連載は続く~SF掌編『メランコリアにどっぷりと』編




安保仮説からは、がんの転移という事態への再考を促すように仕向けられる。
転移のイメージでは、そぐわない。その実際も医療の専門家諸氏ならすぐにピンと来られているに違いない。これまでの発想をちょっと切り替えてしまう。
すると、タイプ分けが逆戻り療法にとって参考にできそうに思えてくる。
どうタイプ分けできそうか、と言えば、今までの転移順を、起点からどこに順繰りに退行現象としての細胞でのがん化が生じやすいか、で起点となる場合のよりストレスのかかる箇所が体にとってのその後のがん化展開について探るヒントにもなっている、というとらえ方になる。この考えからだと起点箇所での治癒と転移先の悪化という事態もより説明しやすくなるように察する。この起点とその先の順から類型分けしてどういうストレスによる負荷ゆえに起点が特定的でその後の展開の特質もそのストレスの作用機序ゆえ、という具合の理解へと誘われる。
そういう分類は、逆行治療にとって好都合に働く。からだ全体を対象の酸素や体温や栄養素やが要る。これは安保氏の発信。けれども、仮りに、負荷のかかり方にくせがあるのならば、体全体を、というやり方の中にちょっとした偏り手法も取り込める。どういう生活がどう負荷となったのかに気付かせて、どういう生活の形を選択し続ける長時間とするか、にあるわかり易い答えを提供する。長丁場だし、悪化の進度に気が落ち込んで、長時間かかる逆行治療に耐えられなくなるかもしれない。藁をもつかむ気持ちで多量薬物療法に逃避したくなってしまうかもしれない。手術等、からだへの侵襲手法受け入れの油断に走りかねない。そこへ、より具体的な経路をイメージできるようにすることは、患者にとって、といって患者という病の担い手、という決めつけは安保氏仮説からは相応しくない。体の状態変化に過ぎない。それが悪化の方向性も持つ故に、病気には違いないし、イメージしやすい医療上の病気に当てはめやすくもする。でも、かなり違う。状態の持って行き方次第で時間はかかるけれど、そして年齢にもよるけれど、治癒へと向かう。逆に年を取りすぎていると、死亡年齢への進行の早さよりがん細胞の悪化の方がゆっくりしていて相対的に大丈夫ということも、ここらは現状でも観察されていることなので、余分な心配はむしろからだに良くない、と指摘できそうだ。
安保知見によってこれまで膨大に亡くなっていた数が、有意に減少する、という事態を奇跡のように招ければ、三大療法で無力を感じたり、医療費高騰の悪循環を内心忸怩たる思いで受け止めていた諸氏にとって、”乗り換え”がより容易になりうる。それこそエヴィデンスとなってしまう。膨大量に少しでも変化が生じるかどうかの過渡期を招じ入れられるかどうか。

ラースフォントリアー氏の映画について、もう少し。
メランコリア』('11)を見ることができている。
アメリカ3部作は残念ながら未到着ゆえ、見てから言及したい。
この『メランコリア』は Lars von Trier 氏作品においてどぎつく無いので近づきやすい作品とかの世評があるとか、ないとか。
『Antichirist』('09)もどぎついかどうかは、単に啓蒙の恩恵の度合の違い程度、と素人ゆえ率直に指摘してしまいたい。
'09 の方でのエピソードはご夫婦たちが日夜いそしむことがあからさまに映像にされている。もしどぎつい、というには、その普通のことを受け入れがたくしている、トラウマとかPTSDっぽい反応の濃度差をもつご夫婦の反応の方だ。ただし、ここでも性の営みだって個々性の観点にゆだねて当たり前なのだから、この形がお前らと同様でだから表現してなぜ悪い、とかの居直りタイプのことばにしてはやはりまずいわけだ。或いは、イメージを押し付けるタイプも同様まずい。やくざな平等論はすぐそこに見え隠れする。
性と関わる営みのご夫婦類型としては一般的な交流だ。しかしその交流が別の様をより激しいタイプの様を招いてしまう。それこそこの'09 作品で扱われている相手に当たる。解決へと至るのか、激しいやり繰りの様を応用に見るものを引っ張り続ける作品だ。そして、一応素人の感づきは、妻の自らのイニシエーション儀礼っぽい切ってしまう行為後での切り替えのような暫定的治癒状態と恐ろしさのあまりパニックに陥り、妻殺しに走った夫という対比だった。たっぷり監督は引っ張ってくれたし、落ち着きどころの感情的盛り上がりまで用意した。良い結果のシーンではなかった。けれども救いとして、沢山の土地の霊というかかつてから今に至るまでの死者たちがご同伴してくれていたシーンがかぶさってくれたこと。井上ひさし氏の一葉もの舞台の発想と似る。芸術系諸氏は、現代人にとっての死の不安になんらか答えを提供しようと模索されているようだ(プライバシー問題もありそうだけど、”顔を明確にしない”映像での服装や体つきのばらつきのある人々)。
このもったいぶる演出手法は Lars von Trier 氏の特質かも、とより鮮明に印象付けてくれたし、当方的にはこちらこそぐっと引き込まれて魅了されてしまった、のが『 Melancholia』('09) だった。
印象的には、ぶちきれるというかやけにエキセントリックな役柄の女優氏を常識的にてきぱき動く人々が心配しているように事態は進行していき、一応、話題にされやすいようだけど、女優氏がどちらかの月の光に裸をさらして気持ちよくしている辺りまでは、心の病の進行形のように受け止めさせた。病んでるんだ、だからだろう、っぽくうけとめさせる。
ところが、事態(映画では巨大で地球に形や大きさも似た飛来物体が地球に当たってくる)の進行とともに、病んだ人物は鈍感(どんかん)の方に傾きだし、他の人々は事態の深刻さのリアルな感受に応じて慌てだす。この慌て方を心の病と見るのか、招来する事態のリアルな感知度合の違いと見るのかで、人々の態度を受け止めることばが相当に違ってしまう。
当方は先のように受け止めたので、サイエンスに近い確度で最初に薬物自殺をやってしまった人物の選択もありうるのか、と思えたし、そうではないやり方もいくらでもあるはずだから、ここは監督の人格演出のはずだ、と受け止めている。おびえながらも確度としてのあいまいさを引きずるリアルな濃度の妻役は、子供を心配できるくらいには、態度が不鮮明だ。心を病んだ人物は、脅迫的に仕掛けてくる人々が逆に希薄になるような事態を迎えて、落ち着いて病んでいる。しかも、映画を見る前から観客はどういうことが起こるかは予備的に知ってしまうから、それがどうやってくるのかを半分期待しながら映画の進行に付き合っている。じれったいくらいに待たせる演出はたっぷりと健在だ。
そしてとうとうやってきた。それは見慣れた映像だ。今時のテレヴィ画面に慣れた人々は恐竜絶滅エピソード映像として馴染みに馴染んでいる。それが使われている。だたし相手はヒトだ。しかも!それが生じる前のわずかの時間なのだけど監督の冴えわたった演出CGを見ることができる。時間の配分とか息(いき)を厳密に計算しているのか、と思わせるような演出で、見慣れた映像になる瞬間も含めて、待ちに待った、けれども、リアルにこんなことは滅多に起こらないでもらいたい、と思わせる、衝撃的なシーンとなっている。
現生人類はたまたま氷河期突入後に進化してきた。だからこの手の出来事と遭遇はしていない。けれども、地表面の生き物たちはこの手の斬新な出来事と何度か遭遇してきている。だからヒトにとって無縁であり続ける保証はどこにもない。
観測機器が発達して、ある程度万全だ。ここらは最新の情報発信に耳を澄ませている諸氏には承知されている。それでも見えない箇所、見えない大きさとかの問題は残っている。見えない、観測に乗りにくい、ということの内実は、ヒトの哲学問題だ。テクノロジーが追い付いていたとして、”見えないもの”は見えない。
この Lars von Trier 監督のもったいぶりの高度な演出術にはまいった。『メランコリア』は映画鑑賞の時間を惜しませない。時々見て、体験の面白みを味わいたくさせる。
それくらい最後のほんの一分か数十秒か(計っていないだけで、すぐにわかることだけど)への過程、この瞬間の映像がなんとも言えず、ぐっと来る。





君:寂しいわ。とても、寂しい。
私:・・・。確かに、そう感じたことばにした方が良かったのかも。一方で、寂しい云々にしないだけのリアルっぽい厳格なニュアンスで現実がそうやってくるなら、という観点も欠かせないように、同時に思えてた。
君:子供を抱えた女性がいたわけでしょ、その身に寄り添えば、他の二人といっしょにどうなるか、がわかってしまうのだから、寂しい、わ、よ。とにかく、寂しい、わ。
私:関わる気持ちの強制的な中断、なんだから、ね。それはそうだ。夫はさっさとおさらばしているし。耐えきれなかったんだろうね、サザーランド父、だったらそういう役柄だったろうか、なんて、今、考えてしまった、よ。
君:サザーランド父?サザーランドさんって、24時間のでしょ?
私:それくらいは知ってる?
君:だ・か・らぁ・・、映画館に行って映画を見ることはしない人なの、私。
私:キミはぼくにとって、まったくうれしくなる偶然、さ。
君:・・なによ、突然。
私:時々、言ってみたくなる。・・・。偶然ついでに、少しいい?
君:いいわ、よ。偶然?なに・・・。
私:一つは役者。世の中には不思議なタイプの役者氏が居るんだ。主役だろうが脇役だろうが出演をとことん楽しんで演じてしまうタイプ。そういうことをの幅の場を提供してくれる演出家が居て成り立つ、のかもしれないけれど、とにかく、そんなやつ。でさ、Lars von Trier 監督次回作に怖い役柄で出ると紹介されてるのがマット・ディロン氏なんだ。そのディロン氏、ラジオ放送でたまたま日曜夜に、今年偶然に会ったとかでその人物の人となりについて面白い話が聞けた。ちょっとした偶然の連なり。そしてもう一つ。本当は3つつながりなんだけど真ん中のエピソードを度忘れしてしまった。
君:そろそろ?ふふっ。
私:痛っ、多少冗談をはぶいて、痛い、かも・・。
君:そんなところで気をさせないで、話、聞かせて、もぉ。
私:ごめん、続ける、よ。今度はデンマーク繋がり。監督のデンマーク、そしてなんだったっけ?忘れたのが一つで、もう一つが、土曜に録画しておいたモース巡査が活躍するBS海外ドラマ。で事件に巻き込まれるのがデンマークから留学してた学生。
君:・・・・?ただ、デンマーク、ってこと、ね。デンマークが共通してた・・・。どう受け止めたらいいの、かしら。
私:偶然・・・、でしょ。やっぱ。
君:あなたって、その程度のことで面白がれるの、ね。
私:安上り、なんて、ね。
君:値段の話にしない方がいいんじゃ、ない、かしら。
私:いいねぇ。ステキ、だねぇ。そんなヒトと偶然がありうるんだ、ねぇ・・・。
君:なぁーに、関心してるの、かしら。どぉ?
私:いい感じ、だ、よ。
君:そぉ。
私:行く?
君:どうしよう、か、な。
私:4歩、でもいいけど、って・・。
君:おやじ、ギャグぅ・・・。苦しいわ、よ。
私:逆効果、・・だった?
君:散歩、散歩に、って言ってしまえば済むこと、なのに。
私:・・気を利かせたつもり、だったんだけどぉ。
君:駄洒落、よ、ダジャレ。
私:そこまで言う!?
君:お茶に誘って、よ。
私:少し、遠出になるけど、いい?
君:いつだって、嫌がってないでしょ。
私:そうね。確かに。ついでに少し足をのばしてシネコンのところまで、どぉ?
君:見たい作品?
私:何やってるかわかってないし。
君:じゃ、よしましょ。
私:わかってたら、付き合ってくれた、の。
君:散歩しながら応えよう、かな。
私:おっと、失礼、話ばかりで、物事がはかどってなかった。さ、行きましょ。そしてお茶、ね。答えは、多分、そう、でしょぉ!
君:・・、答えなくって、いいの?
私:・・んなことない、って、ことばは断じて、必要、です。って、待って、よ。行くから。もぉ。早いな、キミ。
君:あなたが、おしゃべりし過ぎ、なの。歩きながら、話しましょ。ペラペラって。
私:ペチャクチャ、はまずい。
君:出たぁ、もぉ、しょうもないんだからぁ、オヤジギャグの、のりぃ!
私:キミといっしょだとつい気持ちがこう高ぶって、しょうがいない、ね。年寄りだし、ふふっ。
君:ふふっ。そうね。お年、寄り、な私、かも。
私:?!・・・・!