連載は続く~SF 掌編『枯葉が”芽吹く”季節』編




敢えて意識的でなくても繰り返しが可能な形を伝承できているような事態を想定できるのが普通だ。
その整い方はけれども、いつでも試されている、試されてきた、とも指摘できる。あいさつのある形についてならだれもが今してしまっているその仕方をほとんど意識しないまま繰り返すことが可能な分、ついこの間までとは異なることをしていてもそうできてきた他人ほど気づけていない。ないし、まったく気づかずに常識であるかのように繰り返してしまう。より形式的な強制力を意識できるあいさつの仕方をある機会では使う必要を意識されるときに、少しだけ自らのこれまでを振り返るきっかけにすることができたりする。
そしてあいさつに限らず、その手の事象は一人の人生にとって実に膨大だ。それらをいちいち意識することもないけれど、ただそういうことなのだ、くらいは時々想起できたほうが他への態度に色々好都合だ。
ヒトは確実さをめぐって他者への関わり方、関心の持ち方をかなり影響させてきている。もう少し厳密には、不確かさのくせを熟知しあえる関係を模索して相性のひとつの要素にしている。そういう付き合いの一面を指摘できる。
だからある時、それまでなんとか確実さを持ちこたえさせてきた文化とも把握されそうな繰り返し可能でそこに頼りたい種々に関わる形式のひとまとまり、ないし文化とかがもう耐え切れないほどに実は整合を保ちにくくなっている、という事態を迎えることもありうる。そこらは先の気づきにくさのくせを伴わせるから、だれもがうすうすなんとなく軋み(きしみ)を感じつつ、流してきたことの結果としての無理の発露めいた事態のような想像も可能になる。
当方は薄々でしかないけれど、人生100年の気配が濃くなりつつある昨今を感じ取って、ついこの間までの人生観が成させてきた年齢なりの形の採用に相当な無理を含ませるようになってしまっている、のではないか、と察しているところだ。
ここらは、既に別に人生100年時代でなくても無理は無理だったのかもしれないけれど、老年人口がそれほどあふれるほどではない頃は、その他の要素の影響が絡んでなんとなく意識しなくてもたまたま済んできたこと、だからこそ、ある時期に”臨界”となるようなことも起こりうると考えることができそうに思えている。というのは、条件次第で無理となる事々もあるとは思うけれど、いつでも無理は無理だけどその他の事情からそれを気づくことにしないくてもやり過ごせる、ということは結構あるからだ。そういう事態については気づいて、妙に気になる人々は自分なりに工夫して人生をやりくりしてしまったと察する。そうでない人々は、無理だったかもしれないけれど、意識にのせることなく結構ストレス源にはしてきた人生を送っていたと推測できる。
幼少期だったら、10代なら、20代なら・・・で40、50、60と皺を気にする年代になれば、肌をさらせる部分に余計な配慮を働かせてさらに気苦労を重ねるとかをする人生も含ませてしまう。新陳代謝が活発だととかく状態が肌に出て、見苦しい若い年代だったはずなのに、落ち着きだした年代になって今度は皺だ。丁度よい年ごろは瞬間的に過ぎ去っていたりする。それに年寄り臭も気になる人々ならば30代か40代頃から心配してきたろうと察する。ここらは強いて女とか男とか区別していない。
わがままなやつらの、どうしょもない身勝手な積極性に気づけてしまえば、性とも関わる気持ちのよさをめぐるヒトにとっての関わることの意欲は、観念肥大系による相当な工夫の試行錯誤ということになる。そこに飽きの介在の錯覚の論をバタイユ氏を参考に素人なりのアイデアを指摘してきている。
市民社会、集団の営みのための試行錯誤の一種だしそれなりの王政に対する改良の意味からの国民国家ということを、一方での国家主義事象の危うさから国民国家についての試行錯誤の多面を捨象して論じられがちと昨今を想起してしまうのだけど、国民国家試行錯誤もまた短期間のことでしかない、と言っておける。未だこれからもう少しは試して、それが集団の営みとしてどう拡大志向の中でうまく使いこなせるのか。その先での地球を覆う集団の営みイメージまでがとりあえず提示はされてきた。
中央集権の強すぎるタイプへはアナーキズム発想、無政府主義発想が、ことばはともかく大昔から発想され続けてきた。だから集団の営みとしての共和党を支える共和思想としてのアンチ王政としての共和制採用思想を副島氏の熱心なヒント発信を参照させてもらって、市民社会を押さえるならば、平等は厳密には、どういう脈絡において、とかケースごとに検討できる余裕が必須だけれど、個々を尊重しあおうの精神は、相当にいつでも下敷きにしておけそうに思える。
そのことの重みは弱い立場のだれかをかなり極小化させる。だから弱い立場だからなんとかしてくれ、の論の行使はひょっとしたら限られてしまう。お互い様なのだ。ただそういう個々を尊重しあえることに慣れないと馴れないと、なかなか、いつでもその習慣の行為をそれに沿ってというわけにはいかないのが、惰性で行為して人生を節約できるヒトのどうしょもないところだ。そこはヒトならではのところでほめたりけなしたりしてもどうにかなるものではない。
個々を尊重し合いなれたならば、たとえば女たちの多くにとっても変な心配は無用になっていると察する。列島育ちの男たちにとっては不良だろうがなんだろうが大抵はそこらは逆に昨今に近づくにつれて、ヤバさが増えてきたと感じていると推測する。大方の諸氏はそう感じているに違いない。ドラマの賊たちが民間人に悪さをする場面を想像して、列島も悪は悪で結構他人に迷惑をかけてきたはずだ、実際に刑に服する人々がたくさんいたではないか、とかおっしゃるとは思う。でも確かに、列島育ちの悪たちでさえ、夜道を女性たちが相対的にかなり安全に歩けた時期を持っている。そういうこともある時期可能にしてきた。それがどうも怪しくなってしまっている。悪の質が困ったほうに誘導された感じだ。
年寄りを騙す電話作戦など、誘導されてノウハウを仕込まれて、めいて、胡散くらい限りだ。
USのある部分は映画『陰謀のセオリー』でのように、正義のために意識的に一歩踏み外す。そういう力、資力さえ持っていた。列島ではそういう公務系は限られていたと想像したい。
市民社会試行錯誤が個々を尊重しあうことへと誘う意欲を持続できるならば、それはそれで結構住みやすい世の中にする。一方で働くことに忙しくさせる営み原則をも採用しているから、以外な面において他人任せにせざるをえない仕組みを含ませている。ついでに会社にしろ公務にしろ事務手続きを込み入らせてしまっていて、通常の人生時間では余計な時間浪費とさせかねない仕組みにもしている、と素人は見ている。そこらを改良しないと、一般が自らできることをこなして集合として、うまくいっているぞ、という世の中の営みにはなりづらい。
依存のりで、やさしさ表現が可能とかを思い込んで人生にしている人々が、人生100年において小説かなにか物語りしてヒトのシミュレーションのひとつひとつを描いた場合、それは、個々を大切にし合う、個々を尊重し合うのとはちょっと違う、けれど、ある人々にとってはなじみのある姿には違いない、事象が描かれることになりそうだ。
『めぐり合う時間たち』('02)を手っ取り早いということで例に持ち出してしまうけれど、たとえば女性が自立してそれでも関係性を求め合ってたとえば異性同士として付き合い続けようとしているなら、これに近い試行錯誤を生むだろう、と指摘しておける。個々を尊重し合いつつ、”いたぶりあえる”親密さを保ちあったりは相当に難しそうで、簡単でもあるし、変転してやまない。けれども、個々、なのだから、片方が特別に依存的に寄り添ってくれることは期待しないことが普通の姿だ。そこでの会話の重要性、積み重ねの重要性は言わずもがな、だ。そしてわけがわからないままどちらかが先に逝き、どちらかが、残ることがほとんど、ということだ。それでも近づきたい、意欲が持続しているならば、それなりにその意欲において、生じる、という事象を指摘できる。芸術・芸能は、だから文化の変化へはへこたれないでいつでも付き合いつつ、変化そのものの試行錯誤を含ませもしてきている。
義務とか権利を持ち出してしかことばを営めない事態は、削りに削ったことばの営みの場だ。そうしないで済む応用をヒトは工夫してきている。
だから個々を尊重しあう、という時にも、市民社会の掟の面、法治の要素を欠くわけではないけれど、もっともっとことばの営みにおける含み、もれこぼれそうなことばの営みのイメージで指摘しているつもりだし、ことばをはみ出すヒトの含みも当然そこに見ないとまずい。
BSで放送された『張り込み』シリーズ2編を見ることができた。どちらもギャグ満載で大いに笑わせてもらった。面白かった。
中でエピソードとして一目ぼれ系の役柄が居て、そいつが女性の方からも一目惚れされていた。その女性の誘い方にほんのちょっぴり観念肥大系の工夫の要素にプラスして、わがままなやつらが露骨に出てもいたのを視聴者諸氏は感じ取られたでしょうか。それだとわかりきった繰り返しの情緒パタンであたかも人生を描いたようなエピソードを繰り出しがちにしてしまう。そこらを2000年代のギャグあり、シリアスなドラマありの作品では試していってもらいたい、と素人は期待中だ。





君:他人まかせ、ってわけ?
私:自分では、なにもしない、って意味で?
君:そぉお、よ。
私:その方が楽か、な、なんて。
君:折角の時代、じゃない、自分でもシミュレーションしてみたら。
私:そうね。って、そう簡単じゃ、ないでしょ!もぉ。
君:あら、控えめなの、ね。
私:きょう、のキミのつっこみ、きつい、かも。
君:いつも、でしょ。
私:あたり。でも、自分で、言うかぁ・・。
君:言っちゃった、もん。
私:小説家で気難しくってのような『めぐり逢う時間たち』の女性っぽい、と話としては簡単に引用できるけど、実際には使い続けるのって難しいのかな。
君:・・なに、よ。わかりにくい。
私:キミは、はじけキャラで良かった、かな、なんてね。
君:なんて・・使いすぎぃ。そういうこと、は、ハッキリ言って頂戴。
私:確かに・・ほめながら照れててもしょうがない・・・。直そう。
君:やけに素直、じゃない?
私:へへぇっ。・・・きょうこそ、お茶、おごってもらおうかなって。
君:あら、時々私が払ってるわ、よ。
私:きょう、さ、これから、行って・・・、ね。
君:変なの、わかりにくいの。それこそ、もっと素直に言えば済むでしょうに。
私:キョウコソ、を使ってみたかった、の。
君:ふーーん。そうなのぉ。ふーーーん。
私:行こう、ね。出かけない?
君:どうしようかな。・・・気を揉んでる?
私:もみもみしてる。気持ち。
君:あら、そ。リラックス、してる、の。
私:いや、ちがう、って。気をもんでもんで、もんで、ツライ、ってこと。
君:わかった、わ。やめとこうって思ったけど、行くことにする、わ。寒い?外。
私:忙しいんだ。そうだったね。付き合ってくれるの?アリガト。じゃ、ぼくがお茶おごるから。
君:いいわよ、私に任せて。
私:いいよ。
君:何言ってるの、私が、って言ってるじゃない。
私:ぼくが出す。さ、行こう。
君:私が出す。さっき言ってだじゃない。あなたが言い出した、の、よ。
私:そぉ、だっけ?
君:年なんだからぁ、・・・私にきょうは任せて。
私:年寄りへの同情、ありがたく頂戴。(外は)寒くなってる。
君:じゃ、たまには寄り添いましょ。気にしないで。いいから。