連載は続く~SF 掌編『オカモトタロウを紹介する番組』編




君:スポーツ。
私:だった・・。見回せば・・って、ね。局所的な視野では、偏ってんじゃない、ってつい思えて、で、前回の感想っぽいことばになって。年寄り、だねぇ・・・。
君:自分で、言ってりゃ、世話ない、わ、よ。
私:たとえば人気のバドミントン。あくまでもわたしの関心の中では、ずっと(ずっと10年間以上)、ね。何気に、偶然の出会い感を味わわせてもらってる、よ。なんてこと言うと、キミだと、ブキミがる?
君:ただそのことば、だけ聞かされたら、ね。でも、ここまでのお付き合いを経ているし。そんなところ、じゃない、なんて・・・。
私:流せる?
君:マジに受け止めれば、かなり危ない?かも、ふふっ。
私:プラス、ボク的には、カーリングの海外のチームだったりしたけど。気づいてた?
君:・・だって言ってたもん。でしょぉ・・。
私:そぉ、そう。結構、口にしてんだよ、な。年寄り、だよ、やっぱ。
君:年のせいにするって、年や同年齢の人たちに、ひょっとして失礼にならない、かしら。
私:・・・確かに、そう。そうだよ、な。言い方の工夫のところもありがたいし。なんか、ね。つい最近、突如、岡本太郎氏のことを思い出させるインタヴュー番組を聴けてね。それは一気にキミとも無縁じゃない地理的広がりへと誘われてしまったんだ。青春文庫版で出ているってネットで知ったけど、『自分の中に毒を持て』という著作の中で、バタイユ氏からの影響を語っているそうなんだ。わたしくらいの年齢だと、キミが同じ人物のことに関心を持っていたら当然驚いてくれるはず、なんだけど、たとえばフーコー氏のようなビッグネームが新しい著作をいつ出すだろうなんて素人が勝手に想像できるくらい同時期に学者やって活動してたんだ。バタイユ氏は亡くなってたけど影響を得たはずの岡本太郎氏は立派にというかポピュラーに活躍してた。確かコマーシャルにも登場してた。エキスポ70なんていう大イヴェントを飾ってたし。そこらのことをラジオでは聞けて、その紹介者がまた教養をそれなりに持って整理もできていて、岡本太郎はコマーシャルで馴染んでいる人物以上の持っているなにかがあるよ、と恐らく父親譲りの教養をボクに教えてくれた娘さんがいたんだ。太陽の塔は美術の授業で引用させてもらったくらい素人の関心を誘う作品だったけど、じゃその作者の発言とかことばに関心を届かせていたか、というとそうではなかった、その延長でしかない時期に、そういうヒント発信にふれることができていた。だから追々(といってその方々の影響圏からは離れて数年のころ)、角川文庫版の『日本の伝統』を手にすることができた。古本屋で偶然見つけることができたんだ。つまり忘れず機会があれば、程度にはしていた。それでも当時のボクにはピンとこなかった。縄文がリバイバルしてた頃なんだけどね。そして今回のきっかけ。バタイユ氏への関心からその教養を共有できてもいたはずの岡本氏へその当時接近できていればこの土地での営為なのだからそこからより学びやすかったと思える。
君:けれども、それをし損ねた、ってわけ、ね。もったいない、わ。
私:ほんと、そうなんだ、よ。しかも、今回聞けた紹介者、実は、養女にした岡本敏子氏の甥に当たる方で性は平野というんだ。だから旧姓だと平野敏子氏、ということになる。こういった人々はバタイユ氏が感応した教養の線で同じように響きあった脈に連なっている。すべてが、とも限らないし、分岐点も当然含ませている、にしても、さ。同時期に居合わせてたんだよ、わたしは。しかし、ね。岡本太郎脈の直ぐ身近にいた方々とは無縁の方を選んでた。もう少し、身近で学んでおくべきだった。学べたんだから。
君:後悔しているの、変なの。
私:後悔、というか、同時期に居合わせた偶然を生かしきれない、っていうことを他人に見つけてしまうぼくが、実はぼくもやってた、っていうことにちょっとばかりふれたかった、って感じ。列島での芸術系な諸氏は、実は岡本太郎氏にしっかり感応していて、その影響をも自らに取り入れている。そういう流れが列島にもありえている。そういう方にもっと関心を持てる、よ。
君:わかるわけじゃないけれど、なにかしら、すばらしいことのようには思える、わ、よ。
私:そんな風に気づいてもらえて、これもありがたいな。からだの技能・技術を若いからだで熟達してそれを表現しているだれかたちの具体的なかたちにぼくが親近感を感じさせてもらえる偶然の年月を体験させてもらっていることも合わせて、ある時期の偶然を、娯楽のように日々流れるままに受動的に感受するだけで流してしまわない、工夫が習慣瞬間の技として要る、な、ってのは個人的感想、なんだけど、ね。介護に関わるようになった頃、その助走の頃には、だから結構取り組み方には工夫を使ってるつもり、さ。
君:私の介護も任せろ、って?
私:順番からは不自然だけど、さ。一時的にでも、そういう時には、どうぞお任せを、って売り込んでおきたいの。
君:じゃ、受け入れちゃおうか、な?
私:そこで疑問の調子、でないと、ね・・・いいんだけどぉ。無理に思い出すことはないけれど、月が昇り始め、の時刻にたまたまキミと歩いてた。覚えてる?
君:さぁ・・、なんて。
私:大きく見えてた。で思わず、月に向かって指差してた。そしてボクにとっての月と言えば三浦半島の突端、水面、波のやや荒いざわめきにきらめく月明かり、なんだよ。若者たちは、どよめく内面と静謐な内面とを当然のように同居させているから、ゆらぐ塊とゆらぐ光と重さを伴う波と空気の混ざった音がなんとも湿った塩っ気を肌に感じさせながら、同じ年代のぼくには遠く遠くなにかを感じ取らせようとしてた。こんなに若さがひしめき合っている中で遠くを感じ取らせようとする。なにか悪戯か・・そうじゃないんだ。別のシーンを想像してもらいたい。その頃の若者たちの多数派は地域社会でそれなりに育てられた北タイプたちだ。だからある種立ち居振る舞いの形式をしっかり身に着けている。一方で若さのエネルギーははじけることへと向かわせる。そのせめぎあいが内部で生じている。そういうバランスの表現系としての若さたちが、海岸の先ほどのシチュエーションの中、あふれている。自由への想像力を働かせやすい。放縦のつまらなさ、とか不自由とかを対置的に想像させやすい。今ならわがままなやつらのしでかしやすい、直ぐに飽きてしまうことへの誘いにはならないよ、工夫する楽しさを選ぶさ、とかの想像で答えられるかもしれないけれど、その頃はただただ生々しく事態として受け入れる。そして月明かりのきらめき。それがなかったら本当に真っ暗になってしまっていたかも、そんな思い出させ方。そして大きく見える月明かりはぼくたちを照らしていて、月光を浴びる君の顔へ振り返れたわたしは、まぶしいくらいに反射するそのキミの表情に・・・。
君:うっとり・・・。
私:言われて・・しまった・・・、それだけじゃなく、て・・。そこにじっとしていたかった、かも。
君:なによ・・・。かも、・・って・・。かもをとって・・・動機不純だった?いいけど。
私:くっ、くっ、くっ・・・。
君:ごまかしてる。
私:じゃない、そうじゃない。芯がしっかりしてる、って目の前で経験させてもらってる感じ。時々、本当に感心してしまうん、だ、よ。キミに対して。
君:私にはわからないけど、あなたはそう感じる、わけ、ね。
私:個々性、その実感をだれもにとって、ってな世の中が動いていてくれると、ね。
君:・・そうよ、ね。あなたの言うバタイユ氏は、あなたにそう考えるヒントになってる、わけ、よ。
私:そこさ、そこなんだ。だから岡本太郎氏へ、なんだ。そしてある時期には列島の芸術系な人々の中にそれに感応できている脈が居て、ぼくはその近くに居ることができていたはずなんだけど、ちっともそこで学んでない。
君:ほらほら、またぁ。
私:おかしいな、可笑しい、で行こうか、な。
君:そう、よ。可笑しく、楽しく、で、生きましょ。
私:そうだよ。生きましょ、なんだ、ね。キミのことば選び、きょう、サイコー。
君:ほめても駄目、よぉ。お茶に誘って。
私:・・・、よろこんで。