連載は続く~ SF掌編『昔の民主はやがて中央集権化をも探らせる』編


 古代列島においては中央集権化を大乗仏教の列島在住勢力からする解釈において採用された方向性も主な主軸としてある時期から邁進(まいしん)されることになった。
 ということで当時の主流の一派にとっては各地に信仰の形が数百年間規模(西暦300年近くと400年代に入って以後のと)で育ってきていたのだから(そして移住前のこの時点では忘れられていたかもしれないけれど半島での集団の営み、各家庭での営みにおいて営々と継承してきた信仰の形=色々性、各土地柄性ほかが列島での分散的集住を経ての・・)信仰というヒトにとっての営み、集団の営みとも密接な営み性質を想定できた時の困難さ自覚から、仏と各地・各家庭での信仰とをどう落ち着かせうるかをめぐっては相当に工夫を重ねたくさせていたと、素人老人的には推測したくなる。
 村山修一著『本地垂迹』('74 吉川弘文館)の目次など参照もしながら、いかになどつい考えてみたい方に誘う。
 それにひきかえ、廃仏毀釈の方向性の歴史的振り返り不足は明確と察する。
 どこかしら起点において勘違いから出発してしまっている。習合の実際とか経過についての考察を経るよりは、かくあるべしの理念先行タイプでの暴挙に誘われた感じは否(いな)めそうにない。
 ただ大乗仏教を採用してそれを軸にも使って・・・という事態についても、当時においては、他の通じやすい常識の各地性を相手に説得を伴わせたことを想像できるなら、そしてそこになんらか説得の背景をなす権威っぽい辺りに気づけるなら、今時の欧米、欧米と言えば近現代においてはリーダー役を買って出た勢力と見なせそうだけど、長い歴史においては新参者だったわけで、各地性が濃い古代列島での中央集権化をめざした人々と似ているところを見るならば、同様の困難を抱えてそうなことにも推測は及ぶ。
 権威を保てなければ、こちらが安心・安全のための様々を理念とし、その理念に相応しい概念を用意して地表面各地に普及したいのにも関わらず、言うことを聞いてくれなくなってしまうのではないか、に関わる極く重いタイプの心配性を意識しつつ、また意識できるから表立ってそれを表現しない慎みは実践しながらも、つい、心配性の方が勝(まさ)って規則・ルールの類を新規に持ち込んだり、変更したりで地表面秩序へ揺さぶりをかけて、覇権のなんらかを保とうとしてしまう。やって少し成功しても、実は信用は下げてしまうリアルを内心感じ取れる感受性は(リーダー役だからこそ)働くので、いつでも後悔くらいはしているけれど、長期政権(19世紀以来だから)ゆえのこだわりが既に埋め込まれていて、立場を変化させることにも心は動きにくくなっている。
 列島古代においては、事業を進めている過程では、各中枢が元気そうだ。
 けれども、人脈的に連続と見なしておかしくない鎌倉期を迎える頃の落ち込みを鎌倉の刺激程度では賦活へと誘えないし、室町の貿易系も官製だからかなんなのか、賦活材料にしきれないまま、各地性の元々の元気度合いゆえに中央官僚派遣というよりは武断系の派遣の形がある程度普及を終えて傍目には混乱のようなことになって、列島は大混乱の時期を迎えてしまう。
 とはいえ、多分の話だけど、一般の中から兵隊を誘ったとしても、一般の継続的集落を全滅し尽くすようなことにはなっていないはずだ。

 武の中央官僚層が族として各地に展開もして実態を(現地の人々も含め)事情通諸氏、学問系が余程丁寧に調べてくれないと、だから実際の今に至る過程・暫定的現状のことはわかりにくいとは素人老人的に思ってしまうが、それでも、百年タイプ、数百年タイプ、千年タイプ、二千年タイプくらいは数の多少のことはおいて、列島各地に探せそうな気がする。
 数百年タイプくらいなら、江戸期以来ということで探りやすい。
 列島在住で長い人々は、個々性にこだわれるタイプだ。
 また村などの集住においても、時代相からの影響はあるものの、各家庭単位での好き勝手性は尊重され合う。
 それらを村のなんらかとして納(おさ)め合う。落ち着きどころの結果が村の姿として観察されてしまう。
 https://www.soumu.go.jp/main_content/000273900.pdf
 を参照してもらいたいが、関東平野部、見沼代用水をめぐる小史をご存じならば、米作こそが人口増を促(うなが)したらしそうだくらいの推測へと諸氏を誘(いざな)ってくれる。
 昨夜の時事ネタ報道番組にて『最大の課題「人口減」 公共サービス消滅危機 働き手不足に緊急提言』をテーマにベテラン・若手両キャスターの進行にゲストの加藤氏、増田氏が現状解説と提案などを盛り込んで、視聴者諸氏において恐らくこれからの列島事情と密接なはずと関心をもたれたのではないか。

 富山の知事森氏がコンパクトシティの発信源のお一人らしいことを知るまったく素人の老人なわけですが、それはそれ、としてゲストたちはその案にばかりとらわれることなく話題を持ち出してくれている。
 列島の集落の歴史を知ることで、持続的タイプと世代ごとに衰亡してしまうタイプの違いくらいは明確になっている。
 農村は機会が訪れるなら、莫大な人口圧を発揮し始める。これは明確だ。
 また列島農村の多くは少なくとも数百年は継続させてしまうことも明確だ。
 その集住のあり方は、寄せ集めたりしない。それぞれ性にとっての距離感を保ちあえている。身内での分家の仕方が土地の狭さからうまくこなせない時の暫定的なあり方が固定的仕組みと勘違いさえしなければ、趨勢としては距離を保つ棲み分けだし、個々の家庭の事情に余程のことがない限りで、放置の方を選ばれる。大局のルールの時代相とは村ぐるみだったり各家庭だったりの工夫で望む。
 それと比べてしまっては失礼かもしれないが、近現代輸入物の集住形態の多くは、若夫婦は同居したがらないコミュニティ、高齢者コミュニティとなって、追々土地の造成段階から作り直しの対象になってしまうタイプとして明確だ。
 そこらへ素人代案は示しやすい。
 割り切って、その手の輸入アイデアタイプで集住宅地を造成するならば、一世代は晩年まで住めて、その後、住宅の耐用年数期間は、一時的に住みたい夫婦ものも含めた人々に済んでもらって、その後解体となる。また次の一番目の世代のために設計し直される。
 けれども、そのタイプは、高齢者どうしの介護家庭とか、高齢者独居宅とかで埋まりやすい。日々の生活そのものがリスクたっぷりな空間となりうる。
 次に住むのはやがては新居に移る前の暫定的定住の人々の使い捨て感覚コミュニティになる。
 また集住させすぎてそれに応じたキャラを求めさせてしまう大都会タイプの密集住タイプもそれなりに成功させやすいけれど、高エネルギー消費タイプであることは避けられないし、メンテナンス費用はべらぼうとなる。そういう特異な経済圏を保ちつつ、列島をまとめてどう営めるかを考える官庁なり大企業なり産業全体の担い手と各家庭を軸に学校とか手続きとかの役所とか公務系の仕事場と買い物ほかの経済要素なども、特異な地域をどこまで容認しるか、考えどころと察する。
 不可抗力対応にはなんらか支払い手段の余分が臨時におおいに役立ってはくれる。助け合い以外の外部性が必要になったりするのだから、といった当たりがヒントにできる。
 しかも持っているだれかがその急所感覚を持っているかどうかでも事態は違ってきてしまう。助け合いのなんらかと関与する感じで持てる支払い手段をつかいこなせる日頃のリーダー層的観察眼を持ち、万が一に備えた思考の積み重ねが日常にできているかどうかの辺り。
 農の営みは条件が揃(そろ)うととんでもない人口圧を発揮してくれる(必要不必要感覚はともかく人手が豊富で将来安心発想が根強い。二けた人数の家族が当たり前)。
 そのほかはどちらかというと、人口を少ない方に誘いがちにする(たとえ発明家一家であっても堅実な生活志向)。
 列島は農政(と国つくり)の将来展望作りを怠ったために、より人口圧を減じる形ばかりを経済系が発信して、今の結果を招いている面も指摘できそうだ。
 効率を求めたり、利益を求めたりを動機付けに誘導するのは、単調な目標に向かう単調な判断の範囲に誘う、で、ヒトの世の中の営みにとってはろくなことに誘いそうにない。 個々の仕事における効率は熟練が自ずから改善しまくってくれる辺りは常識だったはずが、マニュアル下敷きの促成栽培型を安易に輸入しまくって失敗へと誘ってしまっている。(たとえば介護で適切な仕事をなしとげてくれるタイプのベテランの仕事の結果効率的なあたりは参考になる。手抜き上手のベテランの方もその線で参考にできるけれど)

 各業種の現場がつまらなくなっていそうだ。忙しだけで、給料はそこそこ・・。
 熟練の過程ということを持ち込めるなら、何かを覚えてこそ可能になる仕事の質・量といった手ごたえを感じつつ、更に欲が出て技能・技術・技量を習得し続けられる。そこに終身雇用の安心感や達成感や、(子供の学費にも使えるくらい)ちょっとずつ上昇する給料とかの期待を伴わせて日々の習得と地味な仕事とが張り合いと結びつくようにもする。
 多少忙しいくらいの方がもめごととか、雑談上のトラブルとかを招きづらくもしてくれる。日々の達成の後の一杯が世相的に赤ちょうちんの頃もあったし、今時ならちょっとお茶とちょっとの食べ物とかでその日のなんらかを語り合って帰宅ということもちらほら程度はいそうだ。
 仕事と生活のバランスは実質的にヒトの営みと関わることだから、そこらの達成度合い次第では海外からの技術・技量・技能の専門的達者な人々がわんさか列島の職場めがけてやって来たくなるということも空想より起こりそうなことだ。
 介護部門の人手不足は多少の給料上昇くらいでは解消しなかった。
 介護技術の習得の現場での工夫が最も大切な辺りを経営層が教育ということで担えるようにできるか、その支えとしての経営そのものに、収入源を介護保険のみではない工夫から広げていけるのかどうか。そして今浪費している分野から介護サービスにお金を使う循環を育てていけるのかどうか。どの分野にもそれは言えるけれど、そこに分野別に優先順はつけられるはず。

 能登半島の場合、表面の不安定な堆積土壌については、ネット資料がおおいに参考資料性を発揮してくれるようになっている。
 道路復旧に当たって、崩れることを前提に道路網を設計し直せるなら、という夢・希望・期待は素人的に持ち出せる。
 上下水道なら、折れやすい箇所をわざと敷設する工夫は必然として昔から採用されてきたと察するけれど、より、折れてくれる箇所を上下水道知見をもとに、適切な長さを用いて設計し直して、大地震の際の注目点は緯度・経度から探れるようにして置ければ、そこをまず点検して(ないし揺れ対応の壊れ具合検知センサーがついていればそれの信号で判断)、それでも漏れが生じているなら、他を探すしかないということになる。
 トイレも田舎事情ならば埋め立てタイプで立地選択を誤らない限りで、しばらくを耐えられるようにする。簡易トイレ必須、排泄物は埋め立て処分。そのための道具は地震前に定期点検込で日頃のメンテナンスが仕事の一つになっている。
 高齢者が多い土地柄ならば、月一くらいの定期でたとえばNHKテレビでお馴染みだった青山流を習っておけば、年寄どうしの介護でも腰を傷めたりしないで相当な体力差のある老人たちが助け合える。介護関心の発想に気づけるようになると、ちょっとした動作が工夫込みになってしまうことも貴重だ(救急時にも、日常のゆったり事情にも対応可能)。

 ホコリは風のひと吹きでキレイに霧散してくれる。
 土地に馴染んでということは集団の営みとも好い相性が育っていて(個々の家庭がいい距離感を得ようとして、ある暫定の進行形にあるとか)、苦楽を伴うにもかかわらずの辺りへの受容も育っている、といった辺りに気づけるとき、代案なりが思い浮かんでもおかしくない。
 若者たちがそこで同じか違うかも含めて、将来的な営みを構想できる土地柄として大人たちが育て、また大局がそこらに突然的急変を関与させることなく(事前に変化を打診できるとか一方通行性を慎める)ないし更に外部の変動が中央集権化以後の達成度合いからする関与によって変化の困った要素を緩和させるなどの数々が関係し合える環境も用意できて、列島各土地柄は後継者不足も解消となるのかどうか。

 


   川柳もどき

    列島事例
     各地に、各家庭に引き継ぐ
      信仰の形をはぐくみつつ
      それらが物系、観念系ともに関わらせて
       生活の支えともなりえた確実さ
     時代は変わって
     観念系の造作をいじくりだして・・
     とはいえ
     伝承の長年月を振り返れれば
      各々(おのおの)、諸氏にとっての
       手繰り寄せてみれば・・とても細いかもしれないけれど
       中央集権とはまた違った、個々にとってのかけがえのなさ
      とかが、どれほど工夫して
      まとまり感も並行してそだてているのか
      とか考えてみたりするのも、たまには
      どうだろう