連載は続く~SF掌編『新緑の黄緑色』編




薄めて・・ということでは、ワクチンも似ている。
そこでかどうかは不明確だけど、ワクチンの評判はかんばしくない。
薄めて・・は同種手法の方でホメオパシーの分野。
熱が出たら心配して下げる、は、今時の医療。
熱が出ても体を冷やさないよう、温めて、回復を待つ、の方は民間の知恵か。保険の利く今時の医療でもそう勧めてくれていた。
やけどだと、民間の知恵ではじんわり冷やす手法だ。後が残りにくいというか、ヒトの体の再生能に期待できているし、体はその通りに答えてくれることが多そうだ。だから例外も充分にありうる。
性質について、経験を重ねて、より専門的に整理できている状態は、再現性の意味合いから、頼りにしたくさせる。今時の医療はそこらを一応踏まえていて、しかも世間が知り始めているように、一面的な領域に限って、ということになる。
ホメオパシーの医療の方は、その分野を啓蒙している人々すらがネット発信において、性質に熟達した人々以外のごくごく一面的知見での応用も介入しやすい列島環境とのことだ。専門的に整理された今時の医療でさえ、なのだから、更に、一般にとっては使いずらい分野と映る。ただし、発想において、今時のもホメオパシーのも、恐らく相互的に相乗できる可能性を持っているけれど、なにかしらが、邪魔している時代的制約を専門家諸氏が気付けるかどうかにかかっていそうだ。

というように、その昔ならば、漢方がそういう場面を経ている。
薬依存の漢方、というイメージならば、漢方のありがたみは多少減じる。
漢方は今時の医療が多量に生じさせる不定愁訴のような事態は生じさせにくい接近法を持っている。
医療の発想の基本に体が持って生まれた回復力を賦活させるとかの知見が用意、共有できているようならば、薬使用による害はどの医療でもそう多発はさせにくくする。

19、20世紀利害の方からの圧に屈して、法律家とか医療分野で成り手を大量生産してもまずい。
専門性を保てる教育の過程は貴重だ。その育てる分野を市場まかせにして儲けの為に教育が必要な人材を沢山用意するという発想にすることは、中身を問わないのと似た現象に近づけさせる。お金がかかるそれら分野の人材育成ということも、市場に任せるやり方を採用したからか。
多くのそこでの事情通諸氏が困ったな、と思えている分野では、恐らく、沢山儲けるには、に圧がかかるようなしかけの過去のいつかに採用したその副作用が生じているからだ、と大抵の場合予想が立つ。

密かには、下地として、ある規模の支払い手段が集まってこそ可能になる、というヒトの経験を踏まえられるならば、そして、だからこそ、ことば上のあれこれとは裏腹に、集めやすくしてきたわけだけど、ことば上のそうしてみたいの一面により寄り添ってしまった時、本当に、集めて可能になってきたことを継続、持続できるようにするほどヒトは賢く、冷静なのだろうか。つまり尊厳をいつでもどこでもどんな状況でも、お互いのものとして保ちあうように働きかけあっているなら、いいけれど、多少の濃淡が生じれば、かく乱は避けられない。束の間とはいえ、軋みが生じてしまう。巷での努力がそれを解決できるようにするくらいの知恵は育っていても、だれもに期待できることではない。空気に流されてがちにする。空気はだれかしらがいつでも捏造したがっているものだ。集団の思惑を引きずっただれかしらたち、と言っておいた方がよりリアルっぽい。
そこらを巷の良識の育ち具合がバランスさせうる。

答えになる方のことをぐたぐた言うよりは、そこらは各人に考えることに期待しておいてよいわけなので、考え方っぽい方を更に続けてみる。

たとえば医療に就く人々が高額の教育費用を要することなく、専門の課程ゆえにそれに耐えうるかどうかを試される、という”費用”を引き受けられるかどうか、次第程度にできていれば、学問ストレスをこっそりためこんで、医療専門家になってしまう困った現象は極小にしておけそうだ。

『ザ・ファーム』('93)は長かったので録画を見るのを中断してから、『バイス』('18)を映画館へ見に行き、翌日再び残りの『ザ・ファーム』を見て、それから映画館へ『グリーンブック』('18)を見に行った。

そんな中で、だから、こんなことを考えていたと思える。

ケイマン島の話題は既に1993年だ。
USの公式筋は追いかけていた。民間人は一応建前として、公式筋に迎合せずに、自由を選ぶ行動を選択している。
現にUSの公式筋はケイマン島話題のタイプの税逃れの経路について、詳細に資料を収集することは基本にしてしまっている。その割に、表の現象として、摘発されることはそう話題になっていないから、きっと取引材料にされている、と映画の見過ぎほどではないにしても、そっちのくせから世の中を見ている可能性大の当方的には、想像してしまう。

発想は個々のからだとごいっしょだから、漢方の担い手継承のように実子がいても養子を取るくらいの応用技をこなさないと、やっていけない、のかもしれない。
現に継続中の医療のオルタナティヴも惚け発想が跋扈しやすい条件を採用している世の中だと、円滑に発想の貴重なところを継承し合えるというわけにはいきづらい。
そこらだ。たまたま偶然に幸運にも、そういうオルタナティヴと出会えて、体を保って天寿を全うできるのかもくらいまで元気に生きのびている諸氏が、それこそ幸運にもそういった発想の担い手諸氏を応援できる機会を持てる。
けれども儲け依存にしている風潮下では、なかなか信頼度を検証し合えない。宣伝の邪魔になるような評判の発信すら八つ当たりに合いかねないわけだ。人のうわさも・・のたとえの如く、どれが頼れる情報、かどうかは、実際のところ難しい。個々が経験からこれぞに頼るくらいが関の山だ。

安保氏はご自身の学びの専門性ゆえに、ずっと発見され続けていた。それを一般読者が近づきやすい本にしてくれていたのだから、いつもそれを読めた。
氏のからだについて全体把握発想は、ある代替的知見がどう作用するかの機序について、欧米医学知見のことば(運用)が採用される。
ウォーバーグ効果についてのその他論が昨今見かけるとして、安保氏身体全体理解発想を踏まえられるかどうか、そういう個々が育てた発想を上手に継承できているかどうかは、折角の部分知見の精度すら無駄にしかねないほど、と素人でも察してしまえる。
同じブラックボックスであっても、工学を発展させてきた方に発想できるタイプと、サイエンスに使えてしまう発想のタイプとに分かれ得る。ホメオスタシスというブラックボックスの扱いでも同様。研究者諸氏において、ご自身がどちらにそのわずかの角度の差が、向かわせてしまっているのかにある程度自覚的でありうるならば、応用の力はある程度万全とも言えそうだ。

1970年代のごく初期のころまでナスカーのレースで走っていておかしくないタイプのアメ車がまるで新車であるかのような姿態で、映画を走り抜けていった。否、NYCに戻って停車していた。それも雪の中!そして多少スリップしながら重い車体は動き出した。

その何十年かのちのNYCにてある事件が起きて、イェールとかハーバードとかどうってことなくことばにするような人々が、大統領府をめぐって人生を生きていた。それがごく当たり前であるかのように。多少は勉強したかもしれないけれど、通過は当たり前程度。むしろご近所付き合いくらいに個々に精通しあっていて、だからどう信頼でき、どう信用ならないか、頼れる偏れないかが個々の肌合いの次元で語り合えている。そういう連中。
ただし、参考にし易いかつての山口昌男氏の論に出てくる儀式的、通過儀礼的な入り口にこだわらない、アンチヨーロッパタイプの発想、たとえばラムズフェルド氏流が幅を効かせて若者たちがそれに乗って育ってある種の”エリート”層ができてしまうまでは、そうはやすやすととはいきそうにないものだ。
ここでもただし、が付く。
『ザ・ファーム』は一面のことでしかないと察するけれど、US方式は政治家を縛ってしまう。制御下に置かれやすい。映画では弁護士連中がわがままなやつらを手名付けていない時期に早速、あてがわれて、その弱点を握られ、操られやすくなってしまう。夫婦円満を弱みに使われてしまう。
犯罪っぽい事態をきっぱり判断してしまうかわりに仲間だからと緩く処理してしまうと、それこそ共犯関係ということで生涯、誘導材料として付きまとわれるタイプだ。もちろん、なんらか弱者(子供が関わって、将来を思ってとかが典型になる)をかばうとかが絡んでいれば、それなりに自信を失わないで済ませられる。表向きにはやばいことしてんじゃない?程度に受け止められるかもしれないけれど(そうやって受け止めて、世間の中のだれかしら諸氏は自らに甘えの根拠を与えて悪さに手を出して失敗する)。

土着の大勢の人々が住み分けていた土地へ、突然やってきて、曲折を経て、ある落ち着きを得た時、冷静になれば、かなり乱暴なことをしてきたのかも、と、ある土地を何百年間と保って生活してきてくれたことの凄さ、貴重さをも合わせ考えて、自らの正当性をどうしても即席ででも準備したくさせる。そしてよりいきさつが色々の人々を住まわせることを選ぶ。いわゆる多元主義
だから少し寂しい。そういうことだ。ヒトはいつでも試行錯誤している。
集団の営みとなるともっと大変だ。
だれもが大工の技を子供のころから養い。材木は手ごろな支払い手段で手に入って・・ならば、自給自足とはまた別のなんとかやりくりできる人生たちが莫大に輩出しうる。
材木を何千万人もがいつも使い続けることの内実はどういうことになるだろう。
使い道を規制して、統計、推計を出しやすくする?それでは本末転倒だし。

先にふれた儲け動因は、使いよう、で、使ってはまずい分野にそれをかなり圧にしている。からこそ、無駄、たとえば人の移ろい、集まり方、などに無駄が生じやすい。
人生設計は安定性が重要だから、ある仕組みに採用したならば、それを動かすことは、したくなるかもしれないけれど、先を読み足りないだれかが悪いわけで、無茶なことは尊厳のお互い様性からして、よくないことに当たる。微調整しかできにくい、という実際。その積み重ねでヒトの集団の営みの改良は実現していく。
既得権的な頑迷さは、それとはまた別の誘因。そこを見極められるならば、変えることの使い分けということもありうるし、判断は必須。だからぞんざいな判断も禁物。

介護現場がたまたまそこで働きたいという人々の集まりにくい場のような時、それは弱点に当たるから、組織だって、自分の人権は尊重せよで、老人の人権は軽く見るタイプたちを塩梅して現場をかき回すくらいのことはしでかす。
そういう事態は、私立探偵の出番であるよりは、公務系の組織が建前を持ってしっかりやり遂げることができる。対処可能な事案だ。





君:逃げてる。また逃げてる、でしょ?!
私:・・・わかる?
君:そうよ、簡単よ。探偵さん、活躍できる事件がない、って言ってるだけじゃない。厚労省かどこかの役人に任せられる事案だ、って。
私:そこはそうなんだ、と思うけど。
君:だからって探偵が要らない、にしてしまうわけでしょ。当分でてこない、わ、ね。
私:・・そ、で、暇なもので、写真撮ってたみたい。
君:なによ、それ。写真?
私:うん。黄色の写真に、緑の写真。緑は新緑の、かな。一日ずれただけで、新緑の色合いが変わってしまったとか、ぼやいてた。
君:・・そぉ、・・・お話したのね。探偵さんと、あなたが。
私:そんな、ところ。
君:そして今も、暇。
私:今日は、どうしてるかな・・・。ここらに、いるんじゃないか、な。
君:暇だもの、ね。いっしょに誘ってみたら、お茶。それとも散歩。
私:両方、誘っちゃおう。
君:いいわ、そうしましょ。
私:乗りすぎて、ない?
君:あら、いいんじゃない。探偵さん、呼んできなさい、よ。
私:・・・・・。
君:いいから。いいのよ。私、大歓迎。楽しくなりそう。
私:・・・。

以下、キとミドリの写真。キミどりの合成写真を紹介(1000x600)。
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