連載は続く~SF掌編『デジタル化本も使いよう、と、やっと気づけた感じ』編




一所(ひとところ)に大勢を集めて住まわせてが高密度で、となると、大変なことになる。そんなことわかってらい!とおっしゃる向きもおありだろうけれど、意外に世の中、知識はあれど、で、これまでは仕出かしてしまうことが、時にありえてきた。
緊急避難、であっても、そう何日もヒトが耐えられないことが、列島での近い経験から見通せるようになっている。
そして、大変なことに、ヒトにとっては、なる。
それこそヒトそれぞれなのだから、変に一律な繰り返しを強いることは、各人にとって相当な苦痛となって、それは心身に即影響してしまう。
大体、ヒトがそれぞれにおいて、自活のなんらかの手段なりを持てていれば、結構他人に迷惑にならないようにうまいことやり繰りしてしまうものだ。各人の工夫が結果的になんらか格差を生じさせるかもしれないし、情報交換の巧みが少しだけ均すようなことになるかもしれない。この場合、均すことが目的ではないし、それぞれの生活の質がそれぞれにとって、という基本を押さえておけるので、自発的取捨選択にゆだねておけばいい話程度のことで押さえられる。



資料読みに近い本の使い道、という場合、デジタル化図書はハイパーリンクっぽいたどりが可能だったりも余禄に使えて、場所も取らず、結構便利かもで、代替を狙い始めた。
きっと探偵氏などはこう資料を蓄えている、はずだ、程度にも思えて。
でたまたま女性訳のバタイユ氏の『マダム・エドワルダ』を知った。バタイユ氏は性差を19、20世紀観察知見に探るくらい経験上の?を20世紀前半期に抱いていたタイプだ。恐らくついこの間まで指摘されていたグラデーションの中に解消してしまうような性差ということのなんらかまでは気付かれていた人物だ。だから女性も気を付けていないと、思い込んだ性差で女性をつい意識したところから男性を意識するというようなことになりかねない。男性からすれば、女性たちのわがままなやつらに強引に引っ張られている状態からの吸引力には気を付けないとどちらにとってもそういいことはない、と多少は、距離を保とうとするかもしれないし、抗いきれない、という事態も珍しいことではない。ただこうことばにしてしまうと、更にもてなくなる可能性大、なので、探偵氏は、滅多に口にすることはない。





君:・・・やっと、出てくるように・・・・なった、わ、ね。
私:ふふっ。
君:なによ・・・。
私:次回、少し、色を持ち出してみたい。すぐ、だよ。
君:そぉなの。