連載は続く~SF掌編『陽射しは強く、影も濃く』編




影の政府の論については、一頃流行ったシャドウキャビネット噺から大体を想像して差し支えなさそうだ。
欧米での政治の学はしっかり代替組織を準備していざという時にも即時対応できるようにしてきていた。
列島でも遅ればせながら(ひょっとしたら予算からはまったく見えない形で秘密裡にそういうことが成されてきていたのかもしれないけれど)流行ということでこしらえるようになって、世間の話題にもなるくらいニュースになっていた。
列島でも3月11日の大地震津波のようなことが、ないし九州のカルデラ式の巨大噴火のような事態は当たり前のように地質年代規模では起こってきた。だから何が起こるかわからないの驚きの内容は列島式の具体性を持つ。
ただ影の政府は世論にさらされにくい。現状の仕組みだとジャーナリズムの目にさらされにくい。学者が予算とかに目を通したり、公文書にふれて、影の政府の動向に気付けていたり、発見出来たり、ということも稀なようだ。
ところがUSでは内部事情に詳しい、いわゆる事情通な諸氏の間で、情報が往来するようになっていてインターネットの時代、それは公開もされている。
牽制のなんらかが及びにくい影の立場ゆえ、その予算規模、組織力ゆえ、かなりのことができてしまえ、それの使い方次第、とう危なっかしさを持つ。そしてある時期のUSにおいては、どうやら暴走している。それが表役と二つに割れて活動中、となれば万が一にはまったく役立たずだ。
1970年代のUSの田舎には一般の農経営層にやくざのようなのが生息していたのか、と想像させるような『prime cut』('72)というリー・マービン氏、ジーン・ハックマン氏主役の映画を見た。
それから1930年に近い1920年代のUSの田舎と都会を舞台にしたクリント・イーストウッド監督の『チェンジリング  Changeling』('08)はBSの放送録画で見たばかりだ。
どちらも女性性が軽く見られていることへのなんらかの良識からの関与を話にしている。
子供の徹底したウソは、大人視線が関われば簡単に解明してしまうと思えるかもしれないけれど、なんらかの権威が関わってもつれてしまうこともありうる。そうやって事態はもつれにもつれて、女性性も邪魔して、DNA鑑定のような手段もなかった時期、女性を偏執の方に誘っているとも素人は率直に指摘してみたい。人生を狂わせている。それくらい時代の軋みが個人に関わる度合は強いこともありうる。ただ女性性に問題ありと認めているのは同時期に沢山いる。いつでもそうだろうけれど、追い込むようなやり方がUSではあり、それゆえに女性たちは声と行動で答えている。そういう場合、砦としての法治を意識させる。でも法治に関して、US20世紀版でいいかどうかは素人流では疑問を持っている。弁護士乱造の問題とか、医師乱暴と似て、専門分野の専門性の質の維持と生業の問題は微妙だ。
性的役割分担に受け止めがちな様々な工夫は、だれかしらが担った方がいい”役割”だったりすることが判明している。ただそのままの形でかどうかは検討の余地ありだ。なんらか長年月をヒトの関係を支えてきた形はそれなりに貴重なのだった。だから上手くアレンジして継承して、だれとなく応用し合えた方がきっと世の中を円滑にする。
つまり女性性、ということで括れる中身をどう理解しているかを予め披歴し合えることは誤解のこんがらかりを回避する上で、結構大事になりそうだ。
しかも、ヒトはことばに熟練するにつれ、頑固性と受け止められるような固執要素を働かせやすくする。そこに大事な要点を有する時もあれば、空回りしているだけのこともありうる。ここでもつまりになるけれど、若い発想が必ずしも事態を適切にとらえているとは限らないし、それゆえ現実的回答に近いということも当てにはできない、ということになる。ただし現実の一面を濃く身体化しているはずだ。





君:少し、早くない?歩き方。ゆっくり行きましょう、よ。
私:しゃべり過ぎた・・・。
君:私の話、聞きたい?
私:答え方、難しそう。答え方、次第で、ダメ、が出そう、な・・・。
君:わかってる、じゃない。で?
私:ゆっくり歩くことにしよう。だったら、どぉ。
君:そうね、ゆっくり、歩きましょ。・・・ほら、見てみて。