連載は続く~SF掌編『なぜかエドワード・ヤン監督作品にたどり着く』編




私:エドワード・ヤン監督の『恐怖分子』('86)を見始めてる。
君:知らない。見ないから。
私:映画、見ないもんね、キミ。映画産業とかある種の人脈がこしらえてきたのとは少しずつずれた映像を希求してたことが後からだとわかる新世代の映像にはなってるよ。海外からのカメラマンゆえとされた香港の映画も参考になる。でもこれは台湾の新世代の映画。といってもうかなりのお年になっているし、この監督は既にお亡くなりになった。旧知の映画好きたちは大層残念がっている感じ。ちらっと映画の一シーンを見ることができればそれに気付けるよ。映画に収める。映像として納めることの切実な向き、のことがわかる、気づけるっていうか。
君:私にも見ろ、ってこと?
私:できれば。でも、今は、しょうがいないし・・。話だけでも聞いていていただければ。
君:そこまでいうなら・・いいわ、よ。
私:ヤン監督の『恐怖分子』を見ながら、一方で、甲田氏の粗食のことも頭に浮かんでた。そして列島育ちの有名な役者氏がそれなりの着実な、でも挑戦的なというか変わった旅もお一人、子供たちとしていて、おもしろいエピソードをラジオとかで時々語っている。でその話の中身が甲田氏の少食に近い発想に感じ取れた。変わったエピソードが可能なのは体がそれなりに(体力以上に食関係や日常生活のところで)強靭なタイプだからと推測できる。でも、甲田氏らが自らやってのけてくれたおかげである種の知見を今の人々は得ていて、それが、粗食なり少食を徹底することの健康な状態、というのが、体の衰えに直に従うタイプの年の取り方をする、ってことだったりするんだ、ね。生き物だから、食ったり、体つかったりだとか、で忙しく生きている内に、それまでとその時点での食や力の使い方とかがもろ体と相応してくる。で甲田氏らは、いわゆる後期高齢者年齢で素直に衰えていった。まさに衰えたんだ。そしてしっかりお亡くなりになっている。潔い。実に潔い生き方なんだ。衰え可能性の年代を一応確かめられた。でもヒトはそう簡単には死なない。だからその時期にも粗食系、少食系で鍛えてこなかった人々は恐らくなんだか体の調子が・・・とか不満を持ちつつ、長生きして、90とか100越えの年齢の頃に、しっかり正直に近いところで耳を傾けてくれるタイプたちへは、率直に、長生きするものじゃない、早く死にたいとか漏らし始める。でも、本気で死にたいと思っているわけでは、間違っても、ない。そこらは肝心なところなんだ。でも、体調のことが常時気にかかるくらい不調になってはいる。どこかしらが落ち着かせてくれない。本当に工夫に工夫を重ねて、四肢ともに健康(つまり転んだりとか打ち付けたりとかで四肢になんらか痛みを持っていないような場合)だったりすれば、動けるから、気を紛らせることができるので、内実はかなり違ってくることは予想できる。でも多くは、うっかり系のころんだりがあって、体を痛めている。で、悶々としてしまう。老後はなにかをして楽しんで、なんてことをかつて構想していたことすら忘れて、日々の気になる痛みとご一緒と言った感じになり勝ち。痛みも、だから精神面からのものが半分は占めているはず。家族への心配。これは自分が負担になっていないか、ってなことが昔の人たちほど強そうだ。そして、傷ついた自分を昔懐かしい家族ような思いでいたわってくれるかどうか。乱暴に扱われて、いやんなっちゃう、のようなことをなんとか回避したい。そう日々思っている。古い考えで施設仕事に長けた人々だと、仕事イメージが流れ作業だから、そこに落とし込む、時刻刻みに合わせる方で、しっかり仕事してくるから、もう大変。お年寄りの尊厳なんてあったものじゃない。啓蒙が進行中だからそういう発想ではなく、待てて、それがもたらしがちな介護担当者への負担は介護担当者間で請け負う発想が先行できるタイプたちもそれなりに各地で育ち始めているはずなので、そういった人々をしばしば見かける施設での老後であれば当たりはずれの当たりが多めに晩年を過ごせるようになる。話は潔いタイプのことだった。某有名俳優氏はきっと、80代に迎えるその体については、受け入れるつもりなんだな・・、と思えたわけ。多くのヒトは、そういう少食系じゃないから、惰性で長生きすることになる。だったら、ということで糖質制限とかほかの食についての工夫の話を盛んにするようになっている。折角の晩年までの老年期を、若いころに構想していたことに近づけて何かしら成就できればそれはそれで個々における満足につながる。そしてそれを経て晩年を迎えることができれば、自らの工夫による老後ということで、介護にとっては理念に近い形だ。お節介でこちらの都合の理想の型にはめこむやり方ではなく済ませる。自らが考えてくれるし、それなりに実現可能なくらいまで一応練ってくれているお年寄りが沢山出てきてもらいたい。
君:そこまで考えたこと、なかった、かも。80代ですんなり死んでしまうような食べ方、もあるってこと?そうなのぉ。・・・・映画、とどういう関連。なぜ、思い浮かべることができたの。
私:ラジオの話が先行してたことは確か。映画はずっと後。キミが相手だから・・率直に言ってみたい・・んだけど、かまわない?
君:って、なんのこと、よ。
私:小説書きが思うように進まなくて、昔非常に親しかった男とは既に再会していて、それで、ある日、日中に町中で示し合わせて会って、慰め合えた。それは一種至福とも思えるやんわり感が漂ってるシーン。そして次のシーンではベッドで上半身起こした二人が並んでぼそぼそ話している感じ。”抱き合う”ことの惰性感こそが大人生活、っぽい映画資産があるわけだけど、田舎者感覚からすると、裸に欲情しあえる自由自在さの大切なことの一方で、手間のかかる(汚れのことも含めて)行為だしお互いを飽きさせるための行為なことはもういわずもがななわけ。だから大人っぽさを表現するなら、そうじゃないだろう。もうそういうシーンにしてもいい頃だろう、と思うわけさ。もう少し端折るなら、わがままなやつらが強いてくることを、満たし合える関係にあるならそれはそれで便宜的に流してしまう。そういう日常は(性的に熟してしまった年代以後には無理を強いない方が得策。その年代以後には工夫がいる説教でどうなるものでもない。せんじ詰めればバタイユ氏が警戒しているし余郷するためにこその知見として、集団的な発露としての残酷の見て見ぬふりに通じてしまうことだって起こる)ヒトのこととして当たり前でいい。けれども、そういう便宜性を機能させて、ある別の状態を得て、観念肥大系にとってはより美しくふるまってくれるだれかたちとして付き合え、その土台での和合はもっと美しく楽しい。そういうヒトの工夫が要る。だからキミとかもっと経験的に事情通な人たち言ってもらいたいけれど避妊にしたってわがままなやつらが喜びそうな手法が使われがちだけど、それだと工夫要らずで頭を使わないことが多くなるから、発明発見のための機会はほとんど期待できない。飽きるためだけどやりたいだけやれるっぽく流されがちにする。そしてヒトに飽きてしまうんだ。だからバタイユしの心配の種は尽きない。知らず知らずヒトは飽きていて、(些細な日常的なことも含めた、だけど見逃すわけにはいかない)残酷を受け入れやすくしてしまう。年寄りゆえの、瞬発力のなさ、遅延は、結果的に救いだよな。
君:君、って、なによ。経験はあっても、他人様にこうこうです、とかそんな説明するような知識を持とうとしてきたわけ、ない、でしょ。ことば、もう少し、工夫して、よ。
私:怒らせた、ごめん。気を付けます。
君:そうして、よ。
私:ただ、さ。少しは伝わった、でしょ。
君:これまでも何度か、あなたが言ってきたこと、じゃない。プライバシーを大切にし合える関係が成り立っていれば、あなたの言うわがままなやつらのお誘いに乗ってオンナも自由に振舞える、でしょ。あなた、なら、オンナこそ油断ならないから、オトコも、って言わないと、だめ?それは、それ。そういう出来事で、その行為がもっと他のところで信用を確かめ合えているからこそできる、というかできた方がよくて、そこに期待とかこれまで普通にことばがあてはめられてきたようなことは持ち込まない方がリアル、ってこと、よね。好きでいたい、のなら、飽きないリアルな現実の方で工夫していくらでも愛し合える?そう、でしょ。
私:小さな死の充実感は飽きることと表裏だ、とバタイユ氏の発信以後はヒトは自信をもって認識できる、と事情通ではない素人が一応言ってみたい。本当はだから事情通だったりわれこそは経験豊富っぽい人々がバタイユ氏の再来のようにして、しっかり具体的に知見を重ねていってもらいたいところさ。普通に忙しい生活をしている人々にとってはかなり負担になる。小さな死の充実感を勘違いして、大人っぽいお互い様を経験したようにして、他人への感応、官能、寛容を大人人生として削いで行ってしまうんだ。それはほんともったいないことだぜ。
君:ぜ!?乱暴。優しくいってもらいたい、わ、よ。
私:田舎者モード、だし・・・。
君:田舎者を言い訳にしてる!
私:ラクロスエピソードと何年もたって出会えた、キミを繋ぐ、イメージに溢れている喫茶店に行かない?
君:誘ってる。性懲りもなく・・・。
私:どぉ。
君:いいけど・・・。印象深い、わけ、ね。
私:お客さんに親身になってくれる感じ。ドグマにしちゃいけないけど。期待もしちゃ失礼だけど、ね。
君:いいわよ、行きましょ。散歩、がてら、よ。
私:願ったり、叶ったりぃ!!
君:なによ、そんなに喜んでぇ。びっくりしちゃうわ、よ。ふふふふふっ。これから映画のシーン作り、変わるといいわね。