連載は続く~ SF 掌編『九州古代を調べ尽くす巨富はどなたか』編


将軍役割を(奥義理解の下)伝承できてきた人脈とそうではない人脈ということを避けられなかった列島事情、という辺りをめぐる学者、事情通諸氏の発信も大いに期待できる。
将軍役割はあくまでも将軍役割に過ぎない!
だからそれを巡る内輪のもめごとはありえても巷の人々を巻き込んでしまうような争いごとはそう想定し易い事態ではないはずだったと素人には思える。
でも脈絡を理解するところからは遠い人々をも巻き込んで時代は移ろってきた。
列島の継承人脈は信じられる以上に多分・・真面目な諸氏だった。
東夷なりを建前上は想定して、そのための組織の将軍だった。
ずっとやり遂げようとしてきたし、建前を詳細に伝承していた。
だからエミシをめぐる内乱のような残酷な事態は避けてきた。
そしてそういう将軍でいいような考え方を育て継承もしていた、と想像できそうだ。
列島の中央集権はそういう古代中国への忠誠のしくみと、新たに生じた中央集権の営みを加えて継承することになる。担い手は、リアルな記憶としては天智のころの人々や出来事くらいまでで、それ以前のことは文章の記憶として伝承されれば良しというタイプだったと想像したい。
リアルに思い出されるまとまりについては、かなり慎重な記述になる。それ以前はかなりアレンジして作り物にできる。
ただし、平和的中央集権を志向・試行錯誤していくために、各地の有力層にとって説得力が効くタイプの作り話にできることも欠かせなかった。
とにかく天皇という新機軸を作ってしまって、それとの関係で末代においては文字から想起させる。
思えている派の人々でも列島各地に精通しているわけがないから、わかられる範囲で作り話とリアルを工夫したはずだ。
当面は覚えている人々へ天皇をいかに馴染ませられるか。強引に従わせる手法以外を選択しての事業だ。
将軍役割の事情も下支えにして、ひょっとしたら列島中のハイウエイ建設予算に説得力を持たせた可能性も想像できる。ただし、文字資料として記録には残すけれど、実際に征服してどうのこうのを目指されるわけではなかった。あくまでも古代中国向けの役割表明の都合上の記録と、内輪の事情として列島各地の状況を知るための拠点作りという実際的目的を並行させる。
ただ、戦争に負けたそのなにがしを怨念のように心身化している人脈も桓武政権の時に復活している。そして平氏、源氏と将軍職を担うことと直結し易い人脈を生じさせる。
将軍役割の枠をしっかり伝承できただれかたちと、脈絡を別にして想像逞しく将軍役割を勝手に使い始めるだれかたちとが混ざり合って時代は動き始める。
確かそうなことは藤原氏における仏教寄りでの伝承脈と同じくする天皇系の仏教寄り脈すらが、その伝承の精度をずっと保つことができたかどうか不確かな事。
世の中が乱れてそれが夷に当たるかどうかは専門家諸氏に調べてもらうことにして、"敵"に当たるだれかたちに向けて将軍役割組織は動いた。乱れた間は、将軍をめぐる人々が表だって、藤原氏も綱吉の頃までは後の将軍になる人々めがけて仏教系発想の伝承を試行し続けた。
しかし伝承経路がもしも不明確になっていたとしたら、とりあえず南蛮系発想からの働きかけも相当に影響している。そこらのこんがらかりのほどきも専門家・事情通諸氏に取り組んでいただけるとありがたい。


もしも列島に相当に裕福な九州在のどなたかたちがおられるならば、廃寺とかの類をまとめて年代と規模などかなりの精度を目論んで調査にとりかかってもらいたいものだ。
それと、いつ、どういうやり方で倭から大倭へ移動したのか、その時期と内容を調べつくすこと。
既存の歴史的観光資源にプラスして、地味に扱われていたか忘れられていた歴史的遺跡群がやたらと眩(まぶ)しく輝きだす。
列島各地にその時のヒトならではの活発な動きを読めるようにもする。
考古遺跡からもきっと多くがわかっているだろうけれど、現象のなにがしを発見して、それゆえの可能性、発見前の想定の動きを文字にできるようにする。

古代中国の科学が用意し、工学的に使える測量法を通用させていたのだから、倭の延長と新規の大倭(大和)の連環として、移動を抜きには語れるはずが無い。
降伏して許されて・・という脈と(巷の)"市民"をも巻き込む残党による争いを辞さなかった脈という問題が後へ尾を引いている。心身にしこりを持てば、ずるがしこいだれかたちからは誘導され易い。そういうことは長い歴史のなんらかを生じさせうる。

そして年代測定を緻密にするし、それが可能になる材料に応じた測定手法の開拓の問題。
ここらを遅いとしてもこなしておけば、やがてであっても、早めな解決であっても、確実さに答えてくれる。
これらには費用がかかるし、集めて、民意でよりは、だれかたちが目的を明確にして成したほうがより相応しいようにも素人には想像し易い。

連載は続く~SF掌編『なんらかの制約を克服できたとして、その先・・』編


人の付き合い方自体は、時代相ということで、時期時期に様々が生じやすい。
そこにどういった動態の作用が働いているかなど観察する学問もそれなりの時期相について、後日的なヒントを提供したりできる。
人付き合いの隠された差別性をできるだけ少なくして可能にする志向の理念型として公務系にゆだねる方式を想起可能だ。
そこには任せきること由来の弊害への考慮が促(うなが)され続ける。
一方で、付き合い上の小さな政治の力関係、思惑などを持ち込まないで済ませる、ひょっとしたら上手くいくかもしれない理念的思惑を漂わせることも可能にする。
野放しにした人付き合いのありさまは構成メンバー次第のところもあるけれど、確実さを巡っての考察のための時間的余裕をお互いがどう持つ気になっているかとかが関わって、権威系の集団化を採ってしまったり、近いうち分解するような独立心の横溢する集団化を図ってしまっていたり、自発性を支える個々の内実を測り損ねる度合に応じた集団化運営の円滑さの違いとして現れたりの集団化実験をみられたりなど、色々が生じやすい。
そんな、試行錯誤に伴う面倒を忘れないようにしつつも、現進行形の一面について、たとえば、地域に足場を置いて日々を過ごす仕事生活の形が職業によっては多数を得ている状況のその先をつい展望させたくする。
日中の遠望、緻密へ視野を届けやすい時間帯には仕事で生活の場から離れている膨大な諸氏に実質的地域の営みを任せられるだろうか。下から厖大で精度の良い情報を汲み上げることが可能な官僚組織による設計が世の中をある程度動かしてしまう要素を無視できないけれど、大抵は隔靴掻痒系のプランが時代相を形成させやすい。
住む人々が申し合わせることなくだけど環境が求めるなんらかに素直に応じるとそれなりの、”その時期由来のテクノロジー制約”ならではのある形観をていする、地域性などが発揮されたりする。
そこへ行くと、ある時期のその場所性を感じ取ることすらできてしまう。
しかも快適さへの漸近線が張られている”群れ”だ。
けれども、先日引用した丸山氏らのヒントから、そのためのプロパガンダに使われる材料があくまでもプロパガンダゆえに、科学の手続きとかにこだわらない類であるために、議論はしずらいことになっている。ただ話題作りにはうってつけだから、啓蒙メディアの弱点でもあるのだけど、つい話題として使って一時を風靡(ふうび)させやすい。
丸山氏らはごく真面目に、サイエンスの土俵を用意してそこで議論しようじゃないかと誘っているけれど、相手は、初めからある目論みに向けてのプロパガンダを選択しているので、まったく乗ってこないというか、乗る必要を感じていない可能性を素人は感じる。
初めから意図的に議論にはしたくないわけだ。

畠山氏の森が育てる沿岸域の生態のサイエンス知見は今では周知になっていて話題にし易い。
サンゴ礁の海域はその線から、貧の栄養状態なので澄(す)んでいる。
けれど注意したいのは、その海域は生物相が豊かだ。なぜならサンゴ礁がその為の”ごはん”を提供しているから。
貧なんだけど、豊にもなっている。先日引用した鈴木氏のpdfファイル一ページの内容には、どの数値ゆえに貧か、豊かか、など記述されていない危うさを伴わせていたのだけど、そこを置いて、栄養分を提供して魚ほかの生き物が豊かな状態を形成していることから、単調に貧とは言えない、ということで理解可能になる。
サンゴ礁が貧ゆえに育つきっかけを提供するけれど、サンゴ礁が形成されるとそこは魚たちの極楽(食や身を守るとかで)にもなりうる。
サンゴ虫自体は宝石サンゴ知見からして、褐虫藻なしでも生き続けることは判明している。
けれども、多くの栄養分を褐虫藻にゆだねた状態のサンゴ虫にとっては、共生が不可欠なことにも気付ける。
サンゴ礁を作るサンゴは驚くほどの速さでそれを造形し続ける。
宝石サンゴとの差をネットで確かめてもらいたい。

たまたまNHKラジオ深夜便にて、沖永良部島で実験生活されている氏の話しを聞けた。
その昔、沖永良部島の海岸では海藻がたくさんあってリーフに出るのも大変だったそうだ。
サザエもたっぷり採れたそうだ。
そこらの栄養循環網を小さな歴史探索してみることも、何か役立ちそうだ。
沖永良部島住民諸氏からのネット発信を待ちたい。

より人為の方に話しを移すと、満遍なくとか先日ふれたのだけど、買ってとか手に入れて食べたり、裁縫したり、工作したりして生活し続ける実質の所(他人の仕事を利用するにしろしないにしろということ)を踏まえられれば、需給の調整をどうゆだねておけるのか、という関りを想起し忘れてはダメなわけで、満遍なくを思い付きで力づくで成したところで、その後が保証されるわけではないことには相当な注意が要るのだし、経済系の方での多分常識の一つだ。
前提にはヒトが水分を適切に摂取できる時間間隔制約や、食物摂取の内容とその時間間隔の制約や、集団生活上の清潔確保などを、市場に任せておけばそのうち需給は調整されるのさ・・・と言ってのける世間知らず諸氏に、ちょこっと”お忘れなく”と指摘する必要もあったりする。
そういった制約を織り込んで、しかも景気循環の落とし穴については相当昔に一応克服した経済系の試行錯誤でも、未だに、単に不満を貯めさせやすい(ここらは時代の移ろいで驚くほどの構成の変化を生じさせやすいし、一定の巨富が公的認証のもとに温存されることもある)とかの意味合いからの格差問題にしない、経済の営みにとって返って負担を膨らませてしまうのだから、その時、その時に改善することが欠かせないとかの観点で、指摘できることも大事だ。より普遍的に地表面でのヒトの活動がより円滑に持続的でいられる試行錯誤の中身を問えること。
たとえば、落ちつかない(学問概念上の)西アジア域もついこの間まではイスラムの下、通行が可能にするヒトの様々な営みを広く可能にすることに成功していた。
そこに、性別による不自由差など持ち込まないようにできれば、更に試行錯誤からの新たなヒトの可能性も試せるようにするし切磋琢磨の結果採用されて新たなヒトの習慣を用意できようにしうる。
だからどういうイデオロギーを持とうとも、できるだけ中央集権の狭域(きょういき)での閉じ込めが障害とならないようなおおらかな安全地帯を保証できる各地の集団の営みこそが成功した営み・イデオロギーと理念的には指摘可能だ。
人々はつい営業活動してしまう。商売をしてなんらか需給と深く関わってしまう。そういう元気な連中が必ず各地に”生息(せいそく)”している。それらが安心を得られたり、安全でないために安全を自ら確保しようと危ない方に出てしまったり、そういう不可抗力を生じさせにくくする安全地帯を継続的にしうる集団の営み・イデオロギーが大事だ。
取引の不正への様々な手法からの是正も必須だ。通行する人々への危害への対抗措置と同時に、危害動機を減じて置ける対処速度の気付かせ発信も大事だ。そうやって性別とか弱者・強者をとわずだれもが自由に往来出来て、商売出来て、出来れば各地中央集権運営費用用に(格差状態前提に生活苦を生じにくいしくみにして)納税もしやすくしておくことも、忘れたくない。
そうは言っても今時は大規模なやりとりが必ず並行する。
なんらかのパイプラインも欠かせない装置だ。
膨大量の輸送も車・船・航空機が担(にな)う。
見えにくいけれど、海底ケーブルの類も今や不可欠の装置だ。
もっと見えにくいかもしれない無線系の網の目も活動している。
それらが、人間工学的パスカルの原理応用の下で、つまり怪しい鳴動(めいどう)についての探り合いは必要悪として、どうしてもそこに介在してしまうあたりは、昨今の、政治情勢からも知れ渡っている。
その装置はある程度日頃から通じ合って合意し合って、適時、指令が飛び交って、危険域に行かないようやるときにはやるのメッセージ系ではなくて、知らないうちに密かに行使される類のところで、発揮される。そこを暗黒にしない工夫と、マスメディア部門のジャーナリズム系が、奥義を知らないままでいかに接近に工夫できるかなどが問われてくる。
知らされないままも危険だけど、何かを知らないまま、局所の真実を公にすることのバランスの悪過ぎに気づけないことも力不足の一つくらいには指摘できる時代になっている。
後進国とか色々言われる集団の営み状態の地域については、一般が暴力で委縮し過ぎている程度でその集団の営みの力量を探れそうだ。(暴力の使いては色々だ)
三権の装置を用意して、議論に使える時間が限られている実際的な観点も取り込んで、なんとか暴力には委縮しない巷が用意できたとしても、煩型がいつのまにか覇権を握り勝ちとなるような弊害も、なんとかバランスさせておけそうだ。世間の常態を各地がどう営めているか、その辺りが、試されてしまう。

連載は続く~ SF 掌編『古代調べを想起させるサンゴ礁(白化)研究の趨勢』編


いきなりで、それぞれ先入観間での"衝突事故"を生じさせかねないのですが、ちょっと引いたところで受けともていただけるとありがたい。

丸山茂徳ほか著『地球温暖化「CO2犯人説」は世紀の大ウソ』('20 宝島社)中のデビッド・アーチボルド、丸山茂徳共著"国連の報告を鵜呑みにするメディア 地球温暖化の報道は99%がウソ"での一章"サンゴの白化はサンゴが死んだ証拠!?"
この著作およびネット検索で直ぐに出てくる以下の論文など是非参照していただくことで、引く必要もなく、多少落ち着いて、事象を押さえる気になってもらえるかも。

この章では、貧栄養環境のサンゴ礁が、共生によって栄養の循環を得ていることを温暖化論議上の立場の異なる研究とも共通にしていて、ただ海水温上昇ストレスの扱いについて違いを指摘できる。
サンゴ礁は熱帯にも温帯にも、冷水域にもたっぷり分布している。(具体的には以下の論文を参照してください)
特に熱帯域のが海水温上昇には限界の温度に近づけさせ易いと見るのか、それぞれの海水温環境に適応していて、それとの相対的変化でのストレスを負荷と見るのかなど、問題の押さえ方で、事態の見方も変わってくることに、上記の章の記述は気づかせてくれる。
ただこの本で表紙にもなっているグレタ氏ご自身が、テレビ放送で知ったのだけど、自分の発言に関心を持つ時間があるならば、もっと科学者たちの発信に関心を持ってほしい、ようなニュアンスのことをおっしゃっていて、その人脈の"巧み"の面と、率直な素直な面とを素人は感じた次第。


① 10_13.pdf
J-STAGEトップ/日本サンゴ礁学会誌/10 巻 (2008) 1 号
日本サンゴ礁学会誌 第10 巻,13-23(2008)
『造礁サンゴに共生する褐虫藻の分子系統学的研究に関するレビュー(北西太平洋を中心に)』
諏訪僚太・井口 亮 著
"環境変動に直面したサンゴが褐虫藻を替えることによって新しい環境へ適応することや特定の褐虫藻グループを保持するサンゴのみが生存する可能性が指摘され"
"日本を含む北西太平洋のサンゴ群集は,その分布が熱帯から亜熱帯,温帯にまたがる"
"この海域を中心に褐虫藻の分子系統学的研究を概説した例はまだない。"
",クレード(単系統群)レベル,さらに細かいクレード内のサブタイプレベル,コロニー内や種内に見られる褐虫藻遺伝子型の三つに大別して概説する"
"上の結果から,これまで褐虫藻のサブタイプ決定に頻繁に用いられてきた DGGE 解析では,褐虫藻の遺伝子型を詳細に調べるには精度が不十分であるので,クローニング法とシーケンス法の組み合わせで調べることが奨められている"

② 21-4-tanaka.pdf
海の研究(OceanographyinJapan),21(4),101-117,2012
田中泰章 著 『― 総説― 造礁サンゴの栄養塩利用と生態生理学的影響』
"一般的なサンゴ礁海域の栄養塩濃度は,硝酸イオン(NO3-)とアンモニウムイオン(NH4+)がそれぞれ0.1~0.5μmolL-1(以下,μM),リン酸イオン(PO43-)が0.01~0.1μM程度である(Table1)"

②’24_189.pdf
海の研究(Oceanography in Japan),24(6),189-202,2015
─ 2015年度 日本海洋学会 岡田賞受賞記念論文─
田中泰章 著『造礁サンゴによる物質代謝に関する研究 ─サンゴ礁物質循環の視点から─』
"(サンゴ礁の海水)生態系の根幹ともいえる有機物生産の仕組みが明らかにされていない"
"多くの有機物がサンゴ礁から周辺海域に拡散していると考えられ,熱帯・亜熱帯の外洋生態系にとっては,サンゴ礁が一つの重要な有機物供給源として機能している可能性もある。"
"溶存態有機物(Dissolved Organic Matter ; DOM)"
"粒子状有機物(Particulate Organic Matter ; POM)"

③Vol.15 海の砂漠に棲むサンゴの謎 ダイビングならDiver Online.htm
https://diver-online.com/
Vol.15 海の砂漠に棲むサンゴの謎
山崎敦子 著
"透明度の高い、きれいな海。サンゴの棲む海は多くの生き物にとって栄養が摂りにくい砂漠のような環境です。"
"このサンゴの代謝のしくみに感嘆"
"主な栄養塩である窒素の安定同位体比(14Nと15Nの比)の測定"
"サンゴ礁に供給される窒素"
"サンゴ骨格中に含まれる窒素から海水中の硝酸塩の窒素同位体比を推定"
"現在は富栄養化でサンゴが減ってきた海域にこの研究を応用して、栄養塩がいつどこからサンゴ礁に流れ込むようになったのかを調べているところです。"

④待ち受ける新たな関係:サンゴと褐虫藻の共生メカニズムに迫る 沖縄科学技術大学院大学 OIST.htm
沖縄科学技術大学院大学 https://www.oist.jp/ja/
2016-06-23
待ち受ける新たな関係:サンゴと褐虫藻の共生メカニズムに迫る
"褐虫藻がサンゴに取り込 まれた後、最先端技術を駆使した遺伝子分析を複数の異なる時点でおこなった結果、共生開始時に遺伝子発現の変化が認められ、さらにそれが生じるタイミング はサンゴが褐虫藻と最初に接触してから4時間後の時点に限られていることが分かりました"

⑤36_suzuki.pdf
『サンゴの白化現象の機構解明と栄養塩循環の再評価』
静岡大学・創造科学技術大学院・教授 鈴木款 著

⑥0201j.pdf
中野義勝 著『日本の珊瑚礁』 第2章 サンゴ礁の攪乱
"1997年から1998年にかけて見られた「サンゴ礁の白化現象」は、世界的な規模のものとして多くのサンゴ礁研究者によって記録された。"
"この共生藻は「褐虫藻(zooxanthellae)」と呼ばれる、直径が10μm 程の渦鞭毛藻のSymbiodinium 属の仲間で(写真1)、サンゴの内胚葉組織である胃層の細胞内に共生している(Kawaguti 1944;Muscatine 1980)。"

⑦53_234.pdf
『造礁サンゴ、冷水サンゴ、宝石サンゴの骨格の酸素・炭素同位体比の挙動について』

”骨格を形成する
炭酸カルシウムの結晶形” サンゴの種類 下位分類 褐虫藻の有無
        あられ石   イシサンゴ類
                   造礁サンゴ 有
                   冷水サンゴ 無
 高マグネシウム方解石    宝石サンゴ      無

造礁サンゴの場合、酸素同位体比は一般に-0.13~-0.22‰ °C-1 の温度依存性を示す。
一方、今回の試料について、中心部から周辺部に掛けての酸素同位体比の増加幅は、
冷水サンゴのセンスガイDSCog-1~4 で最大4‰、
宝石サンゴの仲間であるシロサンゴDPC-01 と深海サンゴDPC-727 でそれぞれ約2‰および3‰であって、
これらの大きな変化は、試料の採取水深を考慮すると、
生息期間中の水温や塩分の変化に起因するとは考えにくい。
骨格に見いだされた大きな酸素同位体比変化は、
骨格の形成速度の変化など、反応速度論的な効果によって生じている可能性が示唆される。

⑧111_571.pdf
地質学雑誌 第111巻 第10号 571-580ページ 2005年10月
狩野彰宏著『総説 : 深海サンゴ礁:その普遍的分布と地質学的意義』
"光が透過しない水深から、サンゴが作る構造物を最初に記載したのは、Neuman et al.(1977)である。"
"油田開発を目的とした広域的地震探査断面""その公表を契機"
"1990年代からヨーロッパ諸国を中心として、科学的海洋調査が活発になる。"
"無人潜水艇によるビデオ映像はサンゴ礁表面での生物群集"
"ビストンコアやドレッジサンプルは海底堆積物についての情報"
"極圏ノルウェーからモロッコにいたる北東大西洋の水深 1,500m に達する陸棚縁辺や海山上で,サンゴを含む底生生物群集が,幅数km,高さ350m に及ぶマウンド状の地形を作っている(Kenyon et al., 2003; Freiwald et al., 2004)."
"これまでの地質学的常識では,含サンゴ石灰岩は暖かな浅海を示相するものとされてきたが,この単純な古環境的解釈は見直さざるを得ない."


列島および周辺地域の古代資料の年代を明確に決定付けられることが、なによりも大事と素人は感じている今日この頃なのですが、サンゴ礁をめぐるだけでも、相当な集中力が集団的に発揮される研究者世界がある一方で、考古学を大局的に整理紹介してくれていた放送大学の考古学においても、手法開拓は遅々として進まずの辺りをほんのり感じさせる現段階の紹介にもなっていた気がした。
ただ、理系部門においても、先駆的な冒険にも近い探索の成果をそれとして受け止められにくい環境は進行形状態としてはいつものことのようで、たまたま石油掘削のための調査のデータが研究者環境の目に止まって、"いざ"となったようだったりで、研究の資源が或る関心の下、投入されるという契機も、それを見逃さない関心の網やアンテナの作動も必須と素人は見た。

連載は続く~ SF 掌編『シャイニングのように自分こそはと思いたくなるものだけど・・』編

 

 

映画の『シャイニング』('80) は、専門家とか相当な事情通諸氏がこの世の中、いかに活躍されていようと、とにかく”野生の”((心身に)得る知識系と生々しく得てしまう知識系とが混合している)感受系を忘れないようちょっとしたヒントを与え続けてくれると素人にはずっと思えている。
たまたま4K放送で見る機会を得て、照明使いのくせが露骨に表現されることの他に、なんと!!と素人映画好きはずっと知らずに来ていたのだけど、雪は本物ではなかったことに気づかされた。雪ではない、映画のための工作だ。大道具・小道具の諸氏が工夫した賜物(たまもの)だった。ハイビジョンクラスの映像からは、気づけなかった。

ヒトは、インフルエンザにしろコロナウイルス由来の風邪にしろ、ヒトの集団の営みにおいて、”いつものこと”に馴染ませるようにしてきた。(是非、各氏において想起されたい)
その中に、インフルエンザでの病弱な人々の死亡事例に無頓着でいられることを、一応入れた方が、事態を見やすくする。
昨今の事態とは対照的に、インフルエンザでの死亡事例は、流されがちにしてきた。ここらは、現場で直接対処した諸氏が、今も同様に現場で大変な集中を要しているのとも変わりはない。ただ事態をどう受け止めるかの集団の営みにおける感受と関わっている。
コロナ騒動の中、数がべらぼうに違うだろうが!!!とつい息巻きたくなる諸氏も少なからずおられようが、インフルエンザの時には、現場とは違う立場である限りにおいて、おっとぉ・・そうだったな、と気づけてもらえるのではないか。
そこらをコロナ騒動初期から素人なので、指摘もしてきた。
今後は今と同様にインフルエンザによる病弱系への負荷を大騒ぎするはずだ・・・としたら、コロナ騒動に限らず、この種の騒がれ方は今日の普段の姿勢へと変貌させているのか?とも思える。
夏場でも風邪で大騒ぎだ。となると、(これからの年月では)年中が大騒ぎというのが通常の姿になりそうだ。
ことばで、専門家ほか権威筋の飾りの部分で、風邪の一種なのに、ワクチンで対処可能であるかのような、ないし新しいワクチン製法ゆえに、対処が迅速化するとかを持ち出して風邪もワクチンでなんとかなってしまうかのような人の噂をはびこらせる気配も一方では作用させているように、諸氏においても感じられているのではないか。
でもインフル、風邪系へはワクチンはその一つ程度に考えておけば済むことだし、現に、死ななくてもよいだれか、そしてだれかにとってはかけがえのないどなたかが、ワクチン接種ゆえに亡くなってもいらっしゃる。その数は無視できない量であることが公式筋の数字からも判明している。分数表示の方ではなく、数量の数の方だ。
だからヒトはワクチンを職場圧とか社会関係からの様々な作用は混合されがちだとしても、強制するような、少数への全体主義的な強要はずっと控える策を採用してきている。
どさくさに紛れて万が一今の世の中の権威筋がそれに依存するようなことは、無知の方の問題と指摘しうる。相当にあけすけにヤバイ。
世の中のなんらかの趨勢圧が働きやすいとしても、実際的な回避策を工夫してきたのがヒトの集団の営みだ。そこらを忘れたくない。
とりあえずワクチンが効く人々もいらっしゃる、ということで押さえておける。
そういう意味から、ワクチンも手段の一つとしておける。
死の危険を犯すことになる未然のどなたかがわかるようなら知らせるとかするといいし、わからない要素も大なのだから、当面は、本人次第という扱い方が必須と察する。
で、これだけ感染者が出ているのに騒がないでいられるか、というのが流行にのめっている諸氏の思い込み状態とこれも素人には察することができる。
けれども、インフルエンザの事象と言うことでほとんどの諸氏が気付かれると思うけれど、風邪も本当に似ているのだけど、毎年厖大(ぼうだい)な数の人々が罹(かか)る。
なのに、今の一部の病院での大騒動のようなことを招いていない。
罹っても自分たちで面倒を見てしまうケースが厖大に動いているからだ。
しかも、その中にはお年寄りのケースとして、死亡に至る重篤化にすすむ症状進行タイプが観察できるわけだ。そして、一応、これまではそうなっても世の中としては流すことにしてきたわけだ。
だから世の人々にとって、錯覚している方々とそうでない方々でかなりの認識差を生じてしまうとは思うけれど、現状は風邪タイプの諸症状へ(医療関係の連なりが)相当に篤(あつ)く対応している。これが特別に素人には見えていて、インフルエンザの患者へも同様のことをこれからの世の中としてする気になったから、今のような騒ぎ方で問題を提議しているのだろうな、と思いたいわけだ。分類が違うから、とか後になって、別扱いの理屈づけが始まるとしたら、今混乱させられている経済現場の諸氏にとっては相当つらいリアルが後になって気付かされることになると予想できる。
ほぼ同じ事態へ、まったく違う対応として、一時、経済活動を極端に犠牲を強いるようにして、混乱を招かせた世論作りの圧行使は、そういう問題を抱えることになる。
患者数が少なくする成功事例としてある時期まで列島関係者はほこりつつ、少ないがゆえにデータとかその後の策をこうじる上での不利も指摘されていたはずだ。
現に沢山の患者を生じて、得られるものの不足はないはずなのに、ヒトがこれまでしっかり成してきた実際的に無理のない対処の過程の案すら医療業専門家筋から出てきていないのは、素人的に相当に不思議に映る。
自宅療養に回したら亡くなった、そういう不可抗力的症状変化を掴(つか)みにくい病例なのだ、とか専門家諸氏がこの患者数を得て、しかも長時間を費やしてきて、おっしゃるのだろうか。素人的には、裸の王様に近づくように思えてならない。
風邪は通常、ヒトにとっては蔓延(まんえん)しやすい。
蔓延しても、学校を休む症状が出なければ、ちょっと前の学校事情であれば、マスクをして登校していたろうし、今時ならば、親が、子が休むことを判断する。
その休む数の上下動に応じて、休校になったりならなかったりだ。
そういう実際的対応で済ませてきた。
介護施設だって経営層の多くは出鱈目派はごく少ないから、インフルエンザ感染で亡くなることを避ける工夫を積み重ねてきて、限定的面会など人と接しないことでの衰えを避けつつの工夫を持ち込むようになっている。ただし、精神系の薬多用による死へ近づかせるような心身衰弱が起こりやすい現場の利害には経営層は今の時代、そのリアルに気づけていないかもしれない。インフル死を抑制できても他で頻繁な死を招きやすい安易が現場を席巻しやすい。つまり要請があれば医療業の側にも処方してしまう油断が介在しやすい問題を抱えている。コロナウイルス対応に懸命だと言い訳したいだろうけれど、実際の医療現場への不満は世の中全体から、うっすらとためこみがちにしてきたわけだ。
実際的な快・解・回答を提供できることでその実力を判断されがちな政治家諸氏はすでに、飲んで効くタイプの症状緩和のための策を模索していることばが昨今目立ってきていた。なのに、医療現場の騒動がその実際的趨勢作りを台無しにして振出しわざと戻すような、自分たちを認めろ適発信が目立ってしまう。ここらも、冷静に成った時、きっとなにかしら、腑に落ちないことに気付けると素人には思える。
USでは、厖大な感染者を生じた。そのことが裏付けとなって、支えている。単標的での活用になるワクチンよりも抜群にその後の対応力を持つ。だから、万が一の時には罹って対抗する策がとられてきた。ここらは医療史知見発信を率直にやわらかくかみくだいて発信してくださる専門家諸氏が今日もいてくれるおかげだ。
お金はいつでも満遍なくめぐりめぐってくれることで資源配分の最適化をしらずしらず図りやすい。だから特定の領域に厖大なもうけが押し寄せ、その間に、必用を満たすためのめぐりを困難にするようなことばあれば、罰金ものなのだ。そこらはただ経済理論の側からする合理性という理屈ではなくて、実際問題レベルで測れるはず、と素人は見る。
滞留させたくないけれど、実のところ、予備をもたないと不安だ、は実際的な意味合いから、切実に違いない。でもできれば満遍なくめぐりやすい状況にしておければ、だれにとってもより生活しやすくはする。手に技を付けて、なにかやってみなさい、という促しが基本にある世の中だから、そこらは、巷にとっても通じやすくなっていそうだ。働かざる者食うべからずだけのただ厳しい圧を意識させる世の中ではない。漠然と働けではなくて、必用と結びつく技量を身に着けると、その具体性の線が引けてそこへ仕事を探せる。
ただそれには、その職場が活性していないとまずい、という注意点が伴う。身に着けたけど、その業種が不景気で・・では話しにならない。
ここらも含めて、ヒトは集団性において、とにかく列島の人々は特に、実際的観点で受容しやすい形にして日常に馴染ませてきている。
インフルエンザのお年寄り事例にはこれまでだと目をつぶってきた。でもこれからはひょっとしたらコロナ騒動レベルで騒がれるようになるのかもしれない。風邪も厖大に感染し続けてきた。”富山の”じゃないけれど、飲み薬とか、日常の発想でこなせる技を、アイデアを形にして取り込んできた。そうであっても、専門分野、医療現場での騒がしく集中した機会が消滅したりはしない。より厖大な領野をしめる巷がしっかり受け入れている。
医療現場はいつでも忙しい。そういうことに一度、冷静になって観念整理できないものだろうか。

連載は続く~ SF 掌編『ときどきコロナ騒動について』編

 

 

たまにはコロナ騒動についてふれてみたい。
現場では現場それぞれが動いていて、全体としてのまとまり感、情報の流れとかを含め統御されていないみたいだ。
そこらを、司会進行役氏が、色々な治療薬を投与しているけれど、そのどれがどう作用して、有効だったり有効じゃなかったり、の類の情報はそれとして、とにかく効きそうな薬は試してみるという流れになってやしないか。と出演の現場の一線で活躍する有名な方へ問いかけていた。
医師は医師で、論文が出て有効だと一時なったとしても、また有効ではない事例が発表されたりの繰り返しが続いていて特定の薬剤についての有効性に関する知見は整頓されているわけではないから、現場では有効でないことがはっきりしていないかぎり、有効可能性の指摘のある薬剤は使ってみることが大事だ、とお答えになっていた。
ここらをもっぱら罹る方でお世話になる素人の立場から整理するなら、使える薬のなんらかが処方されていて、なんらか治療の(医師、看護師諸氏による)手技ほかも施されていて、一体、自分にはなにがコロナ感染ゆえに具体的に処置されて、それがどういう結果をもたらしているのかという肝心な情報が一人一人のケースごとに整理されることなく、複数の薬剤が関与するような、お年寄り施設でのありがちな危ない状況と似たようなことになっているように受け止めることができた。
司会進行役氏も当然、そういう方向にことばを選ぶこともできたはずだけど、話題の特許料支払い不要になった列島系薬剤を使いやすくしようという話題に向けて、それだって当てにならないでしょの方向へといざなうかのようなことばを選んでいた。
ここらは、古代史をめぐる関心層向かい方で、ちゃぶ台ひっくり返しのことばの投げかけにも似てしまう。ちょっと面倒になって、不確かなところを誇大に思い込みできて、こうことばを投げれば、きっと・・・という思惑の辺り。
話もとっちら刈る方に向きかねない。軌道修正。
司会進行役氏が悪意でということではないことを断っておきたい。
認知症治療についても流石に専門家である医療現場の医師諸氏は、何が問題なのかおわかりのようだ。
でも直裁(ちょくさい)には指摘しにくい医療と介護と・・認知症をめぐるなんやかやが関わって、適切な治療に向かえば、むしろ今とは異なる治療でADLなどめきめきと改善されるはずだ、と指摘されている。
それくらい医療の現場の複雑な思惑の入り組みを配慮せざるをえないのか・・と素人的にはがっかりなのだけど、コロナ感染治療をめぐっても、同様の事態に近いようだ。
この時点で未(いま)だに、どの薬がどれくらい処方されてどう症状へ影響したかの経験の整理すらまとめたかたちで整理する”箇所”がないようだ。
保健所がなんやかや仲立ちに入って超多忙とのことで、保健所も高所からの整理機能を果たせていない。
だから、ワクチン接種でなのか、薬剤のどれかが作用したからなのか、コロナ感染の独特な症状なのか、重篤化のケースに関する順序だてた現場で使える、信用100%でなくても信用して使えるデータ整理の状態ではなく、だから、現実は、治療後の一体何が原因でそ
の症状で苦しむことになったのか、まったくわからないままが放置されているということになる。
ここらは国とか地方とか民間とかのどこかのせいにするとか以前に、既にコロナ感染治療に関しては相当な時間を経て現場はそれなりに慣用の状態も得ているはずなので、自発性が、統御をまったく欠く状態で発揮されてそれが続いている、ということのヒトが犯し易い安直さほかを知見として用意できるはずだ。
患者よりも、そういった感染対策に向けての専門組織の問題を指摘できる。
諸外国の情報も大事だけど、自前で準備できることは、素早くできないと、本当にヤバイ事例の時に判断も、実施もできないままにしてしまう。
介護現場の慣れは、ベテラン諸氏の多くは慌てない、パニくらないとかを長年月かけて身につけている。ワルも多分多少はいらっしゃるから、そこらは管理職諸氏の厳しい観察眼が要る。経験年数の少ない(10年に満たないとか大雑把だけど使える)介護の担い手諸氏は、感情的なやり取りになり、後には引けなくなって、(その権限に応じて)現場をかき回しがちだ。認知症ケアに不慣れだから、認知症の諸氏が不穏になっても自分たちのケアの未熟のせいにしたくないし、その未熟度にも気づけない。そこで薬依存に向かって認知症系の入居者のADLを低下させがちにする。その悪循環。仕事スケジュールを見た目きっちりこなすことで、管理職部門をだませるとか錯覚もしている。管理職部門が忙しくて、観察不足だと、現場通たちの多弁によって、どうにかなってしまうわけだ。
ここらと同様のことが、慣れの"現場"では生じがちにすると察する。
介護は医療同様夜勤勤務もあって、決して楽な仕事現場ではない。むしろ、それはじわじわとストレスとか肉体的な負荷を重ねさせる。だからって、患者や入居者にそのつけを払わせるような動機が働くようなら、本末転倒にあたる。そこは食いしばるか、仕事(就業そのものか、そこでの働き方)を変えるしかない。
私はそういうことはしてません!と受け取られた方は、その線で現場を持続してもらいたいし、余力があるなら、どういう治療に対して、どういう反応がでたのか、コロナ感染症治療のケースについて、具体的に整理して公表してもらいたい。
ワクチン接種が原因なのか、治療行為が原因なのか、処方された薬の作用が原因なのか、その後の症状発症について遡及できる整理整頓が今すぐにでも要るのではないか。
でないと、司会進行役氏がおっしゃていたように、とりとめなく事態が、そして現場はあくせくと移ろい続けるだけだ。

連載は続く~SF掌編『コロナ騒動の最中、お年寄り諸氏は発信できているだろうか』編


今の長雨が季節の移ろいの印というには時期がずれ過ぎている、という辺りを、ネット発信される物知りな諸氏から知ることができた。
たとえば、これで季節変化へと動くなら、それはそれで一種"異常"と見なせるわけだ。そこらの指標を得たことになる。

藤原宮の画期性は、それ以後の中央集権化への特化とも見なせるような力の注ぎ方と密接なこと。
"化"へと誘えて、中央集権システムのなんらかを何年もかけて試せる慣れが生じれば、それはそれとして、列島の試行錯誤の一つの形・モデル提供となる。
そういう画期性、性質のところを見誤ると、(すでに列島域規模で中央集権化していた諸勢力間での支配をめぐる)覇権争いめいた話しでまとめようとしたくさせる間違いに誘われてしまう。
むしろ一種バラバラ性を濃くしていた列島にある圧しがあって、九州の小さな政治勢力に試行錯誤を任せられたという見方に沿うように試論しないと、そうなってしまう。プロの仕事ないしノウハウがこの場合、中央集権、やってみない?!で(列島規模において)始まったのだ。
それと、明治以後の欧米発想系で育てられる官僚層の要素を抜いた、理念的過ぎるのかもしれないけれど、平穏・平和希求の列島支配勢力の思惑の偶然性を頭の片隅に置かないと、欧米発想での右・中・左の弁証法役割分担話に誘い込まれてしまって、わかることもわからなくさせてしまう。
一人前に育てて、一人だしさせることも含ませる育て発想は、たとえばの話し、民主主義の基礎ではないだろうか。でも前者は、原始的・伝統社会系ほど立派に機能させてきたのではないか。
列島では、神道という教義伝承システム以前の、神々についての伝承系が各地に育っていたりで、それが発想に無理なく入って、仏教の教義伝承システムを導入しているいきさつを書記などから知ることができる。意識的なことばではすでに仏教教義が触発してくる平和へいざなう集団の営みを希求している。万葉の柿本人麻呂氏のような神の使い方ではない、神がちらちらと発想には含まれる。
ここらは考古遺跡知見からエミシって?それらとの争いって?と(先入観への)検証の必用を発信されるようになっている昨今を踏まえられれば、偶然と素人が指摘してみたことのいくらかを汲み取ってもらえそうに思える。
宗教集団間のむちゃくちゃな争いごとに終始してきた欧米系の底の問題を今だから、しっかり踏まえて落ちついてヒトの営みの将来をことばにできるようにする必用を素人は指摘してみたい。

そこで映画『ニノチカ』を参考に、西欧の貴族発想にも・・の辺りを可能性の方から、指摘してみたい。
そこらは、だれもが一辺老人介護施設で少なくとも数か月働いてみて、自らの素の姿を知ることを試せることと、同じように働く誰かたちをリアルに観察できることから、今の人々の構成のリアルも知れて、ことばが優しく包んでしまって知りえない、ヒトの営みの試行錯誤の論にも一定の参考にできることにも誘うだろうし、実際にそういった人々によって面倒を見られる側のお年寄り諸氏のリアルとも付き合う関係で知り合える。ここは知り合える関係というのが大事になる。こちらのこともあちらにしっかり認識される。逃れられない。
ただ、施設介護では、それが5分の関係になりそうにない問題を底流させている。
お年寄りやその家族からはそのリアルを語る言葉をなかなか紡ぎだしにくくなってしまうわけだ。
で、ここではそのことではなくて、お年寄りが長生きするのだし、不死の病系であっても新陳代謝の活発さと関わるタイプの場合、お年寄りにとっては幸か不幸か(ここらは働くと直ぐに聞かされるのでわかるのだけど、長生きしたくないねぇ・・など冗談8割くらいの感じでしばしば話しかけられる)じんわり弱っていくのかもしれないけれど、他でのケアが関係性として円滑である場合、長生きの勢いのままが継続しやすい。不思議そうでそうだ。ちょっと若ぶったというか活発なタイプは、病を得ている場合、急変しやすい。
糖尿系(高血圧とか、症状わんさかな諸氏)の人々や脳梗塞後でじわじわ日々のペースで認知機能にも影響するようなその後の症状進行のある諸氏はどこに住んで居ようと大変な晩年となってしまうのだけど、そうでない諸氏は長生きする。
だけど大抵、周辺の身近な同年代がだれかれと亡くなっていく。夫婦ものの場合、かなりの年寄り夫婦になる以前に片方が亡くなる場合と相当な老年カップルの時期になって片方が亡くなる場合とではここでのこだわりにおいては、質的な違いを生じさせる、と指摘できる。
老人の性の話題については時々マスメディアのなんらかが持ち出したりする。
年を取っているから妊娠とかと関わる心配は要らない。偶然もありうるけれど、通常心配要らない。
けれども年を取っていてもヒトのことだから、こんなことするんじゃなかった・・と後悔する機会は若者たちの体験同様、ずっとありうる。ここらは老人だからって避けられない。
ヒトの関係性は、付き合いつつ、いつのまにか相手のことを相互性において、色々探っていて、分かり合えているものだ。その知り方も含めて、付き合いの質を構成してしまう。
だから長年付き合ったり、遠い知り合いとして、知り合っている関係性を保持していただれかたちが、少しずつ毎年減っていく、というのは実質的な"寂しさ"とつながる。
寂しさとか情緒っぽいことばにしてしまったけれど、素性のところに、いちいち心配がいらない関係と言い換えられる。
もちろん、世の中の詐欺っぽい事例で、知り合いのつもりが・・のような話しも一応念頭に置いておきたい。
とにかく、老人たちは知り合いは既知の仲間が少なくなる一方でいいのか、ということへ、介護施設で仕事できるなら、シンプルに回答を得られる、と指摘しておきたい。
そしてエルンスト・ルビッチ監督の『ニノチカ』だ。・・・(*)
ここから、どうなにを語れて、どういった一応の結論に導けるかという話しになる。
だけど、それは次回か、そのうちに。



アメリカの映画を作った諸外国からやってきた脚本家・監督そのほかの職柄の人々ということが、改めて面白いことだ、と思えた。
諸外国のその諸外国で作られた映画がその諸外国っぽさを発揮してしまうとしても、それは映画の"せい"ではない。アメリカの映画の作り方にもし長所を見ている膨大な諸氏がおられるなら、そこには諸外国からやってきた人々が関わっており、なのに諸外国っぽくない、ということにこそ気づけておかしくない。

連載は続く~SF掌編『猛暑ネタ3題』編


必要とする栄養素の種類、量として得られやすい主食なりを習慣づけていられれば(腸内細菌叢形成とより関わる)、プラスαのおかずと共にのいつもの食事から大抵の人生諸氏は天寿をまっとうしやすくなる。
少食な諸氏にはそれなりの寿命を待てるし、大食な諸氏にもそれなりの寿命が待っている。
活動の状態に応じた腹のすき方を自身が感じられて、食べたい量を食うことが出来る限りで、肉食しろとか、菜食にしろとかの偏りは必要なさそうだ。
時々飢餓信号を心身に提供できることが、寿命と関わる生理に良い作用となるようなことも指摘されている。

ヒトの感触系は細密なことが知られている。わかり易くは年寄り的具体例になるけれど、米粒ひとつの中に絵なり文字なりを描いてしまうようなことが普通にできる。
テレビドラマでの外科医たちの達人技もヒントにできるけれど、こちらは学(がく)がそうさせたのかも・・の方に誘う誤解の元を提供させかねない。


素人老人は、ずっと(長年月)観客がぐっと引き込まれるようなそして楽しみともなるようなスポーツ系の観戦(今時は別のカンセンが流行っているけれど)を好(この)んできた。
キャッチボール発想を共有できるだれかとならば、なんらかスポーツをすることもそれ以上に好むタイプだったりする。
その観客位置から応援する東京五輪編最終版ということで、卓球とサッカー(蹴球)を例にしてみたい。

まずは話題の男子サッカー3位決定戦から。
現日本男子チームを集約的に表現してくれたシーンに気づけたので、そこをとりあげて、応援としたい。
まずはプレーの経過を順に。
(→ はパスの流れ方向)
(数字は背番号(* 1))
①10分13秒(以下単位は略) 14→17
②10:14 17→ 5
③10:22 5→ 2
⓸10:23 2→ 7
⑤10:24 7→10
⑥10:25 10→ 7

この流れの起点は反則、フリーキックという流れの次辺りだ。

①~②は迷いなく繋がる。
③は5がボールを転がしながら、最終的に2へパスを出す。
⓸間隙を伺って動作しかけている7へ2は即座にパス。
⑤状況を見ていた7は相手の気持ちの隙を突く感じで10へパス。
⑥10は自らの置かれている絶好の条件に気づけず、多分ストレスから逃れる為に(だから振りかえるフェイント動作も使うことなく)7へ即バス返しして、その後の6番のどうしようもない状況下でのペナルティキック提供反則を生む。

ある程度、問題の在処(ありか)をにおわす言葉を配してしまったけれど、もう少し丁寧に状況を説明してみたい。

14番の富安選手が17番の田中選手へパスしたのが正解かどうかは、その瞬間時、画面外でどういったパスをもらう配置を可能にしていたかとかメキシコチーム選手たちほどの遠距離パス精度をパスの出し手が持っていたかにかかる。
とりあえず素人的には14→17はあり、と見なす。
17番の田中選手は、パスの受け手がどう展開できる位置取りかなどへの配慮を欠いたパスを出しがちのタイプだ。でもこの時の状況は切羽つまったものではなく、5番の吉田選手へ出して、また5番の吉田選手から戻ってくるのを待てばよし程度のパス出しだ(17番よりの縦の線でパスコースを持ちやすいし、なによりも17と近場の選手には右サイドほどの圧が加わっていない。画面参照のこと)
17番の田中選手からパスを得た5番の吉田選手は、いつもそうなのだけどその時点その時点の展開イメージを把握していない感じだ。どこへどうだせば次へつながるの観を欠く。そして自(みずか)らへもメキシコチーム選手たちの圧が加わってきた。相当なストレスが数秒でたまる。そこで、狭いところだし、圧も加わりやすいメキシコチーム選手のマークが厳しく関わっている選手のうちの2番の酒井選手のところへパスを出してしまう。
2番の酒井選手にとっても大変なパス受け状況を得た格好だけど、状況を瞬時判断した7番の久保選手は動いて2番の酒井選手へパスコースシグナルを出す。
サッカーだから状況判断は将棋とか囲碁と似て、次の一手、その次の一手・・・・と空想にならない実際的な範囲における選手たちの位置把握と動き把握から、状況を判断して、パスを精度よくだす。精度は相手の次の動作に有効になるパスの出し方を含むということだ。
2番の酒井選手からのパスを得た7番の久保選手は、先に指摘したように、振返れば両脇の合計2人のメキシコチーム選手を抜いて、このオリンピックでも走りこんでの精度の良いシュートで一得点した2番の酒井選手と巧み技を仕掛けられる、その可能性に賭けて、10番の堂安選手へ素早いそして足元への正確なパスを出している。だからこそ(堂安選手の)判断は間違っていたけれど、正確な7番の久保選手への返しのパスが可能になっている。
けれど、受けて、ボールさばきは上手いはずの10番の堂安選手だから、すかさず振返って、ゴールめがけた攻撃態勢に入れば、2番の酒井選手と相当な企みを仕掛けて、更に他の選手もと欲張らなくても、相手選手を抜いている状況のはずだから、そのままで名手キーバー氏であっても、相当な緊迫した、魅せるシーンを演出できたはずだ。名手に一点取られてもしょうがいないか、ではなく、取られたくない!!モードにさせ、そういう場面にできたはずだ。
ところが、そうはならなかった。
(動作に誘われた相手チームの動きに応じた状態として)圧がかかっていて、奪いに来ていた相手チームの思うつぼというか、態勢の逆を突かれた返しパスをお迎え態勢の相手チームは難なく奪えて、攻勢に出ることが可能となった。後は御覧の通りの結末だ。
だから素人老人は5番の吉田選手にしろ6番の遠藤選手にしろ(ベテラン選手の区分けを示唆するようなことにもなりかねなかったので指摘しなかったけれど2番の酒井選手はボール扱いが少し上手なタイプだ)ボール扱いに関してはもろ下手とは言っていないけれど、それに近いところで指摘してきたにも関わらず、この場面での6番の遠藤選手が流れを中断させるために採った後方の担当ならではの窮余の策と見ている(反則となったプレーのこと)。
ということは、5番の吉田選手から始まる間違った判断によるパス出しが問題だ、ということはそう指摘しなくても読んでいる諸氏にはわかってしまうので、率直にここは指摘しておきたい。
5番の吉田選手のミスから生じたこの試合を決定づけたシーンだ。
5番の吉田選手は守備では熟練でもあり達人でもある。
それはこのオリンピックの試合中、一度披露している。
ゴール前だから今回の6番の遠藤選手のような事態ともなりかねないけれど、そうなってはもともこもない。そういう場合どうする?の答えを若手の後方担当選手たちに自ら事例として残した。
ルールをしっかり身に着けて、ボールを逃さず、究極のプレーに挑む限りで、昨今はビデオでの確認までできるようになっているから、誤解を招く可能性を極小にできる。それに期待して、お互いがルールに則った究極のプレーに挑むことは可能だ。下手な選手相手だとケガをさせられやすい。上手い選手はケガしないようなプレーまで注意を払う必要が出てくる。(ことしのフランスのチームに目立っていたけれど)上手くて、わざとケガさせにくる選手もいるから、そこらは大変なサッカー界ということにもなるけれど、そこらはいつも心配していてはゲームにならない。
ある程度の技量を持った選抜選手が構成するチーム間でのゲームは、F1やインディカーのレース同様、同じくらいの技量の人々による名人技のコラボレーションをスリルとサスペンスまじりに楽しむことができるわけだ。下手くそだと思うようにはできないから、頼まれてもどうにもできない。
ビデオ再生の結果、ボールをしっかり追っていて、イエローカード提示すら主審の間違いだったことが判明した。そして主審はご立派とばかり5番の吉田選手にこぶしタッチあいさつしていた。

ここらで、そろそろ何が言いたいかの辺りにふれたい。
この時点で、得手不得手は明確だ。
10番の堂安選手が持てる足技、身のこなしにもう少し自信を持って、ストレスのかかる状況でもパス出し相手の意図を汲んだりして、次のプレーに活かせる瞬間技を日頃のシミュ―レーション練習から心身化することを怠らなければ、次の大変な圧の掛かる試合では軽々と魅せる試合の中の一人になっているはずだ。(フォーワードポジションにも関わらずストレスを栄養にできないタイプお二人(18番の上田選手と19番の林選手)がトップ役をこなしていたのも現日本チームだ。フォワードならば、ストレス状況こそ待ってましたと力ずくの突破を図るか、フェイント技をストレスの向きを察知して瞬間計算して選択肢から即選んで蹴っているはずだ・・が・・このお二人はこの点に関してはかなり淡白系な方たちだ。ゴールから遠いところでわざわざシュート!・・だったり、目前では逆に打たなかったり・・)
頭から入ってボール技を身に着けるわけではない土地柄の名選手たちは、息を感じ合う速さで反応し合っているから、それに追従するには同じ育ちがより適切と言える。でもそういうわけにはいかないから、頭で考えつつ、個々の四肢の付き方、育ち方がまったく異なることを念頭に、どういう感触でどう精度として現れるか(どこにどんな圧で当たった場合ボールの航跡は・・のようなシムの積み重ね・心身化)を、なんども試しながら、ストレスにさらされる状況でも素早く反応できるゲームモード身体にそだてないと、その上は絶望ということになる。ここらは力技でねじこめるかもと錯覚しがちな卓球若手勢のことが参考になる。
対一人の選手相手に確実なプレーをしてみせることが可能な5番の吉田選手がなぜかパスをだしたり展開中のパス受け、パス出しのどうってことないシーンで落差のある選手と化す。
時間があれば、心身化のための実際技込みのイメージトレーニン次第で、実は年齢に関係なく身に着けさせることが可能だ。先にちょっとふれたことだ。
でも、その時間はもう取れない、となれば、5番の吉田選手の貴重な技を伝授してもらえる期間のことを問題とすることができる。
5番の吉田選手はこれからどうすることがより求められているか、そこらをきっと判断してくれる。
というのも、(この試合では3番の中山選手が精彩を欠いていたように感じた。なぜかはわからない)3番の中山選手が後方も担当できるタイプとのことで、守備よし、攻撃よしの足技を発揮できる。つまり、オーバーエイジのパス出し(イメージ構想力的)足技を欠く選手に代わる世代が育っているヒントになるのではないか。
3番の中山選手一人ということはありえない。なぜならば、先のイメージ発想(アイデアを持っている)を込みの状況判断できる逸材かもしれない7番の久保選手だけど、じゃ一人ぽっちの単なる逸材なのか、というと、素人老人的には評判のドリブルがもう少しなんとかならないのか、と思えてしまうのだが、その11番の三苫選手や13番の旗手選手(シュートの精度が今一だ)、16番の相馬選手など7番の久保選手のアイデアに瞬時答えていたりできそうだから、同じように機能し合えるプレー可能な選手が現日本のサッカー界にはそれなりに育っているのでは?と思えた。
ということは、監督とかスカウトとか(人事の都合だけど)捨て、取るというようなヒトに対して実に憎たらしいことを担うだれかたちがいるわけで、そういう憎まれ役だからこその給料額だろうし、本当に列島各地に目を配って、育てれば育つなんらかを引っ張り出してもらいたい。
その上で選抜することになるけれど、その時にはその究極のプレーを、アイデアを共有できる程度の技量や体力や心身やの耐性を持つ選手として構成してもらって、魅せる試合を各地で演出してもらいたいものだ。


卓球の方で言いたいことは既にちらっと言ってしまった。
力技でぎゃふんと言わせることは、マンガ的には表現しやすい。
実際には、そういう事態対処はむしろ頭脳系の年月を問わない逆襲として、生じやすい。
いつのまにか力技系は、こき使われる位置にいつもいるようになってしまう。
その昔だって力技系は使い捨てだった。見世物用にだ。
その程度のことに、気づけないなんていうのは、基礎の教養が足りなすぎだ。
だから今時の(競技に)強い選手は、将棋や囲碁やも多分強いタイプだ。
素人老人は言い訳ではなく、キャッチボール発想ゆえ、そういったこととは無縁でいられる。
相手選手は次の動きのための構え(両足の状態とその上の部分の構えとラケットの構えなど)をしている対戦相手の状態を瞬間的逐次(ちくじ)イメージして、キャッチボール発想ではない独特の打ち負かすゲームの発想から瞬時反応動作するシミュ―レーションを心身化している。(この度合が力量の差の一つとなる。試合全体を通して結果する)
ヒトの反応系にはそれなりに制約があるから、100%対応できるわけがない。そこで、名選手たちも、ミスるけれど、それを力技でねじふせた瞬間と勘違いするのが力技系の思いこみ状態だ。
斜めに返すかストレートに返すか、ちょこんと返すか、そこらは、相手の構えの状態次第だ。
テレビ解説の女性氏も男性氏同様に発想されているので、本当はそれら卓球界つながりで直接聞けるし、学べる関係から得た方が良いのだけど、育てる立場の諸氏にはことばにしずらいこともあるかもしれない、ということで素人は”率直”なことば使いを試している。
ついアドレナリンがもたらす生理状態に誘われて単調になって、斜めに返せば有効と、なんとかの一つ覚えパタンを繰り返して相手の思うつぼとなりがちにする。
解説諸氏が指摘することには、返し方で相手の構えを誘導できる、というもの。
それが一定のしばりとなって、こちらの攻めのやり方の選択肢を思い浮かべやすくする。ここらを試合中の数秒間でこなしていく。
そう作用させて反作用の結果の形を得て、それならば、ストレートに返すか、斜めに返すか、とか瞬間思考することに日頃から慣れていないと昨今に限らず、昔から名選手たちにはまったく適わない。適度に遊ばれてしまう。ただし、丁重にあしらわれるから、そこまで卓球技プラスのところに落差のあることに気づけない。ラケット操作では、まったく互角にプレーし合える実力が即、卓球技を、五分なのになぜと錯覚させる。
激しいラリーに誘うとアドレナリン効果が出やすいみたいね、と相手に見透かされると、丁寧にあしらわれてしまうわけだ。
そう誘われて入らなくなったのではなくて、相手が入らないコースを打ちやすくなっただけなことに気づけない。ビデオを見てもなんで負けなきゃならなかったのか、に気づきにくい。
でも解説諸氏世代の方々は頭脳系でもあり、そこらは熟知されている。素人老人の出る幕はない。


(たまたま使うだけで普段は決して使わないことばですが、くそ)暑い今日この頃、だからこそ、というか待ってましたとばかりにご登場、が庭のカナヘビ氏(性別不詳だが何十年と世代をつないできている。0.2メートル)。連中は、この猛暑を大好きなのか?
ちょっとしたキレイな水たまりを舌なめずり。連中も水をそうやって味わうみたいだ。
相当前に紹介しているのだけど、(このカナちゃんや)ヤモやんもちゃっかりそちこちに姿を現す。ヤモやんはヤモリのことでこちらはその昔のいつからか住み着いた。で今年見たばかりのは未だ小さい(0.1メートル)。それに"完璧"に夜型だ。
挨拶しているつもりかこのカナちゃん、首をもたげる仕草できょろきょろしている。
低姿勢でさささぁーっと逃げ去る場合もあるけれど、時にこういう自身の水飲み姿を見せたりしながら、ゆったりすることもあったり。


*1 :
ここで登場したサッカーの選手たち

2 酒井選手
3 中山選手
5 吉田選手
6 遠藤選手
7 久保選手
10 堂安選手
11 三苫選手
13 旗手選手
14 富安選手
16 相馬選手
17 田中選手
18 上田選手
19 林選手