連載は続く~SF掌編『春が本気でやって□□』編




遠隔地貿易発想の少しだけあくどいタイプを身に着けているような業者発想の持ち主たちにとっては商売や農業やで資産を持っている人々に抜け目なく(とっくの昔から)近づいていて折角のしかしフラジャイルまんまの親族の信頼関係にひび割れを生じさせるような噂とかを耳打ちして広めるようなことをしそうな気配だ。ウソはすぐにばれるものだけど、ばれてるよ、とか指摘しなければ、ウソ話を繰り返して、悲しい雰囲気だけが醸成されがちにする。テレヴィでも推理ものが混じるドラマは一定の好みを誘い込めているようでしばしば見ることができる。それと同じで、そういう陰湿さに陰湿さでお返しは、関わる方にとって気分を害するし、好みでもない場合、一人アドバルーン作戦くらいは、と介護ネタで多少極端で、まるきりウソではない話を開陳してみた次第。どう届くかで余計なお世話な脈々の一端に届くか届かないか。この程度でも、芸術には向かなくなる。そこをすぐに気付ける諸氏は現に芸術に携わっている諸氏にかぎらないと察する。多くの諸氏が想像していただけるのではないか。芸術してみることは自らを強烈にじわじわと振り返らせる、というよりもろ自らの地盤を意識させてしまう。これではいい発信はできそうにない、ということである状態へと努力目標くらいは設定できても、辿(たど)り付けるのか?それくらい芸術芸能的表現はいつでも自らへと問いかけが向かってくるものだ。
より多くがいつでも他者の出来事として確認できるかもしれないし、我が事としても再検証できそうなある種の自由ということでの自由は、あつらえもののある種の自由とはまたちょっとばかり違ってそうに思える。
そういった自由感への自由観を表現してみようとすることも芸術芸能の大切な営みに含めて良いように思える。手段としての伝統的手法については分野、範疇、部門とか沢山持ち出せる諸氏がおられることだろう、と思う。しかしその手段を使って内容を表現するとなると、いつでもそれなりの偶然とか熟練とか、その手の様々を要してしまう。一朝一夕というわけにはいかない。ちょっとした意識の持続がないと偶然の賜物もそれとして気付けっこないのだから。
より多くの者にとってのある種の自由を感得できるような表現の中身のためにはそれなりにそれに近づける身体系の想像?がどうしても欠かせないことに気付ける。それこそ我が生き様に問いかけが向かってくる感じとなる。しかも、そこでの激しかたか穏やかに居る仕方かなどなど、ただ思い込んでることの惰性では済みそうにない。そこにも自由との対話なりが働いて、見たこと為せたこともないような、ほどかどうかはともかく、あるどん詰まり感への答え程度の内容は備えていないと、作者にすら手ごたえ感は薄れてしまう。
大塚氏が介護観として晩年での常識の範囲でのわがままは受け入れられる施設実践をしばしば発信されているけれど、それは”安全”を大儀に結構説教する方に傾きがちな介護施設での働き手にとっては目からウロコ並の衝撃度を持つのではなかろうか。でも当方的にはその少しでも学びたいと思っている。けれども現場でのセコイたとえ話をさせてもらえば、多少お金にゆとりがありさて買い物、またもや買い物と比較的頻繁に買い物する方々へ、さどうぞどうぞ、たくさん買ってくださいね、だけのトークだとかえって、この人、売らんかな系?などと余計な不信を生じさせかねなかったりする。心配性に陥りやすい高齢諸氏(にも拘わらず詐欺にも会いやすいのだから、そこらの整理も要る)だから、そのことだけで、眠れなくなるようなことを生じさせうる。買いすぎでしょうとか、節約も必要じゃないですかとか投げ掛けることばが時々でも用いられると、適度に心へとバランスさせる。だから使い方の工夫はもちろん必要になる。
漢方に馴染んできたから、という説もある薬依存心が濃い列島生活のお年寄り諸氏はだから化学製品の薬が大量に作られるようになっている今時においても薬をやたらと飲んで治せるような思い込みを引きずる。啓蒙の一方が、危険発信はしているけれど、それを勝(まさ)って、この症状が出て心配だから、薬出して、と成りがちにする。世代交代が続いて、もう少し、現代の薬観で啓蒙された人々が介護施設に入ってきてくれると、もう少しストレスを感じにくい介護施設の日々をおくれるようになるのかどうか。その関連で、お金を払っているのだから、だったら何かしてもらわないと損だ、的発想も根強い。すると薬に走ることもなんとなくわかるような気がする。これももらう、費用に見合う貰い物になる。治療や介護・介助もそうだ。安全を見守る術を熟達していくことも介護職の必須と思えるけれど、それは余計に手を貸すことで簡単に連続動作の連関を忘れてしまうお年寄り諸氏への必須の配慮からだ。お年寄りだからといっても、自ら動く、他人に触られて助けられてを潔しとしないタイプの中でも現に筋力系が温存されていれば、自らの力で回復していつもの生活をかなりの程度再現できるようになってしまう。そういうことも介護現場では実際に観察することができる。ヒトは一応逞(たくま)しいのだ。
専門家ということばは良く通りにも使い分けされているので、そこではどういう意味合い、脈絡上でその専門家ということばを使っているのか、についていちいち説明が要るくらいだ。けれどもなんの説明もしないで、やはり介護職も専門的な熟達が物を言うようになるはずだと、習いの途中経過から見通せる。教科書をしっかり学んで再演することに熟達してしまうタイプと、生な実際に応じた何かを考えて適応させていくことに熟達してしまうタイプとが様々な分野でもちろん”グラデーション”ありで、いらっしゃるはずだ。その両輪が円滑にことばをやりとしできて実践もこなせていれば施設のお年寄りたちはそこそこ満足かもしれない。介護を任せるために入所してきたお年寄り諸氏が色々意見を指摘してくれるので、相当に学べるというのが実際なのだけど、そういう直接的に学べる機会を持てないとしても学べないわけではない。ただそういう内容は現場で検証が必要になってしまう。それに(介護を受けるお年寄りである)人によって当然感想は違ってくる。それを一つ一つ謙虚に受け止めないと、学習には役立たない。気持ちいい介護を目指すにも、芸術芸能系発想が身体化できているタイプのお年寄りとたまたま遭遇できれば身体感覚をことばにおいて率直にしてくれる。そういう学びの場を持てるけれど、偶然に近い。しかし、それを積み重ねてはいけるわけだ。その気持ちよさは以前にも指摘したことだけど、風呂に使っている我が物顔からの気持ちよさに近い。気持ちよさを提供できている介護・介助のなんらかを通じて、それをこなしている介護職が少しでも褒めてもらいたい、と求めるようだと、気分を半減以上させること間違いなし。ただ、反応の率直なことばを発してもらえたらそれを貴重な発信として状態を含めた記憶にとどめておく必要を指摘できる。一方通行には違い何のだけど、成り立たせているのは心の通い合いなのだ。その微妙なところを押さえておきたいし、そうしっかりイメージできるかどうか。
とにかく黒子に徹せるならそうして、お年寄りたちが自分たち流で年寄りならではの、平穏な人間関係を工夫して作り合ってもらえれば、介護負担は非常に軽くなるし、面倒の見がいも抱き合わせだ。それを持続するには、遊びと人間知見からだらだらと単調が続いてもまずいし娯楽漬けも禁物ということ。あくまでも自発的契機を奪わない、巧みが必要になっている。そして介護は要る人々がそこには集っている。





君:春本番の陽気だったわ、ね。
私:風よけの上着脱いだもんね。
君:自転車?
私:そっ。お彼岸。ただ肝心の所回り損ねた。
君:あら、ダメじゃない。
私:また出直すさ。キミのほうは?
君:忙しいもの。月初は忙しいのよ。
私:そうだった。イチロー選手の3千本安打っていうテレヴィ番組をラジオのながらのように見て感心とか面白がってたら、その後、ニュースだったからで現役引退するっていうニュースになってたりして、どうなってるの、て思ったわけさ。
君:それで。
私:3千本安打達成は2016年8月7日だったんだってね。
君:私、スポーツ、見ないし。
私:きょうも大宮のアリーナでやってたフィギュアスケートも?
君:ながらでテレヴィみるからまるきり見ない、というのはウソになるかも。
私:他人の秀でたなにかしらと感じたら、それを習得したいとか思うか、消費対象にしてしまうかで、世の中まで変わってくるよ。消費対象にしがちな世の中だとそういった芸の持ち主たちはストレスをためこみがちだと思うな。高い収入に見合う、人気者・有名人税だ、とか言うようだけど、それもどうかな。力のバランスを保つ要請ということはなんとなくわかるんだけど、使い方とかそも発想の普及の仕方に誤ると結構世の中のでき方に不都合が生じてしまうかも、ね。
君:私に対してはどうなの、よ。
私:アドバルーンを用いるようなことをしない信頼を感じてほしい、そのために努力位は怠らない、っかな。
君:いつまでもそうであってほしい、わ。
私:忙しかったんだっけ、だと、お茶、無理?
君:外、ってこと、ね。・・・いいわよ。春の雰囲気、感じに行こうかしら。
私:そうしましょ。