連載は続く~ SF掌編『一端、‟概念‟から離れてみる』編


 一応整合させて概念の類を使いこなす形から議論用のことばの羅列を演じのけるならば、それなりの姿として玄人筋、というよりは標準形を保つことに人生を賭す脈々が、お見事と認知の方で受け止めてくれそうだ。
 だから概念以前の状態として事象を改(あらた)めて整理する必要をだれかが感じた時、ちょっとした野心というか、多少は住み心地の良い住居も自らの資金によって建てたいし、そこでの家庭っぽい集団の営みにも人生を置きたいし、そのためには仕事場を確保しておきたいし、などなどが頭に浮かび出して、標準の問いへ標準の答え方、正解の類で応じることもイメージできるだれかたちにとっては、ちょっとよりはそれ越えの危ないかもの方で受け止めさせそうだ。
 現代での学問に成績優秀な諸氏においても、関心と感受の辺りの反(そ)りから、概念について未然の要素こみからの説明が要るな、と本人のためにもの方で受け止められる事態、事象と遭遇してしまった場合、そこでちょっと挑戦してしまうどなたか諸氏もそれなりに登場するのがヒトの観念系ならでは、と素人老人程度からも想像がつく。
 神とかのことばへと収れんさせていく中央集権化の時期の前後はいったいどうだったのか、記紀をより読み込めばそこらはは、記紀からも探れるのかもしれないが、中央集権化意欲がより勝(まさ)る発想をうず巻かせての事業と想像できるので、素人老人程度の基礎知識から探るのは無謀と予想でき、ならばと専門家、事情通諸氏の著作にそこらを探れるのはないかと一応頭の片隅において、他の色々な関心も含めたアンテナを張っていたところ、たまたま書物の巻末に載る出版目録一覧のようなに吉野裕子氏の著作を見出し、『日本古代呪術』が何度となく原作を元の新版が出ていることも知った次第。
 今は借りて読んでいるところだけど、ざっと、中央集権化以後の事態を素直に受け止めて、そこに伝承を読み取っての作業ととりあえず押さえてみた。
 つまり伝承と受け止めた時点で、既に中央集権化事業が結果する記述がもたらす成果を専門家、研究者が前提にしている辺りに気づかされる。
 もしも吉野氏が吉村編『前方後円墳』での申論文を読んでおられたら、各地性の気づきから、更に、発想を刺激されて、各地性からの各地性と共通性と、共有の偏りとか、散らかり方とかで分類出来て、列島の成り立ちの変遷の各筋の複数性なども見極めてくれていたかも、など、空想を膨らませてしまう。
 欧米が神ということばを使っているわけではないけれど、列島版の文字系は神で訳したことになっている。だからどちらかというと漢字の神を使うものの、概念的な作用としてはむしろパン何とかの脈絡としても、翻訳する元になっているソースの発想の方で列島での事象をつい解釈してしまう形に向かわせがちにする、と素人老人からは推測したくさせる。
 それほどに概念という置き方は工夫も重ねられ、同時期での共有を経ることで成り立つなんらかとしてかけがえのない働きを持ってそうだけど、一方で、その都合だからといって、知ることをめぐる作業に相当な迂回路を知らず知らず儲けがちにもしてしまうよな・・・とかぼそっと口ごもらせたりもする。極端にはインスタントに通用性を発揮する重要な道具立てを用意しつつも、あくまでもその暫定性に無自覚であるとその時期に禍根も残しがちにする、とか押さえて置けそうだ。試行錯誤の機会は逃さない方が無難だ。
 中央集権化を担う人々こそが、個々性にも気づけて、個々の自由を希求するためにもの中央集権化であったはずが、言うことを聞いてもらいたいから、言うことを聞けに状況次第では移ろいがちにさせて、本末転倒の事態を招くこともヒト観念系作動状態での実践の難しさ発揮ということで、今も昔も集団の営みをリードする層は特に、考えたり躊躇したりの時間不足からつい我儘寄りの方で動かざるを得ない巷の膨大な個々(中には信心ゆえの(ご本人にとっての馬力発揮の起点意識が明確かそうでないかはともかく、傍目からすれば)信心のせいにできたと思い込めて他人を害するタイプの挙(きょ)に出たり)とは違って、よう注意項目として意識し続けてもらいたい辺りだ。
 2月14日の夜の時事ネタ報道番組系(BS日テレ版、BSTBS版、BSフジ版)は、その前にBSにて地デジ番組を見ることが偶然にもできてる今日この頃ゆえ、田中角栄氏の人生とからめた政治劇の顛末について要約的に整理された辺りを相当に年取った時点の素人として受け止めさせてもらって、それを加味した感じで興味を持って見聞させてもらった。
 3局の番組については長くなってしまいそうなので後日となりそうだけど、角栄氏の番組のことは少しだけふれておきたい。
 マスメディアが動き、特捜が動き、安泰以上の立場を実感されていたかもしれない政治中枢に動揺が生じる。
 近過去のトランプ政権が、素人老人の想像を超えてマスメディアが問題視する発信を盛んにしていたくらい、パンアメリカーナをまとめあげる作用系・各人脈の活躍は堅固な方で準備してきたと逆に素人老人的には想像している。
 そこらから敷衍(ふえん)して、角栄氏の番組でも紹介されていた当時の中国中枢訪問という出来事がパンアメリカーナの都合をはみ出してそちらの都合からすれば踏むべき階段の順を無視して数段飛びくらいしてのけたような出来事にしてしまった辺りと素人的な想像を誘う。
 毛氏、周氏らはパンアメリカーナの具体的脈々であるよりはもう少し身近に感じる情勢を生きておられる。むしろ膨大なとりまきの脈々としてパンアメリカーナの機能とともにで動く人々がおられる。ここらは、地表面秩序を探る間柄を意識し合える脈々としての切実な辺りを百歩以上譲って押さえておくことも大事と察するけれど、対立軸として機能しうる要素の強力な端々の一部が突如、その典型の相手と固く握手してしまうのだし、テレビ中継できる時代でのショーにもなってしまって、パンアメリカーナ脈々としては驚天動地の出来事に近かったのかも、などいかにも素人で老人らしい受け止めをしたくさせるが、田中氏個人の一方からすれば暴挙の類だとしても、平和友好バイアスの方での接近なのだからその一人の行動力が、パンアメリカーナとはいえ対抗の相手とも友好関係を結ぶ必要ありの方へ即座に誘ってしまうようなバイアスをもたらしたことは年表を見るだけでも素人諸氏は知ることができるわけだ。
 散々弁証法役割分担の方で相手役に仕立ててしまってコカ・コーラペプシコーラかで区別するしかないようなことにしていた当時のソ連という相手も追々接近するしかないはずだという準備し過ぎた役割分担を編成変えするようなタイプの超超難問をはらませてしまう。
 左右中の役割分担作業によって極端にぶれやすいし政治的に有力にもなりうるだれかたちをあぶりだしやすい装置を捨ててまで友好関係を築いて交易重視の方に舵を切り替えてしまうのか、それは危険要素か、そこらは19,20世紀推進脈にとっては、荒っぽいころをしなくて済むようになるかもの観測も成り立つだろうし、一方に、積極果敢を勘違いして暴走するどこに生じるかもしれない危険因子の探りにくさに通じる辺りへの警戒をいかに機能させるのかなど、どちらをとればとか、両方だ、とか、地表面相手での秩序形成を摸索する脈々としての心配くらいはスパイドラマにも馴染んできた現代の人々ならば、きっと想像できそうだ。
 計画化して、単調に分配を待つシステムを空想はできても、実際に、満遍なく、万が一においても不都合を生じさせないタイプの円滑さを計画的に保ち続けることは至難、というよりは、現状無茶、とだれもが口をそろえられる。
 経済学においても、値段の動きが消費の動きを映してくれる働きは凄いから、そこは計画頭過剰であっても、踏み込み過ぎないように、と注意報を出してくれている。値段が恣意的にに操作されての結果だ、とかがわかったら、むしろ、市場原理主義発想ではない発想になるけれど、物の動きの過不足に不都合が生じないように値段が消費行動の実際をリアルタイムで映し続けてくれるように調整に入る。
 ただ、今時のように、外圧的不可抗力要因からやたらと物価上昇してしまうような場合、外圧要因だから、できれば、常日頃からの同じ経済圏内での自給力を高めて置けるなどの準備が要りそうだ。外圧系がそれに不都合を感じて文句がでるようならば、戦争をしないやり方の選択を求めるくらいは政治なり行政各部署が常日頃から接触をもって工夫を重ねておく必要を素人老人なので気楽になってしまうが、指摘だけはしてみたい。
 今時は更に気象変動由来での価格変動もありだけど、そこらは助け合い系の発想も加担させないと、長期には通じそうにないと察する。どういうタイプの貿易にするかの地表面条件の変動に応じた切り替えくらいを経済の発想から準備できるくらいのネットワークは構築できているのでは。(巷次元での価格の大幅変動を避ける、物の動きへの関与可能な交易要素への関与)
 色々な商品を売れ残り前提に大量に試行錯誤する売り方は、当然、無駄な売れ残りを出し続ける。そこらへの関心は業界が持っていそうなことはニュース報道からも知れ渡っているけれど、これまでの蓄積があるから惰性の膨大量が売れ残りを膨大にし続けていそうだ。
 日々の飢えが問題な各土地柄からすれば、トンでもな事態だ。
 列島での格差問題においても、それはなんとかならないか、で代案は試行錯誤され続けている。
 けれども、それがどうしても弥縫(びほう)となってしまうのは、そちらが拡大すれば、通常の売買の市場(いちば)に跳ね返らせかねない、からだ。
 作った以上は出回ることはないとしても、無視できない売れ残り処分が続く限りで、通常の売買を圧迫するようになってしまうから、それを避ける方での発想が市場(だけではなく、通常の生産流通消費の温存)利害から当然勝って、たいした助けの事業化には成し得そうにない。
 類推してもらいたいのだけど、農家が土地に固執して終身雇用を自らが営めている状態を前提にできたとき、会社勤めでも、部門ごとに、終身雇用でもかまわないかどうかを今から改めて検証し直す手もありそうに思える。人によっては、自らが不安定かもしれないけれど常雇いの立場を選ばないケースも含め、部門に必要な雇用の形態のいくつか程度は経営層が想定して、必要な人員を雇い入れる。若気のいたりから、初期、そう自ら選んだけれど、どうやら自分には向かない就業の仕方だったと修正できる機会もありだ。
 そういうことを前提にした雇い入れの形の標準形くらいは経営意欲をお持ちの諸氏ならば、描いて準備できそうだ。
 原点の農村を想像して、とはいえそれすら様々性を有しそうなことは忘れないことにして、そこでずっと働いて熟練して尽くしたいというだれか、仕事を充分に身につけて独立するとか、他で試したいとかいうだれか、人生の何割かを稼ぐことに使いたいというだれか、そこで会社経営まで学んで後継者がいなければ自分がそれを買って出たいというだれかとかが集まってくれるようになれば、経営のだれかたちにとっては、張り合いのある日々となりそうだ。会社仲間ごいっしょツアーを特に心がけてみたいなことは、特には必要がなくなっていそうだ。
 医療・介護部門になりてが足りないという場合、他部門から人がやってくることで解決するということくらいは指摘できそうだ。
 ならば、現状、他部門は余剰だらけなのか、という問いも可能になる。
 どこもかしこも人手不足さ、といったあたりが想像しやすいと察するがいかがか。
 既存の就職機会を求めて新規にそこへ参入しようと意欲するのだから、既存性の辺りはミソだ。
 もしも、既存の状態に、なんらか優先順を付けられるならば、現状、どうしてもこちらの部門に人が集まってほしい、ということで明確化する。
 それが医療・介護部門ならば・・ということで、なんどか指摘もしてきた。
 人口が少ないし、これからはもっと減っていくんだ、ということならば、で、米作農業の工場タイプでない働き方(伝統的終身雇用タイプ)が人口圧を発揮させやすい辺りを先日ふれた。
 どの部門にしろ工場化すると堅実な方が相当なバイアスを発揮し出す。
 では農村での人口圧が発揮し出して、いつのまにか1億人以上のついこの間までの列島人口環境が持続しているとして、現状のやり方での農村で常時過剰人口を養いきれないのだから、各地へと人口流出は生じる。近場かもしれないし遠いところへ、ということも起こる。
 百姓が農民のことと勘違いするタイプの農村だらけの頃に人生を出発させた角栄氏は各地に道路網と工業地帯を広げて、豊かに貧富格差解消策を目指した。
 サービス業とかにも人々は動き、不動産部門が開発地先読みの先買いで土地の価格を動かし始めてしまう。
 価格と消費動向の映しの働き上不都合な関係が生じている。
 政府や行政各部門の活躍の目論見の通りにはなかなかいきそうにない。
 計画が出過ぎれば必ず(なぜか)モノ不足障害を生じさせやすいという知見は地表面上経験済だ。膨大量、膨大品種の物の動き相手の場合、個々の意欲、自発的動きの結果を適格にフォローする方がより相応しい結果を導ける。例外とか、不可抗力とか他の条件を無視していいということはない。また市場原理発想的な放置とも異なる。経験からする理念的関与の余地はいつでも作動状態にしておくことは、万が一への準備と密接だ。
 農業以外にも就職することになる農村の人口圧を列島の各地が吸収して、人生時間を共にし合うことになる。
 ここらは、格差問題の要所、消費したくても持ってない層への仕事と結びついた稼げる状態回復策が必須の辺りと込みに、人口圧を生じさせるまでは何とかなるとして、その先のことを考えるばあいの参考にできそうだ。
 典型的にはやくざものにならなくてもいくらでも気に入った就職口を探せるし、それなりに良い消費者としての快適生活がだれにも可能になるとか就職年代になっての心の不安定にも充分に応えてくれる環境も行政各部門や巷の活躍層が動いて賦活状態にしておけたりがそれなりに役立ちそうだ。

 


   川柳もどき

    戦闘本となると結構危ない要素もつまってしまうが
    サバイバル系に限れば
    地表面各地での飢えに近い各地におけるちょっとした工夫の発想へと
    誘ってくれそうだ
     その膨大な細かい知恵のたぐいに向けて過激になって
      各地の知恵の面での助けになれる過激派だったらその次へ
      のステップにもなる機会提供ともなっているので
      そこから地元の大富豪が誕生して、そこでの雇用機会が突然
       巨大に生じてのようなこともいくらでも起こりそうだ
      そのためには
      (多少騒がしくても)平穏で無事な巷がなにより