連載は続く~SF掌編『今は昔の物語り』編


 今は昔・・・巷とはいえ、そっ、巷は普段着の人々の利害を渦巻きがちにしながらも、落としどころくらいは探りあえる智慧を育てあってもいた。
 そうはいっても・・・時には乱闘交じりのちょっとした騒動も起こす。
 てなわけで・・・どうしたって仕切り役は要った。
 仕切れるには一応、構成メンバーの多くの承認のもとなんらか権威の働きが作用しているような場を演出しているものだ。
 だから過激に、それでも相手の言い分を聞くわけにはいかない!と権威筋の助言を突っぱねる奴だって現れる。
 すると顔なじみの力自慢が現れて、そこまで理解してくれているのだから、納め時に気付くことも大事じゃないの?と投げかけたり、同じく顔なじみで幼馴染のだれかがやさしく、いつまで争っていてもきりがないし・・・とか説得・助言して、そのうち、その怒りは時間経過の効能もあってひとまず、落ち着く。
 だから権威の持たせ方の工夫も巷の秩序にとってはそれなりに一目置かれるしくみとみなされる。
 軽く見られてと本人は受けとめてしまいがちと察するけれど、何かと煩(うるさ)く助言ほかを投げかけられて、うざったく日々を送るようなどなたかにとっても、軽くよりは重く見られた方が何かと便利かも、と思わせる経験の方が多い諸氏にとっては、そういう他人からも見做され方でいたいなと希望を持続させる。
 そんな巷へ、新知見を整頓の良い状態で身に着けた渡来系がやってきて定住する。
 しぐさも人々の中でもまれてそれなりに(想定的には)整然としていてはっとさせられる感じだ。
 だから異性にも持てて、そこら中の渡来系には、そこら中にその子供たちがいる。
 そして大いに稼いでいる。
 新知見が幸いして、どうやらお役所との関係も良好らしい。
 地元で長年月くらしてきて生業を継承していく上ではだれにも引けをとらいない自信はあっても、権威の方はどうも揺らぎ勝ちと感じ続ける。
 でつい、渡来系は困る連中だと決めつけたくなっている。
 当時は、未だ文書処理の膨大量は生じる以前だから、官僚機構の構成人数も高(たか)が知れている。
 ということで、地元と言えるくらい代々・長年月そこに暮らしてきて、自然現象、人々の性質の様々について熟知しているようなかつて渡来して来た人々の知見の状態と、様々な知的な交流も得やすく、更に、その運用の具体例まで身に着けたような、最近の渡来系の人々の知見の状態がすれ違いのような事態を生じて、お互いの育て、育ちの刺激のように知見を交流しあえたりの機会を中々面子も邪魔して可能にする方向へは進みにくくしている。だから傍目にはそれだけの刺激的な状況なのに、停滞しているかのように見えてしまう。
 もし、立脚点が官僚機構構成員に相応(ふさわ)しく、特定の観点に立つよりは、或る種の合理性の下、せめて両者の良いとこ取りなど工夫する役をこなせれば、それなりの実際的時間内での改良なり保全なりが可能になりそうだ。
 ぐっと今どきに置き換えると、位置関係は少し変わってしまいそうだけど、エネルギー利用とか電子ネットワーク利用とかについては、地元だろうが、新住民だろうが、大抵のことは最新知識として、お互い知っていて、多くのことばも共有しやすいはず。
 そこら辺は、官僚組織の構成員諸氏においても同様。
 だけど、地元利害に執着しない分、官僚組織構成員諸氏は、身軽に現地改良を淡々とこなしてしまうのではないか。
 地元住民の先住民系と新住民系は、そこでこれからもずっと暮らしていく利害をつきつめれば言葉にし始められる。
 けれども、現代社会はマスメディア経由の、ということは官僚層の発想に近く、地元密着の相当にディープな物やサービスや自然現象やの関係性については、こだわれる要点を欠いてしまうタイプの知見で頭はいつも更新させ続けている。思い込みの濃度もそれ経由に近い。だらっと同じ平面での論しかありえないのか?!
 否!・・・地元べったりというか、子供のころから地元の外の各地を遊びまわって、いい年齢の若者の頃もそれなりに車を飛ばしながら広域の地元の面白いところ、様々な利用に適した土地土地に熟知しながら育って、大人の立場で地元を使うようになっても地元の性質を知ってそれを元に生業を成り立たせているタイプ諸氏がやはり大勢いるものだ。
 この人々ならば、土地ならではの自然現象を体験として指摘できる。一般論としての気象現象がそうだとしても、この土地では、ある季節の通常と異常のいくつかとその頻度の違いや起こりやすい土地とそうでない所とか、中にはそれが土地の自然条件だったり、だれかの関与だったりと意外な"真実"を知らせてくれることも十分に起こりうる。
 けれども、利害の間に入って、面倒くさがらずに、それぞれの話に耳を傾けて、聞置く側としての自らの誤解や勘違いやの介在の有無程度は確かめる忍耐を持って、微細についての無知ゆえの先走りなどに注意しながら、それぞれの意見を調整する役を中にはこなすやつらがいておかしくない。
 今どきの事例を持ち出してみる。
 USは広い。とにかく広い。
 都市区画はどこでも同じようでやはりUSはどれもでかいというか広い。
 だからちょっとした空地でマウンテンバイクなり曲芸系バイクなり、ボード遊びができる、ということの実態には相当な開きがあるはずなのだけど、ごっちゃに発想するから、列島で同じことをすると、他の沢山の遊びをする機会を犠牲にして、あることに提供するという形にし勝ちと素人老人の限られた観察からは察せられる。
 ヨーロッパと列島とでは似てそうでやはり異なる。人口密度が結構違う。
 だからラリーと言っても、列島で!ときっと驚かれる諸氏が多いと察する。
 列島は狭い土地利用の一つの歴史的"利用ケース"を提供してそうだ。
 町で音楽流し・・がやはり多分難しい。ごく狭いところに市街が誕生して育つけれど所せましと住居街が育つ。計画的に高層住宅化した区画を作れば作ったで、多分、聴衆の集まりにくいイベント広場にしがちなのでは・・(ここらは発想次第の要素もあり返って異論とか代案とかの持ち主が大勢いておかしくない)。
 もう少し長年月にわたる事例。
 ヒトは文字以前をものすごく長い期間持ってきた。
 だから百科事典的な知識と新著の多読と、各著作の参考文献の連関と、現時点での知見の遡及範囲とかについて詳しいだれかたちが、話して教えてくれる関係に居てくれるだれかたちにとっては、本で学ぶよりも生々しく、疑問に即答えてもらえ、現知見の限界と可能性の辺りについてという形でリアルな知識を動態として持てるから、半端に多読して、整理上手で飯を食っているどこかの土地柄の読書法を学んでしまった諸氏など足元にも及ばない博覧強記(はくらんきょうき)でしかもリベラルアーツな基礎を持った各専門に挑んでいるだれかたちが育ちやすい、と簡単に指摘できる。
 端折れば、即、遠い狩猟の目的地に行って、飢えることなく収穫したものを持ち帰るだれかたちが目の前にあふれている。たのもしいやつらが育ち、また育て、継承され続けている。男たちが農のなにがしをこなしつつ、女たちが川へ釣りに出かけて(1m級のビワコオオナマズとか)大物を収穫して持ち帰るということだっていつものことのはずだ(琵琶湖大鯰の実際の調理は知らないのですが、綺麗な水の所で釣ったナマズの調理が美味しいことは一般的な知見だった)。
 ヒトの文字認識に使う器官も含めて、諸々の器官を通じる事象把握の厳密さは、文字によるのと同等かそれ以上のはずだ。なぜ、それでは、そのやり取りを応用して、建築ほかの今同様のことをできないでいたのか?できていなかった?本当?と返しておきたい。
 ヒトの営みでは、色々が介在して、効率的な展開を邪魔させがちにしてきた。
 そこらが多分答えだ。
 文字と営業的な関心は並行してそうだ。文字についてはそこらが答えになるのでは、というのが今のところの素人の観測。
 ただし、土地柄によっては、発明~運用の過程を経た結果の文字をなんらかの理由から移入して使うようにもなっているので、入(はい)り口の動機となると様々が予想できる。
 ITが文字と紙の膨大すぎる費消の代案かも、と観測されたことがかつてあったけれど、それは書き文字前提の提案だったことがなんとなく察せられないか。
 営業利害だけが記録文字を必要とするわけではないその詳細を文字系扱いに熟達した諸氏が猶予ある長年月を使って再検証なりをこなしていただければありがたい。
 ヒトは長年月を信頼し合って営み得ていたし並行してインチキも相当に介在していたと想像くらいはできる。だからこそのうっかり厳罰して取り締まれるとか勘違いしても来た。
 そこをすり抜ける大悪人の方が成功するし、そこで捕まる素朴な人々は苦労したり人生を(厳罰ゆえに)中途退場してきた。
 だからこそ信頼のうっすらと実際的なネットワークが温存された状態の方がヒトの生々しさには相応(ふさわ)しそうだ((うっかり)だましちゃおうかなの揺れる心を基本に戻させる密かな圧として機能する)。