連載は続く~SF掌編『暑くてショーがないけれど、とにかく今どきの話題だ』編


 近現代試行錯誤の中で比較的最近の懸案は、ある程度の共存志向が芽生え、それを一応共有させたいという思惑は生じさせていても、たとえばネオナチと決めつけうるタイプの排他性の濃い思惑で集団形成を図ってそれなりの政治勢力となりつつあるかもの動きへ、どう関与しうるのか、という辺りなことは、事あるごとにマスメディアにおいても識者諸氏の見解として結構紹介されてきている。
 国連をどうするかということとも絡めての話だろうし、超大国がどう引き受けるのかという話でもあるだろうし、けれども近現代の試行錯誤はそれなりの法治に向けた考え方を示しもしてきたため、それがいい意味で足枷となって、メインストリーム側の暴走を避けさせる一方で、危ない勢力の局地を放置させがちにする。
 危ないか危なくないかの見極めとか基準めいた内容は、恣意的な政治が働くと、せっかくの近現代試行錯誤も台無しになりかねないので、建前上、慎重に映るような対応が先行する。
 とにかく近現代試行錯誤の過程では、ある程度の試行を経れば、結局、包摂のあり方に落ち着くと考え方ということでは収れんしやすいようだ。
 だからイデオロギーを持ち出してその考え方で集団形成した政党というのが少しずつ旧態扱いされやすくするだろうくらいの予想はつく。
 民主主義か共和主義かという対立軸での政争はありそうにない。
 巷での棲み分けは不都合を生じさせやすい。個々の家庭における基本条件としての流儀に関わる試行錯誤はお互い様として容認し合える。包摂的に把握できる。
 けれども、どうしても自分たち流に固執する勢力形成も限定的に起こりうる。
 その人たちのリーダー層がその頑固に固執しただれかだと、相反する他という対他の関係で他との関係をつい想起してしまうかもしれないけれど、大抵の場合、集団をまとめる際での様々な性質の構成員という体験が、いつでも色々な要素を束ねる難しさとやりがいのようなところでちょっとした落ち着きを得ていそうだ。
 究極、排他性を追求するタイプの集団形成以外の集団の営み試行においては、少なくとも棲み分け可能な辺りを十分にお互い模索し合える相手たちに当たる。
 そして政治家諸氏も、そういった様々な試行錯誤をいかに包摂して相互触発的な関係性と保ちつつ、それら同じ集団形成の構成員としての安寧とかを得られて、というような、
事態へと誘えるような実力を日々鍛えながら、投票系の支持を得られるような活動に勤(いそ)しめる。
 だから卑近の例については、ネオナチを動員して政治に使ってしまったUS国際的諜報利害が大本の原因とみなせそうに素人はずっと想定している。
 しかも局地戦争へと誘う国際政治活動を働かせ続けてもいた(ここらは又様々な文脈を持ち出せそうなので、同一に論じるだけではまずそうだ)。
 その後に今日の極端な物価高を生じるような事態を招いている。ここらを押さえておきたい。
 「勢いづいた"インフレ"が進行している」というタイプの表現がマスメディアにおいて撒かれている。ここらは素人老人からすると、どうした?!と一瞬、ごく一瞬だけど、(相当な老人、ということで認識の方も、身体的反応の方もそれなりに時差を生じさせやすいにも関わらず)立ち止まらせる。
 出回っているお金は20世紀末から21世紀の現在にかけて膨大になってしまった。
 事情通諸氏がシンプルに総量の辺りを紹介していただけるとありがたい。
 しかも貯め込めうるだれかたちは非常に限定的で、ごくコンマのコンマのコンマの数%の諸氏が小国並みかそれ以上を保有しているという話が普通にニュースになる。
 とりあえず流れている総額は相当規模だとして、それらが、生産量に限りのある日常必需品に向かって、殺到状態で、作っても作っても足りなくて、結果、物価が高騰(こうとう)している、ということでのインフレ表現ではないことは、巷のだれもが、マスメディア(*1)の発達している土地柄の多くがご存じだ。
 今どきの物価高は、列島ならば、ガソリン価格が上昇して、運賃負担が馬鹿にならないためにそれを商品の売値に転嫁(てんか)するという形で出発している。
 なぜガソリン価格だけが妙に上昇することになったのか?
 実はガソリンだけではなくて、原油流通と関わる諸分野に物価上昇の連鎖がありうるような、原油高というタイプの事情が起こっていた。それはなぜだったのか?
 USはものによって使い分けてはしているのだけど、基本的な表現型としては教条的なまでの市場任せで放置される。経済活動に限らず、市場任せの発想を応用しがちにする。
 自国に限った試行錯誤にしておいてくれるなら参考にしてみるか、との発想も他所に生じさせるかもしれないけれど、同じやり方で超大国の真似をしてね、となるとそれは無茶だ。
 その教条の一面だけ利用させてもらって、良品質の色々を市場にさらして、それなりの利便を生じさせてきているけれど、市場占有に行きつく教条的市場ルールでの競争に利益を上げられるか上げられないかしかない、ような焦点に誘うタイプのけしかけだと、ろくでもない質の商品が市場を勝ち抜いて、他(様々な必要に適時応じていくような生産活動)の出る芽を摘むような事態を招きやすい(包含する理念のことを省いて、形だけを問題にした場合、大量に簡単に作れる消費材で我慢しなさいを、理想的な勘違いとともに普及にまい進させがちだ)。ところがこの趨勢は莫大なエネルギー消費とともにありうる姿だったことが今なら鮮明だ。
 だれもが自前で衣食住の多くをまかなえる技能を日々培って生活を保てる世の中ならば、かなりのエネルギーが結果的に節約できてしまう。
 個々の場での無駄の集積が生じて、実際は逆じゃないの?との問いが生じそうだけど、そういった大量生産品を利用する人々に限っての話としてなら、自前で充足した食生活が可能になるのと同等の内容を外食で達成するには、それ以上の費用が生じてしまうし、廃棄の問題は未だに膨大量だ。各家庭でもそうじゃないの?・・ここらは各家庭規模での解決策は見出しやすい、の答え方で十分そうだ。
 万が一の災害時に、自前の技能を持っているなら、なんとかなる。
 一定期間無料配達して大量販売品を食料に、というやり方もありうるけれど、食べる側にとって長続きしないはずだ。(またこれ?!・・・現象)

 金利の水準は世の中の経済活動にとって一種の環境になる。
 だから急激に変化すると、その際、混乱は必ず生じる。
 そして徐々にその変化した水準に活動系は慣れていく。
 超大国としてのUSの位置を認め合う諸国は、だからか、今どきのインフレということばの氾濫現象を共有するようにしていて、もともと流通通貨量の膨大量にも関わらずハイパーインフレを制御してきていて、そのメカの方からではなく、物価上昇が生じていると明確であるにもかかわらず、金利水準をお付き合いでいじくっている。
 列島での高度成長の経験を体で思えている識者が未だ大勢いれくれる時期だからこそ、金利の水準を上昇に向けさせて、それなりの預金の利息を得られるとか、賃金が上昇するとかはただそれだけでは済まなくて、直ぐに巷の商品価格は上昇して、だからまた物価スライドとかで賃金を上げて、手間賃も上がって、タクシー代も上がって、順繰りがお決まりのサイクルとなって、気付いてみれば、ただバブル現象を人為的に起こしていただけじゃんとなって、それなら思い切ってと釣りあげて、それなりの好景気を体験した限られた世代以外は、その後、深刻な世の中を生きることになってしまう。
 そういうことを繰り返すだけなことを想定できるにも関わらず、共犯者をほしがる、妙案の提出勢力がまたもややんやと金利水準を上げろ、賃金が上がってないぞ、不満はないのかとそれなりにけしかけ続ける。でも列島はそれで大変な世代を生じさせて、未だにご苦労なことになっている。経済の学をもう少しだけ大事にしておく必要を指摘できる。
 金利の一定水準は確かに利息を生じさせて、錯覚だけど好循環を生む。
 公社や公共事業を工夫出来たり、累進課税の機能しやすいタイプを設置できていると、資金の運用や返りを損なうことを未然に防ぐとかを試行しやすいし、有効需要めがけて"ばっちし"バラまいた資金も、たっぷり設けたところから累進課税ゆえに自動的に税収に"帰"ってくる。うまいことビルトインされていたりする。
 その手の工夫を付き合い上、手放ししまった後ということはあるけれど、それらも含めての高度成長期だったのだから、どうせならオルタナティヴにむけた作り直しという手もありうる。
 世界の生活の底上げということの試練に向けた金融の営み依存というなにがしを超大国の試行錯誤に素人老人は見てしまうけれど、その手法部分の膨らませ方で良かったのかどうか。
 それと終わらせるにしろ、継続するにしろ金利水準は環境だから激変は禁物で時間が慣れさせるし、低金利で頑張れるところを端折って、利息にほくほくできるかもの金利水準でバブルを演出するのかどうかも、列島の事例の顛末を参考にできる。

(*1)
 自民党は実験をこの数十年、何度かこなしてきた。
 小泉政権では、多要素の自民党であるよりも似たイデオロギー集団っぽくした時にどうなるかを試した。
 安倍政権では、官邸の指図でどこまで組織を動かせるかを試した。
 それぞれ、成功して、それではまずい面が相当にあるということを、世の知見に知らしめた。
 マスメディアはそれらの現象を後追い的にしか巷に伝達してくれない。そういう性質を持ってそうだ、という辺りを視聴者へ向けて発信している段階のようだ。
 日銀の金利の件ならば、伊東氏が問題にした時期にメジャーな論としてマスメディアがにぎわしたわけではなかった。マスメディアの限界という言い方は相応しくないというメディアの論を持つ素人なので、現状のマスメディア(膨大資金の巡回先仮説をその昔指摘していたのもこの素人老人だ。ただ色々な働きを含ませているはずで、善悪で端折った話にしてはまずいと察する)はマクルーハン氏指摘するところの色々な意見がパッチワークのようにちりばめる職業柄の工夫を成しつつも、なんらか趨勢も誘う働きをうっかり成してしまう媒体ということで、働く諸氏が、給料の多い少ないに関わらずニヒルに陥らないだけのしぶとさが求められる職場だな、とこれはシロウト想像。

連載は続く~SF掌編『暑気払いの二題』編


 教条的に書き文字の代わりに、という主張は今生きる人々にとっては無謀以外の何物でもないと素人老人も踏まえられる。
 列島の場合、義務教育中の先生たちの面白い話を聞いていれば自ずから文字文化に親しめてしまうということも押さえて置ける。
 普段でも文字情報に重宝している。
 ネットでの各分野で活躍されてきた専門家諸氏の発信を読めるのも書き文字習得のおかげだ。
 たまたま手持ちの『エコノミスト』誌(毎日新聞社刊)の記事のコピーを何度目か目を通しているところ。(創刊80周年記念論文から3本)

 ① 2003.4.8号「成長でも生活豊かな社会―21世紀資本主義の行方」(p130-134) 都留重人
 ② 2003.4.15号「経済覇権交代の長期ダイナミクス―アジア共通通貨の出番は近い」(p110-113) 篠原三代平著
 ③ 2003.4.22号「制度化された経済学と日本経済の危機」(p68-71) 伊東光晴

 ①は現在の話題に通じる今に至るまでの出発点頃の議論を紹介しつつ、経済知見を踏まえた見解を述べておられる。
 今では既知となっているけれど当時は知る人ぞ知るだったかもしれないのですが、今においてはとてつもなく貴重な幅広く人脈をお持ちの碩学のお一人だ。
 ②は既知のデータと実際に起こった経済的事象を符合させて、経済的知見からの見解を述べておられる。
 ③は学説の検証と事象の検証を欠いたまま学説教科書として学ばせてしまったUSのある時期の経済学事情の問題を具体的に述べておられる。
 しっかり学説上の意味でインフレにはなっていないときに日銀とかFRB金利を下げ続けても景気への効果は生まないことを初期の2003年に指摘されていた(逆に理論上インフレ時の高金利策は有効とされる。現FRBは原因は何処?と率直ながら、なんらかの圧ゆえに金利上昇策を採用し続け副作用でグローバル規模での経済は大変なことになっている)。
 ①、②、③それぞれへ、初見当時の納得感はもちろんなのですが、素人なりの異論も持っており、更に、もう少し年老いて、違った意味での些細な別の案とか意見なりも読みながら感じていた次第。
 アラビア圏の金融のあり方は独特だ。そこらは③を踏まえつつ、オルタナティヴに経済事情に通じるこれからの世代が思い込み・先入観過剰に事態に翻弄されることなく、代案など提案できるようになればの期待込みで指摘してみたい。
 ①での話は通説の資源をめぐる前提にかなり近い発想も含まれており、そこらは素人老人ゆえ当時より明確に異論を持てるけれど、都留氏はサステイナブルデベロップメントの翻訳についてちらっと注意を促しておられた。持続可能な発展では発展にとっての持続可能性のように受け取られかねない辺りを維持可能な発展と訳すことを促しておられる(p131)。もう一つ、当時のブルントラント委員会の定義として「将来世代の必要が満たされることを妨げないという条件で、現代世代の必要を確保するような発展」(p133-134)と引用されている。
 今日に連続している話題は②でも読める。空洞化の話。現円安が直好効果を生じさせるはずの輸出産業の好景気に結びつかないのは生産工場そのものの多くを列島内に持っていないからだということの起源がたまたまこの記事には紹介されている。しかもその列島すらがUSの空洞化の原因だったらしい辺りもふれられている。
 トランプ政権において話題となった工場をUS国内で、ということが問題になるのは、そもそもの起源が・・という辺りを統計から紹介されている。
 ここらは善悪の問題ではなくて、政策の前と後ということで、政策担当者は大変な事態をいつでも扱っているということに気付かされる。
 ③については、少しだけ前知識は要るけれど、毎度のことながら伊東氏の導きによって経済学理論の一端と実際に行使されている政策との関係の持ち方がどういう行く末をとるかの経済学からする推論のあり方を学べる。

 久々の読後感はもう少し多弁を誘っているので、そのうち機会があればふれたい。

 今はネットの時代だし、マスメディアも残照ながら今のところ未だ頑張ってくれている。
 つまり7/8の事件の際に撮られていた映像の未編集のソースが今は出回らなくなっているのかもしれないけれど、それなりのソースたちがあふれている一端は紹介してくれていた。できれば(思想的なわだかまりを気にせずに是非様々な考え方の諸氏こそが手持ちのソースをいじくられにくい媒体に持ち寄ってオープンにしてもらいたい。仮に多くを証拠として捜査資料にしているくらいなら実態解明は近いと素人からは思えるが)有志の諸氏が、その日の映像素材を工夫してオープンにしてもらいたい(加工してわけのわからない事態にされかねない辺りへの注意は要る)。
 ということは、一般がわかった風で事件を語る必要に迫られているわけではない、ということだ。
 だれが見ても銃で撃たれて倒れた元首相氏ではなかった(氏の苦心を素人老人が想像すればかつての人生まで弁証法役割分担に貢ぐようなタイプではもうなく、今どきのこれからを担う政治家世代同様に、利害調整でしかありえないリアルを踏まえてのたとえば弁証法役割分担タイプと想像できる。だから亡くなった元首相氏にとっては国葬扱いは迷惑千万なことだと推察(調整役要素をはみ出て政治的位置の宣伝効果として偏った印象を後世に残すことに通じると素人老人は推理)するけれど政治利用利害やが関わってそうで・・・)。
 二発目の音で振り返り、再び前を向きながら同時に台から降りて低姿勢を取ろうとするその初期にさっと右手が左半身の方へ伸び何かを感じ取った姿までがネットでは紹介されている。(連続動作上)そのすぐあとにかがんだか、体勢を崩したかは不明。
 加害者への関心はワイドショーネタなのでうっかりするとマスメディア慣れした諸氏はついそちらへ誘われがちと察するけれど、警護班が協力しての犯行ならば説得力はあるけれど、そうでなければ、(放送・ネット発信の映像から)犯行そのものもずさんなので、元首相の動作として現状明確になっている事態をUKテレビドラマで鍛えられた今どきの視聴者をごく一般的な意味から説得させるのは難しいと素人老人は見る。
 ただ素人的な観測から、警護の成り立ちにまで疑問をもって捜査の進展に関心を持っているあたりは既述なので、今は更にしつこく書くことはしない。
 極端なくらいメッセージ性のある人物を巻き込んだ事件ということで、しかも警護も犯行もそれぞれずさんで・・・と、ネットとマスメディアがそれぞれ未だ健在な偶然の時期に生じて、捜査もプロ技を多分、発揮できる事例になるのでは、と期待しているが、素人老人ごときの期待なので、きっと普段通りの実力で名作ドラマを超える結末が待っていそうだ。


 けれど五月蠅(うるさ)く川柳もどき

 経済学碩学3人は20年前でも今日を見通す、と気付くシロウト老人
 ワイドショーは良くも悪くも視聴者を遊んでくれる、カモ
 鴨が美味いことは、動物の食生活から学んだ、ヒト、かも
 天気予報では女性陣が大活躍だ、けど、裏方解説の男性陣も、俺たちのこともお忘れなくとちゃっかりしてそうだ
 大雨の後、巷の小河川敷にはえさをついばむ鴨の群れ、いつもはたいていペアでちらばっている、かたまにたいそうな子連れ
 埼玉の50m県営プールが非公開になっても、原宿を降りてすぐの旧オリンピックプールは一般に開放されていた、な(市営は月一休)

連載は続く~SF掌編『今は昔の物語り』編


 今は昔・・・巷とはいえ、そっ、巷は普段着の人々の利害を渦巻きがちにしながらも、落としどころくらいは探りあえる智慧を育てあってもいた。
 そうはいっても・・・時には乱闘交じりのちょっとした騒動も起こす。
 てなわけで・・・どうしたって仕切り役は要った。
 仕切れるには一応、構成メンバーの多くの承認のもとなんらか権威の働きが作用しているような場を演出しているものだ。
 だから過激に、それでも相手の言い分を聞くわけにはいかない!と権威筋の助言を突っぱねる奴だって現れる。
 すると顔なじみの力自慢が現れて、そこまで理解してくれているのだから、納め時に気付くことも大事じゃないの?と投げかけたり、同じく顔なじみで幼馴染のだれかがやさしく、いつまで争っていてもきりがないし・・・とか説得・助言して、そのうち、その怒りは時間経過の効能もあってひとまず、落ち着く。
 だから権威の持たせ方の工夫も巷の秩序にとってはそれなりに一目置かれるしくみとみなされる。
 軽く見られてと本人は受けとめてしまいがちと察するけれど、何かと煩(うるさ)く助言ほかを投げかけられて、うざったく日々を送るようなどなたかにとっても、軽くよりは重く見られた方が何かと便利かも、と思わせる経験の方が多い諸氏にとっては、そういう他人からも見做され方でいたいなと希望を持続させる。
 そんな巷へ、新知見を整頓の良い状態で身に着けた渡来系がやってきて定住する。
 しぐさも人々の中でもまれてそれなりに(想定的には)整然としていてはっとさせられる感じだ。
 だから異性にも持てて、そこら中の渡来系には、そこら中にその子供たちがいる。
 そして大いに稼いでいる。
 新知見が幸いして、どうやらお役所との関係も良好らしい。
 地元で長年月くらしてきて生業を継承していく上ではだれにも引けをとらいない自信はあっても、権威の方はどうも揺らぎ勝ちと感じ続ける。
 でつい、渡来系は困る連中だと決めつけたくなっている。
 当時は、未だ文書処理の膨大量は生じる以前だから、官僚機構の構成人数も高(たか)が知れている。
 ということで、地元と言えるくらい代々・長年月そこに暮らしてきて、自然現象、人々の性質の様々について熟知しているようなかつて渡来して来た人々の知見の状態と、様々な知的な交流も得やすく、更に、その運用の具体例まで身に着けたような、最近の渡来系の人々の知見の状態がすれ違いのような事態を生じて、お互いの育て、育ちの刺激のように知見を交流しあえたりの機会を中々面子も邪魔して可能にする方向へは進みにくくしている。だから傍目にはそれだけの刺激的な状況なのに、停滞しているかのように見えてしまう。
 もし、立脚点が官僚機構構成員に相応(ふさわ)しく、特定の観点に立つよりは、或る種の合理性の下、せめて両者の良いとこ取りなど工夫する役をこなせれば、それなりの実際的時間内での改良なり保全なりが可能になりそうだ。
 ぐっと今どきに置き換えると、位置関係は少し変わってしまいそうだけど、エネルギー利用とか電子ネットワーク利用とかについては、地元だろうが、新住民だろうが、大抵のことは最新知識として、お互い知っていて、多くのことばも共有しやすいはず。
 そこら辺は、官僚組織の構成員諸氏においても同様。
 だけど、地元利害に執着しない分、官僚組織構成員諸氏は、身軽に現地改良を淡々とこなしてしまうのではないか。
 地元住民の先住民系と新住民系は、そこでこれからもずっと暮らしていく利害をつきつめれば言葉にし始められる。
 けれども、現代社会はマスメディア経由の、ということは官僚層の発想に近く、地元密着の相当にディープな物やサービスや自然現象やの関係性については、こだわれる要点を欠いてしまうタイプの知見で頭はいつも更新させ続けている。思い込みの濃度もそれ経由に近い。だらっと同じ平面での論しかありえないのか?!
 否!・・・地元べったりというか、子供のころから地元の外の各地を遊びまわって、いい年齢の若者の頃もそれなりに車を飛ばしながら広域の地元の面白いところ、様々な利用に適した土地土地に熟知しながら育って、大人の立場で地元を使うようになっても地元の性質を知ってそれを元に生業を成り立たせているタイプ諸氏がやはり大勢いるものだ。
 この人々ならば、土地ならではの自然現象を体験として指摘できる。一般論としての気象現象がそうだとしても、この土地では、ある季節の通常と異常のいくつかとその頻度の違いや起こりやすい土地とそうでない所とか、中にはそれが土地の自然条件だったり、だれかの関与だったりと意外な"真実"を知らせてくれることも十分に起こりうる。
 けれども、利害の間に入って、面倒くさがらずに、それぞれの話に耳を傾けて、聞置く側としての自らの誤解や勘違いやの介在の有無程度は確かめる忍耐を持って、微細についての無知ゆえの先走りなどに注意しながら、それぞれの意見を調整する役を中にはこなすやつらがいておかしくない。
 今どきの事例を持ち出してみる。
 USは広い。とにかく広い。
 都市区画はどこでも同じようでやはりUSはどれもでかいというか広い。
 だからちょっとした空地でマウンテンバイクなり曲芸系バイクなり、ボード遊びができる、ということの実態には相当な開きがあるはずなのだけど、ごっちゃに発想するから、列島で同じことをすると、他の沢山の遊びをする機会を犠牲にして、あることに提供するという形にし勝ちと素人老人の限られた観察からは察せられる。
 ヨーロッパと列島とでは似てそうでやはり異なる。人口密度が結構違う。
 だからラリーと言っても、列島で!ときっと驚かれる諸氏が多いと察する。
 列島は狭い土地利用の一つの歴史的"利用ケース"を提供してそうだ。
 町で音楽流し・・がやはり多分難しい。ごく狭いところに市街が誕生して育つけれど所せましと住居街が育つ。計画的に高層住宅化した区画を作れば作ったで、多分、聴衆の集まりにくいイベント広場にしがちなのでは・・(ここらは発想次第の要素もあり返って異論とか代案とかの持ち主が大勢いておかしくない)。
 もう少し長年月にわたる事例。
 ヒトは文字以前をものすごく長い期間持ってきた。
 だから百科事典的な知識と新著の多読と、各著作の参考文献の連関と、現時点での知見の遡及範囲とかについて詳しいだれかたちが、話して教えてくれる関係に居てくれるだれかたちにとっては、本で学ぶよりも生々しく、疑問に即答えてもらえ、現知見の限界と可能性の辺りについてという形でリアルな知識を動態として持てるから、半端に多読して、整理上手で飯を食っているどこかの土地柄の読書法を学んでしまった諸氏など足元にも及ばない博覧強記(はくらんきょうき)でしかもリベラルアーツな基礎を持った各専門に挑んでいるだれかたちが育ちやすい、と簡単に指摘できる。
 端折れば、即、遠い狩猟の目的地に行って、飢えることなく収穫したものを持ち帰るだれかたちが目の前にあふれている。たのもしいやつらが育ち、また育て、継承され続けている。男たちが農のなにがしをこなしつつ、女たちが川へ釣りに出かけて(1m級のビワコオオナマズとか)大物を収穫して持ち帰るということだっていつものことのはずだ(琵琶湖大鯰の実際の調理は知らないのですが、綺麗な水の所で釣ったナマズの調理が美味しいことは一般的な知見だった)。
 ヒトの文字認識に使う器官も含めて、諸々の器官を通じる事象把握の厳密さは、文字によるのと同等かそれ以上のはずだ。なぜ、それでは、そのやり取りを応用して、建築ほかの今同様のことをできないでいたのか?できていなかった?本当?と返しておきたい。
 ヒトの営みでは、色々が介在して、効率的な展開を邪魔させがちにしてきた。
 そこらが多分答えだ。
 文字と営業的な関心は並行してそうだ。文字についてはそこらが答えになるのでは、というのが今のところの素人の観測。
 ただし、土地柄によっては、発明~運用の過程を経た結果の文字をなんらかの理由から移入して使うようにもなっているので、入(はい)り口の動機となると様々が予想できる。
 ITが文字と紙の膨大すぎる費消の代案かも、と観測されたことがかつてあったけれど、それは書き文字前提の提案だったことがなんとなく察せられないか。
 営業利害だけが記録文字を必要とするわけではないその詳細を文字系扱いに熟達した諸氏が猶予ある長年月を使って再検証なりをこなしていただければありがたい。
 ヒトは長年月を信頼し合って営み得ていたし並行してインチキも相当に介在していたと想像くらいはできる。だからこそのうっかり厳罰して取り締まれるとか勘違いしても来た。
 そこをすり抜ける大悪人の方が成功するし、そこで捕まる素朴な人々は苦労したり人生を(厳罰ゆえに)中途退場してきた。
 だからこそ信頼のうっすらと実際的なネットワークが温存された状態の方がヒトの生々しさには相応(ふさわ)しそうだ((うっかり)だましちゃおうかなの揺れる心を基本に戻させる密かな圧として機能する)。

連載は続く~SF掌編『US映画・ドラマが多くを教え続けている』編


 映画、ドラマ部門の活躍から素人老人へとその一部は伝わって、多少くらいは学べているつもりの辺りから、もう少々。
 テレビ放映の再放送で度々見る機会が提供され続けている映画の"ボーン・シリーズ"は、かつて『陰謀のセオリー』('97)でも下敷きにされていた"殺人マシン"化したヒトを操るUS国家機関のあり方の一面をオープンに素材にしてくれている。
 USが担った現レジームでの超大国的あり方の実際の運営では、表立った他国への力による制圧のような介入のあり方は採用されない代わりに、UKの頭脳たちがどう教え、それをどう受け止め、更に自分たち流にしたのかの解明は今どきの若い研究者も含めた事情通諸氏に任せたいけれど、或る信念のもと相当に悪辣と客観視可能な方法で、他国への介入も織り交ぜた、様々を含めた、表向き民主主義っぽい作戦だったはずだ。
 ここらは子供向けドラマ、NHKでも時差僅少に放送していたアイ・カーリーだったかのエピソードを持ち出してその性質の一端を素人流に指摘させてもらった。
 マスメディアを発達させた諸国では、民主主義っぽく感じるあるあり方を共通に持ちうる。でも生活質のところまで細分化すると、民主主義ちっぽく感じる要素は土地柄によって相当に異なってしまいそうだ。
 だからUSが民主主義国として受けやすい諸国もあれば、うそっぽぉーーい!と頭から信じてくれない諸国も当然現時点地表面において簡単に生じてしまう。
 そこらは、表面上の宣伝合戦次元では、民主主義系とそうでない系のように流して、いつでもふつふつと湧き出てくる問題群に気付かれないようにし続けているのではなかろうか。でも超大国の責任において、映画とか芸術・芸能部門でのオープン化の試行錯誤は統制しないようにしてきている。ここらが、超大国になった時にこれからも有意義になる構えの一つと素人は見ている。それが民主主義というわけではないけれど、なにが起こって、それがどういう脈絡で生じるのかを権力の行使との関係で(部分的であっても)率直に表現されることを一応容認する働き掛けあいの気運をしょげさせないできている(と想起させる)。
 相当な間違いを犯すかもしれないし、そこらは隠さないけれど、表面上は国家機密として法治の下、隠せることは隠し続けるよ、という手法。国民国家運営と関わるからそこへの関与は秘密組織運営との絡みからも、法治の下対抗措置だって取られる。そこをクリアする知恵もの脈が関わっても、最終的には国家機密の限度みたいなのが作用する。
 超大国の工作は酷いことを相当に含む。担い手諸氏においては人生の重荷となりかねないけれど(映画『スパイゲーム』の元過激派女史の悲痛に近い悔恨事例、極度にバランスを失わせた男子の事例は『イコライザー2』)、超大国の位置保全と世界大での或る種の治安の状態を守る担い手であることを両義的に表明している。
 そういうやり方が超大国としてふさわしいかどうかは、素人老人からオルタナティヴあり、と言うだけは言っておきたい気がする。
 UKが肝心なことを伝ええたのかどうか。そしてUSは聞く耳を持ってそれを聞いていたのかどうか。
 戦争・戦争で代替えした時期の超大国USという問題を自国の首脳人脈は振り返れているのかどうか。
 列島でも高宗・武則天両氏が統治していたころの唐の対外観を相当に先入観をもって勝手に判断して半島の落ち着き方、列島での落ち着き方解釈をごくごく専門家諸氏でさえ知識としてまとめ損ねている時期を持っている。ついこの間までそうだった。
 それくらい多分、政治ということの把握は難しそうだ。だから他人を責めすぎることも誤りだ。
 殺人マシン化作戦は失敗に終わった。ヒトだったからだ、というのが映画のエピソード。
 気付いて、ボーンだけではなく、逆襲に出る。
 ダレス氏とか信念で、偏った秩序観を行使してしまった人脈が健在だった時期では、とにかく、ごくごく中枢の人脈を巻き込んでの工作がはびこってしまっていたようだ。だから未だに謎解き状態で放置されていることが多い。
 でも素人推理ではレーガン氏の頃から、金融系の極端な大金持ちを作れると推測可能になったころから、極端に支払い手段の額を持っていない政治家諸氏は遊ばれやすい立場へと追いやられている。
 投資資金を得られやすい株式ほかの金融市場なのか?素人が"?"を持ちたくなるくらい、そこが怪しくなってしまっている。
 銀行預金が投資に回ってその成果が利息となって、自分たちへめぐってくる、なんて幸せ、とかつては想像しやすかった。
 ところが、金利ゆえに時期時期に一定の利益を生む。経路上に投資して事業して、物やサービスの提供が介在してその利益がめぐりめぐって投資資金の原資の方へ循環してきてとかの話がなくても、額の行き来によって儲けが動いて、それが実際に支払い手段として使えてしまえる経路が育ってしかもそちらが無視しえない以上の規模に達すると、今日の多くの人々がそれに依存(つまりずるい奴らがやってのける共犯関係に誘いこむ手法にまんまと引っかかってしまった格好)するようになって、見て見ぬふりするしかないかもの面と、ドルほか通貨の充溢のバッファ役として不可欠な装置の面など素人ではこの程度しか指摘できないけれど、膨らし粉効果の罠にはまってその先がわかっているのに、巨富の安全圏はむしろ手放せなくなっているだろうし、一般にとっても様々に金利収入依存装置に乗っているから、経済の歯車の調整はかなりやりずらくしている。
 でも万が一の世界的合意のもと、調整してしまおう!が起こった時、自給率が物を言い出すから、列島のオルタナティヴも現状では実力不足といったところのはずだ。
 USの金利の動静が弱小国を更に痛めつけるという事態が起こってみれば、超大国は警察や軍隊だけが力強ければいいというものではないはずだ、ということに気付かされるけれど、これまで放置してきた分、しばらくはUSの身勝手に弱小国は付き合うほかない。
 戦争にあけくれた時期に出発したゆえか、なんなのか、超大国USの困った面もそれなりに露見しだしている今どき、ということも素人老人ゆえ指摘できそうに思える。
 トランプ氏も自律的な政治を含ませたろうけれど、列島で流れたトランプ像はペンス氏人脈の質と関わるものだった、ということがやっと最近になってわかるようになってもいる。共和党がペンス氏人脈によって相当に彩られたのが後半トランプ政権だった。大統領になるにあたっては、政治家諸氏が遊ばれやすいという条件を想定して、スタッフを事前に代わりの人材も含めたっぷり用意して挑む必要がありそうなことも、他国のことながら気付けた感じだ。
 遊ばれやすい政治家環境。
 そしてだれが主の下手人かをわかりにくくするための殺人マシン化作戦。
 超大国USは起こりうる事態を表向きは隠すけれど、芸能・芸術部門がオープンに素材にすることで超大国の位置を保持しようとしてきた。(想像して、理解して、苦渋の策だったのだから受け入れてもらいたい作戦)
 とことん表の役柄である各国の首脳。その意味で、八つ当たりにも遭遇しやすい。心身上はそれらに耐えうるからこその担い手諸氏だけど、物理的に押しつぶしにかかられた場合、それなりの防御が要る(ヒトの心身は相対的にひ弱な部類だ)。
 とはいえUSでならば、ばれないようにする作戦の内実を自らが数多く構想してきた関係からして、事例ごとに簡単に検索できるファイルであふれていると想像できそうだ。
 だから今回の事件でも、選挙の流れを放置すれば、大政党一党が独り勝ちする惰性が働いていた条件下での出来事に、冷や水をあびせる(暗い気持ちにさせる事件)出来事として発生。結果、独り勝ちの度合はかなり低下しているな、と状況を読む(ただし勝ちたい勝ちたいと成果とか点数について感じやすい世代が今どきの現役世代だから、暗い事件でも自分たちに都合よく働いたのかもと心を動かして暗黙の共犯関係に誘えると背後の力関係は目測している可能性も含むとUS系事例研究筋は推理しているはずだ)。
 その手のやり口のお決まりは、まず宣伝につかえる超大物がいるかどうかが一つだけど、それ以上に、相当な変わり者がいきり立っている状態かどうかとその持続性を適格に把握できることだったりする、と映画ほかが教えている。
 その自らが進んで悪さする気でいるやつに実際になにごとかを実践させる。その場をいかにお膳立てできるかどうか、が同じくらいの重みで工作される。
 お膳立てへの過程では、ドラマでもお馴染みの、警察だったら警察の人にもよるけれど、それ以上に、職務上の制約と可能性の中での選択判断のくせに熟知している連中が、工作に関わっていれば、偶然の連鎖がそうさせたかのような順路を用意できてしまう。だったらわからなくなってしまうのか?そこらはその過程の詳細をシナリオに起こして、シナリオ読みに慣れた人々に、だれか主犯かを先入観なしに読んでもらうことで、簡単に判明する。セリフや出来事の連鎖の中で、それぞれのキャラの失敗が重層しつつ、ないし、故意に失敗を犯す下手すればばれてそこから犯行人脈を探られかねない作戦さえ採用せざるを得ない場合だってありうるけれど、そういう危ない要素はUSではきっと採用しないできたのではないか。
 登場人物たちを集めただけではただの偶然の積み重ねにしか見えない。
 ちょっとへまして故意に動く人物も含む場合は、意外に実態究明は早くできそうだ。
 ただ具体的にその場を構成した具体性とそれに関わった指揮命令系の人物諸氏はすべて外すことはできない。そこから関係性のネットワーク探索は可能になる。ちょっとしたきっかけでその人物を選んだ時、そのちょっとしたきっかけはどういう経緯から生じているか、関係人物たちは以上の詳細な経路探索が必須の事象だ。
 極端に危ない状態の変わり者を発見しやすい関係者は?
 超表舞台で活躍している宣伝に使える人物のうちのだれを選んだのか。
 現場のカメラ群はそうとうな事実を映している。中には、二発目の前にアングルをわざと下げて何も映らないようにした局が二つは知られている。
 マスメディアの当日、翌日の放送で、一応被害人物の仕事ぶりをあつかいつつ、警護の実際にも言及する貴重な映像も流している。通常から警護の基本は繰り返し心身化できる訓練が成されている。この指摘は貴重だ。
 警護の事後的動きをかなり俯瞰的な位置からカメラに収めた映像も紹介された。ネットの時代だから、カット抜きの通しで、全体の流れを見ることができているかもしれないけれど、そういう映像は素人老人ゆえ見ていない現状。
 ばれないけれど、犯行は成就させる、という至上命題のための工作には、とにかくヒトの落ち度が累積して、やりやすい経路を用意してしまえることが一番簡単そうだけど、ばれることにも通じやすそうに素人からは想像してしまう。が、今回の事件ではそういう手法だ。ヒトの目は動きに鋭い。想定的な動きの全体像を瞬時に追えて安全運転につなげている。通常の運転でもそのくらいは働かせているから、警護の場での視線配りでの動態反応系は相当なものと想像できる。
 だから現場担当者間において、ひょっとして不適格なだれかたちが人選されていたという偶然のケースだったかどうかの検証も必要そうだ。するとその先にどういう"偶然"がその人選へと至らせたのか、という問いを生める。
 ドラマじゃないがどんどん事態の"真実"へと近づかせる。
 ひどすぎる警護への諸外国の社交性は、部分的ミスに気付けるケースならそこをもう少しなんとかしていれば防げたのかも程度の指摘もしてくれそうだけど、言いようがないずさんなケースなことを、テレビで解説してくれていた警護のプロ諸氏すらが指摘されていたが、それら指摘がその代わりになった感じだ。

 カッカしがちにさせているとしたら、それは人生にとってももったいない。
 そこでコッポラ監督の『カンバセーション 盗聴』('74)
を何度目かになるけれど紹介しておきたい。事態は入り組む。瞬間湯沸かし系は間違いなくいつでも間違いを犯しがちにする。
 素人老人故、昨日、何度も再放送してくれている映画『栄光のル・マン』('71)を通して見てしまった。
 中で(結構多用される実際のレースシーン以外では)いつもそこに関心を持ってしまうのですが、前年のレースで夫を亡くした女性とポルシェ20番のエースドライバーとがひっそり会話している。
 自分は他の分野では木偶の棒だけど、ことレースカーの運転では腕前を発揮できる・・・だからこれこそ人生なんだよ、自分にとっては・・めいたことを女になげかける。女も複雑だけど聞き入れた感じ。
 ここらは世の、ろくに本をよまなくても優秀でトップ大学卒とか大学院卒とかを簡単に経歴にしているだけではなくその後も世の中の中枢の動静に関与する立場で人生を送っているような優等生諸氏を、沢山参考書や本を読んでやっと試験の成績がややトップに届くか程度に励んで、そこそこの専門分野に進んで人生を送っている諸氏は、うらやましいとか内心思って、中には、だから渡来人は嫌いさとか見当違いの認識を勘違いの重層で持っていたりはしないだろうか。そういう「競り合い」の場とは無縁な素人老人は、だけどポルシェ20番のエースドライバーの気持ちのほんの一端くらいは、なんとなく・・・だけど通じてくるような気にもさせる、静かなシーンだ。
 ちゃっかりのシーンでその人物はこの映画をしめくくるけれど、決して一番でゴールしたわけではない。
 実はお互いを尊敬しあえているライバル(フェラーリを運転している)と競って、今回はその前を走って終わった。
 心の底から、危険な仕事にたずさわっていることを共有しあえて、その上での観念上の交流を成している。
 各シーンの取り込み方とか、編集の仕方とかで代案がある新たな作りて諸氏ならば、なにがそういう内実を持ち込める素材となると考えているかにも、老人ゆえ関心が向く。

連載は続く~SF掌編『数えきれないけれど生々しく利害は、たゆたう』編


 世の中の成り立ちが歴史性を積み重ねていくというこれまでの趨勢を考慮できるならば、それぞれに今そうありえている脈絡をめぐる確実さに執着させるなんらかを想定することを無理だと決めつけることは困難だ。
 ただし、今の時点で、自分たちの集団性を温存する一方で、他からの介入を拒むにしても、相互において暴力の使用ほかが法治の工夫内での出来事として制御は生じる。
 歴史性の中には土地の占有をめぐる争いごとも含まれる。
 とりあえず今できている集団性・生活のこれまでとこれからへ、土地を譲ってくれほかの関与が生じるタイプの出来事が起こったりすれば、、ないし自らが人口規模への関与に齟齬を生じて人口増などを原因として他の営みへ土地をゆずってくれないかとかの余分を生じさせるような事態を招いたりすれば、他からすれば拡張の意志とも見做されがちにする。実際にはより事の性質について精緻に調べ上げての判断が下されることになりそうだ。
 大幅に端折ってしまうけれど、世の中のいつでもだけど今という時点をとれば、利害が渦巻いているのが通常の姿と見做せる。そのための法治発想ではなかったか、と思い込めるなら、それも勘違いの一つだと素人なら指摘してみたくなる。
 むしろ利害が渦巻いているようなあり方で法治の肌理(きめ)を発揮する方向性を採用しようものなら収まることも収まりにくくさせそうだ。
 ヒトの場合、そこに広く言われる政治発想を持ち込んだ。
 そういう利害が沸騰しかねない場に民主主義などもちこんだら、質を取ろうとするはずだから、いくら時間があっても足りない状態をだれもが想起して、民主主義なって使い物にならないと言い合うばにさせかねない。むしろ、密かに働くバイアス役としての民主主義理念という使い方で我慢した方がそれぞれのためになりそうだ。
 そこで政治発送をヒトの知恵は持ち込んでみた。でも、各土地柄に独特の試行錯誤がこれもまた渦巻いている感じだ。
 戦争っぽい争いごとに巻き込まれやすい土地柄の生々しい年月の時点だとそれなりの、政治の工夫に持ち込まれがちにする。妙に偏った性差を踏まえた分業のような配置も持ち込まれやすい。
 さんざん男を持ち上げてきた趨勢に更に性別での差別を止めようと急ごしらえした土地柄だと、性別関係なしに攻撃的で世話しない主要部分を成させやすくしてしまうみたいだ。
 またもう少し俯瞰して見てみようとすると、大国役をこなしてくれと頼まれた土地柄の主だった担い手諸氏においては、権威という磁力をめぐって色々思惑をたくましくしてしまうように伺える。子供っぽい発想に陥りさせやすくする感じだ。大人げない感じとも言い換えられる。意見の内容はどうでもいい。とにかく自分たちの意見が通っているあり様表示にこだわる。大国以外の意見が優れているから採用されるという手の表現は困ったこととして受け止められる。スポーツなどでのルール変更などがシンプルに例示できる。
 そこでの実質は、いいアイデアを採用するバイアスはどこかへ吹き飛んで、アイデアが出てこないだれかたちの案へとにかく従っている格好を表現にしてくれ、という事態の持続性になる。
 揚げ足取りの乱発も多分辞さない大人げないわが身を見てに見ぬふりし続けて、世の中の営みにとってはつらい状態が続きやすい。
 良いアイデアは自分たちが演出するイベントに限るとかも事例にできそうだ。
 ヒトはなぜかこういう手に負えない事態を自ら招くようなことをしながら政治発想はなんとか使いこなしつつ安全圏を整えてやりくりの広がりを確保してきた。
 ではその政治発想はどう働いているのか、と中身に興味が行くはずだ。
 たとえばUSなら、と(超)大国の事例を持ち出す。
 大統領制だ。
 最終的に2人の候補に絞られて、競り合う。多数を得た片方を勝者として、任期を委ねる。
 そこではUSなりの渦巻く利害をとにかく二人の人物・応援勢力に分割するように仕向けている。
 代表は支持する人々の利害の代表になる仕組みだ。
 ということは、利害の錯綜とはいえ、負けた側が持ち出したくてたまらない利害内容については、優先順を後退させるように作用もさせる。
 膨大で解決不能かに見えた利害のせめぎあいを大統領選挙は熱気とともに解決させて見せたかのような歴史的一時期を各地のその試行錯誤を経たところでは経験し続ける。
 煮詰まってくると、傾向がそれぞれに偏って固定的にあつかわれるようになる。マスメディアを使いこなしているつもりが、その内部的利害も関わって安直な対立軸としての渦巻く利害の整理が成される趨勢も生じさせて、国民国家構成員諸氏にとっては思わぬ違い対立的な隠れた力の向きを得させられていたことになる。
 そういう土地柄もあれば、一党独裁に近いのだけど、やとうそれぞれが渦巻く利害をめぐってその吸い上げ役をこなして、そのある時点での分布図を示す形での選挙結果となる土地柄も育てている。
 予算ほかで巨額を塩梅する一党がより多くの利害の引き受けてとして機能して、その他の弱小政党が、他の言うに言えない要望の類まで取り込んで選挙を競う中で、一応人々は溜飲を下げる。
 そして、肌理ということでは、無理な要求でないうちの横並びの中で忘れ去られかねない要望のいつくかは、政治発想においてたとえ野党系が取り込んだものであっても与党系が救い上げたりする。
 つまり、自分たちか他のだれかたちが選んで属する国民国家の代表として、表役ゆえの軋轢の前面にいた人物諸氏は大勢といっても知れているから、生存中はなんらか不可抗力での八つ当たり現象とかが起こっても何事もなかったかのおうに工夫することは、近現代の各地の国民国家において試行されている。
 実際に起こってしまって、言論への不当な攻撃だ、とか慶弔の決まり文句の一つのように乱発することは、事態の改善にこれっぽちも役立てることはできそうにないと素人からは思える。
 ケネディ氏・レーガン氏をめぐる膨大すぎる日程のたったの一瞬において、極端に手を抜くようなことがあったら、そこはテレビや映画のドラマでなくても、徹底捜査だし調査しまくることが要る。モース刑事だったら見た目とは違って執拗に地道に調べつくす。ルーサー刑事の場合、様々に自分が時間をかけて育てた情報源に当たって、犯行ネットワークを絞り込んでいく。関与の度合から一気に関係者をとらえ、主なる人物をも逃さない。
 警備のずさんをちっともふれずに慶弔の丁寧な扱いが海外ニュースで充満していることの不自然を感じない列島在住の諸氏は多分いらっしゃらないと察する。
 政治発想は渦巻く利害を調整できて、その平穏下、人々の活動を励ます。
 ちゃっかり税収を喜ぶ。
 つまり、自分では無理かもの利害に喜んで近づけるタイプの様々が世の中にはいるし、その中に、政治に向く、個人の利害をめぐって熱くなることで精一杯、つい怒ったり怒鳴ったりする政治に不向きなタイプたちとは対極のだれかたちもいらっしゃるわけだ。それでも守備範囲が異なってしまうし、それが補い合って、大勢の支持を得る。
 その時にUS式大統領選だと、追々、均されて二大政党の意味が薄められてしまうこともあれば、逆に二大利害代表勢力のように人々を知らず知らず分断させてしまう逆現象を誘うことも起こる。
 ヒトの間違いやすさまで否定しないタイプで、一党独裁的な政党政治を実用にすると、野党も巨大政党を強いて目指さず、時々の利害の吸い上げ役を買って出て、人々の心は一応の落ち着きを得る、というやり方も可能だ。
 敵を作ってやっつけて勝者に支持を、なんていう発想だと、自分を必要以上に正義とか正しさの頂点に誘って、世の中に向けて自分たちの言う通りにしなさいという姿勢を正せなくさせがちだ。結局情報統制に走らせやすい。どこだってその情報操作は権力の甘い汁として行使させがちじゃないの?と辛口な諸氏から即反論される辺りだ。
 政治発想の副産物には、政治宣伝要素をその一つとして持ち出せる。
 宣伝につかえるくらいの顔に育った人物たちは、通常は平穏に派手に個人情報を使いまわされる程度でおさまるけれど、中には、レーガン氏の銃撃事件のような軽く扱われる人物ということも起こさせる。だから人物に危ない連中が下す啓重に煩わされることなく、疑惑事件にも沢山かかわって危ない人物とみなしたくなるとしても、同じように(巨額を操作できる勢力にとっての)宣伝材料にされて危険に遭遇しやすい高位高官立場を経験した人々への警護は怠れないのが今のところのヒトの育ち具合と素人老人は見る。
 法治ゆえにさんざん手続きを経て後、それでもしかたない状態で裁かれる場合以外で、他人、ヒトそれぞれの生命を軽んじるようなことは避けうるお互いの働き掛けあいが成されていることが、弱者諸氏にとっても支えとなりうると素人老人の余計なお世話はことばにしたがっている。
 大抵の集団の主だった担い手諸氏は頑固な綿を持つとはいえ、仲間の生活持続を可能にする手だてをいつでも考えていると想像する。
 だからお互いの集団の営みに干渉せず、だけど安全圏をたもつことには協力して、なんとかいつもの平穏を保てるようにしていこうじゃないかと考えている諸氏が、つばの泡を飛ばしあって激論に誘いこむようなことでの政治的解決ではなく、利害調整の巧みからいつでもお互い様でやりくりできている状態をなんとか長年月継続できるようにする勢力分布を込みの工夫、たとえばここで取り上げた政治発想などがヒトによって駆使されてきたということを思い浮かべてみたい。

連載は続く~SF掌編『進行形なので、素人の外しであってもらいたいけれど・・』編


 テレビや映画の捜査ものからなんらか学べてるかも程度おドがつく素人の見解に過ぎないことをお断りした上で、現進行形の事態についてふれておきたい。

 とりあえず、2つのこと。
 一つは、弁証法役割分担の内側で口角泡を飛ばす激論も含む演じあいをなさっている諸氏には、勘違いの八つ当たりにも歴史的には遭遇することがある危険を伴うことは、事情通諸氏において熟知されているはずだ、という素人観測。
 もう一つは、情報取得やその解釈やで偏っていることを感知できていない状態で不平不満を沸き立たせてしまうと、更にあおるとか、そそのかすとか、ひたひたと先鋭化させられるとか、それはそれはの洗脳手法が近づいてきて、手玉にとられやすい。誘導されやすい、ということが、地域社会の温情から外れたハグレザル的生をかこつ諸氏が出現しやすい近現代試行錯誤の世の中では、昔のような密着して面倒を見て長い目で見て、人生に関与するタイプのだれかを想定しなくても済む、不満・不平・不安材料の解きほぐし役が散らばって必要で、啓蒙機能を担うマスメディアやオルタナティヴ発信系にも不満を募らせるだけの内容であるよりも、情報の込み入り方が多くのだれかたちにとって整理しやすい工夫された情報提供役をこなせることが近現代故に必要だったりする。

 以上の2つをとりあえず押さえてもらって、NHKBSの12時半以降1時過ぎくらいの内容から、捜査物を見て学べている度合、ないし学べる素材となるのかどうか、の辺りを素人による事態観測として提示してみて、そこらから、判断なりしていただければ。

 超お馴染みモース刑事で女性の監察医が登場する。
 その女史は出て早速おっしゃった。銃で撃たれるとヒトはのたうち回るよりは、その場に瞬間的にストンと崩れる。だからどちらから撃たれたかも予想できたりする、とのこと。
 そして流石にその瞬間を撮ったはずの演説を聞いていた人の中のどたなかの携帯の映像は採用されていない。崩れることのない一発目の銃撃の瞬間のみ紹介されていた。
 NHK及川記者は演説者のすぐ脇の位置からカメラ撮影している。
 一発目の妙に大きな音がして、カメラアングルだけ下を向いた。路面近くしか画面には入らなくなった。連打ではなく、ちょっと間があって、二発目の妙に大きな音が入っても同様。脇に居て、カメラアングルは下の状態だった。つまり、あてずっぽうでもいいから、肝心の方向を想像しながらカメラを向けて撮り続け、自分の身を守るという両方が出来ていないようだった。
 テレビ映像上は連続的に実行の犯人とされた人物を確保する二人の男と脇のホルダーに手をかけながら周囲を睨み回す女の3人をとらえていた。10mくらいは離れてそうな路面に手製銃と指摘された物の一部らしきものが置かれている。
 重要人物に張り付く警備系の人々は、列島のテレビ放送では何度も再放送されているイーストウッド氏が出ている大統領警護の失敗談と成功談が入った映画によって、どれほどの密度が機能しているか程度は想像できるようになっている。
 その映画でも即席に作れる手製銃が使われた。それができるためには相当な前準備が必要だった。しかも近づけるための手筈が、協力者がいない場合、更に事前の下調べとか時間が必要だった。
 昨晩、急遽、そこでの演説が決まったそうだ。それにあわせて観客を動員したはずだ。
 だから計画抜きにありえない出来事の関係者を絞り込むための材料は豊富と素人からは読める。話を聞ける立場の諸氏の力量しだいだ。NHK の記者陣は初動捜査に当たる初期の取材の重要度くらいは熟知されているはずなので、テレビで言及されていない様々が取材されていたとは思うけれど、今どきだったら、取材側がどんどん、怪しい事件の場合先手を打ってオープンにしておいたほうが、後々、隠すに隠せなくなって、事態の全体像を描きやすくすると素人は観測する。
 色々出来すぎ、お膳立て過剰なところが、それ抜きはありえな事件とも取れ、偶然っぽい積み重ねこそが計画のうちのはずだ、くらいまでは素人でも読める。
 つけこまれやすいだれかにささやき作戦で先鋭化させる背後。
 背後は、弁証法役割分担で色々問題発言もしてきた人物であることを承知の上で、標的に選んだ。だから、思想とか政治とかに見せかけようとしても失敗に終わるだろうし、下手人が思い付きでというのも成り立ちようがない、ということで、世界事象に活躍するイベント屋系の一部が担当してそうだ。
 少なくとも警護・警察・自民党奈良・NHK・救急に関わった医療+消防の中の既知のCIA関係者からの情報集めは欠かせない。直接関わったことではない、と判明したら、イベント屋系の列島班の今回についての猛省を求められるくらいの事件追及を待ちたい。
 弁証法役割分担に批判的な素人老人は、そのどこかが特に悪いというのではなくて、若者たちにはわかりにくくなるし、弁証法のその先がその目指す結果に結びつきにくいという辺りを問題視していきた。
 オルタナティヴな論者の中にもそこらの複雑な絡みを知っていないとは思わないけれど、知ってないかのように一方的に責め立てる論で良しとするタイプのネット発信も目立つ。それだと、USの連邦の政治の怪奇がそのまま怪奇にしか見えなくなりかねない。
 どこでもだけど、地元に張り付けば、相当にせこい利害で怒鳴りあったりしてしまいがちだ。
 連邦規模でならば、或る程度の勢力分けが成り立って、その代表として、大統領候補の競い合いを演出可能になる。
 たとえばトランプ氏については、大統領後の報道で偏った感じになってそうだけど、既知の通りの要点も押さえて置ける。ただし、前々回の大統領選以後、アンチ中国派(といっても列島オルタナティヴネット発信においては主にCIA貯法部門の出先として紹介されてきた。ただそれをわざと無視して、トランプ氏の応援団だし、貴重な情報源だと盛んに引用し続けてきたわけで、英語ほか外国語発信を生に読解できる諸氏においては邪魔にならないけれど、翻訳後の話を流し読みする諸氏においてはそれが情報源になって勘違いを上塗りしてしまう。今どきのネット自動翻訳環境は数年前とは雲泥の差があり、ちょっと面倒くさがらなければ、自前でかなりの事情通にはなりうる)勢力を標榜する人々とトランプ氏が密接という部分がやたらと両方から出てしまって、大統領選を選んだUSの知恵の部分は忘れ去られたかのような状態だ。
 弁証法役割分担上、選挙民の声を代弁するという一要素からして、支持層の偏り具合は当然、本人の意志とは別に政治的力を帯びさせる。
 あたかも本人の発言かのように振舞うようなことも起こる。
 で警護や世論の出来方の過程に油断が介在すると、イベント屋系の良からぬ介入ということも、ごく稀に起こる。起こり安くする条件つくりの方にむしろ人脈が加担してしまう場合、それを予め感知するには、その他の、怪しい工作を常日頃のことにしていない諸氏の、かつての列島ではありえた巷の出すぎたりはしないけれど、鋭く観察は外さない人々のような、隙のなさを事あるごとに発揮できるよう、事がない場合でも、ストレスにならない自分流の普段の振舞いとして出来てしまえる、ある立場たち、ということが、安全を保つ一材料になる。いつでもなにごともなかったかのように過ぎ去るのだけど、大人たちが一時も子供たちの安全を図るように目を離さない達人技をやってのけてしまうように、できないことではなく、普通に肩こりなしに、お互いを不信に巻き込むことなく可能なことだ。
 そして、警護のプロフェッショナル諸氏なら、話が硬くなりすぎないための冗談半分だけど、寺脇氏に観察眼のためのちょこっとヒントを授けてもらうのも一案かも、など老人なので、お節介ぽくなるけれど、指摘しておきたい。
 時代状況の移ろいの中、諜報脈の工作部門はそれでもって給料を得ている部門だ、という海外事情にも、マスメディアは、ドラマだけではなく、ニュースでも啓蒙を怠らないでもらいたい。

連載は続く~SF掌編『暑い日は部屋に籠ってゲームでもしてりゃいいさ、なんていう話』編


 大きな歴史の流れを出来れば大筋もれなく知って、土地柄なりの特性とかを均しながら当面必要かもと思える要点を経年的にまとめて、知っておくという作業が成り立つようなら、素人の大雑把だし部分的な指摘でも、少しくらいの関心喚起くらいにはなってくれるのかも、とか勝手な想像から、前回は補足を試みた。

 で、もう少し個別具体的な出来事ということで、ゲームなど取り上げてみたい。
 以前、1970年代から80年代にかけてのプログラミングとゲームの展開史のようにして、ザ・コックピットを引用した。
 それは旅客航空機のコックピットの操作パネルやレバー、スイッチ類の一部を介して、航空機がいかなる挙動をとるかということのシミュレーションだった
 IBM-DOSMS-DOSが普及するようになって、しかもその(ソフトやハードの)改良が続いて、ザ・コックピットの一部性を克服した、ジャンボ機のコックピット操作パネルの多くをシミュレーションに組み込んだ747-400 precision simulator がドイツ系のプログラム、ゲームとして出てくる(1990年代後半期から2000年頃)。
 x68kmsx版のみしか動作中のことは確認できてないのですが、既に音声による操作中の部分的描写も出来ていた。
 それがDOS版になって更に、再現性を高めて、登場。
 だから列島育ちたちの中からザ・コックピットの刺激を得て、それを応用してという流れはどういうわけか誕生しなかったみたいだ。
 同じころにカーレースのシミュレーション系ゲームの育っていて、papyrus 社のが有名だ。実はその初期のころのことを後から知って、その後様々な活動を知ることができた。
 きっかけを与えてくれたのは、オランダ系の racer というフリーに使える、windows でも linux でも遊べる運転シミュレーションゲームだった。プログラムした作者氏が熱心に racer プログラムについてドキュメントを整理されていて、今でもそれは読めるようになっているのでは。racer で検索してみてください。
 その解説ついでに、ご自身の関心を誘った運転シム系ゲームとして、indycar racing の2つ や nascar racing の一連のシリーズ、そして grandprix legend と grandprix 2 などが紹介されていた。
 それを知った時点では、PIII系のマシンを元にしてlinux の普通使いがどう可能かなど試していた頃で、linux ででも手軽に運転シムを遊べるということで、ソースも提供はされていたのだけどそこまでは手を出さず、遊ぶ方で試すような接し方だった。
 たまに使う windows の状態だったので、今から思えば、もう少し試しておくべきだったとは振り返れるけれど、それでも、色々なツールを試しつつの、+して遊ぶという形で、紹介のゲームのデモ版から入って、いじるようにしていた。
 そんなこんなで、US 系のpapyrus 社の運転シムゲームの作り方には関心させられていた。
 列島版のゲームは、ゲームの場を無理強いするタイプだ。とにかく勝手にゲームの場を飛び回れない。ゲームを勝ち抜いて、その先のステージを限定的に味わい。最後のステージにたどりつきなさいタイプが目立つ。
 ところが、papyrus 社版はそうではなかった。先に linux 版の racer を使っていたのが印象に影響した可能性大。
 racer は、或る程度いじくりまわせる。レーストラックも自前可能だし、改良も簡単にできるような変換のためのプログラムが付いている。それで完璧に改良できなくても作者氏の解説を読んで、トラックの仕組みとかを知ることで、自前の改良が可能にさえなった。
 そういう使い方を経ての windows 版での紹介のゲーム群への接近だったわけだ。
 だから papyrus 社版の運転シムの時間制限の持たせ方とか、仮想サーキット空間の感じ取らせ方など、或る種の自由度を味わえた。しかも、操作上の手順もそれに沿うようにシンプルだった。付加機能はもちろんついている。ヨーロッパ系の grandprix2 はそうではなかった。やや列島版のゲーム発想に近いのを感じさせた。走行のシムを楽しむその楽しみやすさということへの接近しやすさよりは、ゲーム進行の手順を踏むことを強いられるタイプだ。
 で、興味深いのは、それぞれのその後ということになる。
 多くが、改良して遊ぶコミュニティをネット上に作り上げている。それはそれはの世界で、生半可な素人には出来そうにない改良を可能にしている。
 その典型が grandprix legend で、見映えもだけど操作性も凄い変化を生んでいる。
 その点、操作手順の基本構成の制約ゆえ grandprix 2 はそこまでの改良の方向はとらず、既存の条件に乗せて、付加的な道具類を積み重ねていくような発展の仕方だ。
 上述の 747-400 precision simulator (以下 ps1)も、また特殊な展開をしている感じだ。
 そこらの参考にできるのが、sublogic 社の flight assignment A.T.P.から始まるシリーズの展開だ。
 やがてイタリアやオーストリアの(個人?)会社が開発を担うようにして発展する。
 がその後の姿に相当な違いを生じさせている。
 A.T.P. は、ネットで気にすることなく使える形でも販売の形でも出回っている。
 けれども、LAGO社版、NOMISSOFT社版のその後のシリーズは、著作権が関係していると想像するけれど、そういうネット上での公開はない。無いといっても、一部の著作権と関わらない他は公開、のような第二世代の A.T.P. (airline simulator 97)を今でもひょっとしたらネット上に見つけることは簡単かもしれない。
 けれども、その権利関係のUS分がないのかもしれない、airline simulator 2 となると、これまでは見つけることはありえないほどだった。
 それくらい厳密な管理の下に置かれていたみたいだ。
 ただNOMISSOFT版の作者氏の新しめの発言では、自分にとっての商品価値は相当に少なくなっていて、それにご自身がネット上に散らかっているのを見たりもしているともされている。
 実際に、vetusware.com のゲームのページを探すと、それをごく最近において、見つけることができるようになった。
 ただ作者のページに、今でも有料販売の欄を持たれてもいるし、先の発言には著作権を放棄したようなことも触れられていないので、試用くらいにしておくことが礼儀上要りそうだ。
 ただ、商用のゲームにも色々あって、コミュニティができてそこでの改良が完成品に近づけさせるタイプというのが結構あったりする。
 試用で出してくれるのならこれで十分の質のもあれば、すでに(誰もが安心して手軽に使えるタイプとしての)商用水準を達成している質のもあったりで、色々だ。
 最適な状態で使うには相当な知識が要って、しかもマシンも限られてくるというようなソフトの場合は、歓迎するコミュニティ向けにはいいけれど、そのコミュニティの力でもって育てて、その可能性の先を達成したところで、商用にするか、このままコミュニティで育てるタイプでいくかとかが図られるのではなかろうか、と思える。
 ps1 は10版になって恐らくコミュニティも育つだけでなく内容も充実してそうだ。
 初期の頃のps1系は、大いに盛り上がったコミュニティがまさに育てているといった感じの完成度のように感じる。ネットに触れれば即わかることではあるけれど、表には出てこないけれど、とてつもなくプログラミングとかデザインの力量を持って限られた分野に精通した諸氏が豊富に散らばっている。その人々の関心を誘えると、途端に、個人ではありえなかった応用面でのプログラムの育ちが可能になってしまう。肝心のところに精通した作者に委ねつつ、サポートして、ずっと凄いのを作らせてしまう。
 A.T.P. 系のシリーズでは、地表面飛行を音声誘導のリアルなのを取り込みつつ発展させてしまえるはずだの構想を底流にして出発してそうに思えるが、本作者がMSFSへ流れ、付加プログラムでのその発展を可能にするフライトシム系のようなしくみにしているため、A.T.P. 系がそれ自体として可能にしてしまう音声誘導の旅客飛行シミュレーションのシステム性、今日の飛行システムをシミュレーションに乗せてしまう世界を DOS プログラムでもできたはずが、中途のままにしてしまった感じの印象が濃い。
 もちろん、今どきはマシン性能の凄いのを操って、ネットで結んで、お互いが管制官になったりパイロットになったりなど分業までこなして世界飛行を堪能できるくらいだから、DOS の軽いプログラムででもできたかもの話は、時代錯誤のような印象を与えかねない。
 ただ、列島やヨーロッパ発想とUS発想のゲームプログラムについての違いとかを少しでも感じ取ってもらえるならありがたい。
 PCをとりまくソフト・ハードの世界を育ててきた自負なのかなんなのか、印象としての大判振る舞いではない観点からそれぞれの違いをあぶりだせることは、集団作りに関わる重要な観点を提供もしてくれそうに思える。
 USの場合、民間任せの恰好が採用されているように印象を持つ。
 その民間系がプログラム自体からは儲けようとしないで、財団とか寄付とかでの金融世界での収益基盤で成り立ってそうで、金融世界の限界とか、改良の必要性の前に、それに依存している大きな世界(列島でもそれから収益を上げようとしてきた各組織の広がりを想像できる)のありそうなことからして、現実改良の難しさ、コミュニケーションの積み上げの必要性など、時間のかかることをちらつかせる。
 列島系、ヨーロッパ系はそういう脈絡に乗ることが下手なのか、そこを避けてきたのか著作権経由の過去の資産として手放さない方策を採用している感じだし、現役版の作らい方はきっと従来の限定性をずっと組み込む作り方の癖を持ち続けてそうな気がする。ここらは最新のゲームには疎すぎて、空想も空想の話しか出来ないのですが。
 とりあえずタダで手に入れて個人の範囲で使いまわすのは勝手だけど更に勝手に商業利用したら、それこそ法治のもとそれなりのペナルティは覚悟してねを暗黙に行使するUSタイプと、ごくごく私用することも著作権の建前から困るんだよねで、通そうとして、旧資産でもあり、知的、技芸的遺産とも言いうる過去のプログラムを流通させないだけでなく死蔵することを選ぶ財への発想タイプとの比較について、もう少し適切なことばを想起される諸氏がおられるなら是非ネットで公開してください。


 早速通俗川柳一つ

 暑さを避けて水に潜る キラキラユラユラ 水は千変万化して 老人には堪(こた)えるかも