連載は続く~ SF 掌編『GISの歴史探求利用とか』編

 たとえば・・最近の広い画面を高精細に使えるPCにてGISを使うなら、前回参照した松本氏の知見など考古の資料から集落変遷のデータを地理データとしてプロット、各時期一枚一枚が透明色下地にレイヤーを構成させて、プラス、気候変動の今時知れているかなり細かい時間割での変動の様も同様にして、ないし3D処理して、空間表現に持って行って、視角操作自在の方で観察くらいは、手軽にできる。
 ここらを紙媒体で、となると、(透かし紙を何枚も重ねたり・・)重すぎるくらい分厚い一冊本か、限定的期間を単位に、分冊系のセット(数十巻)もので手持ちの処理ということにもなりかねない。
 それを見ながら、頭に入力済の年代ごとの記録と"付き合わせ"たりが可能になる。
 "考えるヒト"の記憶のあやふやさについては定説になっているくらいだから、そこらは慎重を期すということで、基本文献ほかは欠かせなく、その都度点検は要る。
 透明レイヤーの色づいた集落と未調査・発掘調査されていない部分とが重なって、それはそれで思い込み起動の防止にも役立つ。
 今時は考古の手法も、実際に蓄積されたデータもかなりのようだから、それを応用できることは、それなりの成果へと通じうる、と素人の年寄りでも期待を持たせる(もちろん、そこは素人、人生が生々しいうちに研究とか分野の熟練諸氏の達成にふれうる機会が持てそうだ、という方で)。

 近藤氏のちくま新書については何度かふれたけれど、小林氏の邪馬台国ちくま新書についてはふれてこなかった。九州王朝説発想の中の貴重な部分を尊重したい素人からすると、ちょっと、危なそう(トンでも説とかその類)・・・というのはその近畿圏の中央集権のもう一方、九州の方も中央集権のその一方のように見ているような見出しだったから。
 で本日たまにの街の本屋で立ち読み(購入した近藤本についてはまた後日)。
 当時について、当方的な現受けとめは渡来の変遷が積み重なって、自立的な経営が散らかっている列島状況の中、空地めがけて、順次、渡来系や旧来の集団の営みが移り住み、住み着くことを更に重ねて、旧知の間柄(あいだがら)間ではネットワーク(なんらかの制度っぽい約束事の共有)が形成されていたはずで、でも自立的な経営も旧来として既存のなんらかを発揮できているそういう時代相を集落の展開知見からは見たくさせている。
 そういう既存を前提に、世界情勢というか、たとえば仏教脈からは単に東アジア圏では収まり切れない広がりの中での技芸の凄さっぽいのを物からも知見からも感じ取れるし、既に学びつつある人々も出てきていたろうし、則天武后が唐の中枢に后とかでごく近づく前後の頃以来の近場の情勢変化、特に660年の画期を経て、具体的に人の移動があったわけで、列島版の歴史書に記述の有無に関わらず激震が走ったことは間違いないと素人老人は察する。
 遠いし、直接は百済人脈で、その伝聞からの残党的対抗思案が生じて、その後の顛末、といった辺りは、思いこめている諸氏にとっては痛烈な出来事と映ってちっともおかしくないしそれがPTSDとなって後々、ないし歴史的禍根を残すようにしてしまったとしても不思議がるつもりはないのだけど、激流はといえば、もうそういう連中の相手をしている暇はなかったわけで、その置き去り感もPTSDの持ち主諸氏にとっては辛いことを倍加させたくらいは想像が付きやすいけれど、それだってやはり激流にかき回されるだけだったくらいの大きな動き、プロジェクトが培われつつあったわけだ、と7世紀半ば以降を素人は押さえたくさせている。
 既存の自立的経営の多様を前提に、中央集権化へとプロジェクトは出発するのだから、それこそ難関だらけ、と今時の三権にとっての苦難をニュースから探るだけでも想像はつきそうだ。
 お互い楽しく意欲的にプロジェクトに邁進したい、それはそうだ。だけど、そうもいかない・・・。
 プロジェクトのプランを共有できた地域(時期的に既に近畿圏が中枢だ)ではより生真面目に中央集権化に向けた発想が具体的に浮かぶ。
 けれども、すでに渡来を重ねて、各地に移り住んで、独自に自立的経営を成している集団の営みにおいては、恐らく余計なお世話だ!とかなり強く受けとめられた可能性を素人の強みで、指摘してみたい。
 けれども、親戚とか、血縁とか、(旧)地縁とかでネットワークを中枢と濃くする経営も散らかっている。
 そこで、列島の中央集権化の筋道は、独自にもなった。
 異質の脈絡の人々にも、平和裏に中央集権の恩恵に浴せるしくみ(膨大量ゆえに負担感を減らした"保険"のしくみを組み込めるなど)に参加してもらう。平和裏がミソで、そこらはきっと経験豊かな人々が中枢には一杯いたと想像する。力づくほか騙しネタ頼りでは、短期の集約は可能にしても、追々、その土地柄は暴力沙汰でのトップの交代劇を繰り返すような営み体質を持ち込みやすくする。そこは避けて、長期、持続性を求めたわけだ、初めから。けれども生真面目層が政治思潮を元にプランを実現するとかに慣れていなかったために、独立経営の神々はそのままで良かったのに、神社としての統一組織にまでまとめようとしてしまう失敗も含ませている。同様に今日から反省できることを整理して、今日版の改良を図ることだって無駄ではない気が老人発想からはする。
 つまり、九州呪術王脈をシンボル天皇に仕立てて、まとめ役を担わせたとして、拠点は移動した近畿圏だ。東西論が今でも出てくるくらい列島の東国域は、別にまつろわりたくない!とか思ったわけではなくて、元々が独立経営して規模拡大の余地もそれなりにあった土地柄で思う存分試行錯誤できていたのに、公地公民とか荘園とか、かなりきつく土地保有についての制約が突如強力に制度として持ち出されて困惑させられたと、素人の想像では思える。
 早い時期から、京を離れて(船便の要路だったはずの)霞ヶ浦域へ進出した平国香脈とか桓武系発想の人々が、それなりの職務を担ってそうだ、くらいは想像してもよさそうだ。
 藤原氏ともそれなりに濃く関わっていた源氏のある脈が途絶えたとしても、桓武直系のような平氏の末裔はしっかりもので、たとえば鎌倉時代も文書については相対的にしっかりものだったらしいくらいで、平氏脈がきっと機能していたと想像したい。藤原氏が背景に隠れ過ぎた一時期、そして江戸期のようにわざと背景で強力に思潮に食いこめた(医療での南蛮・蘭学と京都問題、綱吉問題など)時期とか色々展開は入り組むようだけど、二つの中心論にしてしまうと、こうは素人でも想像しにくくさせるわけで、ここは、初心に戻って、なぜ中央集権化が必用だったのか、の辺りの点検から学術してほしくなる。