連載は続く~SF掌編『何冊か、急ぎ読み中』編




私:リチャード・ブリビエスカス著寺町訳『男たちよ、ウエストが気になり始めたら、進化論に訊け!』('18 インターシフト)に早速目を通した。
君:あなたでも、少しは気になる、わけ?
私:関心というなら、バタイユ氏の線。
君:ふーん、そぉお、で・・。
私:勝手に話すので、聞き流していただければ・・・。ということで・・。この本を読みだして直ぐにぶつかった大きな前提にきづけた、よ。生き物は生殖活動して子孫を残すことで役割を終え、ついでに生も終える、っていう仮説への思い込みは啓蒙=近代化へのうねりとともにあるように受け止めさせたんだ。だから(啓蒙運動の主線)欧米系の人々にとってはそこはあたかも当たり前のように思考の基礎にするくせのようなのが働いていて、くせということで言えば、そうくせのようにする内実を世代の間で継承してきたのだろうな、と思わせる。でもバタイユ氏やエリアーデ氏らは繰り返す(個人の死という”中”断は折り込み済み)こと発想するからそういう人々も同様に含ませてはきている。小さな死であり、永劫回帰(子孫を継いでの、だけ済まないはずだから)だったりする。幸いかどうかはともかく列島生活してきている人々にとっては長寿を喜ぶし、長生きだったそれで当たり前にもしている。そこらは生殖活動しているしていないなんていう観点がつい想起するような発想でないところで通っている。ただ男性はあいまいだけど女性にはハッキリした区分の時期が伴うという違いくらいは意識されているし、普段は忘れてそうだ。
君:そういうこと、なのね、とはわかるけれど、一体、なんのために、そういうことを話し出したのかが、わかりにくいんですけどぉ。
私:そね、そぉそぉ、年取ると、肝心なことを言う前置きのところで、目標をうっかり忘れてたり、ね・・・。
君:忘れちゃったの?へぇー、そうなの。
私:一応、冗談ということで流していただければ・・。忘れないうちに、話す。いいでしょ。
君:いいわよ、どうぞ。
私:女性の老化との比較論を展開しようと試みている著作っぽいんだ、ね。けど、前提のところでボク的にはちょっと出てくるべき内容がそれゆえに出ない感がしたわけさ。
君:わかる、わよ。あなたの口癖を何度か聞いてるし。元気なお年寄りが今以上に世間に溢れた時、どういう生活になるのかってこと、よね。
私:だから生殖活動を終えたにもかかわらず生きるヒトの特殊性という観点から入ってはまずいんだ、と世の知賢諸氏には素人というか何十億人もいるヒトの中の列島にたまたま住んでいるきょうも幸せとか思ってるような呑気なやつが言ってるだけということで流してもらって結構なんだけど、言うだけは言ってみたいわけ、さ。口癖のように受け止められているはずのもう一つが賢くなればなるほど生殖活動で子孫につなげる発想はしなくなるだろうな、という予感、予感ということばは迷信じみて、しまう可能性も含ませるけど、できれば、ふとそう予測できるっぽい方で受け止めてもらえるとありがたい。田舎育ちの話をまた無理やり引っ張り出すのを許してもらう。公衆浴場育ちなんだ、ボクは。だからたくさんの女性たちにやさしくされることは、時に厳しくたしなめられることはごく普通のこととして来た沢山の中の一人に過ぎない。それら沢山の女性たちは、メディアが対女性としてスケベっぽく観点を育てろ、と示唆しない限りで、ヒトの一方の在り方として日常の忙しい景色でしかありえない発想の時期に、とにかく丁寧に力強く洗う姿を沢山、何度も見て身体的にそれこそ常識にしてきていた。それがUSの映画では、汚さへの差別をなくすかの如く衝動的にもつれ合う場面を多用するので、ちょっとと田舎者発想は躊躇したというか引いたし、汚いだろう!と思うのだけど、一方でメディアが啓蒙してくれた発想も育てていたので、差別解消なのかな、とかそっちの開放的イメージで受け止めることもできたわけ。ところが、ほんと長生きしてきてよかったというかなんなのか、デンゼルワシントン氏の映画でUSでも熟練を疎かにしてきた流行に危機感から代案を目論む人々の居ることに気付けたのだけど、自分が感心できる女は風呂にしっかり入る、ときっぱり言い切っていた映画の登場人物の発言を聞けたことも、それが2000年代の比較的新しい映画だったこともあって、やっぱりUSにも実はそういう流れはずっと続いてたんだ、とあるヒトにとっての積み重ねの重要なところの押さえ所はきっとどこでも同じなんだろうと、思わせてくれた。これがほんと、田舎者にとっては恥ずかしさ発揮の複雑な辺りに少しだけシンプルな線を引かせもしたんだよ。
君:私はしっかりお風呂につかる人、よ。ふふっ。
私:お年寄りの姿は、だから昔も今も変わりない。けれど、ではシャワー世代の男、女たちはどうなんだ、っていう、ね。そこら、さ。汚ねぇだろ、と田舎言葉を使ってしまうけれど、そういう手の年代が結構、解放のつもりではびこってそうな気がしないでもない。
君:あら、なによ。それって・・いやらしい。オスが丸出し、じゃない!
私:そう受け止めることもできる、かな。いいか。先に進めるぞ。
君:それに衝動ってバカにならないわよ。っていうか、お互いの気持ちが響き合うことだってあるのだから。貴重な機会、よ。否定し過ぎてもいけないわ。汚い、清潔、関係ない、ってこと、よ。
私:うむ。キミの実際的示唆として重く受け止めたい、よ。ありがとう。しかし、話を中断しておくわけにはいかない。先へ。清潔感、ということ、なんだよ。いつでもキレイにしておいて、昔の人たちの継承の内容では、衝動にいつでも対応可能、という清潔感、を保つことがごくごく普通に気持ちと習慣になっていた、としか思えないんだ。過去のことを振り返ると、ね。それって、若いから、ということじゃないわけ、さ。すごい、だろ。列島で生活してきた人々のある種の習慣、身に付いた習慣のこと。だから逆に副島氏が悪所の人脈として南蛮の脈を指摘されてたんだけど、その人たちは列島生活習慣とは切れたのかその点は継承してきているのか、って辺りは現代にも気になる。伝統には変化を招き入れて更新している必須とともにの発想が大事だけど、だから他からみれば変えたくなる変なの、って簡単に受け止められがちとは思うけれど、列島の伝統というか継承されてきた生活の工夫の様々については発展的継承のようなニュアンスでの継承が大事な要素も沢山あるんじゃないか、って思えるんだ、よ。そこには年寄りたちが、その芯の所の意味とか意義に気付けて継承に乗り出す機会も長寿だからこそありうる。形だけ、というのは背の文字伝達ゲームと同じで、芯のところを外して勘違いして継承させやすい。だから同じ形のようでポイントを外して、長年月の間にまったく違ってしまっている可能性もありうる、と簡単に考えられる。でも意味とか意義まで気付けた形での継承だったら肝心要をなんとか伝えることはできる。だたし異論とか違ったアイデアに謙虚でないとね、そこらは啓蒙の運動のおかげでそうさせられる。でないと頑固一徹がとおりやすいか、反発して、他に流れる。話がちらかってるかもしれないけれど、年よりがそうずっと関わっている、というあたり、気づいてもらえると。しかも、清潔にオンナもオトコもする習慣を持ちあっている年代はいつでも無理なく現役であり続けているわけ、さ。肉と骨、って単純化してしまうと、形の感受という意味では、ほどほどが形をお互い意識しやすくさせる、はずだ、ってこと、わかってもらえるでしょ。
君:少し、下ネタ、ね。・・・わかる、わよ。
私:椅子に座った時に、スチールの椅子に座った感じか、ふわふわのソファに座った感じで椅子の形がわからないか、すわりごこちを意識したデザインの細部も感じつつ、リラックスできて座っているか、なんてことになる。それはそれ、とにかく列島生活でのお年寄りはずっと現役でなんらか楽しく人生をまっとうする。安楽とは限らない。そこらは免疫の状態とも関わるからストレス、栄養状態に響く生きた時期の条件と相談、と言える。とにかく順位はともかく女性たちは子を産み育てでストレスを貯め込んでそうで列島ではそうはならずに長寿を生きる。しかも昨今は生活習慣病が目立つ。そしてその原因の一つはアルツハイマー病知見から少しは探り易くなってきている。糖尿病っぽくなったら即糖質制限を努力して、普段の生活に戻れるようにするのが一番。するとこれまで同様に寿命がくるまではなんとか普段を保てる。男性もそれなりに長寿になった。お互いの尊厳を守れる頑固さを発揮できれば、困る方のストレスは生じにくいはずだから、そこらの工夫次第で生活習慣病ではない女性たちともいっしょに老後の人生を築きやすい。生活習慣病は糖尿病とか高血圧とかが付きまとう。欧米系発想の薬多用で治療過程に乗るともう人生のその後の姿は介護依存になりかねない。介護業だって元気なお年寄りの晩年を健全に引き受けて、介護業に沢山お金を流してもらいたい、とは思っていても生活習慣病を重くしてから施設に来てねとは積極的には思っていない。それくらいの良識は経営層ともなれば持ち合わせている。危ないのは現場を担う介護職の人々だから。物言わぬ、言えぬ人々にどう対応しているかこそがリアルを示す。口に出せる人々からはごく一部のことしか逆にわからない。そういう”世界”だ。お風呂の安全性をめぐって、個浴こそ通常の風呂の在り方だ、と鮮明にできる諸氏からすれば大浴場タイプの風呂は危険極まりないだけ、となる。どうなやり方しても、危険が伴うのだから、個浴にしなさい、ね。となるわけだけど、大浴場タイプが普及してしまっている以上、そういう前提で働くほかない介護職も列島ではたっぷりいらっしゃるわけだ。だから手引きは危ないよ、と指摘され確かに危ないよな、とは思えても経験的にどうすれば危なくないかの辺りをさぐって手引きでの介助くらいはして大浴場タイプでの入浴をこなしている、って姿がありがちのはず。シャワーキャリーを使って移動、という手間はばかにならないわけだし、妙に過剰介護っぽくも映る。でも一応安全の観点からは、手引きノーであり当然手引き誘導するくらいならシャワーキャリーで移動しなさい、となる。難しい。そういうタイプの見解の違いはあふれがち、になるのが今の介護の姿と察する。電気・ガス・水道の類が長寿な諸氏に便利なままであるような改良が加えられることで初めて個々性を保つ、居住タイプ対応の介護の世界が成立しやすい。介護業な方々はそれでもアイデアを使いこなせる。施設はゆとりのある方々が生活の世話をしてもらって最晩年も安心して任せたい、という感じで贅沢に、潤沢にお金を使ってくれて介護業にとっても非常にお得意さんになってくれるタイプが来てくれた方が現場も乱れにくい。大変な状態の人々を招くなら、それなりに介護技能を積み重ねていないとストレスをため込みやすくする。それが介護現場を乱す。今は即製の介護職に委ねようとしてきた流れの惰性下にあるので、玉石混淆の中に長寿な諸氏を委ねる格好になっている。元を断つ、という意味では生活習慣病の克服に越したことはないと素人は察するわけです。ヒトの衰えは介護でなんとか対応できる。けれども糖尿病性とか高血圧が続いてその派生でという病気持ちになってしまっている諸氏は、多くが脳梗塞系の脳血管性の認知症状に悩まされ、思い通りの人生とは縁遠い状態を受け入れざるを得なくしている。受け入れて、大川氏らの発想をヒントにその人生を堪能するような方向転換できる人々は幸いと思うけれど、多くの諸氏は健全だった頃を比べて不足感をかこち、大変な人生にしてしまっている。それを介護する、ということは大変な”労力”も伴わせる。できれば、気持ちは快活だけど体が思うようにいかないんだよね、というタイプであってほしいと思う。悩んでそれを体内化してしまうと、介護にまつわる様々な要素負荷は数倍となりかねない。しかもご本人の人生を自らが台無しにしかねない。できることに気付けること、自分の工夫次第の余地がたっぷりありそうなこと、老後を考えてこなかったとしても今からでも遅くはないことなどなど、長寿の列島風の形を試行錯誤してもらいたくなる。
君:ヒトそれぞれがどういう考えを思い込んで生きてきたのか、って、きっと大事なのね。それが晩年にもつながってくる。でしょ。
私:と、思う、よ。参考になるかわからないけれど、もう一つ、自分なりに面白いと思えた本を紹介したい。馬場著『初期仏教』('18 岩波新書)。”はじまりの仏教”の章で「全能の神を否定した」って、いきなり。それは相当に宗教の学問的押さえからすると重い指摘になるみたい。ユダヤ教キリスト教イスラム教での世界を創造した神は存在しないことに通じてしまう。祈って救済される流れとも無縁でヒンドゥー教と対比されもする。そして人間の知覚を超えた真理・原理を論じないことから老荘思想の道もふれようがない。宇宙の本姓に沿った人間の本性があるとは考えないので儒教の教えとも対比されている。もちろん今言われる仏教とも対比されている。初期仏教のことを馬場氏はpiiiで「「個の自律」を説く」と言っている。どういうことかというと、その先で
(引用開始)
「一人生まれ、一人死にゆく「自己」に立脚して倫理を組み立てる。更に生の不確実性を真正面から見据え、自己を再生産する「渇望」という衝動の克服を説く。」
(引用終了)
初期仏教について自らが馬場説を検証するには、なにを参照すべきかの辺りに精通しておく必要があることを馬場本で読める。そこらの検証抜きにとりあえず馬場氏の指摘から初期仏教とはの一面を引用してみたい。p99 ”3 初期仏教の思想を特定する”の章から p104 において、初期仏教の思想の「主旋律」はこれしかない、として6つの語を指摘されている。「布施」「戒」「四聖諦」「縁起」「五蘊」「六処」。馬場氏によれば、p115 に、蕩尽経済とも市場経済とも異なるもう一つの経済のしくみとしてのクラウドファンディング=布施・贈与の経済となる。また戒は習慣のニュアンスにごく近いと説明されている。誤解なきよう、とのことだ(p115)。その他のことばについては、ネットでも簡単に検索できるので今時の解釈を読める。個々性にどこまで寄せて、初期仏教の内実を理解できるのかな、とかつい思いたくなる。でもとにかく出家ありき、での出来事とともにの初期仏教なので、そこらは、難しそうだ。考えの精錬過程の一つの在り方の中で、ヒトの個々性への気付きがどう練り込まれ彫刻作業にふされてきたのか、少し関心を刺激された。弁証法役割分担の論にまで広げて、もう少し、なにを言うための助走か、っぽいところに気付いてもらえそうに、思えるけれど、長すぎた?かも。
君:ええ、長かった、わ、よ。聞き流してたから、ストレスたまったわけじゃなし、いいんじゃない。
私:それはそれで、ボク的にはなんとなく・・無力感というか、手ごたえの無さ気なのがどうも・・。
君:そうかしら、あなた、言ってたんじゃない。どこかで既に言ったことだけど、って、もう一度。人の話は持ち帰ってみないとわからない、ような。
私:・・、そう、そう。作曲家のノーノ氏が言ってたこと。その場での丁々発止も面白いけれど、話すってことは、そう直接的にその場で理解し合えるものではないのが普通だろう、ってことで、持ち帰って、本当はいつかしら、ふと気づけたりするんだろうね。そういうこと言ってたんだ、って。
君:あなたの話も、きっと将来わかるの、ね。きっと。
私:できれば、今すこしでも伝わってもらえると、なんて、考えてしまうけど。
君:生活をともにしている間柄でもそうなのかしら。あなたと話をしていると、いっしょがどうでもいいことのようなニュアンスも感じる、の。好きで、いっしょにいたい、でも一人でもかまわない?そんな。
私:違うね。
君:あら、怒(おこ)った?珍しい。
私:怒っちゃいないです、けどぉ。違うの。だって、一人の一人、っぽい流れだと例の俳句さ。他人の流し目をお互いに美しく受け流せる、すっごく気持ちの広がり感を堪能できてる。距離を保ちつつ、許し合えてる感も相当につもりだけど、たっぷり?そういう人生の束の間が実感になってる。けれど、キミを○○と直截にことばにしてはキミを困らせるからそうは言わないつもりでいるけれど、でも心はそこに行ってしまって夢中、ってなことになると、そのなんというか楽な気持ちの状態ではいられなくなるんだよ。それを外すことでキミに集中させるっていうか、なんなんだろうね。他人の流し目はありがたいんだ、けれども、以前のような距離感とか親密感を保てない。少し余計感を伴わせてしまう。世の中、いつでも膨大なヒトが人生の様々に溶け込んで行き交っているわけで、そこでの他人の流し目が気分に働く場合と、キミに夢中で、ずっとそうありたいとか、で、流し目が気になる場合とでは、直観のその瞬間の引き出される感じが全然違っている。だけど、気づかれているのがそのことなのかどうかはよくわからないけれど、わがままなやつらにふりまわされたくない、ってのは田舎育ちゆえの幼いころからの積み上げ感覚だからどうしょもない。そぉそぉ、『男たちよ』本でさ、最後の方に、こうあったよ。p232だった。
(引用開始)
「突きつめてみれば、高年齢男性は権力や資源を女性と積極的に分かちあう必要がある。そうしないと、私たちは、いま直面している地球規模の根強いジレンマから抜け出せないだろう。」
(引用終了)
実質的に性差ゆえにアイデア噴出可能性を断ち、その先の展開に不都合をきたしている、と大学生活の一面からも気付かれているブリビエスカス氏の提案だ。
君:欧米系の大学なんでしょ、そこでもそうなんだぁ。知らなかった。
私:同等にお互いに謙虚さを失わないようにしながら、っていう意味も含めてだろうと期待するけど、ね。
君:それでも、啓蒙、どれほど均一に啓蒙が行き届くものなのかどうか。
私:実際的には、ね。一応、理念的にはそうしておいて、ってことで話を進めないとダメな時も、あるってこと、でしょ。
君:実際的、ってことで言えば、少し体動かしたくなった、かも。
私:おっとぉ、待ってました。散歩、行きましょ!
君:少し、お腹空いたかなぁ・・、なんて、って真似しちゃった、かしら。
私:まねしてる、もろ。
君:どうなの。
私:行く、行くって。軽く食事できそうな店の方に行けば一挙に解決。
君:そうね、そうしましょ。
私:いいの。
君:ふふっ。