連載は続く~SF掌編『癒しにスキャナーズ』編




ヒトの歴史ってことで文献とかをイメージしない考古とかそういったことや地質とか宇宙とかそんなニュアンスでもってイメージするタイプのヒトの歴史というか生き物としてのヒトがこうなってきたことをなんとなく想起しつつのよりヒトっぽい方に寄せての歴史のように振る換えるなら、これからもなんとなくヒトっぽくなのかなぁ・・などつい思い込みたくなるけれど、そうはいきそうにない、というのがそのイメージ素材から推理される将来であることの方が確実とは思える。
京大の山極氏はヒトの脳(均すと1400ccほどだ)の容量についてことばを使い始めて発達させるようになる以前にその平均的容量に達していた現考古上の知見を紹介されている。それを忘れないようにと指摘されている。なぜならと素人解釈も交えてしまうけれど、ことばでどうこう認識を蓄積する前にヒトは生き物として全身的な認識作業を脳も絡めて蓄積させてきていた、というとてつもない積年(ことばの数万年間の何百倍とかをそちらで積み上げてきている、ということからヒトはいつでもそちらも作用させていながらついことばの顕在させやすさからことばを用いた表現に置き換えがちにしてそれで事態を押さえた気になりやすい、ということを少しだけでも客観的に気付けるようにしてくれる)の伝承もエピジェネテックな経路にも乗るような引き継ぎを継続していると想定するしかないように思える。そして以前にも引用させてもらったようにその容量と分かり合えるかもしれない集団規模というのが150人、ということ、を今の人々がどう受け止め、その制約性とか、応用についていかに考えうるかについて、一応いつでも検討材料にしておけるかどうかはそれなりにその先に影響する、くらいは素人でも指摘しておけそうだ。
より日常の具体性ということまで想起するようにして歴史を考える場合は歴史は複線的でありと大きな歴史のうねりイメージでの場合、踏まえつつの振り返りや見通しが要る。ここらはフェルナン・ブローデル氏のヒント発信として素人が覚えていることで、為政者とか力関係とかで強引に事態を推移させてそれがこんがらかりつつも大局が以前・以後と意識させるような変容と伴う事態把握を可能にする領域だけでヒトの世はできあがっているわけではなく、遅々として変化しそうにないながら、いつのまにか大局として変化を遂げているのだけどそれが一方の大局の変化の影響を受けつつもまた独自の回転力をも内包させるようにしてその影響圏での変化としての要素も無視できないようにして変化しつつの領域をも込みで何かしら改良とか保守点検とかに関心を持つ人々は対するないし関わる必要あり、ということになる。
世は延々としてきている。これからも延々と。だからできることならば双六式の振出しの地点に戻してまで改良とか保守点検することはないはずなのだ。これまでの蓄積とか試練、試行錯誤を踏まえた上に乗ってそれまでの知見を応用しながら将来に備える方式でいければそれなりに無理な軋みを余計に招くことなく改良とか保守点検の構想により近づけて実際的な時間内でこなせるようにすることも充分にありうる。ここらはだから遅々とした変容知見を踏まえられていれば自ずからの指摘でしかないけれど、勢いで変革するタイプのイメージしか持てない知見の間では、何言ってんだかわかんない、めいた指摘になってしまうこともありそうだ。ほんの些細な日常をより快適に過ごさせる知見は本当に本当に微細な生活習慣として身についているからこそのところがありそれを強いて気付こうとしたときにはチラッと見えたりするけれど、大抵は気付かないでやり過ごし勝ちのことだ。だからその崩れの負担・労力にも気付かせにくい。
日常の細かな知恵の類のお世話に慣れているからこその貧しいながらも快適生活(ここではグローバル格差由来の極く安い商品は含めないでと一応断っておきたい。そういう面を抜いた生活習慣とか他人の手仕事に囲まれた生活基盤面に寄せて、としておきたい。だから厳密にというわけにはいかないけれど、多くがでということで納得してもらえるはず)を日々のことにできる。
USならば、言語別コミュニティ放置策で、同様のことが可能にし易い。いわゆる土地面的棲み分け策。その代わり、長年月での生活習慣脈と別天地での集団生活開始脈の試行錯誤との(他人への寛容・非寛容っぽい)気持ちの問題ではなく生活上のやり繰りにおける実際的な落差、食器の洗い方、水の使い方もろもろの伝承がフィルター役となってより実際的に整合性をもたせたやり方へと変化させてきた結果を享受できているかどうかの辺り、はお互いが目につきやすくするし、軋みの元となりやすい。汚物処理をどうするのか、といいかえてもよい。大自然災害が生じて汚物処理が現にだれもにとって自分のやることになった時にいかに伝承技のこまやかな(全身的)持ちものを応用させているかどうか、と言い換えてもよい。振出モードか伝承引き継ぎモードか、しかも使える道具立てはなどなど。
それが他人に向けた介護となると、もう細々はある程度惰性でも発送できる微細な要素の蓄積の度合で相手との交渉は極端に違ってしまう。それでさえ注意力がその上に発揮されるかどうかが別の必須も脈として絡んでくるのだから、それ以前に細やかなことで四苦八苦してしまうか無視して、注意力だけ発揮しろったって既にこまやかな細部抜きの具体性を欠く注意力の発揮場にどうするっての、という話になってしまう。だからここらは旧来発想での保革でどちらかがよりそこらに強い強くないの話ではなく、どちらにとってもそこらは踏まえて、生活の形が歴史的に脈絡を異にする人々の接する場面について繊細に配慮するしかなくなる。そこで振出により近づかせないオルタナティヴがいつでも必要だ。
だから素人は数十年前から郷に入っては郷に従え方式が成り立つ移民(数は気前のいい数字でかまわない、というかそう提案してきていた)でしかありえそうにない、と言ってきている。列島では事態を受け入れた場合、その先での軋みを実際的な意味で流す。理念をぶつけあったりしない。争論を避ける。実際生活にとって実につまらないことだからだ。けれどその先の苦難の度合しだいでは、それは後悔とともにの数十年間となってしまう。ヒトの1、2世代くらいは大人になりうる。その二世代くらいはそういう世を過ごす。弱体なお年寄りもそういう時期に二世代ほどが逝く。そういう振出に戻って方式を素人は避けるつもりで先の代案を数十年前から発想してきた。それでさえ以前は気前良すぎるように受け取られていた。今はどうか。受け入れる側だけではなく、伝統を共有できる土地での改良こそがよりヒトの生き方に相応しい、ということを想起したい。老人生活だってそういう風に収れんされつつあるではないか。むしろヨーロッパやUSやカナダとかが将来、そうしてはいられなくなる。伝統的生活がそのころには結構できつつあるくらいになっていそうだ。けれども、同じ土地でそれを試していけなくなる。どこかへ引っ越さなければ集団の生活が不可能になってしまう。氷河期の氷期とはそういうことだ、と現知見は明確だ。問題は太陽活動とともに宇宙線の量だ。とりあえずそこまでの知見は観測や実験から得られた。関東に住む人々だけは現栗橋の利根川にかかっている橋くらいのところまで海が侵入してたのに、今では遠く東京まで後退している事実を体で認識できている。車社会だし、レンギョのジャンプの派手な映像に誘われてだれもが見物に行く場所だから熟知されているのだ。他の土地の人々は未だこれからも海岸が内陸に侵入してくるような温暖化が待っているとか幻を抱きやすい。でも現実はそうはなっていない、とっくの昔にピークは過ぎているのだ。
けれどもヒトを悲観する材料はごく少ない。ヒトは改良に改良を重ねる好奇心旺盛な生き物だ。たとえば安保氏のオルタナティヴ知見は欧米のメインストリーム知見に基礎を置いてのものだから最新の血管研究ラジオ発信である高倉氏によるガン幹細胞説の仮説にまで至ったことを素人が知り得、だからこそ安保知見まであと一歩だな、と思えた次第。学問は慎重にも慎重に自説固執を修正しにかかる。転移の不思議に後一歩でより素人も納得させる仮説へと近づけると予想させるのが幹細胞とか無理を承知の仮説提示と受け止めている。同じ細胞の先祖帰り状態。ミトコン(が極端に減ってしまって)依存から解糖系依存の状態になってしまった細胞が移動して転移する、それも幹細胞タイプで。幹細胞がそうならばもっと幹細胞応用が容易になってくれそうだし、そうでないなら、幹細胞知見の大変さには、別の知見が必要とも言える。手仕事の類はヒトならではの蓄積だ。頭を使ってのシミュレーション系の試行錯誤もたんまり含まれるし、実際に試してその蓄積の面もありだ。その結果の途中として、微細でもあり大局としての便利な日用品を作ろうと思えば方式の手順をすんなりこなす熟練さえ習得していれば自分でも可能、という工学的達成が膨大にありえている。その蓄積の中から取捨選択して必要を満たせば大規模でしかも精度の要る装置が簡単に!できてしまう。そういう労力を集めるには、日常の衣食住で手いっぱいの集団の営みとは異なる別系が育っているような大局的な集団の営みも可能になっていないと想像しにくい。で150人知見だ。どう考えることができるのか。ヒト、ヒトの集団の営みとっての150人知見とはどう押さええて、だったらどう応用できるのか。
以前ふれたけれど椅子に座った場合のヒトとヒトの間隔は腕を広げて触れない程度くらいが最低あった方がストレスにならない、というもの。商業利害からする椅子の並びが評判悪いのはこの知見から理に適っていたわけだ。映画館もやや空いた状態で席を選べるくらいが絶好の鑑賞環境として心地よく受け入れられているはずだ、と素人でも指摘出来てしまう。
このところバタイユ氏の知見との絡みから下ネタっぽい不得意方面にも触れ続けているのだけど、同じくNHKラジオ発信にて坂本氏の土佐源氏実演経験からの発言を聞けている。老若(女)男に好評らしい。()は主催の女性が感動した話以外では女性の感動話はでてこなかったから、としておく。”もつれた”話にヒトは誘われる。他人事で息抜きにもなるからとも言えるし、我が事の可能性と(の脈絡からの息抜きで)受け止めたがれるとも取れる。
かの大昔のプルタルコス氏すらがもつれの話を列島の編集者氏か訳者氏が食事中の話題に使えるとかで文庫に載せていた。人生100年で必ずと言っておいて差し支えないくらいどちらかが残る。先に逝く方はその時だけがっかりするだろうけれど残される方の身になって同情心くらいは発揮するとよい。でないとその後の数十年か数年かの過ごし人生の具体性への想像を欠くことになりかねない。介護保険下で沢山の一般がそこを知ることになってしまったけれど、それでも受け止めの問題があるので、どこまでわかって受け止めてくれているのかは介護現場での入居している諸氏がどれほど実際的に可能な我儘生活をエンジョイしているかどうかで測るしかない。US騒動で有名になったアブグレイブ並の強いる介護で辟易しているにも関わらず声にも出せない入居者でごったがえす介護現場、であればそれはもう救いようがない。もう少しで発売になる『八月の鯨』は『何がジェーンに起こったか』('62 R・アルドリッチ監督)での妹ジェーン役のベティ・デイビス氏が『八月』での妹役のリリアン・ギッシュ氏によって(極く晩年でやせ細り痛々しいくらいの姿が印象に残る)大切にしてもらって日常の雑多さを失わないだけど底のところで穏和な介護を得られている生活をエピソードにしている。ここらはちらっと見ただけなので全体の印象ではないけれど、月光仮面の原作者である川内康範氏が憎むな、殺すな、赦しましょうと3つの信条を貫いていた子供向けテレヴィドラマだったということを番組で強調されていたことと響く意図を感じる。『ジェーン』はサスペンスと名うつタイプの典型のようにヒトの感受がちぐはぐで(恐怖もの同様こう設定すると安直に単発のスリラー感を出せる)ずっと見つづけるには辛い作りだったけれど、『八月』はシネフィルっぽい知識を引き継いだ人々はしっかりオルタナティヴさせていると想像したくなる。かくあるべし、となってしまうことでそう主張する側に偏狭さ、他社への強圧を自らに許す油断など生じがちにさせるので、そこらは実際には難しいのだけど、設計図は必要だとか役にたつとか実際的な見地くらいは持ち込んでおいて良さそうだ。
戦後まもなくは身近での死を受けて、ある種の謙虚な振り返りも可能にした、というような言い方を採用してしまうと、ヒトを反省させるにはやはり・・でヒドイ事態のやらせしか契機はないだろうの極論をいい考えのように錯覚させかねなくする。明治の革命のように敵味方に分かれて身体で覚えないと民主主義は育たない、とかの暴論も同様。でもそういう信条の左中右が結構つい最近まで沢山おられたことも事実の列島思想事情なのだった。
ヒトの身勝手さは時にカタストロフィータイプの事象に遭遇するだけでなんらか治癒を得てしまう。だからといって、の辺りにオルタナティヴを用意する意味で繊細で緻密であればなんとかなる。一方で社会工学パスカルの原理応用も避けられない。
もっと大局的変化に向けては社会工学的双六理論というか振出し戻り回避が必須ないしできるだけそこまで戻らない事前の策が求められる。
そしてヒトはオンナ、オトコを問わず両生類か爬虫類か小さめのかわいいくらいのをもつれ合う際に好むし観察好奇心旺盛になるけれど、その時、できれば観念肥大系が活躍するクセにしておいた方が、わがままなやつらに人生を(ほんろう)されにくそうだ、と老年期の一人からは庭の木々にやってくる雀たちのように雑穀の餌に群がって煩(うるさ)くする程度にトゥイートしておける。





君:ここで入ると、丁度"下"の話に近いところ、ね。少し待ちましょう、か。
私:入って。車を並走させていてもつれてしまうよりは遥かに、良い、なんて。
君:??!・・例えが、おバカでしょ。
私:君の頬に癒されて、ふと思い浮かんだんだけど・・。
君:なによ、いつも、いきなり。わからない、わ、よ。
私:うん、敵味方につい分けて発想するっぽくない、ヒトの普段、って。
君:敵とか味方、とかそこまでハッキリイメージしてるかどうかは別、というなら、そうなのかな・・。
私:実際上は、多分、そうだと思う。けど話としてなら、敵味方につい仮定して、頭に来たりしてる。そう成り易い。そこで、
君:ふん、そこで、って相槌、打ちたくないなぁ・・、だって話、長くなりそう・・。
私:ほんの数分。
君:なら、どうぞ、後でお茶おごって、ね。
私:お安い御用で・・・。でふと思い浮かんだわけ、ね。デビッド・クローネンバーグ監督のその昔の『スキャナーズ』第一作目。あれって、日常がほとんど自分をわかってくれない敵のような人たちに取り巻かれて生活してる若者が、結構そこらに仲間がいて力になってくれるとか仲間意識を働かせて居心地よい日常にもできるんだ、ってことに気付ける話が一本基本線になってた。そこに魅力の意味で怪しい瞳キラッとさせつつ力にもなってくれるジェニファー・オニール氏演じる女性が出てきたりして。つまり、ヒトはとかく我が懸案をめぐって敵味方で他人を見がちにする。けれども、映画『スキャナーズ』を見ていると、少しずつそこらが解消されて、他人に寛容になれるように仕向ける。けれども、がっちり頑固に他人を洗脳したり個々性を認めないタイプの強引なやつ(ら)とは多少力の勝負が要るごく稀なことも起こりうる。でもそこは急所じゃない、と受け取っておかないと、後者の方で頑張るやつにもなりかねない。そうなると、力自慢たちの他流試合めいたことが目立つようになってしまいかねないから。工夫で忙しい日常にとっては迷惑千万なお荷物だ、よ。言論上、孤立無援かもしれない、ここまで細やかに事態をわかっている自分以外は味方になってくれそうにない、なんて勝手に思い込んで弧を意識している時にうっかり買い置きしていたblu-ray版『スキャナーズ』を見て、少しずつ心のしこりが解きほぐされていく。そう感じるのは自分だけじゃない。それにことばに置き換える場合、そっくり同じであるはずがない。そこを同じじゃなきゃ、で頑固になってる自分にも気付かせ、ことばの性質こみで交流の必要に魅かれ、でも独語での”交流”の機会を決して失うことなく弧の受け止め自体が変容していることに気付けている。その頃には『スキャナーズ』は出演者やスタッフの名がロールになって流れている。
君:『イースタン・プロミス』のクローネンバーグさん、ね。
私:見た?
君:ううん。
私:こりゃまた、率直な、こと。
君:あなたの話からだって、少しくらいはわかる、わ、よ。
私:それ、って・・。
君:気持ちいい方で受けとって・・。
私:もちろん。疑うにしてもことばにするよ。でないと、万が一、疑心暗鬼の元だから。
君:理屈っぽくなってきたところで、どぉ、お茶、行きましょ。
私:よん
君:だめだめ、だめ、よ。散歩、そこでオヤジギャグ、連発しないで、ね。
私:くっ、くっ、くぅ。
君:あなたが苦笑すること、ないでしょ。私の方、よ。我慢してるんだから。
私:これからは、干し柿、美味(おい)しくなる、ね。
君:梨、やはり早かった、もう店先からは消えてるでしょ。
私:うん、そぉ。きっちり、って感じ。自転車使わない?
君:ダメ、歩くの。歩きたい。散歩、よ。
私:そうしよう。・・・落ち葉を踏みしめながら・・。
君:へぇー・・、何を思う?の。
私:そりゃぁ・・・。
君:(ふわっと横顔を向ける)
私:キミの頬。
君:だけ?
私:最近、映画とかテレヴィのドラマとか見過ぎててさ・・。
君:なによ、何度目ぇ・・急にぃ!
私:『めぐり逢い』とか『イースターパレード』とか『ある日どこかで』とか・・、そういやぁ『ワン・デイ』('11)、これは同じアン・ハサウェイ氏の『レイチェルの結婚』や『岸辺の旅』、『めぐり合う時間たち』('02)と通じあう見方が可能で居ても自立した同居の相手というところまで感じさせるキッドマン氏が出てた『時間たち』はそれとして、不在とどう溶け合えるのか、生き物で独自に観念肥大系を引きずるヒトならではのこだわれる観点を持ち込めるシーンにあふれてる作品群なんだ、けれど・・
君:長い!けれど・・・どうなのぉ。
私:今やネット抜きには語れない世の中、だ、よ、ね。
君:だ、よね。それで。
私:ウィルスとかマルウェアとかの類でゼロ・デイの欠陥(欠陥修復前夜=欠陥箇所明確で修復直前の脆い状態)を突くのがあって、という話を偶然きょう、9日ね、ネットで読んでて、2、3日前には小泉今日子氏主演の『怪盗ルビー』('88)を録画しててそれをたまたま見て、世間の広がり感をかつて体感できたことを少しだけ振り返れた・・。
君:あのぉ・・・、少し話が逸れてない、かしら・・。オヤジ・ギャグに走りそうなぁ・・。
私:ネットの話、マルウェアとか、そのゼロ・デイの脆弱性を狙って世間を騒がせた事件があったらしい。
君:それで、道、戻ってる、の?
私:でハサウェイ氏の『ワン・デイ』。これも『レイチェルの結婚』みたいに、ちょっぴり悲しいエピソードが主線になってる。同じ居ないことをめぐってても『レイチェルの結婚』は今、長期間ここに居られないハサウェイ氏演じるだれかが、居てくれてこその安心感っぽい圧力が働くのに比べて、『ワン・デイ』は亡くなったハサウェイ氏演じる母親の居ないことを埋めるなにかが無いかも、の辺りがどんと重石になる。その修復、修復初日、第一日目の『ワン・デイ』という使い方がネットのセキュリティ用語として流通してることをそこでたまたま知ることができた、の、さ。
君:”さ”、・・・ね。よかったわね、やっと辿り着いた、わけ、ね。お疲れ様。
私:やっと、ね。しゃべりだすと、止まらない。くっ。
君:また、出た。くっ。ふふっ。そろそろ行きましょ。何、目をつぶって。
私:・・うん、聞こえる、キミの、声。聞こえた、よ。キミが、目の前に、居る、ってこと。居るんだ、よ。ほゎって、体温とかにお・・ええい総じて気配とか・とにかく、からだに次から次と当たる。
君:なによぉ、さぁ、早く、行きましょう。歩きましょう。(当たっても)痛くないでしょ。もぉ。くっ。・・ふふっ。