出ていないよ、とさりげなく、心配過剰演出を目論むマスメディア系の圧を流していた。それが、バイデン政権になると、心配過剰のりヨイショ部門担当になったようなことばが多発するようになっているから、対症療法に馴染む近現代医療のくせの発揮と素人は見做してみた。
列島政党部門系諸氏は、そこらはより実際的に、今回の演習状態を前提に、獲得免疫の趨勢作り発想を逃していない。だからワクチンが効くかどうかへのこだわりを持ち込むと話はややこしくなるので、ここは大幅に譲って、一応、少しは効くのだ、として、話を進めと、とにかく得られるならば、そして検証もしっかり経ているなら、それは採用して、欲する人々へはそれを提供する。安全性とか、副反応でも大丈夫なことを踏まえて宣伝もする、と言っている。ここらは与野党とものようだ。押しつけでもないことが、列島育ちらしい。でも立場上、宣伝するとやる気を見せびらかす。
呑気な騒動である今回はそれで済む。でも一応、重病系が蔓延しやすい場合、インフルエンザに罹ったら、ほとんどにおいて例外なく重病過程を経る感染症をもたらす、と判明するような事例の場合、先のように実働部門へはいち早く免疫獲得をもたらさないと、後がつづかなくなる。畑を耕す人々がいなくなって生鮮品が巷から失せたらという程度のことを輸入とかの話にしないで、想像してもらいたい。もちろん、先に医療現場がパンクしてしまう。しかも次の担い手は赤ちゃんとか幼児たちだ。未だこれから教育が要る。列島在住の発想で医療を伝授する人々が極端に減っている中で。こんなことは悪い冗談だから、とにかく、いち早く、免疫獲得の手法を応用している。ここらは今は口にされていないだけで、専門的研究層諸氏は熟知されていると想像する。それらをとにかく一つ一つ試行される。そして急場を凌ぎつつ、より多くの回復も試行される。
でも落ちつくのは、より多くが罹って、その偶然の中で、病原のくせも熟知されるようになって付き合い方がわかるほどに免疫獲得者以外を探すのがむずかしいくらいの頃だ。
風邪タイプとの付き合い方とはそういう感じになる。
このタイプでは間違えても感染しないようすることでもたらされる恐怖状況を先送りしないことだ。


ヒトも問題だ。だから、思想信条の自由のあり方への工夫は欠かせない。
どのお国柄でも大変な試行錯誤が始まっている。
何度もことばにして、しつこくなるかもしれないけれど、政党活動と思想活動は別部門として活性状態を保てていた方が、ヒトには向いている。
ご意見番どまりになるかもしれないけれど、思想系の煩型はその節度への繊細さが求められる。
政治系は実際的に、人と交わりながらが必須だ。でないと、他者への軽い扱いについ慣れやすくさせるのも大量な数を相手とする選挙とかで活動慣れしてしまう危うさだ
近現代の志向を共にする限りで(人類学が各土地柄の必須を見出す変身も遂げてきた辺りを踏まえることができる。つまり植民地営業用だったかもしれない諸学問にも近現代からするお互い様発想が機能しての辺り)、考え方、思想をめぐる信じ込みたい欲とか、個々に任せられる。性に合うかどうか程度のことなのだから、実際には。こうことばにすると、実質での大変な思いをしている諸氏のことを助けられなくするのではと心配されそうだ。
前提がお互い様なのが近現代での培った志向だから、そう心配は要らない。むしろ、思想信条に凝り固まって非寛容になる方が危険だ。ヒトの観念系はそちらに向いて、安心したり、面倒を避けたがる(実際には面倒事を生じさせるのだけど)。
貧富の格差問題の解決法は難しい。
ただここらへも、素人流は、支払い手段をはじめ、資源をより多く使いこなせる立場をめぐって競い合うことの知恵、ということで提案はし続けている。
個々の生活の場では、確かに、支払い手段の大小から、使いこなせる道具立てがかなり違ってしまうのだけど、たまたまインターネット環境だと、仮想的な使いこなしの範囲では、かなり節約生活が可能になる。
後は、それゆえに得た時間を手作業でどう関われるか次第だったりする。
地震の多い列島環境だから、それなりの住宅も欲したくさせる。そうなのだけど、そこらをできれば制度の面で下支えというか、資金面ということよりも、再起可能性のための制度的準備が必用に感じる。
どこだって壊滅的な万が一のことは、滅多に起こらないけれど、どこかしらでは起こる。
その際に判っていることは、作ったものは壊れる。壊れない場合もあるけれど、隣りが壊れてその隣は大丈夫ってころも充分に起こる。だから再起可能性をしっかりお膳立てしておけることが政治的活動には重要だ。
お隣中国だって思想家発想系と政治政党発想系とかごっちゃと想像できる。
しかも今の仕組み上、そこらをわきまえて分離することを内部的には難しくしてしまう。
政治的な決断によって、少しだけずらせば済むことが、進みにくい。
大(中小)国間の諜報脈のもぐりこみと作戦の入り組みも相手にしながら正論で行くしかないようなもう一つの線も見え隠れしていて、ご苦労は大変なもの、とUS事情同様、他国のことながら素人流の想像を逞しくしてしまうわけだ。
それでも、同志たちが考え方は異にしつつ、個々の人生を侃々諤々(かんかんがくがく)楽しめるような土壌を備え続けられることは、お互い様環境には欠かせそうにない。

連載は続く~SF掌編『流れ、流され、溺れずに、杭とか棹につかまるソーセキ?』編


事態は変化し続ける。
ワンパタンと部外者からは読み取れるような進行を再び示される場合も起こる。
そういった場合は、矢鱈と固執した脈が居て、その固執の形を、勢力分布の舞い戻りなどが成ったような時にも、生じさせやすい。
なんとかの春と敢えて類推しやすい表現を取る。
その過程は、地元の沢山の人々を深刻で悲惨な事態へと追いやったのが事実だった。
世界の目から見て、同じ時代の進行形の事態とすることで、気持ちにとって、それゆえの心身の健全性にとって良い作用として働くとはとても受け取れない出来事だった。
或る偶然的な、幸運的政治の変化が生じて、それは或る落ち着きを油断のない形で成されたように受け止めたのは、(国際政治とかについて)素人な老人だけではない、と察する。
ところが、二月のもう少し先まで様子見でふれないことにしているそのちょっとした期間の中、一方の圧を受けにくくなったのかなんなのか、煩型が出ようとし始めている感じだ。
実際の出来事として、これからニュースに登場するようになれば、かつての有名人氏が示した決まり文句、二度目(再演)の愚の登場、ということになる。困ったことだ。
中身に演出の要素がかつての出来事に含まれていたとしても、そのノリの中で実質の厖大でヒドイ犠牲を生じさせていたのだから、言い訳は効きにくい行為の群れだったと素人からは指摘できる。指摘だけなんだけど。でも言っておくことも大事だ。
ラクリ面もふれられるようなことになるかもしれない記述はしかし、もう少し先になる。

で、ワクチンをめぐる騒動は、或る時のための予行練習的に受け止められれば、多少は関わる人々の熱意として素直に受け止めやすくさせる。
多少、意地悪くとか、マイナス知見をたっぷり持った観点を作用させると、今時、ネット発信で読めるキツメの発信のようなことにはなる。
実はお金を巡らせて、上がりをちゃっかり頂く広大なシステムの一環なのでは・・のタイプ。これも見方によってはかなりリアルに近そうに思える。
一方で、今回のとは違って、初めてな上に全世代にわたって、かなりきつく症状を体験させるタイプが流行してしまった場合、対処のプロセス、そのごく初期から順を追ってのなにを成すかは相当にシビアに、判断次第で展開が極端に変わる、という考え方を踏まえた、想像力が要るし、判断のことも含んだ試行錯誤が要る。軽い場合は、それなりの対処を練習できないといけない。今回は踏み外して、大変な場合を疑似的にシミュレーション練習する方を洗濯してしまった後と、今なら言えそうだ。
だからネットでのきつい発信の諸氏の(発言の)中身を参照しつつも、実際の現場諸氏については素人老人ゆえ同情しながら、でも言いたいことは言うようにしているところ。
諸氏においては、特に、政策を変化させたUSがヨーロッパと同じように振り回されることになるかどうか、進行形として検証できることになった、と素人の関心の向きを指摘しておきたい。同じ様子見でも、こちらは実験的観察なので、興味は尽きない。否、前大統領の策の巧妙さに立ち返ろうで、”民主化”の件も含めて、スタッフを再啓蒙するかもしれないし、そうなれば、経済策と(感染症感染を多少気にしないで)動ける膨大量からして、景気の文字になんらか色付けが成されてしまう。がこれももう少し先で書き込む内容。
ヨーロッパでの悲惨な出来事の頻発も再演し始めるつもりなのだろうか。散発的にはくすぶってきていたのだから、資金とか囁きの脈が押し出す機会を得れば、また、物騒なヨーロッパになりかねない。そういうヒマはあるはずがなくて、油断するヒマがあれば為すべきついその先の準備が溢れているのが、たまたま偶然に豊かさも一方で持てている欧米や中国ほかの諸国だったりする。グローバル展開では、格差問題を抱えているけれど、とにかく食うに困らない設定で暫く試行錯誤できる諸国も無視できない数、人数、それを担える偶然の機会とも遭遇できている。だから、準備もやろうと思えば、できる。
けれども、何気に、危ない緊張感を持ち寄りたい脈がこっそり居て、それへの圧の多少次第でのさばろうともしているわけだろう、と素人なので、勝手に想像している。

すごく厚くて、かさばるような冬物セーターを寝起きの寝ぼけた状態で着ようとして、うーん、苦しいわ、どうしてなの?と若々しい頃に、50mプールを潜水で泳ぎ切ろうとして、男たちの視線を少しだけ気にしながらも、水面が光と戯れている様にうっとり、潜っていることをすっかり忘れた自我が、更に妄想を逞(たくま)しくして向こうへと急ぐべきところを、イルカのように身体をくねらせて水中を舞ってしまって、外の男たちの視線は釘付け状態なのだが、それとはいざ知らず、すっかり良い気持ちになって、キラキラ、モヤモヤの水面の模様の変化を楽しんでいたところが、いきなり苦しくなって、どうしたの、私?私だけ、ここで苦しんでいるの?とすっかり水中、潜水状態であることを忘れた某嬢、しかしいつのまにか”対岸”に近づいていて、イルカよろしく、一気に水面に顔をだして、ドバァーッと水しぶきとともに水も吐き、息もついた。注目の男たち、それと同伴の女たちは、すっかりびしょ濡れ。そう瞬間にかつてを思い出し、先に行けばいくほど頭が出にくくなるこの状態はなに?と少しだけ冷静さを取り戻し、そうだ、先細り、そうなのね、私の人生・・などとは考えず、腕よ、腕、腕、そでのところに頭突っ込んでんるんだわ、きっと、と探った。そして、その通りだったから、笑うこともわすれて、息継ぎのために、素早く頭を探して、無事に頭をだした。
ふーっ、と安心できた時、陽射し、陽の明るさに目覚める。
なんてことを、多くの諸氏においては体験されていることと察する。
日々ストレスを負い、つい追われて息せききっての夢を身がちかも。
それでもなんとか息継ぎできてる幸運を楽しみましょう。

つい数日前、ラジオにて、最近はテレビの方に移り勝ちで、ラジオの報道を聞くのは偶然の時に限られる。その偶然から聞けた内容。
若者が、しかも無症状でPCR検査では陽性だった諸氏において、深刻な後遺症が見られる、と渋谷の開業医氏がインタヴューに答えていた。
聞く方が、と素人の欲の方で期待してしまっていたのだけど、では身体の中ではどういうことが起こっていたのでしょう?と聞いてもらいたかったけれど、そういうニュアンスでの接近は一切なくて、対象療法に向かう、対象っぽい症状をめぐって、大変そうな話のやり取りに終始していた。だから、即の当方の反応はこんな報道内容でいいのか、とかなり瞬間湯沸かし器の中古もいいろころ版くらいの反応は老人的に生じていたと振返らせる。
でも、老人だから、更に、反応を変化させ、起こっていることを知ることができて貴重なニュースには違いないんだよな、とも受け止められた。
そこから素人老人ゆえ、飛躍して、そうだ、初期の頃に、PCR検査を列島中にできていれば、しかも効果薄にならない工夫をしてだけど、そうしておけば、今、今後、初めてには違いないけれど、中には、免疫を持っているやつが生き物世界の不思議でいるかもしれないし、そうでないかもしれない、リアルな様を列島版サンプルとして示せたのでは、と思えたわけだ。
もうすでにその機会は失している。PCR検査をいつどうやるか次第の問題関心をやはり専門家、研究者水準では日頃育ててくれてもらわないと、な・・など偉そうな意味ではなく、素人の素朴だけど、ひょっとしたら役立つかもの関心から指摘してみたい。
今の流行は、罹る老人の体調によっては初ものゆえにとても辛いことになりかねない。これはどうやら事実のようだ。
しかし、それに関わるのが治療薬だったり治療の仕方の可能性を完璧に否定はできない知見の流通状態だ。そこらは早めにしっかり整理してもらいたい。AIでの論文整理発信はそれっぽいのだけど、どうも関心バイアスがそうなっていないまとめになっている、答えになってくれていない、ととりあえず指摘できる。
全般的には軽いタイプのコロナ風邪の一種の初物に近い、と察するので、今時の騒ぎで実害が出ない範囲で、お互いの発信を責めすぎないようにしたい。
けれども、着実な知見として整理できて発信し合える熱は失いたくない。そこらは井原西鶴氏の貪欲さの商売版じゃないタイプでの応用っぽい。

 

連載は続く~SF掌編『冬だけど降雨の今日この頃、コロナ騒動について少々』編


あくまでも外野席なもので、つい、外野の声、を提供したくなってしまう。
一種交通整理っぽい。
今時、医療現場の責任的立場の諸氏がメディアを通じて話すことや、政治的な立場が同様に発言しやすい機会を提供している場合などで、マスメディア経由から見聞しやすいその”ムード”とか”流行”ということでは、とにかく増え続ける数を抑制できることが本命題だ!!!!!!と大袈裟にもっと沢山想像してもらって、それくらいの勢いでまくしたてていらっしゃる。
でも政治家諸氏は未だ多少は冷静な構えを失っていない。ここらは貴重だし、本当に大変な時にどれほど大切な要素かに気付けることになる類だ。

で物騒なことを経由させると、生物化学兵器系をつい作って用意してしまう心配過剰層は、できれば強力なインフルエンザっぽいのを使えればとか、大航海時代よりも前の頃から追求し続けていると想像するくらいは簡単だ。
で、なかなかそういう物騒な物を手にすることはできない。短期の影響圏は自信を持って作れる、とか成果に自惚れている脈はきっとどこかに生息しているとは思うけれど、基本、生き物たちは共生要素をしっかり機能バイアスの基本のところに含ませているので、結構時間経過さえ許されれば、ある落ちつきへと”自然に”導かれることになっている。
ヒトは知識ゆえに動ける心身に成れ果てているため、知見頼りの心細さから免れない。ここは是非押さえておきたい。
どうバランスさせうるかは知見次第だったりする。その基礎研究の地道さ、悠長さに我慢できない、耐性のない世の中を時々は持ち寄ってしまうこともあるようだ。とりあえず、そこらは工夫次第だ。
それくらいに、とりあえず、インフルエンザとかの感染のくせのまとまりは、知見が未だ届きにくい。それでも、新型インフルエンザにはこうしてみては、と根路銘(ネロメ)国昭著『『新型インフルエンザ対策Q&A』('10 竹内書店新社)ら研究者は日夜努力されてきている。だからか、ゾンビ映画も、インフルエンザのような広がり方としては描かれないで済んでいる。『z』系はかなりインフルエンザ規模だった。
インフルエンザ系はとにかくひたひたと、しかもドバァーッと、広がりやすい。
できることはごく初期の”侵入”の時に、感染源を絞り込めて、閉じておく、これしかありそうにない。ごく初期のたまたま得た好機を逃したかどうかの判断は時の指揮命令系の主に極刑が科されるかどうかくらい、重要な判断を迫る。判断を間違えると、今のように数の増減に日々悩まされる以上に実害を振りまきかねない。
巷でマスクしてね、とか優しく言っていても、それは判断としては極端にまずい状況なわけだ。だから、それなりに、人格を面従腹背のところで疑われてもしょうがないと察する。
この騒ぎの後では”近寄りたくないだれか”と思われても仕方ない。くしゃみや咳の際、口の辺りを覆うとか他人に(飛沫の類が)届かないように仕草を工夫する意欲さえ失わなければ個人でできる最低限のエチケットは保たれる。そこを油断させるようなことを制度的とか空気で圧力にしてしまうと、かえってその瞬間瞬間について油断だらけとなりうる。これは日常の中でだれもが経験されていると察する。もう少し、細やかに振舞ってほしいものだ、と他人へは厳しく見ている。だからって自分には・・・、というところまでは大抵が気付けている。
蔓延後のその瞬間の判断を間違えなければ、その後のやるべきことの内容判断もつきやすい。
封じることは、大変な症状を生じやすいインフルエンザ様の感染症ほど、無茶なことを踏まえて、劇症についての、診療に向けた絞り込み知見を早急に蓄え整理する。ここらは事情通、知識に通じた連中が大活躍するしかない。それを行政なりが円滑に取り入れて、形にできないと事態に付いていけない。
今のように現場の声を代表させてマスメディアを通じて喋(しゃべ)らせれば、それはそれはの追いまくられる事情を自信を持っておっしゃり続けるはずで、きっと事態認識を誤らせる。
声を聞く役は別にしかも広範に綿密にを担ってもらえばいい話だ。それをしっかり吸い上げて形にできる部門はいつでも動いているはずだし。
とにかく判断を間違えていなければ、蔓延前提で動くことになる。
ワクチン。これはインフルエンザでの経験を謙虚に受け止めるしかない。
ワクチンが効きやすい感染症もあれば、そうではないのもいくらでもある。ここを謙虚に啓蒙の状態に出来る必要がある。
それだけだと世間は穏やかではない。心配過剰になりかねない。
それプラス感染症での民間知見を確実さを頼りに、整理して啓蒙できることがなんでもない普段の啓蒙活動として必用だ。
悪質タイプのインフルエンザ系だとて、蔓延して、それゆえに免疫獲得が膨大量生じるようになると、その騒ぎは嘘だったかのように静まっていく。変異し続けるし、生き物とごいっしょでしかありえないウイルスはいつでも生き物とご一緒なことも啓蒙し尽しておく必要を指摘できる。しかもここでは余談になるけれど、マクロファージとか食うタイプの細胞をヒトも持っていて、それとミトコンドリア知見のような超有名なのとを合わせ技にすれば、ウイルスがヒト細胞に入り込んで悪さしているとかの”偏見”を遥かに超えて、一般も含めてヒトの知見として、なんらか発想を異にした対策すら近い将来可能になってしまうかもしれない。だいたい、悪さはむしろヒトの個々における免疫活動ゆえの炎症由来と見なせる知見がこのコロナで派手目に知れ渡るようになっている。これは一般にとっては新知識で非常に偶然の禍転じて福となすの類に近い。
専門家諸氏においてはその発見の先を目指してもらう必要を素人ゆえ指摘できる。免疫って何?かつて数十年前も語れる老人の素人は、自己と他者で語られる免疫知見にも親しめた。少し遅れて、自己免疫とかの説明にも適うタイプのそういう対立軸では語りつくせない免疫知見の必用の論を、読めるようにもなっていた。
がん知見についてのワールブルク効果(これについても異論が出ていて、ただ信じればよい水準ではないサイエンスの水準でしっかり検討されているようだ)を下敷きにした安保知見なども今ならしっかり読める(列島出版は相当に頑張っている)。
医療現場にその時点で張り付いてくれている意欲を失っていない諸氏、(消防業務も含む)救急隊員(これも余談になるけれど、救急隊員には、脳梗塞系症状の急患のだれかを時間との”闘い”の線で搬送する発想を迫る基礎知識がいきわたっているのかどうか。脳梗塞症状の急患に搬送前の手続きとしていきなりバイタル測定の類をやってのける”豪胆”な担い手諸氏のあるやなしや、そこらが心配だ、年寄り素人ゆえ)、自衛隊員(サヴァイヴァル知見のプロとして免疫獲得後は危険な巷で活躍してもらうことになる逃げることはできない)、国や地方の指揮命令系の首脳陣とその手足部門、それと重篤化しやすい暫定的に確かめられてしかも延命を必要とする対象、そして巷の次元で、お前は生き残ってなんとかしてくれ、他は後回しだ、この際しょうがない、というだれかたち、そして、サヴァイヴァルモードでなんとか工夫している、散らばった個々、それらは、とにかく免疫獲得のできることはなんでもやる作戦に挑んでもらうことになる。
中には失敗して重症となって、しばらく使い物にならない心身状態をかこつだれかたちも出てしまう、が、これは仕方がない。警察官だって秩序のためには早く、とか嘆く諸氏もあらわれそうだが、後回しだ。だけど危険を犯して順番待ちの秩序維持には携わってもらう。それが嫌ならば、民間の知恵とかサイエンスに委ねて、とにかく内輪の力で免疫の獲得をしてしまうことだ。中央情報くらいはきっと沢山ストレートに入ってくるだろうから、挑戦のつもりで、免疫獲得を内輪の論理で手っ取り早くこなしてしまうことは、暗黙の了解ではないか。
巷は巷で、生き残った人々が目立つようになってくる。どういうタイプがこの感染症には免疫を持ちやすいかが少しずつ見えてくる。でももう遅い。蔓延後だし、犠牲は犠牲としてあきらめるしかない。けれども、今は、免疫獲得早急作戦が功を奏し始めて、沢山の実務部門が活躍している。かつてなら見放されていたかもしれない重篤症状でもなんとか人手の多さゆえに面倒を見てもらって回復するようになってきた。別世界に近づきつつある。
来年になれば、効くかどうかはわからないよ、あてにするなよ、だけど、ワクチン、出来てくるから。億単位で対応可能だよ。でもね。希望者だけで、いいかもね。ほとんどが免疫持てたものな。よかったよかった。そのうち何年かして、その免疫が症状を軽くする程度にしか役立たない変異種が騒がせるかもしれないけど、同じ系統なら、なんとか騒ぎにさせないで凌(しの)げそうだ。
仮に、蔓延前の絞り込みが実際に可能な規模の時。
その時は、あたかも諜報部門の活躍のような事態が進行すると想像できる。
出た!どこそこだ。関係者は?絞り込めている?!・・!の方か、よぉし!さらに絞り込みだ。この場合、わざとではなく、知らず知らず感染者が、たまたま元気だったため散らかしていた。で、絞り込み、広がった範囲の特定と、更に、飛沫感染系を踏まえた接触者特定、絞り込み、追跡をこっそり迅速に遂行されて、ICチップを一人一人に埋め込んでおけば簡単に追跡できたのに・・なんていう暴論は充分に予測できているので、そういう発想の幹部、下々系へはきつく啓蒙活動の対象となってもらう。リバティでありフリーダムが重要で、その工夫の難しいところを引き受ける意欲が市民社会の前提となる。
こっそりだけどじっくり感染の危険を犯しつつ、対象者を説得・納得させて隔離となる。
保証もしっかり伝える。通常の交流範囲へは、臨時の仮想事情で隔離期間を凌ぐことになる。出所後も暫く口外できない。そこは、感染症の重度に応じて、世の中に無茶を強いない工夫のセンスが試されてしまう。
個々によって、撒きやすい状態に違いがあるから、とりあえず、感染しただれもが撒き散らしやすいと前提して、具体的に押さえていく作業が続く。
担当者たちは、感染した具体的顔まで覚えてしまった。それくらいの規模を超えて、散らかってしまえば、もうお手上げで、判断を誤れば、違うことに心配させられて、肝心なことを手抜かりにしかねい。初期段階で判断を誤らず、適切に対処できれば、数の絞り込み発想で、安全指標にできる。
蔓延判断後なら、数を追っても、結果的にどういう規模の感染症だったのに答える便利な数値ではあるけれど、現場の進行形の事態への対処としては不毛となってしまう。
敢えて指摘してみたけれど、ヒトの世では、こういったことを延々と技術の様々は異にしてきたかもしれないけれど、やってきたと言えるので、それを忘れなければ、今時の使えるものは何?で対処はいくらでもできるようになる、と年寄り素人は言ってしまう。

今の騒動は、ためにする騒動になっていて、地方の首長諸氏やマスメディアに登場して口泡状態の医療関係者は、今でも遅くないから反省した方がいいと素人は推し量っている。
この軽いコロナ感染症での対応は、万が一の重いタイプのケースで判断ミスを必ず招く。判断の基準が数に追われた切迫さ由来であることを晒しているのだから、そう受け止めることが可能。
どういう感染症か(どのように重症化しているのか、感染症原因か、それとも投薬内容が外れているのか、治療過程に問題は無いのか、患者の扱いに問題は無いのか、栄養状態はどうなのか、症状変化の詳細な過程を知見として共有できているのか、たたき台にできるくらいの症例・治癒研究をどれくらい蓄積できているのか、過去のデータとどこまで検証済なのか、既存データに甘んじない日々の変化を追う研究が持続していてしかも一定の筋にはオープンな体制を確保できているのか、現場の医療ではどこが負担となりやすい感染症なのか、危険度合いを対象分けできるタイプかどうかなどなど、この点だけでも一気に押さえておくべきことを指摘できる)。
罹ったら現場に居られなくなる心配をできるくらい(人手不足になって現場は大変だけど、ことばの弄び方においては)余裕たっぷりな医療部門では、万が一で想定される事態には対処してもらえない心配。つまり、一日も早く免疫獲得作戦に挑戦出来て当然の部門であることの自覚がまるで感じられないこと。
交通整理知見として、渋滞をいかに解消するかで研究されていることはマスメディアで既に紹介済。
医療への行列渋滞解消も、工学発想の力を借りるなら、それなりの実際に使える知見のための助けくらいにはなるのではないか。医療は工学なので、実際に役立つ実践に結びつける必要あり。結果についての精度、確度がしっかりしていれば、理論はともかく、挑む必要がある。例外が生じた時に更に進化させることができる。
軽い奴らが隔離を拒むなら取り締まれば解決するとおっしゃるのは、或ることに関する能力の準備がないのに、面子(めんつ)を先行させてそこを担って関係者に迷惑をかけてしまう事例に近い。蔓延後にすべきことではない。
病状が大変なら自発的に通院して清む。
自宅でこもって治すタイプも居る。
くしゃみ、咳するときに他人を意識したこまやかなマナーさえ怠らないタイプを親たち大人たちが大量に育て続ければ済む問題。
そして先の根路銘氏が紹介してくれていたのだけど、換気だ。たとえば教室。そこの寒い時期での換気を怠らない必須を指摘されている。
手洗いも簡単なことなのに意外に役立つとのこと。
WHOとかほかの組織がこの際だからと悪乗りして、マスクをすれば大丈夫の発信を派手にするようになっているけれど、昔からの知見が結局は正しかったわけだ。それほど期待できるツールではない。それに安心してしまうと、マスクして激しく咳したり、くしゃみしたらば、外側にたっぷり飛沫感染原因をばらまいてしまう。こまやかなマナーで制御してきた人々のこれまでの積み重ねがパーだ。ヒトのくせを下敷きにできないと結構、事態の進行を誤らせる。
換気に精を出す。ウイルスは生き物が大好きだ。だからいつだって仲良くしたいけれど、生き物がもって生まれた免疫系の大切な作用の一つである炎症作用が自分の心身に害を与えてしまう。その知見を前提の対処を未だWHOとかUSのCDCとかは派手に啓蒙してくれていない。もちろん、列島の情報機関からも啓蒙情報を一般に届くようには発信されていないみたいだ。

連載は続く~SF掌編『夕方、未だに雪にはなっていないようです。かなり冷えてきた』編


持続可能性の思惑の中で語られてきた残飯問題が今でも息づいている。
だからコロナ騒動でも、そこに焦点が当たっている。と、見ることもできそうだ。
あれだけ残して捨てて、それでいて経営が成り立つ。普通に考えてみて、不思議なことだ。
実際、事が起こってみると、多くが即経営難に陥るような資金巡りの経営の仕方だったらしいことに一般を気付かせる。
問題化のややこしさは、そういう経営の主諸氏とそこで雇われて生活の資金にしていた諸氏とが絡み合っていること、など指摘できそうだ。
経営の仕方を工夫して、の圧としてコロナ騒動が作用したとしても、そこを仕事の場と打ち込んできただけの境遇の諸氏にとっては、与えられた条件内での切磋琢磨に閉じがちにさせる。
中々、はみ出してまでは、難しいし、大抵、そういう諸氏は自営に向かうかする。
コンビニのような形態も想起される。
そこもやはり経営が成り立っている。かなりの量を捨てていても、経営が持続してしまうからくりや如何に。
素人はそう発想してしまうけれど、コロナ騒動の方は、そこの芯のところを踏まえて一応の圧を加える格好になっている。
で、飲食業と同様の構成を抱える。

ドイツでは正論で打って出ている。防御に有意なマスクを付けさせる。かなり強圧的な策として。
素人考えでは、正論だし、ピントは合っているように見る。でも、これまで素人が指摘出来ているくらい、このコロナ感染症は軽いたちの病気だ。インフルエンザでの驚くほどのコンスタントな毎年の死亡者”数”を受け入れてきたヒトにとっての昨今を踏まえて、同じくらい日々になじませうる病の一つと指摘できる。
困るのは、初感染タイプということで、だれもが罹りやすい。ほとんどの諸氏にとって、初めて罹るタイプだ。中には、既に免疫を持っていた、という諸氏もかなりいらっしゃる可能性も否定できない。でも判った形で語られるようにはそれらは見えてこない。
そして実際に、年齢、性別関係なく、だれもが軽症で罹ってしまう。だから免疫獲得しやすい病の一つとも言え、ひと渡り感染が広まれば、それなりにいつもの風邪と受け入れることが可能になる。
オリンピックの方ではいじり過ぎて、やりたい人々とやりたくない人々の思惑合戦のような事態が進行しているようだ。
素人の考え方はずっと311被災への費用捻出発想だから、やり方次第。311被災回復に貢献する手段の要素を一部にちらっと持つ、程度だとバカにしないぃーでよ!のセリフが出てきそうだ。集中させるべき箇所へ向けた資源(資金や技術・職人・技術者などまとめて資源)の使い方と関わる。
欧米はやりたくない派の思惑が露骨で、コロナ騒動の怖さ装飾表現を賑やかにしている。
オリンピック騒動に冷静に向き合っている諸氏においては、コロナ騒動に向けても、まゆに唾する程度の落ちつきをお持ちのはずだから、欧米勢の思惑とは必ずしも一致していない。
戻ってドイツの施策。現状のコロナ騒動には、しかし!大袈裟だ。けれども、いざという時にどれだけの厖大費用と負担が要るかくらいの疑似体験をドイツの諸氏は経験できる。
ただ列島の傍からだと、いざという時の為にその費用は温存できていた方がいいのではなど余計なことを思ってしまう。

ところで、欧米の政治家諸氏は、それなりに大学で(選ぶっていいよめいた変な方ではなくて、代表となって任せられたことを担うめいた方での)エリート教育をへてくるので、政治家諸氏の発言に感心させられることもありうる。
付託された事柄に一身に打ち込む。イギリスでだったら、EUから抜ける策の件。
首相お二人が関わって、なんとか成った。人々が選び取った策へ、政治家、とりわけその代表は打ち込む。そして成せない場合もあるけれど、なんとか今回は成しえた。
前任者氏の辞任演説をたまたま見る機会があり、少し学ばせてもらえた。

US事情については、BSの報道番組が結構語ってくれている。だからというよりは、自発的に、多くをことばにしたいのだけど、しばらくは静観だ。
二月の二週目に入るころにできれば、書き込んでみたい。

いつもの出版案内発信には大助かりだけど、ネット発信に含まれる出版情報も素人情報力にとってはとてつもなく役立たせることができるので、感謝するしかない。

連載は続く~SF掌編『こもらず、外の空気を吸いに、(今日も)散歩!かな?』編


デンゼル・ワシントン氏の出ていた映画で、生真面目なワシントン氏演じる役柄へ、同じ境遇だった人物が、(諜報も絡む)特殊作戦で活躍していると、何が正しいことなのか判断がつかなくなって当然なのだ。だから今こうしてお前から見れば悪いこと、残虐なことに見えるかもしれないことだって決して悪いことじゃない。だれもわからない。というようなことを言い放った。
似たようなセリフを映画はちらほら時々使っているように、振返れる。
少なくとも、映画を作っている人々にはそういう論が出てくるくらい大変な時期を向かえているというか、昔からそうだったはずだけど、今もそういうことになっていて、それへどう答えられるか、という肝心のところへと関心を誘っている。
などと素人老人ゆえに、推測しているわけだ。

テレビドラマでは日々膨大な人々が事件で殺されている。一本の一時間数十分のドラマの中で複数がお亡くなりになる。出演者諸氏はさすがに合掌して答えている。誰に対してもじゃないところが、ドラマじみている。

話題かどうかはともかく、ブレつつの強烈な映像が印象的なラース・フォン・トリアー監督がそれら被害者と捕まる前に殺されてしまうかもしれない犯人をしつこく描く映画を作っていた。
どぎつく、昨今の風潮へ一撃、的な印象論を語る諸氏もいらっしゃるようだけど、老人からはそう受け止めたくさせている。
ありがちな事件物では、犯行の詳細としては描かない。そこにはショッキングなシーンと言うことで配慮も働く。けれども、裁判とかではしっかりフォローされる。
それに個々性、個々の人生として受け止められるには、事実の結果報告みたいなのでは弱い。全体を受け止めることは、一人一人の人生にとって確かに重荷になるから、そこは常識的な受け止めで良いとは思うけれど、いざ振返ろうと思えばできる素材として、が必用なことは言うまでもない。そこではずっしると人生を感じ取ることができる。
ふとその躊躇さえ機能していれば・・・。が逆の方で動いて・・・。
しかし振返れればラース・フォン・トリアー氏の作品のようなどうしょもない時間を共有することになる。それぞれに見世物にしてしまえば、残忍ショーの娯楽に落とし込むことも可能なくらい、他人事なのだけど、ここらはポルノと同様で、一般人の普段の生活が、いつでも発情しているヒトでありいつでも冷静でもヒトという発情期を持たないゆえの苦悩くらいは気取って見せびらかしたくなる生き物からくる、他人の視線にさらされればそれはお笑いか、ゲテモノショーでプロフェッショナルなポルノとは似て異なる無様が落ちなのだろうけれど、ヒトの当たり前の様には違いない。(双方にとって)残酷な場面も見世物として見過ごしかねないとしても、わが身に起こってみれば、という話にすると、ヒトの内実は余計な煩いことを言うわいとかで受け止めがちなのだから、お節介はしないけれど、同情の足しくらい、話題提供の素材くらいには使える。
日々のなにげない娯楽として流しつつ、実はの感受性への逆効果の辺りに気づきながら、楽しむことは楽しんで、頭を働かせることは働かせてみたいな、啓蒙世界での生き方もありかな、など年寄りめいたことを時々(いつものことかもしれないけれど)言ってみたくなる。
十三金ノリだと、恐怖映画同様、ヤラレル側の独特のキャラ演出になってしまうので、そこはLvT監督の手腕として感じ取れるのではないか。(月が地球へ接近してくる作品の映画演出とかも)

ここから前回の一部を受けて、911の指揮命令系には、US の歴史は偽旗作戦で大勢を犠牲にしてきだのだ、なぜ今更ニューヨークのごく一部をぶち壊して悪い?!と逆切れ、居直りをしている諸氏がおられるかもしれない。
そこをきっとデンゼルワシントン氏は、そうじゃないな、俺と違うな(これは横山ドラマの一時間もののセリフからいただき)と返す。
そして懲らしめる。ドラマや映画では結構大胆にもその場で、償(つぐな)わせる。
現実は法治だから、しっかり事実関係とかある程度の真実の場を用意して、建前にしっかり形を与える過程が要る。そこを外すと、近代試行錯誤が希薄さを帯びてしまう。

連載は続く~SF掌編『こもらず、外の空気を吸いに、(今日も)散歩?かな』編


どういった治療(より具体的、詳細に、一般相手ということでの遠慮は不要だ)がこの間、これから為されていて、重症者が増えているのか、それを周知にしないで、数と病状修飾だけの騒ぎをいつものように繰り返すのは、専門家筋なら当然、心理作戦に通じてしまうくらいの注意報を発信しても良さそうなものを、まるきりしていない、不思議、くらいは、素人でも指摘しておいた方が良い時期ではないか、と押さえた。

*ちょっとしたサボタージュ、指揮命令系の誘導で事態を操れることは面従腹背の怪しい処世とも関わってしまう。そういうことを心配させない司法や行政や議会やの関りが要る。(重要なところで身びいきが功を奏するかもの視点をまるきり無視するものではないけれど)かつてのUSのしこり911はそのうち明らかにされざるを得ないのだし、列島はじめ介護施設でのお年寄りへのきつい扱いも、アイルランドでの子供たちに関わるニュースのように、現場のずさんさをコントロールしきれない細部まであからさまにされてしまうものだ。

ことばの行き交いでは、混沌としがちと思えるけれど、確実に、ホワイトハウス発で、何本か政策が立て続けに表に出されている。
大企業規模で研究・その先へ、が可能かもと素人は目測していたのが、政府規模の策として出てきた。そのくらいの規模での研究じゃないと実際化に向かわせずらかったのか、と一応受け止めさせた。
しかもその研究は遠い将来へのヒトのある程度パニックに誘わないで済ませられる、気候激動的変動策と通じる。天然自然派諸氏には今更なぜ、となるかもしれないけれど、サイエンスにも力を貸してもらいたい向きも指摘できる。できるものがお手軽版にならないと、その策の一環とはいかない難しさはありそうだ(し技術の成果はいつでも両刃性を持つのだから油断しない工夫がいる)。
実際に起こりうる、ヒトにとっての大変さだから、今時の豊かさゆえ、軽症感染症ゆえの空騒ぎで単調な人生に色どりをのサービス精神発揮なのかもしれないけれど、ものは使いようなので、工夫のための人材つくりを怠ると、いざという時の演出は手抜き版採用となりかねない。

*ヒトがあふれかえって、それすらが問題の原因となりかねないと思えるかもしれないが、その数や密度やが可能にしている、一面の豊かさというのを指摘できる。
その数を維持できない気象環境が到来した時にはテクノロジーの水準の維持すらが、実は・・・のところに想像をしておかないとまずいわけだ。
しかも今は、数は多いけれど、中小企業の下支え的社会の目論みすら当分できないのではと思わせる、地域自立の条件を欠くような貧富格差のグローバル版が変化しそうにない。
”先進国発想”ということを、たとえば医療での、先進性ということを想起して、テクノロジーの水準ということの押さえ方にも応用できる。そういうことをしておかないと、対症療法として、救急の凄い技としては応用できても、人(日々の人生を全うするという捉え方)にとっての医療としては、偏りがすでに発見済の既存の主流の医療は、コロナ騒動をかえって煽るような立ち位置を取りがちだ。これは素人的には本当に情けないことだと受け止めている。現場が次から次へと変化する事態対応で、考えてはいても出来ないのが実情だ、という秘かな部分は、今時、どういう営業部門でも経験されていて想像はた易い。それでも、指摘しておける。組織、団体を持っているのだから。

実質、重大な感染症の時、その性質によって対処は異なるけれど、風邪タイプで展開をある程度掴(つか)めた時点で、最初に免疫作戦に挑めるのは、現場を支える専門家諸氏であることを今、この時点で謙虚に受けてもらえるかどうか。多くは、判ってはいても、新種で手に負えないということで自らの免疫耐性ではこらえきれずに、あちらへと行かれる方が出てしまうのだ。けれども、そうならないように、一番に働き掛けを認められる立ち位置の諸氏がいらっしゃるわけだ。そこを想像できないで空騒ぎへと持って行くことは、ワイドショー系の諸氏においても、今のコロナが実際には軽症系だとわかるワイドショー的出鱈目性で逆に表にするくらいの勢いが必用だ。きつくロックダウンしろとか仕事のメディアでは言っておいて、自分たちは大いに出回って、軽く罹って、免疫もってるぞと自慢したり程度のことだ。
おいおい、そんなことしたら、メディア仕事を失うくらい評判を落としてしまうぞ、ときっと返ってくる。
煽る方が許されてしまうその落差くらいは承知しておいてもらいたいものだ。

ヒトは動物の一種だ。だから発情を恥ずかしがるタイプで受け止めることは、根本のところで何か勘違いしている。不適切な意味で"良い子"を演じている。そうはいっても、自分は動物であることと距離を置きたい、そういう考え方に忠実でありたい、とかの思惑も観念系が用意していておかしくない。
そういうごくごくごく少数な諸氏はそれで試行錯誤されたしだ。
動物性を自覚しながら、やつらの性質(たち)を気付けるようにしておけば、残酷を自らが発揮することをある程度抑制し続けることができる。
抑制と言ってしまうと、動物性発揮を抑制とかにとられるかもしれないが、そういうことではない。
残酷に向かわせるそういう内面的な力が働きがちなのを抑制する意味。
そこらはバタイユ氏を引き合いに何度か指摘してきた。
ありがちに事を済ませてその状態に、落ちつきを勘違いする場合もあれば、散々ことを仕出かしてその落ちつきとして勘違いしてしまうことも大いにありがちだ。飽きた状態は、しかし、内実として、他者への残酷発揮を感じ取りにくくする。反射を遅くさせがちにする。
一瞬の躊躇が他人に危害を加えることを抑止させるものだ。(身びいきから)治安を口実に官民を問わず、ちょっとした日常生活の一コマに介在することで邪魔(嫌がらせ)に入るということも、その躊躇が抑止させうる。
もっと軍事的な究極の場での、一瞬の隙の無い状態ででも、集団化しての暴虐タイプの行為群への躊躇判断で応えることが可能になる。
やつらは強力だから・・・と付き合い方の一案くらいは何度かことばにしてきた。
ただそれ以上に折角の観念操作の力を人生時間ともども持てているヒトの世界なのだから、そこをもっともっと開拓できそうだ、ということの代案で答えている。

大国による"帝国"的"支配"の姿は、円満な方向性を持たせることもなんとなくできるようだな、と思わせる。
しかも役者が揃っていないと、なかなか・・・。これがきっと実情に違いない。
やる気だけ旺盛というのでは足りなすぎる。
歴史知見を踏まえたヴィジョンを擦り合わせる必要がありそうだ。
だから大変だ。歴史知見?列島のことですら、未だに、九州の位置的な特徴を見ないふりし過ぎている。暗記物にしない歴史学習の方向が既にできてきたらしいから、これからは違ってくるかもしれない。何年にが先行するのではなくて、事実関係の連関とかで、物事の成り立ちを考察する歴史学習。その際に、出来事の順を決めるのは年次になるから、参照すれば清む。そのことで観点への刺激にもなる。連関の絞った領域では年次も含めた考察が成されている。でも、その他については、出来事の順で覚えているだけでも充分で、そこの年次を必要時参照できればかなりの考察を円滑にさせる。
物事の整理での年表が貴重なことはいうまでもない。一家に一冊(以上?)でしょうね。
その出来事の羅列は混沌とする。一般にはわかりにくいままになりそうだ。
作為は働く。そうやってヒトにとってどう作り変えたらいいのかは試され続ける。
できれば未熟な市民社会であってもそこで得た感触を大事にしながら次のステージへという試行錯誤でありたい、というのが年寄りの素人の考え。希望めいている。
911のようなことは、隠しておくことはできない、と素人は察する。そこで隠し通してしまうと、その弱みを突く、取り巻きというか、目先の利害系がかき回しやすくなってしまう。それにタカル収益構造もできて、修復に更に時間を要するようなことにしかねない。
他の歴史つくりの試行錯誤は(博覧強記)歴史家、研究者(褒めるわけではないが、"怪しい"学者、放送大の高橋氏のようなタイプの研究者諸氏はきっとかなり突っ込んだ調査をされてそうに(ないし内部情報を得ているように)勝手に想像してしまう)が後々事情の幾分かを解明してくれればいい。結果次第でのその場その場での評価、責任として表舞台での決着がその都度為され続けるわけだから。
ソ連→ロシア政変時。そこでお金絡みの強奪行為のグローバル版は直ぐに解明された。そして素人老人においても若き日に知っていたUSの若き俊才氏もそこに居たことを知ってガッカリさせられた。金融・経済系はヤバイ。民主系・共和系の名で判断は禁物。
その裾野が強靭なまま昨今を騒がせてもいると想像することくらいしか素人にはできないけれど、そこまで出来るようになっている構造の質のところには、圧としての代替が要るのではと心配するくらいに、一方のし放題が危険領域を構成しているのではないか?
弁証法でやってはまずのだけど、それがダメなことと思えたら、ある程度オープンに言論を構成しつつ、地道な工作も要る、というSF事件解決もの映画シナリオだってできそうだ。
実情の進行形では、善悪のだれそれという構成は混沌として描きにくくなる。
そこは大国を担うことの負担で一国をつぶすかどうか、という時間制限問題が登場して久しいグローバル環境下、経済大国としては共存可能でも、グローバル環境での帝国的面倒見の良さを発揮しながら、仕切る厖大な費用を負担できる大国志願は意欲だけではどうにもならないから、試され続ける。過酷なくらいこんなことできるの?できなきゃ担えっこないよ、くらいの秘かな対話がきっと続いている。助け舟はこっそり出せる。ここらも、難しい。絶対に表にできない諜報もからむ工夫の奥義。
すこし、こうなると素人SFでも面白くなるかもなんて、思わせるか、な。