連載は続く~SF掌編『テレヴィモニターでも見る映画作品群』編




『ブリット』と『八月の鯨』にblu-ray版発売のニュース。個人的にはうれしい限り。
とは言え、今は8Kのことが盛んに宣伝されるようになっており、4Kの威力を体験している関係から、今更 blu-ray かい?という気持ちもないではない。でもきょうにも見たいわけですね。

Lars von Trier 監督作品を2本。
『antichrist』('09)
夫婦の絆、まぐわいの最中、(注意力を欠く)子供が窓から飛び降りてしまう。ないし、雪のために滑って落ちてしまう。
そんなプロローグから始まる映画。
しかし、母も父も、我が子を救えなかったことをとことん悔やみ続ける。その過程を延々と追う展開になっていると話の流れを、押さえてみた(実際、自分勝手に同情心を発揮する場合、他人に関与しうる立場を意識して、なぜ自分がその時やればできることをできなかった、実際にしなかったことをできなかったで決めつけて、悔やみに悔やむことはできる。けれでも先のように、これだと何かを忘れている。そう、考える主である実際に事件を起こしてしまっただれかのこと。そのだれかは自分で考えて事態に対処する。自分なりに悔恨材料をかなりの程度展開できる。他人のせいにするかもしれない。そして実は自分が自分で制御する肝心なところに行き当たる。はじめからそれに気づくだれかなら、他人の同情の多くを煩がる(自分勝手、わがまま系の『奇跡の海』での妻はだから瀕死の夫の身体をいたわろうと勝手な判断で触って夫から瞬間技で制止される)。しかもやっかいなことに、それだからこそ関りうる自分がもっと関りの中で相手のことをもっと知っておくべきだったと悔やみに悔やむ作業の脈絡も生じやすい。このことをどうとらえられるかでも、ヒトの描き方に変化を持ち込める)父の方も大変な悔恨漬けの状態なのだけれど描写上はパニックに陥らないタイプの落ち込み方。
一方の母はパニックになる。まぐわう過程でそうなってしまうようだ。
観客の立場からは、一応娯楽映画でもあり映画が情報満載ということで楽しみつつ話を追うことで得てしまうことに追従できるわけだ。
当方はこれを見た直ぐ後に同じ監督の『奇跡の海』('96)を見た。
夫婦ものが主な登場人物で女の方は直情型というか極端な変わり者に描かれている。
依存心も極端に強いので夫にべったり状態で、田舎者のリアル、ということで指摘するなら、ちょっとヤバそうで、できれば近づかないでいたい人格だ。しかし、一方に惚れられて、こちらも惚れてめでたく夫婦となって一緒の生活をしているのだけど、『antichrist』の妻はこういうタイプではない。けれどもある出来事と遭遇して心の病をかこってしまった。そう順序的に押さえることが可能な描き方になっている。
夫は様々に工夫しつつこの心の病を何とか知り何とかしようと模索している。病んでいる自分に自覚的な妻ではあるのだけどパニック状態を制御できないでいる。
多くについては是非映画に当たってほしい。更にのところをふれたいので話として持ち出しやすい一つの流れについては素人なりに結論を指摘しておきたい。
心の病の重いやつを個人の狭い範囲で対処しようとすることはヒト個人の力量を遥かに超えている。なのに、この映画の二人(夫婦)はなんとかしようとして、ちぐはぐな結果へと至る。どうちぐはぐかを監督はしっかりわかるように描いている。むちゃくちゃな生々しい過程を経て、最終的に妻はなんとか相手を傷つけない地点へたどり着いたかな、のように見えた時、同時に相手をしてきた夫の方は過去の危険極まりない積み重ねに心が病んで病んで絶望に近いところまで行ってしまっていて、その瞬間を捉え損ねて、なんと!妻殺しに走っている。映画は時に教訓をもたらすというか、反省材料にできるように思える。心の病で生々しい進行形をより冷静に押さえながら、峠を読み違えることの無いような治療の過程がありうる、ということ。夫がそこでなんらか躊躇できれば、妻のさりげなく瞬間に表現していた事態を素直に意味発信の方で受け止めて、その後の別の展開へと誘えたかもしれない。かもしれないでは弱いなら、どう展開するかは不明としても、相手(夫)を反射の行為から傷つけなかった心の病独特のショック的(行為の意味的延長発想から妻は夫の局部を痛めつけていたし、最後には自分の局部もあたかも男性も女性も土地柄によってはしてきたイニシエーションでのようにハサミを使って切り取ってしまう)転回の状態を使えた後の工夫に力を注げる、と言い換えてもいい。
映画は衰退産業ともなりうるし、かつて言い慣わした”成人”映画で持ってきた面を識者の情報発信から押さえておける。だからか、ラースフォントリアー氏は自らの会社においてハードコアポルノ映像も販売しているとウィキペディアでは紹介されていた。
これくらい娯楽映画ということのリアルな押さえ方には複雑さが伴うのが現状だ。
その線からLars von Trier氏の映像表現をとらえてしまうなら、それはどうも勘違いとしか思えない、と素人は強く指摘しておきたい。ただその業種を取り込めて役者たちを常時使える状態で確保できるならば、『奇跡の海』では描き切れなかったごく当たり前の日常の一部を切り取った映像の映画的表現はより簡単にできたと思える。
実は、youtube にてこの監督の新しい作品といっても2011(平23)年『ニンフォマニアック』1部2部を見ることができていて、それはポランスキー監督の作品探しをしていて偶然知っただけのことだった。Lars von Trier監督については蓮實重彦本で旧知だったし、レンタルビデオで何かを見ていたはずなのだけど、大した印象を持つことがその頃にはできていない。だから実は・・の関心をそそる映画群を全然追わないできていた。そしてその関心については恐らく、今時の人々にとっては素人はしょうがいないな、と思わせるほど気付くのが遅すぎのタイプだ。きっと多くの諸氏がLars von Trier氏の作品群に慣れ親しんでいるはずだ、と前提して話を進めたい。
そして『ニンフォマニアック』にはこれも偶然だけど、そしてゴダール映画っぽくはない振舞いの役柄で印象はいまいちだけど男性役者とともにあっけらかんと裸になっていた女性役者が、この映画に主だった役柄で出ていた。ハードコアポルノ映画も作っている会社に属する Trier 氏だからか、外性器がやたらと率直な映像で画面に登場する。しかもまぐわいの様々な類型として登場するから、一般的な同情心を持つ観客にとっては多少とも心が騒いで当然と思え、”やりすぎ”でヒト嫌いになっていないかちょっとばかり試せる映像にもなっている。
江戸期の春画に感応した西欧観念世界はその後をしっかり真面目に追求しきたと今なら素人でも言えそうだ。列島では逆の方を選んで、Lars von Trier 監督のシリアスな映像に不潔を感じる方向性(ポルノ歓迎という線もご同様なので悪しからず)で応じる人が余程多かったのではないか、と予想するが、いかがか。
江戸期の春画を我がものとしてその先のヒトの達成を試行してきていれば、くどい、とかの反応はありえても不潔ということは不可能だ。どうしてかといえばそれは我がことに直結するから。わがことの汚物は掃除の対象にはなっても忌み嫌うことはありえない。ちょっと過ぎたかな、とかの俗っぽい反省心が働くとかはありうる。でも散々、メス性、オス性丸出しの局部のこすれあいをアップで登場されてゲップが出るタイプのくどいんじゃない?反応ならいざ知らず、社会倫理っぽい方で反感を生じさせるようでは、今日の欧米の試行錯誤の面を捉え損ねそうだ。
Lars von Trier 氏の手法は装飾術の達成プラスハードコア役者たちの活躍ということになる。そしてハードコアポルノに関連させがちな奴隷労働であるよりはそこを認める役者諸氏がオープンに活躍できる場が確保されているのかどうかの問題として、少しだけ触れることができる。ここらはインターネットの時代だからこそ切実で大問題とも指摘しておける。
春画をわがこととして来ず、忘れたことにしてしまうと、局部どうしの擦れ合う場面はヒトの出来事ではなく、他人の変態の出来事にすりかえがちにする。けれども、元気なヒトなら通常そうやっているごくあたりまえの寸景に過ぎない。だからくどく感じることはありえても、映画作品で多用するならば、返って売り上げ減に影響してしまう、というのがこれから予想できる当たり前の日常と察する。ヒトにおける宗教(現象)的に抑えさせることの倒錯=変態化を感じ取らせるヒントにもできる。
性行動に関わる局部のこすり合いをただ見て同情心は生じにくい。何!?と思う。だってそこで奴隷労働もありうるのだ。一方で映画というか芸術発想での出来事を模擬した愛し合いの場面かもしれないし、とにかく楽しんでいる場面かもしれないし、心がぎくしゃくしているにも関わらずの場面かもしれない。そこら個別性官能、感応の個々性発展が可能になっていれば、同情心の発動は順を追って、ということになる。瞬間の直観は描写力なり映像の発散状態次第だ。犯罪の匂いがあれば、金を出している以上、法治国家に訴え出て良いのではないか。そうやって抑えつけと犯罪のリンクを少しずつ断って行くこともヒトの世の試行錯誤の一部に違いない。
ただ麻薬と同じで世界の諜報脈がわかりにくく絡まっている世界なので、事態整理は厄介になりがちにしそうだ。クローネンバーグ監督の『イースタンプロミス』はそこらの複雑で気真面目過ぎる世界を垣間見ることができる。岩波新書の三谷氏がヒント発信してくれた使命感に溢れた改革者たちがあくまでも相対的に正しい限りでなんだけれど、各所の怪しい要所に介入して人生を埋め込んでいたりするわけだ。
むかしの人情を奥底でわかる強靭なやくざたちと似てしまうわけだ。真っ当な筋道はわきまえつつ、人生を違えたことを受け入れやくざと自覚しながら、そこに諜報脈の本体ではないけれど、治安のために使われて仕切る。荒っぽい素人衆に制約の線を示し続けるし、やりすぎ、果敢な部分の危険を発見したりの役をこなす。並行してだから世間には迷惑もまき散らす。そういうことを極端に制限しようと近代の個々を尊重し合う方向性は模索、試行錯誤を重ねてきている。今は過渡期で、そういうこわもて系を極小にしつつ一般の乱暴者は見逃されてきたから変な意味でのいじめがのさばりがちになる。かつては巷にそれ以上は困る水準をはびこらせることができるくらい、寛容なやりくりを一般の人びとがしてきたけれど、それは個々を尊重し合う、個々性の領域確保とそりが合いにくい。他人に割り込んでプライバシーなんのそのの巷前提のやりくりだったわけだ。それは今以後は無理だ。だから過渡期の将来象も模索、試行錯誤が要る。
そしてLars von Trier監督の『antichrist』夫婦のように個人的解決を目論んで失敗するようでは、困る。けれどもこの作品が啓蒙役を担えているように、ヒトはこれらを見て思考材料にできる。
一般の映画がたとえばこすり合いの局部のアップ映像を多用してそれで返って映画が売れなくなるいつもが到来すれば、一般の映画、というか芸術系、娯楽芸術系の作り方はもっと自由になる。ハードコアポルノ業界には不都合かもしれないけれど、そういうヒトにとっての普通が待っていそうに感じる。
Lars von Trier 氏の作品群にはアメリカでの思潮を題材にしたものが3部作を予定して作られていると紹介されていた。内容をいかに映画にして伝えるようにしているのか、ことばで説明して映画を見てない、というタイプの受け取りではなくあくまでもLars von Trier氏が映画表象としていかなる伝えを可能にしているか、というのがあるので、未見という今は楽しい状態だったりする。その伝えたい内容が今やだれもが知りたいことだ。時代の移ろいを生々しく情報を得ながら体験できている、働き者たちにとって、一種の深入りにも近いことになりつつあるのだけど、これからもどこがどうなろうとそのことばと実際との合わせ方の大問題は付いて回るから、ある時期の経験を材料にできることは貴重だし、映画時間で一応伝えてもらえる、提供してもらえるのだからラッキーとしか言いようがない。それもいくつか見たLars von Trier氏の作品から推して、期待外れにはなりそうにない、と今からこれももう一つの楽しみにしている。
ニコール・キッドマン氏が主な役柄を演じる映画作品の方は先のやくざ組織をも組み込んだ巨大組織の仕切りが可能だった時期・時代のエピソードのように粗筋は紹介されていたけれど、今はヒトが個々性において仕切る工夫をすることを模索し始めているのだから、それを描くだけでは収まりっこないので、そこらにも興味を持ってみたい気になっている。





君:きょうの話は洒落じゃなけれど、ハードね。
私:一番言いたかったことは『ブリット』のブルーレイ版が出ることかな。そのおかげで海外版もネットに載るようになってる。(『八月の鯨blu-ray版ももちろん待ちわびてた、よ)
君:ブリット?
私:小津監督の『お早う』っておならの映画あるのさ。
君:ぶり、っと?えぇぇぇぇぇぇっ!
私:本気、に、した?
君:ふふっ、あなたのこころを読んで、お付き合い。
私:ありがたいのか、なんなのか・・・。知ってた?
君:知らないわよ、ブリット、ってなに、よ。
私:カーチェイスのシーンが有名な映画。アメ車のいいところ、わるいところがモロ出ている。
君:ふーん。
私:『ザ・ドライバー』もそれに入る。新し目だとジャックリーチャーものの第一作目『アウトロー』のカーチェイスも工夫されてた、と個人的には受け止めてる、よ。『レッドライン7000』も出てた。なんとブルーレイ版。
君:レッドライン7000?これもわからない、わ、よ。
私:車には以前タコメータがついてた。ナスカーという一般車両を改良したような車を使ってレースするのがあって、7000回転を超えるとエンジンが壊れてしまうっていう、そういう7000。監督はハワード・ホークス氏で、ヌーベルバーグとかで騒がれた若かったころの監督諸氏が関心を持った人物。それを知らなくても、おもしろい映画が多い。それから『グランプリ』。これは1500cc から 3000㏄ のエンジンにレースの規則が変更になる頃に作られた F1レースを舞台の映画。『7000』には懐かしいサーキットが沢山出てくる。『グランプリ』も馴染み深いサーキットが出てくる。スパの以前の姿をもろ見ることができる。
君:スパって温泉の。
私:ベルギーに実際に今でも活動しているサーキットでスパフランコルシャンと。パビルス社のレースシミュレーションゲームではファンが改良に改良して素晴らしいコースに仕上がってる。
君:やるんだ、レースのゲーム。
私:話が長くなるから・・。
君:ゲームの名前くらいならどぉ?
私:grand prix legend(GPL) と indycar racing II かな。それとサーキットというか一般道を使ったコースも含めて凄いのが GPL と NR2003 だね。これを持っていれば、一生遊べる。今でも改良が続いているし。
君:わかったわ、・・映画のこと・・。
私:『栄光のル・マン』それに『デイズ・オブ・サンダー』。『サンダー』にはLars von Trier作品に出てたニコールキッドマン氏も出てる。新しいタイプのナスカーレースはこちらがいい。事故が多発してた頃のF1を舞台の映画が新しいの出来てた。ラウダ氏とかが出るやつだけど、これは未だ見てない。レースものだから、運転席からの映像もたっぷり見ることができる。レース中継だとそれは半端な感じが多いから。
君:つまり、ざっと映画史だった、ってこと、ね。あなたにとっての。
私:うん、だけど、これはむしろ脇道なんだ。筋的には『カンバセーション…盗聴…』を外せない。これがもうまったく興味をそそるったらありゃしない作りになっている。盗聴屋稼業もほんと辛いね、っていう映画作品。事実の込み入り方は半端じゃいないのが普通ってことにも啓蒙してくれる、よ。この映画を子供のころから見て筋を暗記してくれると、他人に対して寛容と慎重さくらいは育つね。間違いなく。それとずっと後、ぼく自身がそれなりに年より近くなって見た作品群が大切に思えている。冷戦期とその半端な終焉の過渡を今の人たちは生きているってのはリアルっぽいと個人的には指摘してみたい。で、そういうわかりにくさといかに付き合いながら少しくらいは推理できてもいいんじゃない、とゆとりを持たせてくれたのが『ペリカン文書』と『陰謀のセオリー』だった。どちらもオーシャンズでお馴染みのジュリア・ロバーツ氏が出ている。そして『盗聴』に主だった役で出ていたフレンチコネクションものでお馴染みのジーン・ハックマン氏が出てた『エネミー・オブ・アメリカ』で進行形のテクノロジーに無知であってはまずいな、と少し知識欲を刺激してもらったし。騒がれたからって、『2001年宇宙の旅』っていう作品でだけど、それにはそれほど興味が湧かず、長ったらしいけど『バリー・リンドン』には未だに見たくさせるなにかがあるように感じてる。個人的に画期っぽく受け止めることができた『コラテラル』ほどではないんだけど、『グッドウィルハンティング』の若者、学生と偽学生の関係なんだけど、印象に残る。エンディングがそもそも、そういう作りにしてたかな。ニコール・キッドマン氏がヤバい人格を演じてた映画の監督の作品。おちついて話せるだれか相手には言ってきたけど、キミだったら言ってもさしつかえない。『マイライフアズアドッグ』は、なぜか、ぼくにとっては落ち着きを与えてもらった感じがしてる。あくまでも個人的に、ね。キミとのことで言えば、決定的出会いを準備してくれてた?!って感じになってしまうけど、それも困るしなぁ・・。瞬間的なその時、と思いたかったけど、実は、助走のような、関心を向けさせるような映画体験をしてた、ってことを告白するようなことになってしまので。
君:なによ、もったぶってる、わよ、あなたこそ。早く紹介して、よ。早く。
私:その前に実際には映画公開に先行して宣伝効果ということだったと今時のメディア事情くらいは想像できるんだけど、偶然にも、BSでノーラン版のバットマン2作が放送されて、それを見てしまったんだ。でハッとさせられていた。そしてニュースでノーラン版の新作が作られていて・・という話。それを踏まえて第三作目を見た。『ダークナイトライジング』。ヒースレジャー氏が亡くなってと勝手な想像だけど、作りが全然違ってる感じがした。そしてアン・ハサウェイ氏が登場する。この映画で初めて見た。『マイ・インターン』の予定がニュースになった時にキミのイメージでアン・ハサウェイ氏を見てたから。
君:浮気とか経営者とかの話?
私:いいや、そんなことじゃない。太極拳ベースの健康体操のシーンにふらっと現れてデニーロ氏と馴染んだ感じで体を動かしているシーンの自然(映っている植物とか人物とか光線とか諸々)感が発散するなんとも言えないいい気持ち。それと何度も言ってしまうけど、「サ・ヨ・ナ・ラ」ね。あのシーンはいつみても心が動く。なぜかわからないけど。ハサウェイ氏は文句なくいいやつだ、付き合いやすいやつだ、と勘違いさせてくれる。くっくっくっ。
君:勘違い??わたしのこと、も・・・。
私:・・な、ことあるわけないでしょ、キミとは相性がいい、とボクは決めつけてる。このくらいはことばにさせて、ね。
君:いい、わ、よ。
私:あら、・・アリガト。
君:感謝、されるなんて、意外だった、わよ。
私:『レポマン』で巷ではどこでもきっと一定の矜持をもって生きている人たちがいるんだよな、って思わせてもらった。相当古い映画だけど80年代に放送されて見たんだ。公開当時に見た中で『K-PAX』とか『12モンキーズ』がなぜかその後の心の持ちように響いてた。接し方や相手に取り込まれても困るってことはあるけれど関係性の中で治せてしまうことだって十分にあるんだ、って思わせたり、とにかく工夫すること考えることを怠らないことっぽい刺激になった。
君:映画からそんなに影響されるの、ね。
私:ボクの場合は、ね。キミは見ないし・・
君:そうね。
私:『陰謀のセオリー』のメルギブソン氏が演じてた役柄の延長でボーンシリーズの将来には未完だから興味を持ってる。世の中の見え方に一般人が関心を持てるような形でのからくりの込み入ったあたりを作品の筋に盛り込んでもらえると、何気に見たかいがあったように感じられるかも。
君:リーチャーとか言ってなかった?
私:それはまた別の映画で・・、ひょっとしたらその人生先取り版かもって、思えたりもする、よ。第三作目は未だ出てないみたい。
君:あなたがよく言ってたゴダールさんの名が出てきてないみたい。
私:Lars von Trier 作品の注文中のを見てからにしたい、と今は切実に思ってるんだ。
君:なぜ、って聞いていいかしら。
私:別にぃ。ゴダール氏の作品の中でどれがとかの話よりは、それぞれの作品に後期の作品群では際立って気持ち的に安保氏的なニュアンスで栄養たっぷり感を味わえるシーン・カットを指摘できるんだ、よ。たとえばこないだはごちゃまぜに言ってしまったけど『ゴダールのマリア』だったら教室でのシーンでの雰囲気、空気感と高空の航跡、飛行機が青空をよぎるのね、雲もあったりする。それに加えてルービックキューブはどうでもいいけどそれが出てくる辺りでの光を受ける金髪の眩しい感じ。太陽光線の暖かさがモロ感じられる。『ヌーベルバーグ』でもいくつか言えるけど、たとえば最後の最後でカメラが横に動いて森の隙間に映る遠景の人物のシルエット。その動きと静止のところと。その前の騒がしさとかも込みで言っておける。そこらはブニュエル監督の作品群でなぜか『銀河』に妙な興味が持続してるのをヒントにできるか、な。Lars von Trier 氏の作品は手持ちカメラとかいくつかドグマにしてたらしいんだけど、追々変更してきた感じ。そこらとの絡みもあってね。もう少し見てからゴダール氏の作品への記憶を整理してみたい気がしている。
君:ヤンさん・・どぉ。
私:うーん、キミ・・実は、結構しっかり聞いてくれてた、なんて・・。
君:茶化さない、で。
私:はい。Lars von Trier氏 のを見たばかりの時点でも、やっぱヤン氏はすごいね。ただし、話の筋作りという点では、その後どうなっていったか、っていう興味が勝る。
君:ということは・・・なんとか『分子』でしたっけ・・・。
私:『恐怖分子』、ね。あれなんかは、話はテレビドラマが今では沢山使ってしまってるんじゃないか、って思える。乱用されがちな話の構造っぽい気がする。でも映像みてほしい、よ。ほんと。・・・。そうだ。相当古いけど『丹下左膳餘話 百万両の壺』をできたら見てほしい。ジャン・ルノアール氏っぽい感受性を見たくなるけど。
君:その言い方は、見ている人たちにしかわからない、わ、よ。なんとか、ならないの。
私:じゃ、お茶でも飲みながら、に、しない。
君:あら、誘い方、お上手。
私:たまには。
君:忙しい、の、よ、私。
私:そうは、見えないけどぉ・・。
君:まじめ、まじめすぎぃ。いいわよ、行きましょ。
私:そう、こなくちゃ。
君:散歩、がてら、ね。
私:もちろん。(キミの頬がいちだんとステキさ)
君:きょうは、何処辺り。
私:きょう・・(は)・・(近所の図面を指さしながら)ここらで、どぉ?
君:いい、ねぇ。そうしましょ。ふふっ。