連載は続く~SF掌編『急ぎ過ぎて、忘れることなかれ』編




私:手荒に試される感じなんだ、よ。
君:初めの頃に言ったはず、という話のこと、ね。
私:そそっ。キミにぼくの態度、言ったこととか素振りとかがね、だれかたちを通して最終的にキミの取り巻きのだれかがささやいて伝わって、不信感となるか、信用となるか、は、わたし次第だよ、っていうタイプのボクにとっては嫌がらせっぽいことばかけなんかが沢山でてくるような場面に出会うわけ。キミにはそんなことない?
君:さあ、どうだか。気にしないかも。
私:きょうだけじゃなく、いつも、語呂はきみ相手にしか使う必要がないわけじゃない。他へ波及するような語呂のことをいちいち気にしてたら切りがないっていうか、そういう気にかけ方というのは一種ビョーキに近い。そんな調子で普段もここでも勝手に使ってるわけ。
君:それでいいのじゃない。気になるわけ。
私:ラクロスエピソードの、キミに近い年齢の方のエピソードが抜けて、偏り過ぎた語呂でもって親戚連中をささやきで巻き込んでる感じ。
君:へぇー、親戚ってそんななんだぁ。ささやく、だれか、が危ない、わけでしょ。
私:そうなんだよね。人の好い人々がなんとなくなびくようになってしまう、わけだから。ラクロスエピソードの方は素直タイプで、それに似せた、妙に取り入ることに積極的っぽく馴れ馴れしく話しかけてくる方が以前いて、そのタイプの方については当然ながら避けてた、よ。
君:あなたのヒントからだと、それが発信材料になって、ラクロス?でしたっけ、そのエピソードの主役の方をも遠ざけたがっているあなた、として伝わって、関心のないだれかにされてしまった、そういうことで、別の方の語呂が沢山?
私:どうかな、よくわからないけど。一般的な話題にしてしまいたいんだけど、というのは、こんなセコク個人ネタで変な事象だとか言っても、自分でなんとかすればぁ・・で流れがちにするからね。で、一般的にしてみたいんだけど、いい?
君:長くなる?
私:ちょっとだけ、ね。
君:なら、いいかぁ。いいわよ。
私:この話題に関しては、遠くプルタルコスっていう大昔の人も考えていたことは、岩波文庫で訳本が出ているのでわかる。友のようでそうではない友とかの話題を取り上げているみたいだ。
君:ということは本文は読んでない、しかもそれについて話す?
私:話題はぼく独自ではない、よ、ってこと。昔からありそうなこと。しかも権力者とか権限持ちの人々目がけて取り入る、ってことが一番目立つ話。人生上のやりくりだから、止めろと言ってそうなるってことではない、と予め指摘できる。けれども、機会を同等に保って不利益が偏らないように工夫し合うという観点からは、要注意な事象とも言える。多くの人々はお互い様感覚に明確だから、強いて押し売りすることはない。他人のやりくりとの距離感を絶妙に感知しつつ保とうとする。けれども、そうしていられない人々もいる。ある程度の量でそういう人々が居ればけん制し合って、ある種、突出しての取り巻き形成にはなりにくくなっているかもしれないけれど、権力や権限の主たちが面倒くさがって、取り巻きにしてバランスを取ろうとした途端に、限られた取り巻きそうの持続現象となりがちにして、不利益の格差の事態が同様に持続しやすくもなる。そこらの内情については単純な場合もあれば、もう少し時を経るタイプの調整操作もありだから、一方的な決めつけができない観点もありうる。権限、権力の主はそうだとして、一般程度のなんらか力を見出せるだれかに、同様に取り巻きをめざす試行錯誤の方々が集まってくるってこともありがちで、そういう場合はやはり友というかことばの試行錯誤にためを持てて、揚げ足取りとかのがっかりに誘うわけではない自由な付き合いということとは無縁な、ちょっと油断ならないというか、自由な試行錯誤のきっかけをもちにくいだれかたちとしてしか付き合えないタイプたちが勢いとか積極的にか寄ってくるので、ほかの付き合って自由を共有しあえるタイプたちが逆に近寄りずらいままにしてしまうようなことが起こりがちになる。さっき言った、ささやき系に誘導された親しい人たち、ということも混ざってくるので、事態はややこしい。きょうこそ、キミと会おう、なんて勢い込んでると、ふと親しげに近寄って、妙なことを言って、その反応は伝わるよみたいな、ひっかけ問題提示型のやらせっぽい、ささやき後の親しい間柄のだれか、が近寄ってくるってことが起こる。そういうことの大局版が権力や権限の集中した現場ではもっともっと濃密に頻繁に生じている。そしてそれをかわすことに慣れていないと、権力や権限の使用法を間違えてしまうことにもなる。
君:難しい。話が難しい、と思ったわけじゃない、わよ。事柄が難しそう、って。私の周りに、そういうささやく人っていたかしら。ピンとこないわ。それにそう考えるとするでしょ、他人不信に向かわせない、かしら?そういうのって生活上実際的とは思えないわ。そこは上手く付き合っていかないと。
私:大抵はそうだと思う。賢く、考えて対処できる人たちは大抵、そうだった。ただね、ぼくは、ね。どうも、ね。そういうのって、苦手なの、さ。だめなんだ、そっちの引力圏に入りたくない、っていうか。そんな感じ。
君:少し、話題、換えたら。
私:FMのラジオ放送聞いてたんだ、寝ぼけて、たかも。そしたら禁じられた遊びのギターが流れた。聞きようによってはホロっとさせるニュアンスのきめ細かい演奏だった。
君:目覚まし時計よりも効果的だった?!
私:かも。でムラジカオリ氏の演奏だった。落ちついた気持ちでの演奏。しかも、ホロっとさせる演出を意識しての演奏。それを指使いでこなしてた。禁じられた遊びに限らないけど、情感過剰演出、カサドシュ氏のピアノ演奏に対して、たんたんと引くのではない、ボク流には情感過多の方で演奏してしまうタイプを素人ゆえにけなしてしまうのだけど、ムラジギター演奏は、カサドシュ的に情感過多に走らずの細やかなニュアンスを使いこなしての演奏で、久しぶりに禁じられた遊びの演奏をすっきりしかも”情感”豊かに聞くことができた。たんたんとだからこそ、そう感受できる。不思議だ、ね。
君:じゃ、私は想像してしまう、わ。そうでしょ?
私:ちょっと、ね。一目なんとかのちょっと版。なんでもいいんだけど、たとえば介護技術だってそうなんだけど、ね。ヒトの表現に、ボクはさ、つい、ついね、感動系のアンテナが少し、働くっぽい。
君:ハタラクッポイ?なによ、その表現。あなたが私に夢中なことは信用してる、のよ。だからもう少し端切れのいい言葉使い、してもいいんじゃない、の。あなたの口癖は同じくらいの背丈だし・・なんだから。間違いじゃないけれど、だからなに、でしょ、普通。
私:年寄りのボクがキミと話してて、キミの肩が凝(こ)るようだと困るかな、って程度の心配はある、わけさ。
君:なぜ○○って言えないの。
私:キミが今の人生を楽しむ中で、人生の選択もできると、いいかな、って考え方だから、ね、ボク流は。なんどか言ってきたけど。じゃないと、長続きというか、プライバシーっぽいフラジャイルっぽいニュアンスの付き合いの要素を大切に、持続的に持ち合えない、と思えるんだ、よ。年寄り的な到達点。普通、公式見解ほどではないにしても、やはり付き合いのことば空間をでるわけにはいかない。だからヒトの集団の個々の要素の試行錯誤はいつでも遅々と慎重とかの配慮であったわけではないのに、そうあり続けて、思うに任せきれない。けれども、個々の試行錯誤ではそれなりに試論を重ねることは可能。それを文学にして他人へ伝えることも工夫すれば、できてきた。そこをどう汲み取るかは、これまた工夫が要る。お付き合い関係次元でのことばでしか交流させられないことの方が多いかもしれない。とにかく経験を未然の経験をなんとか他者との試行錯誤のなかでことばとかで整理して、何かしら気づけたりがありうるなら、それをなんとかことばとかで他の他者へ伝えられるといい。でも、その起点は、なんらか偶然に近づき得た二人から始まる、っぽいイメージを持つ、よ、ボクは。
君:それを、私に、っていうのは、負担かも。そこまで話し込めるかどうか・・。
私:時間はきっと、いくらでもある。話してばかりでも飽きるから、散歩するのも手だし。
君:でしょぉ。そうよ。散歩に、行きましょ。雨上がりで、きっと落ち着いてるわよ。
私:大局のところで、わざと演じ分けして、大局を動かそうとしているだけなのに、そこを舞台と見ないで、敵味方を本気で演じて、傷つけあう、ってことも起こる、そんな一般論にも発展させてみたかった。
君:それはそれ、そのうち、でいいんじゃない?早くぅ、出かけましょう。
私:それっていつもは、ボクが言うセリフじゃなかったっけ?
君:理屈、理屈、さ、出かけましょ。空気がしっとりおいしいから。
私:わぉ、なんか、(きょうの)きみってすっごく積極的。
君:理屈ぅ・・!ダメだこりゃ。
私:くくっ、くっ。
君:可笑しい?
私:オカシイ、可笑しい、よ。本当に逆転してる、もん。元気、もらっとこ。
君:高い、わよ。
私:おっとぉ!
君:くっ、くっ、くっ。
私:キミだって相当に可笑しがってる・・。
君:いいでしょ、ワルイ。
私:ふふっ。
君:・・・・確かに、逆転、してる。ふふふっ。





近藤誠説は、毀誉褒貶にさらされやすい。孤軍奮闘中(実際には膨大な読者がいる)だから。けれども、出版関係はその可能性を感知できているから、大事なところを持続的に一般に向けて発信され続けている。
中で、診察上発見できるほどに成長した大きさのがんの場合、それは既に転移後である(はずだ)。
転移していない”良性”、ならば、手術するしないに関わらず、余命はその人の寿命次第だ。
結果的に手術して生きのび続けているならば、実はそれは良性だったことをはっきりと示す。
不要な手術だった。
けれども、ヒトにとって病は気からの面があり、がんといわれたことで病をこうじさせてしまうこともあるのだから、色々な条件について、ヒトの気持ちを良くさせるほうに解釈してことばにし合えて、その結果、健康な余生をもたらせる、という場合もありうるわけで、その経験を、”信じた方のこと”として喧伝して他人たちを誤らせない限りで、個人の生活史として、閉じているならば、幸せで良かったね、で済ませる。
医療だけではないけれど、(今では列島の営みに限らせられないとは思うけれど)資金循環の問題として、大改革が必要になっている。
巨額な税収の使い道の問題を具体例の一つにできる。それだけではないけれど。
民主主義とか近代の理念追及の問題を踏まえた資金循環の大問題、と素人流に現状を指摘したくさせる。だから、入り組む。教科書的ではない。でも既にわかる諸氏にとっては明解で、しかも手を付けられるには入り組み過ぎていて視野は不鮮明に違いない。ある自由度をめぐって、それをいかに温存しつつの作業として大問題を解けるか、といった辺り。
謝った資金循環に支えられた、なんとか維持できている民主主義、ではないやりくりへの、一歩一歩を、アイデア開拓とともに、試行も並行させつつ、という営み。そこらへの日本語からの接近、などなど、興味を誘うことで一杯だ。





君:もぉ、早くぅー!
私:サイフ、忘れた。
君:私が持ってる、わ、よ。
私:ドモ。