連載は続く~ SF掌編『弥生期の倭と燕国』編


 人口が特別激減しているわけではないのに、どういうわけか人手不足のニュースが舞いがちだ。
 1500円ほどの品物にとうとう1900円ほどの値札がつくようになった。
 1500円の品物が400円も値上がりしていた。消費税割合よりはぐっと高い率だ。
 これほどの値上げができるなら当然、この品物がいつもどうり売れているとして、その企業の従業員諸氏には値上げゆえの売り上げ増が見込めて、給料も当然、その分上がりそうに素人老人は見てしまうが、実際のところは不明。
 これほど激しい値上げに対して、同様の賃上げがありえたとして、その世の中はばかげていそうだ。と言ってしまうことを素人老人のことばゆえとして流していただきたい。
 人手不足についても、介護の世界では特定人脈が仲間をつどって集団でまとめてか、少しずつ集まって、職場の部分的構成要素となったりが起こりがちだ。
 熱心に介護に挑んでくれる集団構成ならば、歓迎だけど、追々、ちょっとぉ・・タイプだったりすると多数派かどうかはともかく、一定の複数性圧を行使できるし、人間関係に根づいた後ということでの対処という事態は、どうしても住居性を帯びる施設での介護の場合、騒動にするよりはそれぞれに理解してもらって良い方に向かわられるような思惑が先行するから、困った場合、解決は先延ばしにしがちにするし、施設内での問題性が顕著になれば、それを受けて、集団での離職というトンでもなことも起こってしまう。
 こういった実は集団的に動いている人々がこの列島にもそれなりに蔓延っている辺りを参考にできるならば、人手不足ということの起こり方の背景についても仮定を持ち込みやすくしそうだ。そこらは是非事情通諸氏が一歩余計に調べてくれてネットとか既存の媒体を応用していただきたい。
 素人老人はだから、コロナ騒動以前から趨勢としてあった物価上昇の最近の悪乗りの面についてもそれら集団性が発揮されてそうじゃないか、と投げかけてみたい。調べてもらえなければ、そのまま流れてしまう。
 素人老人的に何度か指摘している利益を上げよは単調に数字を追う方に人々を追い立ててしまう、という脈絡から、暗黙の期待としての物価上昇(それが生活に響くことまで考えないでついそう期待してしまう辺り)が減少させやすい、とまたも指摘してみたい。
 そこらの油断は、いつか来たそして何度も後悔しながら繰り返してきた、全体に目配りすることを億劫がった方での便法のようにも老人ゆえ思えたりする。

 さて本題。
 田中史生著『国際貿易の古代列島』('16 角川選書)に古代中国の燕が登場する。
 金属製品に特徴がある。
 半島・列島のからみで登場する扶余系の居住地のもう少し中国よりというか、現北京域にあった。
 前222年に滅ぶが、それまで、半島・倭国との関係を想起させる考古資料としての金属製品が顕著に出ている。
 加耶地域のこともふれられている。
 加耶系と金属は親和だ。
 で、MS社のCopilotに金属製品を介した燕(えん)と三国時代の半島と倭との関係を問うてみた。
 するとなんと現新潟の燕の金属製品のことまで指摘された。
 ここらは素人も同様に軽々しく類推していたので、Copilot ロボット思考もちゃっかり軽々しく類推してしまうらしい、ということで堅実な答えプラスアルファを得てしまった、ので、(このテーマに関しては)自分で(専門家の著作を読んだりで)調べるしかないか・・・と受け止めているところ。
 漢書に倭に関する記述のあることは義務教育や高校やで副読本なども含めておおくの諸氏が学んできたこと。ただ、漢書地理誌燕地条に記述されている、という指摘の仕方は素人にとっては参考になった。
 大抵は漢書地理誌ということで済まされてきた気がする。
 田中氏が燕国の特徴とともにそういう指摘の仕方をされてくれたので、より申氏仮説と合わせて、素人老人流の整理の延長に付加材料として押さえる時、連続的に受け止めやすくしてくれている。
 楽浪郡と半島~倭関係においての漢文使いこなし人脈との付き合いがどう育ちやすかったかの辺りも探れそうに思えた。
 往来が活発なことを想像しやすくしてくれそうな点も大事そうに思える。
 楽浪郡帯方郡人脈と半島(扶余系=伽耶系諸国)と倭は濃く往来していた。
 そこらを踏まえての古墳のことも解明が要るけれど、仏教絡みの経緯(いきさつ)がわかってくると、色々が鮮明になってくるのかも、などここらは素人老人、かなり安直な期待を膨らませてそうな感じだ。
 列島の経験を史実からごく大雑把に押さえるなら、継続性を持って、大混乱を招きながらもある種の自由度を確保し合いながら、よりそれを拡張することを志向もして、途中経過の現在を迎えている一面を古代史観察からは素人老人的に指摘してみたくさせる。
 未だに各地性をはぐくむ勢いは衰えていない。ただし過疎問題は、そこらに停滞的不可抗力性を関わらせてくるので、各地性の自律性とまとまり感での列島的試行錯誤に加担する向きにとっては注意事項と映る。
 列島中枢は外交上は、(お人好し系の)変わり者印象を提供することになるとしても、疑心暗鬼を生じさせるような発信を選ぶよりは、よりわかりやすい方で発信することを心がけてきたように見なしたい(特に弱者間での疑心暗鬼は弱体化悪循環に誘う)。
 サイエンスを純化発想で開拓してきた脈は(専門)分化へと急進化させて、全体としての質量においてもサイエンスとして専門家となるような思考そのものを不可能にさせかねない方向性に邁進(まいしん)中だ。
 漢方発想での事態把握を可能にする(たとえば腹診など)サイエンスバイアスの使いこなしだって多分、純化試行脈同様にサイエンスを育ててくれそうだ。
 どういうことかというと、余程の偶然が機能してくれない限り、いつかは同じことばで同じ事象について語り合えなくなってしまうヒト性をヒトゆえに切り離すことができそうにないから。
 実際的時間を区切って、成果を成果として応用できて、のところで耐えて、次の世代に渡していくことの繰り返しで、そこに実質的熟成のその先をあてにはできない辺りに、そろそろ気づいておいても損はなさそうだ。
 ことばを使わずに、熟練工の古代史以来を想像くらいはして、伝え合えたとしても、現存の諸々を前に、時間的にも、たった一つの精度に近づき得ない辺り。
 その時はこれぞ、とその確かなそっくりを真似てみせたつもりが、専門家水準で見逃していたことに後に熟練技術者・学者として気づけたりは、ありがち、と察する。
 だから分化の方向から寄せ集める試行もありだけど、全体把握の方から接近できることも同じようにありと察する。

 


   川柳もどき

    専門家諸氏はすでに燕にも気づいていたし
      加耶諸国の動態にも気づいていて
      燕絡みからは楽浪郡帯方郡・半島諸地域・倭
        を関係の中でとらえてもいる
    そして何年もたって今年はもう2024年(令和6年)
     素人の興味はどういう整理の成果を今年は読めるのかな
     だったり
    マスメディアはそこらを多分、拾ってはいても番組には
     してくれていない(多分)

 

 

連載は続く~ SF掌編『SFが羽(は)ばたく』編


 多弁で面白くて・・・だけど冷静に振り返ればだまされてたのかも・・・のような話が渦巻く政治の世界を相手のマスメディア担当諸氏においてはその手の話法に騙されてたまるか以上に同様に話を面白く関心を誘いながら、しかもそれらタヌキにだまされないどころか‟真実‟をことばにさせて出させるまでをこなす意欲まで内に育て、そしてタヌキ症候群に感染すらしてしまう、ということもありえそうだ。
 だから政治家相手に内情は、本当のところはどうなの?といった関心をめぐって偽装タヌキで攻める番組構成、という事態には視聴者諸氏は何度も遭遇されてそうだ。
 ところで、それが大地震をめぐる備えとも関わる話題に応用してしまうスタッフ諸氏が関与するような場合、どうなるのか、を素人老人的には見た気になっていた。
 1時間30分(宣伝時間込)の時事ネタ報道番組のBSTBS版を2月の16日の夜見聞させてもらった。
 そこでは低確率とされた土地での地震発生はなぜ?のような話題をめぐる番組とあらかじめ宣伝されている。
 一応1月1日の能登半島地震のニュースが未だに生々しい状態だから余計に素人老人は興味を持ってしまった。
 番組の進行としては南海トラフ地震の発生確率の数値の話題から入った感じだ。
 20%の予知情報も有力だったのに、60から70%になったのはなぜ的。
 視聴者向けには、どちらの確率を採用するのかに当たってサイエンスに相応しいのはどちら、というニュアンスを感じ取らせようとしている。
 進行の松原氏も、ゲストの元総務長官の片山氏、名大の鷺谷氏、東京新聞の小沢氏も、特にゲストの諸氏は地震予知がマスメディア系報道においてすら現状無理なこととされている辺りをしっかり踏まえているようで、番組が発する問いの内容に、千歩くらい譲って確率とかいつ起こりそうとかと関わる予知からみのことばを慎重に選びつつ付き合って答えてくれている。
 松原氏も当然、報道してきたいつかではその類の言葉を発してきているはずなので、恐らく、その時点でも地震予知は現状無理ということをご存じのはずが、そこらを棚上げして、回りくどく話題を一応ふくらませているつもりの問いかけの順を追っている。
 つまり素人老人でさえこの番組の進行の場合、10分間で済むものを1時間ちょっとくらい使ってたな、と思えたわけだ。
 やがて話題に変化が持ち込まれ、実は、危ない大地震に備えた巨額予算が組まれることが慣行化されていて、片山氏の知事経験からして、大地震対策とは相当離れてしまうような事項に使われたりがあると指摘されるくらい(理由付けがそうだとして国と自治体が2分して負担し合うから自治体はその事業を引き受けるとその半分分余計に費用負担が増えてしまう)、無駄な出費が込みになっている辺りを指摘・紹介している。多分、この番組ではここらを重心にしていたのでは、と思える。地震予知の無茶は10分間の濃縮解説で済む。確率表示の低い土地での地震頻発列島の実情をレポート込みで番組に取り入れて、能登半島の場合の復旧の大変さの要因など探って応用のアイデアへのヒント発信程度の番組にもできたろうに、という素人老人過ぎな感想もことばにしてみたい。
 一方で、同夜のBSフジ版では、税の組み立てと使い道について整合させて、世の中の営みとどう関わるかについて世間に説得する過程も込みで仕事することに慣れたかつては官庁勤めだった片山氏(自民党)、玉木氏(国民党)、経済評論の加谷氏がステルスタイプの税金についての問いに答えていたのだが、BSTBS版が紹介していたそれなりに巨額の大地震対策費用についても、能登半島地震での生々しい教訓をいかして今何に使ったらいいのかとか配分とかの実務経験系ならではの発想を開陳してもらえらた、余程ありがたかったが、番組局が違うし時間帯も別々ということこでそうはならなかった。
 地盤が脆いの能登半島のような土地柄は、第三紀層が表面を覆う関東平野各地でも無縁とはいえないから、いい教訓にできそうだ。
 どういう道路網として構築できるのか。
 上下水道の敷設にしても、どういう材料とか仕掛けとかたとえ壊れても復旧しやすさとかをあらかじめ組み込めた仕組みでの工事が必須のようだから、設計面での技術者諸氏も、敷設の技術者諸氏も合体してアイデアを詰めてもらえた方がより良いものにできそうに素人老人的には思えた。
 今やスマホは高齢者も使いこなす時代。だからその途絶は致命的な事態に近づかせやすい。そのためのアイデアも列島事情を想起できればいますぐにでもの類と察せられる。
 断たれた水源、排水網、だとしても、なんとか現状を維持できそうな代替手法をかなりの広域、人口の局地の各所において可能にし続けられる事前の準備ということも具体的に今用意できた方が相応しそうだ。
 災害時のインテリジェンスとかを強調されていた専門家の意欲を踏まえるなら、道路網寸断状態を前提に、緊急性、対応性の順など踏まえて、固すぎて融通の巧みが機能しなくなることも一人のアイデアが凄いとしても鳩首協議だってたまには発明発見をもたらすことを思えば、統制状態にしないけれど、最低限の通路を確保するアイデアの線は有効に使えそうだ。そしてどう何を送るべきか(必須の予定や希望)、そして送り込めるか(リアルな制約)の辺り。
 同乗する中に介護発想で鍛えた看護師部門が一人でも関われるとそれなりの対応の広がりを可能にする(現状許された医療行為と介護領域をテキパキ個々の事情に応じてこなしてくれる)。
 森林の維持管理の列島版はどうなっているか。
 過疎の各地で、避難はどうおこなえるのか。
 大地震時の火災は危険なことがわかりきっていることを踏まえて、消防のための諸アイデアとその先の実際対応策はどうなっているのか。
 建物はどのように堅牢に作ったところで地面が動く・変化してしまうことへの対応とはなりにくい辺りに気づいて、建築家の頭脳と閃きに期待してすべての建築について、斬新な設計、施工の具体はいつできあがるか。それに基づいて資金は動く。人生設計も変わる。
 大きく経済の営みの都合としての、稼ぎ手の問題を自動車とかIT関係とか(エネルギー源ということで)基礎部門の電力とか燃料とか素材とか巨額部門の設計次第のところに、どういう工夫を持ち込めれば自然災害耐性となるか。
 それでとりあえず巨額を回せて、その他の日常を支える変化に富んで融通も聞かせうる部門の各地がそれなりに資金繰りに苦労しないでなんとか営めていれば、地表面での様々な不可抗力の負荷をどうかわしつつの辺りへの関与の方で、巷との間にバッファ程度の干渉帯っぽいのを備えられる。
 素人的にはこんな程度の大雑把な使い道しか提示できないけれど、もう少し詰められる諸氏において、大地震対策巨額予算の使い道は無駄などしてられないぞ、となる案を導いてもらえそうだ。

 


   川柳もどき

    たまたま地震災害をテレビ画面に見ていて
     歴史を振り返れたつもりになれた時
      病的にならないような注意が要る
      とはいえ
       そこら色々を心配するその精度とか広がりとか深度とかのイメージ
        にゆだねて、暇なしで観念系を作動させている様は
      科学なりサイエンスなりが誕生しつつある様のようにも
      受け止めたくさせる
    安穏を否定するものではないのだけど・・・の辺り
    超密度でもって想像できること、すること
    が
     かけがえのないように映るなら

 

連載は続く~ SF掌編『一端、‟概念‟から離れてみる』編


 一応整合させて概念の類を使いこなす形から議論用のことばの羅列を演じのけるならば、それなりの姿として玄人筋、というよりは標準形を保つことに人生を賭す脈々が、お見事と認知の方で受け止めてくれそうだ。
 だから概念以前の状態として事象を改(あらた)めて整理する必要をだれかが感じた時、ちょっとした野心というか、多少は住み心地の良い住居も自らの資金によって建てたいし、そこでの家庭っぽい集団の営みにも人生を置きたいし、そのためには仕事場を確保しておきたいし、などなどが頭に浮かび出して、標準の問いへ標準の答え方、正解の類で応じることもイメージできるだれかたちにとっては、ちょっとよりはそれ越えの危ないかもの方で受け止めさせそうだ。
 現代での学問に成績優秀な諸氏においても、関心と感受の辺りの反(そ)りから、概念について未然の要素こみからの説明が要るな、と本人のためにもの方で受け止められる事態、事象と遭遇してしまった場合、そこでちょっと挑戦してしまうどなたか諸氏もそれなりに登場するのがヒトの観念系ならでは、と素人老人程度からも想像がつく。
 神とかのことばへと収れんさせていく中央集権化の時期の前後はいったいどうだったのか、記紀をより読み込めばそこらはは、記紀からも探れるのかもしれないが、中央集権化意欲がより勝(まさ)る発想をうず巻かせての事業と想像できるので、素人老人程度の基礎知識から探るのは無謀と予想でき、ならばと専門家、事情通諸氏の著作にそこらを探れるのはないかと一応頭の片隅において、他の色々な関心も含めたアンテナを張っていたところ、たまたま書物の巻末に載る出版目録一覧のようなに吉野裕子氏の著作を見出し、『日本古代呪術』が何度となく原作を元の新版が出ていることも知った次第。
 今は借りて読んでいるところだけど、ざっと、中央集権化以後の事態を素直に受け止めて、そこに伝承を読み取っての作業ととりあえず押さえてみた。
 つまり伝承と受け止めた時点で、既に中央集権化事業が結果する記述がもたらす成果を専門家、研究者が前提にしている辺りに気づかされる。
 もしも吉野氏が吉村編『前方後円墳』での申論文を読んでおられたら、各地性の気づきから、更に、発想を刺激されて、各地性からの各地性と共通性と、共有の偏りとか、散らかり方とかで分類出来て、列島の成り立ちの変遷の各筋の複数性なども見極めてくれていたかも、など、空想を膨らませてしまう。
 欧米が神ということばを使っているわけではないけれど、列島版の文字系は神で訳したことになっている。だからどちらかというと漢字の神を使うものの、概念的な作用としてはむしろパン何とかの脈絡としても、翻訳する元になっているソースの発想の方で列島での事象をつい解釈してしまう形に向かわせがちにする、と素人老人からは推測したくさせる。
 それほどに概念という置き方は工夫も重ねられ、同時期での共有を経ることで成り立つなんらかとしてかけがえのない働きを持ってそうだけど、一方で、その都合だからといって、知ることをめぐる作業に相当な迂回路を知らず知らず儲けがちにもしてしまうよな・・・とかぼそっと口ごもらせたりもする。極端にはインスタントに通用性を発揮する重要な道具立てを用意しつつも、あくまでもその暫定性に無自覚であるとその時期に禍根も残しがちにする、とか押さえて置けそうだ。試行錯誤の機会は逃さない方が無難だ。
 中央集権化を担う人々こそが、個々性にも気づけて、個々の自由を希求するためにもの中央集権化であったはずが、言うことを聞いてもらいたいから、言うことを聞けに状況次第では移ろいがちにさせて、本末転倒の事態を招くこともヒト観念系作動状態での実践の難しさ発揮ということで、今も昔も集団の営みをリードする層は特に、考えたり躊躇したりの時間不足からつい我儘寄りの方で動かざるを得ない巷の膨大な個々(中には信心ゆえの(ご本人にとっての馬力発揮の起点意識が明確かそうでないかはともかく、傍目からすれば)信心のせいにできたと思い込めて他人を害するタイプの挙(きょ)に出たり)とは違って、よう注意項目として意識し続けてもらいたい辺りだ。
 2月14日の夜の時事ネタ報道番組系(BS日テレ版、BSTBS版、BSフジ版)は、その前にBSにて地デジ番組を見ることが偶然にもできてる今日この頃ゆえ、田中角栄氏の人生とからめた政治劇の顛末について要約的に整理された辺りを相当に年取った時点の素人として受け止めさせてもらって、それを加味した感じで興味を持って見聞させてもらった。
 3局の番組については長くなってしまいそうなので後日となりそうだけど、角栄氏の番組のことは少しだけふれておきたい。
 マスメディアが動き、特捜が動き、安泰以上の立場を実感されていたかもしれない政治中枢に動揺が生じる。
 近過去のトランプ政権が、素人老人の想像を超えてマスメディアが問題視する発信を盛んにしていたくらい、パンアメリカーナをまとめあげる作用系・各人脈の活躍は堅固な方で準備してきたと逆に素人老人的には想像している。
 そこらから敷衍(ふえん)して、角栄氏の番組でも紹介されていた当時の中国中枢訪問という出来事がパンアメリカーナの都合をはみ出してそちらの都合からすれば踏むべき階段の順を無視して数段飛びくらいしてのけたような出来事にしてしまった辺りと素人的な想像を誘う。
 毛氏、周氏らはパンアメリカーナの具体的脈々であるよりはもう少し身近に感じる情勢を生きておられる。むしろ膨大なとりまきの脈々としてパンアメリカーナの機能とともにで動く人々がおられる。ここらは、地表面秩序を探る間柄を意識し合える脈々としての切実な辺りを百歩以上譲って押さえておくことも大事と察するけれど、対立軸として機能しうる要素の強力な端々の一部が突如、その典型の相手と固く握手してしまうのだし、テレビ中継できる時代でのショーにもなってしまって、パンアメリカーナ脈々としては驚天動地の出来事に近かったのかも、などいかにも素人で老人らしい受け止めをしたくさせるが、田中氏個人の一方からすれば暴挙の類だとしても、平和友好バイアスの方での接近なのだからその一人の行動力が、パンアメリカーナとはいえ対抗の相手とも友好関係を結ぶ必要ありの方へ即座に誘ってしまうようなバイアスをもたらしたことは年表を見るだけでも素人諸氏は知ることができるわけだ。
 散々弁証法役割分担の方で相手役に仕立ててしまってコカ・コーラペプシコーラかで区別するしかないようなことにしていた当時のソ連という相手も追々接近するしかないはずだという準備し過ぎた役割分担を編成変えするようなタイプの超超難問をはらませてしまう。
 左右中の役割分担作業によって極端にぶれやすいし政治的に有力にもなりうるだれかたちをあぶりだしやすい装置を捨ててまで友好関係を築いて交易重視の方に舵を切り替えてしまうのか、それは危険要素か、そこらは19,20世紀推進脈にとっては、荒っぽいころをしなくて済むようになるかもの観測も成り立つだろうし、一方に、積極果敢を勘違いして暴走するどこに生じるかもしれない危険因子の探りにくさに通じる辺りへの警戒をいかに機能させるのかなど、どちらをとればとか、両方だ、とか、地表面相手での秩序形成を摸索する脈々としての心配くらいはスパイドラマにも馴染んできた現代の人々ならば、きっと想像できそうだ。
 計画化して、単調に分配を待つシステムを空想はできても、実際に、満遍なく、万が一においても不都合を生じさせないタイプの円滑さを計画的に保ち続けることは至難、というよりは、現状無茶、とだれもが口をそろえられる。
 経済学においても、値段の動きが消費の動きを映してくれる働きは凄いから、そこは計画頭過剰であっても、踏み込み過ぎないように、と注意報を出してくれている。値段が恣意的にに操作されての結果だ、とかがわかったら、むしろ、市場原理主義発想ではない発想になるけれど、物の動きの過不足に不都合が生じないように値段が消費行動の実際をリアルタイムで映し続けてくれるように調整に入る。
 ただ、今時のように、外圧的不可抗力要因からやたらと物価上昇してしまうような場合、外圧要因だから、できれば、常日頃からの同じ経済圏内での自給力を高めて置けるなどの準備が要りそうだ。外圧系がそれに不都合を感じて文句がでるようならば、戦争をしないやり方の選択を求めるくらいは政治なり行政各部署が常日頃から接触をもって工夫を重ねておく必要を素人老人なので気楽になってしまうが、指摘だけはしてみたい。
 今時は更に気象変動由来での価格変動もありだけど、そこらは助け合い系の発想も加担させないと、長期には通じそうにないと察する。どういうタイプの貿易にするかの地表面条件の変動に応じた切り替えくらいを経済の発想から準備できるくらいのネットワークは構築できているのでは。(巷次元での価格の大幅変動を避ける、物の動きへの関与可能な交易要素への関与)
 色々な商品を売れ残り前提に大量に試行錯誤する売り方は、当然、無駄な売れ残りを出し続ける。そこらへの関心は業界が持っていそうなことはニュース報道からも知れ渡っているけれど、これまでの蓄積があるから惰性の膨大量が売れ残りを膨大にし続けていそうだ。
 日々の飢えが問題な各土地柄からすれば、トンでもな事態だ。
 列島での格差問題においても、それはなんとかならないか、で代案は試行錯誤され続けている。
 けれども、それがどうしても弥縫(びほう)となってしまうのは、そちらが拡大すれば、通常の売買の市場(いちば)に跳ね返らせかねない、からだ。
 作った以上は出回ることはないとしても、無視できない売れ残り処分が続く限りで、通常の売買を圧迫するようになってしまうから、それを避ける方での発想が市場(だけではなく、通常の生産流通消費の温存)利害から当然勝って、たいした助けの事業化には成し得そうにない。
 類推してもらいたいのだけど、農家が土地に固執して終身雇用を自らが営めている状態を前提にできたとき、会社勤めでも、部門ごとに、終身雇用でもかまわないかどうかを今から改めて検証し直す手もありそうに思える。人によっては、自らが不安定かもしれないけれど常雇いの立場を選ばないケースも含め、部門に必要な雇用の形態のいくつか程度は経営層が想定して、必要な人員を雇い入れる。若気のいたりから、初期、そう自ら選んだけれど、どうやら自分には向かない就業の仕方だったと修正できる機会もありだ。
 そういうことを前提にした雇い入れの形の標準形くらいは経営意欲をお持ちの諸氏ならば、描いて準備できそうだ。
 原点の農村を想像して、とはいえそれすら様々性を有しそうなことは忘れないことにして、そこでずっと働いて熟練して尽くしたいというだれか、仕事を充分に身につけて独立するとか、他で試したいとかいうだれか、人生の何割かを稼ぐことに使いたいというだれか、そこで会社経営まで学んで後継者がいなければ自分がそれを買って出たいというだれかとかが集まってくれるようになれば、経営のだれかたちにとっては、張り合いのある日々となりそうだ。会社仲間ごいっしょツアーを特に心がけてみたいなことは、特には必要がなくなっていそうだ。
 医療・介護部門になりてが足りないという場合、他部門から人がやってくることで解決するということくらいは指摘できそうだ。
 ならば、現状、他部門は余剰だらけなのか、という問いも可能になる。
 どこもかしこも人手不足さ、といったあたりが想像しやすいと察するがいかがか。
 既存の就職機会を求めて新規にそこへ参入しようと意欲するのだから、既存性の辺りはミソだ。
 もしも、既存の状態に、なんらか優先順を付けられるならば、現状、どうしてもこちらの部門に人が集まってほしい、ということで明確化する。
 それが医療・介護部門ならば・・ということで、なんどか指摘もしてきた。
 人口が少ないし、これからはもっと減っていくんだ、ということならば、で、米作農業の工場タイプでない働き方(伝統的終身雇用タイプ)が人口圧を発揮させやすい辺りを先日ふれた。
 どの部門にしろ工場化すると堅実な方が相当なバイアスを発揮し出す。
 では農村での人口圧が発揮し出して、いつのまにか1億人以上のついこの間までの列島人口環境が持続しているとして、現状のやり方での農村で常時過剰人口を養いきれないのだから、各地へと人口流出は生じる。近場かもしれないし遠いところへ、ということも起こる。
 百姓が農民のことと勘違いするタイプの農村だらけの頃に人生を出発させた角栄氏は各地に道路網と工業地帯を広げて、豊かに貧富格差解消策を目指した。
 サービス業とかにも人々は動き、不動産部門が開発地先読みの先買いで土地の価格を動かし始めてしまう。
 価格と消費動向の映しの働き上不都合な関係が生じている。
 政府や行政各部門の活躍の目論見の通りにはなかなかいきそうにない。
 計画が出過ぎれば必ず(なぜか)モノ不足障害を生じさせやすいという知見は地表面上経験済だ。膨大量、膨大品種の物の動き相手の場合、個々の意欲、自発的動きの結果を適格にフォローする方がより相応しい結果を導ける。例外とか、不可抗力とか他の条件を無視していいということはない。また市場原理発想的な放置とも異なる。経験からする理念的関与の余地はいつでも作動状態にしておくことは、万が一への準備と密接だ。
 農業以外にも就職することになる農村の人口圧を列島の各地が吸収して、人生時間を共にし合うことになる。
 ここらは、格差問題の要所、消費したくても持ってない層への仕事と結びついた稼げる状態回復策が必須の辺りと込みに、人口圧を生じさせるまでは何とかなるとして、その先のことを考えるばあいの参考にできそうだ。
 典型的にはやくざものにならなくてもいくらでも気に入った就職口を探せるし、それなりに良い消費者としての快適生活がだれにも可能になるとか就職年代になっての心の不安定にも充分に応えてくれる環境も行政各部門や巷の活躍層が動いて賦活状態にしておけたりがそれなりに役立ちそうだ。

 


   川柳もどき

    戦闘本となると結構危ない要素もつまってしまうが
    サバイバル系に限れば
    地表面各地での飢えに近い各地におけるちょっとした工夫の発想へと
    誘ってくれそうだ
     その膨大な細かい知恵のたぐいに向けて過激になって
      各地の知恵の面での助けになれる過激派だったらその次へ
      のステップにもなる機会提供ともなっているので
      そこから地元の大富豪が誕生して、そこでの雇用機会が突然
       巨大に生じてのようなこともいくらでも起こりそうだ
      そのためには
      (多少騒がしくても)平穏で無事な巷がなにより

 

連載は続く~ SF掌編『昔の民主はやがて中央集権化をも探らせる』編


 古代列島においては中央集権化を大乗仏教の列島在住勢力からする解釈において採用された方向性も主な主軸としてある時期から邁進(まいしん)されることになった。
 ということで当時の主流の一派にとっては各地に信仰の形が数百年間規模(西暦300年近くと400年代に入って以後のと)で育ってきていたのだから(そして移住前のこの時点では忘れられていたかもしれないけれど半島での集団の営み、各家庭での営みにおいて営々と継承してきた信仰の形=色々性、各土地柄性ほかが列島での分散的集住を経ての・・)信仰というヒトにとっての営み、集団の営みとも密接な営み性質を想定できた時の困難さ自覚から、仏と各地・各家庭での信仰とをどう落ち着かせうるかをめぐっては相当に工夫を重ねたくさせていたと、素人老人的には推測したくなる。
 村山修一著『本地垂迹』('74 吉川弘文館)の目次など参照もしながら、いかになどつい考えてみたい方に誘う。
 それにひきかえ、廃仏毀釈の方向性の歴史的振り返り不足は明確と察する。
 どこかしら起点において勘違いから出発してしまっている。習合の実際とか経過についての考察を経るよりは、かくあるべしの理念先行タイプでの暴挙に誘われた感じは否(いな)めそうにない。
 ただ大乗仏教を採用してそれを軸にも使って・・・という事態についても、当時においては、他の通じやすい常識の各地性を相手に説得を伴わせたことを想像できるなら、そしてそこになんらか説得の背景をなす権威っぽい辺りに気づけるなら、今時の欧米、欧米と言えば近現代においてはリーダー役を買って出た勢力と見なせそうだけど、長い歴史においては新参者だったわけで、各地性が濃い古代列島での中央集権化をめざした人々と似ているところを見るならば、同様の困難を抱えてそうなことにも推測は及ぶ。
 権威を保てなければ、こちらが安心・安全のための様々を理念とし、その理念に相応しい概念を用意して地表面各地に普及したいのにも関わらず、言うことを聞いてくれなくなってしまうのではないか、に関わる極く重いタイプの心配性を意識しつつ、また意識できるから表立ってそれを表現しない慎みは実践しながらも、つい、心配性の方が勝(まさ)って規則・ルールの類を新規に持ち込んだり、変更したりで地表面秩序へ揺さぶりをかけて、覇権のなんらかを保とうとしてしまう。やって少し成功しても、実は信用は下げてしまうリアルを内心感じ取れる感受性は(リーダー役だからこそ)働くので、いつでも後悔くらいはしているけれど、長期政権(19世紀以来だから)ゆえのこだわりが既に埋め込まれていて、立場を変化させることにも心は動きにくくなっている。
 列島古代においては、事業を進めている過程では、各中枢が元気そうだ。
 けれども、人脈的に連続と見なしておかしくない鎌倉期を迎える頃の落ち込みを鎌倉の刺激程度では賦活へと誘えないし、室町の貿易系も官製だからかなんなのか、賦活材料にしきれないまま、各地性の元々の元気度合いゆえに中央官僚派遣というよりは武断系の派遣の形がある程度普及を終えて傍目には混乱のようなことになって、列島は大混乱の時期を迎えてしまう。
 とはいえ、多分の話だけど、一般の中から兵隊を誘ったとしても、一般の継続的集落を全滅し尽くすようなことにはなっていないはずだ。

 武の中央官僚層が族として各地に展開もして実態を(現地の人々も含め)事情通諸氏、学問系が余程丁寧に調べてくれないと、だから実際の今に至る過程・暫定的現状のことはわかりにくいとは素人老人的に思ってしまうが、それでも、百年タイプ、数百年タイプ、千年タイプ、二千年タイプくらいは数の多少のことはおいて、列島各地に探せそうな気がする。
 数百年タイプくらいなら、江戸期以来ということで探りやすい。
 列島在住で長い人々は、個々性にこだわれるタイプだ。
 また村などの集住においても、時代相からの影響はあるものの、各家庭単位での好き勝手性は尊重され合う。
 それらを村のなんらかとして納(おさ)め合う。落ち着きどころの結果が村の姿として観察されてしまう。
 https://www.soumu.go.jp/main_content/000273900.pdf
 を参照してもらいたいが、関東平野部、見沼代用水をめぐる小史をご存じならば、米作こそが人口増を促(うなが)したらしそうだくらいの推測へと諸氏を誘(いざな)ってくれる。
 昨夜の時事ネタ報道番組にて『最大の課題「人口減」 公共サービス消滅危機 働き手不足に緊急提言』をテーマにベテラン・若手両キャスターの進行にゲストの加藤氏、増田氏が現状解説と提案などを盛り込んで、視聴者諸氏において恐らくこれからの列島事情と密接なはずと関心をもたれたのではないか。

 富山の知事森氏がコンパクトシティの発信源のお一人らしいことを知るまったく素人の老人なわけですが、それはそれ、としてゲストたちはその案にばかりとらわれることなく話題を持ち出してくれている。
 列島の集落の歴史を知ることで、持続的タイプと世代ごとに衰亡してしまうタイプの違いくらいは明確になっている。
 農村は機会が訪れるなら、莫大な人口圧を発揮し始める。これは明確だ。
 また列島農村の多くは少なくとも数百年は継続させてしまうことも明確だ。
 その集住のあり方は、寄せ集めたりしない。それぞれ性にとっての距離感を保ちあえている。身内での分家の仕方が土地の狭さからうまくこなせない時の暫定的なあり方が固定的仕組みと勘違いさえしなければ、趨勢としては距離を保つ棲み分けだし、個々の家庭の事情に余程のことがない限りで、放置の方を選ばれる。大局のルールの時代相とは村ぐるみだったり各家庭だったりの工夫で望む。
 それと比べてしまっては失礼かもしれないが、近現代輸入物の集住形態の多くは、若夫婦は同居したがらないコミュニティ、高齢者コミュニティとなって、追々土地の造成段階から作り直しの対象になってしまうタイプとして明確だ。
 そこらへ素人代案は示しやすい。
 割り切って、その手の輸入アイデアタイプで集住宅地を造成するならば、一世代は晩年まで住めて、その後、住宅の耐用年数期間は、一時的に住みたい夫婦ものも含めた人々に済んでもらって、その後解体となる。また次の一番目の世代のために設計し直される。
 けれども、そのタイプは、高齢者どうしの介護家庭とか、高齢者独居宅とかで埋まりやすい。日々の生活そのものがリスクたっぷりな空間となりうる。
 次に住むのはやがては新居に移る前の暫定的定住の人々の使い捨て感覚コミュニティになる。
 また集住させすぎてそれに応じたキャラを求めさせてしまう大都会タイプの密集住タイプもそれなりに成功させやすいけれど、高エネルギー消費タイプであることは避けられないし、メンテナンス費用はべらぼうとなる。そういう特異な経済圏を保ちつつ、列島をまとめてどう営めるかを考える官庁なり大企業なり産業全体の担い手と各家庭を軸に学校とか手続きとかの役所とか公務系の仕事場と買い物ほかの経済要素なども、特異な地域をどこまで容認しるか、考えどころと察する。
 不可抗力対応にはなんらか支払い手段の余分が臨時におおいに役立ってはくれる。助け合い以外の外部性が必要になったりするのだから、といった当たりがヒントにできる。
 しかも持っているだれかがその急所感覚を持っているかどうかでも事態は違ってきてしまう。助け合いのなんらかと関与する感じで持てる支払い手段をつかいこなせる日頃のリーダー層的観察眼を持ち、万が一に備えた思考の積み重ねが日常にできているかどうかの辺り。
 農の営みは条件が揃(そろ)うととんでもない人口圧を発揮してくれる(必要不必要感覚はともかく人手が豊富で将来安心発想が根強い。二けた人数の家族が当たり前)。
 そのほかはどちらかというと、人口を少ない方に誘いがちにする(たとえ発明家一家であっても堅実な生活志向)。
 列島は農政(と国つくり)の将来展望作りを怠ったために、より人口圧を減じる形ばかりを経済系が発信して、今の結果を招いている面も指摘できそうだ。
 効率を求めたり、利益を求めたりを動機付けに誘導するのは、単調な目標に向かう単調な判断の範囲に誘う、で、ヒトの世の中の営みにとってはろくなことに誘いそうにない。 個々の仕事における効率は熟練が自ずから改善しまくってくれる辺りは常識だったはずが、マニュアル下敷きの促成栽培型を安易に輸入しまくって失敗へと誘ってしまっている。(たとえば介護で適切な仕事をなしとげてくれるタイプのベテランの仕事の結果効率的なあたりは参考になる。手抜き上手のベテランの方もその線で参考にできるけれど)

 各業種の現場がつまらなくなっていそうだ。忙しだけで、給料はそこそこ・・。
 熟練の過程ということを持ち込めるなら、何かを覚えてこそ可能になる仕事の質・量といった手ごたえを感じつつ、更に欲が出て技能・技術・技量を習得し続けられる。そこに終身雇用の安心感や達成感や、(子供の学費にも使えるくらい)ちょっとずつ上昇する給料とかの期待を伴わせて日々の習得と地味な仕事とが張り合いと結びつくようにもする。
 多少忙しいくらいの方がもめごととか、雑談上のトラブルとかを招きづらくもしてくれる。日々の達成の後の一杯が世相的に赤ちょうちんの頃もあったし、今時ならちょっとお茶とちょっとの食べ物とかでその日のなんらかを語り合って帰宅ということもちらほら程度はいそうだ。
 仕事と生活のバランスは実質的にヒトの営みと関わることだから、そこらの達成度合い次第では海外からの技術・技量・技能の専門的達者な人々がわんさか列島の職場めがけてやって来たくなるということも空想より起こりそうなことだ。
 介護部門の人手不足は多少の給料上昇くらいでは解消しなかった。
 介護技術の習得の現場での工夫が最も大切な辺りを経営層が教育ということで担えるようにできるか、その支えとしての経営そのものに、収入源を介護保険のみではない工夫から広げていけるのかどうか。そして今浪費している分野から介護サービスにお金を使う循環を育てていけるのかどうか。どの分野にもそれは言えるけれど、そこに分野別に優先順はつけられるはず。

 能登半島の場合、表面の不安定な堆積土壌については、ネット資料がおおいに参考資料性を発揮してくれるようになっている。
 道路復旧に当たって、崩れることを前提に道路網を設計し直せるなら、という夢・希望・期待は素人的に持ち出せる。
 上下水道なら、折れやすい箇所をわざと敷設する工夫は必然として昔から採用されてきたと察するけれど、より、折れてくれる箇所を上下水道知見をもとに、適切な長さを用いて設計し直して、大地震の際の注目点は緯度・経度から探れるようにして置ければ、そこをまず点検して(ないし揺れ対応の壊れ具合検知センサーがついていればそれの信号で判断)、それでも漏れが生じているなら、他を探すしかないということになる。
 トイレも田舎事情ならば埋め立てタイプで立地選択を誤らない限りで、しばらくを耐えられるようにする。簡易トイレ必須、排泄物は埋め立て処分。そのための道具は地震前に定期点検込で日頃のメンテナンスが仕事の一つになっている。
 高齢者が多い土地柄ならば、月一くらいの定期でたとえばNHKテレビでお馴染みだった青山流を習っておけば、年寄どうしの介護でも腰を傷めたりしないで相当な体力差のある老人たちが助け合える。介護関心の発想に気づけるようになると、ちょっとした動作が工夫込みになってしまうことも貴重だ(救急時にも、日常のゆったり事情にも対応可能)。

 ホコリは風のひと吹きでキレイに霧散してくれる。
 土地に馴染んでということは集団の営みとも好い相性が育っていて(個々の家庭がいい距離感を得ようとして、ある暫定の進行形にあるとか)、苦楽を伴うにもかかわらずの辺りへの受容も育っている、といった辺りに気づけるとき、代案なりが思い浮かんでもおかしくない。
 若者たちがそこで同じか違うかも含めて、将来的な営みを構想できる土地柄として大人たちが育て、また大局がそこらに突然的急変を関与させることなく(事前に変化を打診できるとか一方通行性を慎める)ないし更に外部の変動が中央集権化以後の達成度合いからする関与によって変化の困った要素を緩和させるなどの数々が関係し合える環境も用意できて、列島各土地柄は後継者不足も解消となるのかどうか。

 


   川柳もどき

    列島事例
     各地に、各家庭に引き継ぐ
      信仰の形をはぐくみつつ
      それらが物系、観念系ともに関わらせて
       生活の支えともなりえた確実さ
     時代は変わって
     観念系の造作をいじくりだして・・
     とはいえ
     伝承の長年月を振り返れれば
      各々(おのおの)、諸氏にとっての
       手繰り寄せてみれば・・とても細いかもしれないけれど
       中央集権とはまた違った、個々にとってのかけがえのなさ
      とかが、どれほど工夫して
      まとまり感も並行してそだてているのか
      とか考えてみたりするのも、たまには
      どうだろう

 

連載は続く~ SF掌編『芸術で応援だ、と高齢の素人』編


 最近は授業で使う資料にも採用されてそうだけど、地表面の各地が探索されて、黒土という植物・穀物栽培に向いた肥沃な土壌が地表面ではごく限られた土地(といって広大だったりするけれど)として何か所かに散らばっている。
 列島の土は火山噴火由来の土壌をヒトの‟手‟によって自分たち向きに改良されてきたっぽい。
 すでに土壌からして各地、各土地柄性を帯びさせてしまう。

 これもテレビ番組から知った現世の中事情なのだが、ヒトを知ることをめぐっては素人老人的に参考になった(またもやクローズアップ現代だった)。
 度々ニュースにもなっていて、その現状はと取材が入って、調べてみたらの辺りが紹介されていた。
 ホストクラブは、そのことばくらいは現世の中こどもたちでも聞きかじって知ってそうだ。舞台はそこ。被害者はそこの利用者。犯人系は、取材の結果から構造的になっていることが判明。警察の捜査が機能しないと細部の絡みを詳細具体的に事態として押さえてなんとか解決するということにはなりにくそうだ。韓国のドラマをBSで放送していたのだけどその『模範刑事』くらいの長さ(全22話)になりそうにも思える。
 経営者は雇うホスト諸氏に、客が多くを購入して支払いきれない場合、担当ホスト自身がたてかえてその内実は経営者からのホストとの間で借金のかたちを取る。
    経営者=(借金)=ホスト=(たてかえ支払い)=客
 客はぼったくられたとか色々そちらのケースもニュースで出るから、一般としてはそういうこともたまにはあるだろうくらいに受け止めがちにしてしまうかもしれない。
 ところが、今流行っているこの詐欺事件の場合は、もっと込み入っている。
 実は前段が用意されている。
 客の女性たちはホストであることを大抵の場合隠して近づいてきた若者たちと親しい関係になる。その親しくなる関係自体がすでに計画的だ。
 親しくなって、実は職業は・・で食っていくためだけではなく、夢を実現するために懸命に稼いでいること物語を相手女性に染み込ませていく。下ネタも共有し始めている女性たちは多少惚れている段階だから同情の方でその話に聞き入る方に近い。
 で更にホストの男たちは、ひたすら夢に向っての芝居を見せびらかし、それといっしょの生活の女たちは、更に惚れて惚れての方に傾き、(いつでも観察して詐欺の本業部分に移る機会を伺っているわけだから)頃合いを見計らって、高額のホストクラブでの買い物をお願いする。女性たちは惚れた男のためということで、熱心な方で応じてくれるようになっている。すると先の借金関係が膨れていく構造に簡単に誘えた事態となってしまう。 ホスト男は、相手の女性に借金のことを‟素直に‟告白して、どうしょもない事情だからとか同情ノリの方で心を乱れさせて、売春で稼ぐことへと誘う。ないし、混乱事情からホスト男の方が乱れて乱暴になって売春して稼げとなる場合も含まれ、相手の女性たちは惚れた男のためにのノリで売春に出てしまう。そのノリのため、被害者意識が生まれにくいということで、売春業に深く潜航して、親たちの届かないどこかへ行ってしまうケースも出ている。

 女性も男性も、惚れた相手から詐欺にあっていても気づけないケースは、いつでもどこでも起こりがちだろう、くらいの想像は世間知らず系の素人老人でも気づく。
 ただ今流行中の広範な詐欺事件では女性が主な被害者だったりする。
 女性性、メス性と指摘した方がより気づきやすくなるケースと察する。
 メス性が配偶者に巣の準備をうながすために騙しにだます深層を働かせる。
 だからだましているつもりがだまされてしまうという逆転もしばしば生じさせるけれど、お互いが純朴性を充分に育てあっていて、その関係が破綻を誘うようにはしないことで円満な家庭へと多く場合、熟成していく。そして人生を多くの人々は全(まっと)うできる。
 事件の方は、男性の方が惚れたどうのこうのの方に近づく気がまったくない。金稼ぎの方に、利益を上げる営業頭が目いっぱいの関心から女性に近づいている。
 女性というだけで、ないしメス性発揮の状態だけで、オス性からは充分にもてまくれるのがヒトだったり発情期の野生(+飼育)動物たちだ。ところが、特にヒトの場合、だれかを惚れてしまうという事態が特殊で、他のだれかたち、この場合だとオスたち(世間の(好みのタイプのと限っても)男性たち)が迫って、ないしもう少し落ち着いて、交際を求めてきたとしても、惚れたホスト男性以外の申し入れは邪魔に思えてしまう。その対象こそ(巣を用意してくれてつがいとして子育てが可能になる相手と絞り込みに絞り込んだ気持ちのノリが絶頂となってしまっている)自分が求めている相手で、その相手の気をひくのに邪魔になる他のだれかへの気持ちの移ろいは無いことにしたいという心の作用もけっこうしつこく働き続けている状態になっていそうだ。そういう素人老人流にことばにするなら"うるさいやつら"からの圧が、惚れているし、だからこそ惚れてほしい借金苦らしいそのホスト男の窮状を救うためには売春だってなんだってやってやるぜぃ!!と頑張れてしまう。実は詐欺にあっているだけなのが、まったくわからないか、そうあってほしくない、そうだとしても、いつかは自分に惚れ直してくれるはずだとかそういう巣をめぐるメス性を前段の準備過程が生身の装置に植え込めているから、サギ側のホスト男性と売春を介在する役の人々と借金関係で稼ぐ知恵を実践する人脈構造は悪の限りを尽くしてくる。
 女性たちは使い捨て状態(多分ありがちな性病とかその手の困りごとも引き受けやすくなっていると素人ながら心配できる)になっているのに、一途(いちづ)な方に洗脳状態だから、抜けるに(抜けない)とか、窮状を漏らすとかの切羽詰まり感が実感の方で発揮されないままになっている。
 うるさいやつらを基盤に稼業は、飽きたらすぐ次を用意できるシステムをこしらえることで継続可能ということで、歌の業界も、短期間の流行の繰り返しで稼ぐことを成功させてきた。
 けれども時代は移ろうで、歌詞の内容次第では、その被害女性たち(場合によっては男性たちも当然含まれるが)ただその現状を鍛えるだけの出汁にさせかねない辺りを、素人的バタイユ読者としては、指摘してもみたくなる。
 つまり芸術だったらヒトの移ろいに寄り添えて、それなりの異化効果程度でも発揮できる発信が可能となるはずが、稼ぐこと、生涯賃金の高額を狙うノリの方に熱心になるように誘われがちなためか、いっこうに、芸術系的、今の世の中独自の趨勢へ多くを発信できていないのではないか。だからやたらと局地の戦争とか物騒なことはニュースになっても、芸術・芸能の方はというと、高額値段がついたちょっと少なかったタイプの話で流れていく。
 プロテストというよりも、もっと今の世の中の趨勢を読み込んで、芸術がヒトと交流するなにがしとしていかにも芸術な辺りを発揮してもらいたくなる。
 多分、ホストクラブ以外でも似たこと、また似ていない、別種のヒトのサガの辺りを熟知して利用してしまう連中がそれなりにワルの方で徘徊してそうだけど、芸術がヒトのいつもに準備とか気づきを提供してしまえることはいくらでもこれまでの芸術史からしてやってのけてきたのだから、そこらはいかにも芸術な表現のありかたをこの今でも摸索できそうだ。

 


   川柳もどき

    有軍尼一百二十人
    隋書に軍尼
    軍尼は国造のこと
     が現定説と『国造』(中公新書)

 

連載は続く~ SF掌編『ポトラッチのバタイユ氏のことはともかく、列島では高く青空』編


 ブルーバックスの大量絶滅本が三畳紀末大量絶滅を扱っていたとしたら、NHKBSの隕石衝突後の地球では6600万年前の大量絶滅の前後をコロラド州コラール・ブラフス(約1.5km四方)での発掘資料から描くように紹介されている。
 ざっと素人老人的整理で紹介すると(画面の図表を参照して哺乳類と植物の巨大化時期)
 想定巣穴生活などで生き延びた哺乳類がその後どう巨大化したのか。

  6500慢年前 **********************************************磁場逆転
        エオマノドン(70kg・1.5m) 豆
  
  6530万年前 **********************************************
        カルシオプトゥクス(40kg) ヤシ(花粉=昆虫)
        
        
  6570万年前 **********************************************磁場逆転
        プルガリウス(40g(巣穴))     シダ
        メソドマ(50g(巣穴))       菌類
  6600万年前 イリジウムの地層 ****************************

 欧米でも中肉中背な諸氏の方が圧倒的に多そうだ。
 そしてそういう中肉中背以下のタイプこそが、スモールワールドを形成しやすいため、地球的事情での大量絶滅の場合、偶然性込みになるけれど、種として生き延びる可能性を担いがちと想像できそうだ(6600万年前のテレビ番組とブルーバックス三畳紀末の事例から素人老人が空想して強引に推理してみると)。絶滅種に入ってしまう場合もあるから、その場合でもがっかりしないように。

 当分は現生人類は蔓延(はびこ)り続ける。喧嘩それも戦争も辞さないノリでヒトの一面の方に引っ張られ過ぎると、戦争による悲惨というよりも先細りの自滅へと向かいかねない、という想像の方がしやすそうだ。
 各地にヒトが溢れて様々が可能になってきたことにもっと自覚的でないと・・と素人老人空想からだと指摘してくれる感じだ。調子に乗って、他人をこき使って使い捨てにする(たまたまの豊かな生活の)その先の短いサイクルは史実としてそれなりに残ってそうだ。ただ英雄物語的な話に向かないエピソードだから歴史家は採用しづらいかもなど素人老人的には推測してしまう。
 自らが仕事(=(広く突き詰めたところから掴(つか)める意味合いとして)遊び)と関わる技量を身につけられればられるほど、仕事は楽しくなって、それゆえに可能になる仕事の様々が更なる技量を欲し、身につけできることの数々を楽しめ、だけどそのうち老いに気づいて、実質上は引退のような仕事との距離ができて、若者たちがその老人に教えられて一人前に育ちつつあり・・・もう少し前に熟練まで育てられた中年層が、老人を励ましつつ、無理に仕事に打ち込むよりは悠々自適の晩年にしたほうがいいんじゃない?!とか進めてもなかなか受け入れようとしてくれない頑固職人になっていたりする。
 だから若者たちが爺ちゃん爺ちゃんとかさんざん口にして、気持ちよく引退生活を満喫してもらえるほうに誘ったりもしている。
 そういう頑固職人的に生活できれば、たまたまとんでも裕福な生活をしていようが、若者たちをそだてつつの職人生活を続けるので精一杯という諸氏もいらっしゃることだろうが、戦争的喧嘩をふっかけてほとんど無関係に近い人々まで巻き込んで悲惨な目にあわせてしまうような人生よりは遥かに生きがいにつうじるのではないか、など素人老人だから、いつでも余計なおせっかいをつい焼いてしまう。

 ことしのオリンピックのメダル作りをワールドニュースは報じている。
 フランスチームでそのメダルを得る活躍をした選手諸氏には一等賞で8万ユーロ、二等賞で4万ユーロ、三等賞は2万ユーロもらえるとのこと。
 メダルは700トンのプレス工程を経て出来てくる。
 一個に2週間。合計5084個。直径85㎜で厚さ9.2mm。銀に6gの純金メッキだから、今だとかなり高価なものだ。ついでに中央にエッフェル塔の削り鉄のデザインが埋め込まれている。

 同じくテレビ番組ネタになるけれど、通販のみで売られている雑誌が50万部近くで安定的に売れている。
 ただ収支ということではその媒体を使っての物販やマーケティング(多業種他社がデータを知りたがっていた)が多くを占めている。
 それはそれ、一方、現列島環境での紙を使った雑誌販売は、西暦2010年の頃4000万部近い。それが2022年には1500万部ほどだ。
 宣伝媒体として諸雑誌が大いに稼いでいた時期の話を介護職仲間から偶然聞けた限りでは、個人の収入すらがべらぼうな桁のように受け取れた、とだけ紹介しておきたい。
 ヒトの心理として、通常の判断が通用しないような事態に不慣れなままだと、堅実にそれを貯めて将来につなげるということが難しくなってしまう(と推測できそうな)ような話も聞かせていただけた。
 人口の趨勢からしても、スモールワールド化はリアルそうだ(持続可能性的観点からは適しているかもしれないし、追々巨大産業ともどもの現生人類の無茶の始末がつくのかもしれないし)。

 そこで今回の最後に、高度成長の結末を記憶されている現役世代も大活躍している時期だからこそ指摘してみたい。
 給料も上がって・・だけどいつまでも先行して物価が上がり続け、時に国際環境が色々不可抗力的に生活の不自由をももたらし、それがクリアされたらまたもや他のどこかの事情がめぐりめぐって物価とか品薄とかに影響し出してなどなど、給料面以外でも落ち着かないことが繰り返される。
 それでも組合が頑張って賃上げだとか声を上げてくれる。としても無い袖は振れない。 もう少し内実的には賃上げが組合の役割と見なされるようなことを繰り返したために、事情如何に関わらずの賃上げ要請ということで、組合自身が困難をわざと引き受けるような運動にしてしまうような趨勢も生じさせてしまう(素人老人発想からだと、経営の様々性を想起した場合、また資金繰りを詰めに詰めて金融機関も含めて工夫し合って持続性を可能にしている膨大な企業の内的には相当ないい仕事をこなす技量の集積を可能にしているような各所が、そこで返って妙な無理に誘われそうな辺りも指摘できるのではと素人老人の年代になっていても想像したくする)。
 薄利多売的ないい仕事師諸氏がいてくれる幸せな、とか偶然的列島生活との出会いとかが持続的にしておけることも、オルタナティヴ発想としてはいいことのように思えるが諸賢・諸氏においてはいかがなのだろうか。
 ここらはムードとしての物価も上がれば給料も上がる好循環をプロパガンダに選んでそうな‟外圧‟(と素人老人は観察しているがここらも諸氏に問いかけてみたい気がする)が蔓延りがちにしている2024年初春だから、説得力を発揮しそうにない、くらいは素人でも老人だから感じることくらいはできる。
 だからもう一つ、何度か指摘してきたことをもう一度。
 そうやって物価上昇(それと並行する産業の動き)、給料上昇を繰り返すうちに、その起源を知らないだれかたち(若者層とその(老いていく)すぐ先)が現れるために、前提が違った発想でもってその趨勢に参入してきた連中の中には、その水準すら我慢ならん、とか、野心からか、なんのか、欲が出て、もっともっと儲けたいという心理的爆発を実際に表現してしまうタイプ(列島では俄かIT長者が派手に有名になったりした)が出てくるし、稼いだ金(支払い手段)だけではなしに、借金とか金融の様々を使って、資産増殖に走って、桁違いの上げ底状態の支払い手段拡大を生じさせてしまう。
 ゆるやかなバブル操作は好循環だとか当時うそぶいていた人々はいなかったかもしれないけれど、バブルそのものをいったん始めたらやめるわけにはいかないよ、と評論の長谷川氏などはテレビ番組でおっしゃっていた。
 多分、ゆっくりバブルも含めて発想の危うさへの警鐘をなさっていたのではないか、と今の素人老人はわかった風を装ってみたい気もする。
 とりあえずムードはムード、でも、その行先については一度経験済み、の辺りを覚えていらっしゃるなら、軌道修正は外圧があるからといって遠慮はいらないのでは、とかも老いぼれの余計なおせっかい発信になってしまう。

 

   川柳もどき

    ちょっと自転車で散歩・・・なんて気楽に出る
     数十分の距離だとやっとリズムが出てきた感じ
      もう少し、もう少し、もう少し・・・・
     てなわけで、いつもどおり
      2時間は走るコースを思いつきのルートで
      選んで
       実は3時間くらいかな
        そんな呑気な自転車散歩は
       日が伸びてきたから

 

連載は続く~ SF掌編『承前・・・雪解け水が騒がしい』編


 前回の文章はノリがいまいちだったか年寄ゆえか、清書が要る感じの読みにくい誤字脱字系が紛れ込んで読みずらそうになってしまった。一気書き込みでもノリが良ければ誤字脱字がごく少ない、というのは不思議なことだ、と老人年代ながらそう思えてしまう。
 時間が許せば(というよりはその気になったらの方がリアルに近いが)近いうちに清書して読み通しやすくしたい、ものですね。

 さて読みずらいながらに、それなりの言いっぱなし系を発揮させてもらって、説明も必要と当人的には感じており、そこらを少々。
 たとえば民主制なりを志向する向きに是であるならば、なぜ戸別訪問系に厳禁など指摘したのだ?とか疑問を持たれそうにも、振り返れば感じることができた次第。
 考え方の基本に、議論の質を保ててその議論を展開(つまり線形に一方通行的に同一関心ぽく話が進展しやすいイメージよりは、様々に脇道もとらせ、本題よりも逸れた方で話が盛り上がってなにがしに気づかせたりとか、ドラマとか小説とか話術系のではなくどちらかと言えばリアルに近い方での(偶然の出会いに満ちている)人生ドラマの展開のような感じで受け止めていただけたらそれに近い)するほうに促し合える関係が成り立ちやすくなっているか否かの辺りに、必要性を感じる関心。
 だから政党間には議論の展開をむしろ邪魔し合う力が働きやすいと判断されるなら、政党を前提の話にしないで新地(さらち)のところからの解決の方に関心が向くことになる。 政党内に仲間意識とかことばの個々観念性をことばとして指摘し合うことがないとしても、わからなさ加減について相互的に率直な指摘が可能で、説明とかの機会が適時採用され、それらが辞書的な理解の仕方を強制されるものではないくらいのところでの共有場が成り立っているようなことを、その仲間意識とか内輪とか同志とか列島生活の人々が使い慣れた言葉の範囲ででも、可能としていけるならば、議論可能な集団の営みと見なせる、といった辺り。
 だからできればヒトについての全体的知見を研鑽しつつも暫定的な共有領域を育てあえている状態がより相応しいし、暫定性を意識出来ていることで決めつけ議論の落とし穴をいつも避けていられる。
 自分以外の人生をも相手にすることになる刑事事件の捜査担当諸氏の複雑さの一面ともひょっとしたら似ているのかも、と(横山原作ものでも情に流すようでいてもう少し厳しめな観点が注がれているタイプを参照してもらえれば)テレビドラマを見過ぎている素人老人はニュアンスが伝わるかものたとえに使いたくなる。

 素人の老人の思いつきが日本語でいう思想とかの類の欧米出版の膨大な蓄積にどうこう指摘しても多分、どうってことないと思えるので、そこらを率直に指摘してみるだけなのだけど、民主主義とか民主制の内包について日本語的にも独り立ちできるだれかたちを育てることに熱心に、本気になれる人々のことを想起できる時、どの土地でもその一端をしっかり育てあってきたろうなくらいは、欧米の諸氏が他の歴史的流れをどう押さえていたとしても一応指摘しておきたくなるのが素人老人だ。
 そしてその時に、欧米系が無理をしている、と気づけてしまう。理念としての魅力はともかくそれを形にするにあたっていかなる工夫が持ち込まれているのか、持ち込まれようとしているのかが、戦術のパーティ手法の多用とかハグ挨拶とかからしても混乱を誘ってしまうわけだ。それって民主制を支えようとしているわけではないパフォーマンスだよな、と強烈な印象を誘うわけだ。
 しかも邦訳されたりもろ日本語使い諸氏が民主主義とか民主制を既成前提の話を読めたりすると、むしろ未完の民主主義や民主制の理念具体化に向けて、どうしょもなく困難を抱えてそうなことの方がより強く印象させられる。
 ろくなもんじゃないが民主主義よりも相応しいのが見つからない、の類の論は、民主主義があるていど現実的に作用していることを前提のことば使いとして受け取れる。
 素人老人からすると、民主主義とか民主制を実際的な状態で営めている状態をもたらせるかどうかはわからないけれど、理念的に構想できているいくつかをとりあえず具体化できるように努力し合えている状態は、個々の尊厳をそれなりに尊重し合える場を構成しやすくしそうだ、程度に、その難しさの度合いを感じつつ、それへの志向には是としたくさせる。
 代表制なり、段階的に、現代のような国をめぐる組織群を創始しておいて、段階的組織編制発信の数々をすべて相手にして実際的な時間内に応じることは不可能だから、各地の小さい組織のところからより広域を扱う部署に上るにつれて取捨選択されて数を絞っていく。こぼれが発信が小さいところで、解決できる範囲で採用される、ということもありえないわけではないけれど、より広域に関係する発信の場合、解決もなにもあったものではなくてより上の広域に権限を発揮する部署での採用が欠かせない。となると、取捨選択は実際的利害としては避けられないとしても、時々の利害関心からの取捨選択任せで選ばれた案件のみ採用され続ける仕組みは民主制とか民主主義とかのことばで言い表せるなんらかで語ってしまえる事態ではなさそうだ(と素人老人は見なしたい)。
 決定に当たっても当然のように多数決を持ち出すし、乱暴なやつ(と冷静に指摘してしまうが)だとそれこそ民主主義の約束事のようにことばにしてしまって自慢げだ。
 時間を限って決めたいことが議論の決着がつかずに先延ばしになっている。これもまずい。だからヒトの集団の営みの都合から多数決も是として応用されてきている。
 全会一致でないとダメだくらいに集団的決定の危うさとして慎重な仕組みを採用してきた集団の営みもこの世の中ではありうることを学問発信が色々紹介もしてくれている。
 列島の古代史においても、権限上、権威関係上のトップが制度として具体的なだれかがなっている時に、ごく近くで関わる(側近、取り巻きとか)その関わり方も(時代的、時期的、配置的ほかとして)様々に侍従、蔵人頭とか外戚とか側用人とかリーダー層が足を使って自らによる現情勢把握に挑戦的意欲を持たないと手前で情報取捨選択された事態に対応するのみのような権限なり権威の実際を呈してしまう。
 鷹狩に出ようとか、吉野詣だとかとにかく引きこもっていないで済む発想は欠かせそうにない。
 民主主義とか民主制ということでは一人一人にとっての似た機会を人生においていかに使いこなせるだろう。やはり個々にとっては制約が多そうだ。
 集団の営みとして初めてより多くを素材にできてしかも集団の知見の寄せ集めのようにして、時期時期の見解を編集可能となる。だから民主主義とか民主制ということの実際は理念的志向の辺りの重要さを意識出来て、しかも実際的現時点での可能性を探り続けるような動的把握、落としどころ探しが貴重となりそうに素人老人は押さえたくさせる。それらを強引にそれこそが民主制だ、とか民主主義とかいってことばの営みを混乱させることはないと察する。

 

   川柳もどき

    雪のあとも、寒い
     寒いけど出かける超・高齢老人
     1月も陽ざしを強く感じたっけと年寄発言
     2月も薄い雪原に
      キラキラキラキラ、キラ、
       まぶしくて
        こんな気分を味わえていいんだろうか
         な、老いぼれ