連載は続く~ SF掌編『芸術で応援だ、と高齢の素人』編


 最近は授業で使う資料にも採用されてそうだけど、地表面の各地が探索されて、黒土という植物・穀物栽培に向いた肥沃な土壌が地表面ではごく限られた土地(といって広大だったりするけれど)として何か所かに散らばっている。
 列島の土は火山噴火由来の土壌をヒトの‟手‟によって自分たち向きに改良されてきたっぽい。
 すでに土壌からして各地、各土地柄性を帯びさせてしまう。

 これもテレビ番組から知った現世の中事情なのだが、ヒトを知ることをめぐっては素人老人的に参考になった(またもやクローズアップ現代だった)。
 度々ニュースにもなっていて、その現状はと取材が入って、調べてみたらの辺りが紹介されていた。
 ホストクラブは、そのことばくらいは現世の中こどもたちでも聞きかじって知ってそうだ。舞台はそこ。被害者はそこの利用者。犯人系は、取材の結果から構造的になっていることが判明。警察の捜査が機能しないと細部の絡みを詳細具体的に事態として押さえてなんとか解決するということにはなりにくそうだ。韓国のドラマをBSで放送していたのだけどその『模範刑事』くらいの長さ(全22話)になりそうにも思える。
 経営者は雇うホスト諸氏に、客が多くを購入して支払いきれない場合、担当ホスト自身がたてかえてその内実は経営者からのホストとの間で借金のかたちを取る。
    経営者=(借金)=ホスト=(たてかえ支払い)=客
 客はぼったくられたとか色々そちらのケースもニュースで出るから、一般としてはそういうこともたまにはあるだろうくらいに受け止めがちにしてしまうかもしれない。
 ところが、今流行っているこの詐欺事件の場合は、もっと込み入っている。
 実は前段が用意されている。
 客の女性たちはホストであることを大抵の場合隠して近づいてきた若者たちと親しい関係になる。その親しくなる関係自体がすでに計画的だ。
 親しくなって、実は職業は・・で食っていくためだけではなく、夢を実現するために懸命に稼いでいること物語を相手女性に染み込ませていく。下ネタも共有し始めている女性たちは多少惚れている段階だから同情の方でその話に聞き入る方に近い。
 で更にホストの男たちは、ひたすら夢に向っての芝居を見せびらかし、それといっしょの生活の女たちは、更に惚れて惚れての方に傾き、(いつでも観察して詐欺の本業部分に移る機会を伺っているわけだから)頃合いを見計らって、高額のホストクラブでの買い物をお願いする。女性たちは惚れた男のためということで、熱心な方で応じてくれるようになっている。すると先の借金関係が膨れていく構造に簡単に誘えた事態となってしまう。 ホスト男は、相手の女性に借金のことを‟素直に‟告白して、どうしょもない事情だからとか同情ノリの方で心を乱れさせて、売春で稼ぐことへと誘う。ないし、混乱事情からホスト男の方が乱れて乱暴になって売春して稼げとなる場合も含まれ、相手の女性たちは惚れた男のためにのノリで売春に出てしまう。そのノリのため、被害者意識が生まれにくいということで、売春業に深く潜航して、親たちの届かないどこかへ行ってしまうケースも出ている。

 女性も男性も、惚れた相手から詐欺にあっていても気づけないケースは、いつでもどこでも起こりがちだろう、くらいの想像は世間知らず系の素人老人でも気づく。
 ただ今流行中の広範な詐欺事件では女性が主な被害者だったりする。
 女性性、メス性と指摘した方がより気づきやすくなるケースと察する。
 メス性が配偶者に巣の準備をうながすために騙しにだます深層を働かせる。
 だからだましているつもりがだまされてしまうという逆転もしばしば生じさせるけれど、お互いが純朴性を充分に育てあっていて、その関係が破綻を誘うようにはしないことで円満な家庭へと多く場合、熟成していく。そして人生を多くの人々は全(まっと)うできる。
 事件の方は、男性の方が惚れたどうのこうのの方に近づく気がまったくない。金稼ぎの方に、利益を上げる営業頭が目いっぱいの関心から女性に近づいている。
 女性というだけで、ないしメス性発揮の状態だけで、オス性からは充分にもてまくれるのがヒトだったり発情期の野生(+飼育)動物たちだ。ところが、特にヒトの場合、だれかを惚れてしまうという事態が特殊で、他のだれかたち、この場合だとオスたち(世間の(好みのタイプのと限っても)男性たち)が迫って、ないしもう少し落ち着いて、交際を求めてきたとしても、惚れたホスト男性以外の申し入れは邪魔に思えてしまう。その対象こそ(巣を用意してくれてつがいとして子育てが可能になる相手と絞り込みに絞り込んだ気持ちのノリが絶頂となってしまっている)自分が求めている相手で、その相手の気をひくのに邪魔になる他のだれかへの気持ちの移ろいは無いことにしたいという心の作用もけっこうしつこく働き続けている状態になっていそうだ。そういう素人老人流にことばにするなら"うるさいやつら"からの圧が、惚れているし、だからこそ惚れてほしい借金苦らしいそのホスト男の窮状を救うためには売春だってなんだってやってやるぜぃ!!と頑張れてしまう。実は詐欺にあっているだけなのが、まったくわからないか、そうあってほしくない、そうだとしても、いつかは自分に惚れ直してくれるはずだとかそういう巣をめぐるメス性を前段の準備過程が生身の装置に植え込めているから、サギ側のホスト男性と売春を介在する役の人々と借金関係で稼ぐ知恵を実践する人脈構造は悪の限りを尽くしてくる。
 女性たちは使い捨て状態(多分ありがちな性病とかその手の困りごとも引き受けやすくなっていると素人ながら心配できる)になっているのに、一途(いちづ)な方に洗脳状態だから、抜けるに(抜けない)とか、窮状を漏らすとかの切羽詰まり感が実感の方で発揮されないままになっている。
 うるさいやつらを基盤に稼業は、飽きたらすぐ次を用意できるシステムをこしらえることで継続可能ということで、歌の業界も、短期間の流行の繰り返しで稼ぐことを成功させてきた。
 けれども時代は移ろうで、歌詞の内容次第では、その被害女性たち(場合によっては男性たちも当然含まれるが)ただその現状を鍛えるだけの出汁にさせかねない辺りを、素人的バタイユ読者としては、指摘してもみたくなる。
 つまり芸術だったらヒトの移ろいに寄り添えて、それなりの異化効果程度でも発揮できる発信が可能となるはずが、稼ぐこと、生涯賃金の高額を狙うノリの方に熱心になるように誘われがちなためか、いっこうに、芸術系的、今の世の中独自の趨勢へ多くを発信できていないのではないか。だからやたらと局地の戦争とか物騒なことはニュースになっても、芸術・芸能の方はというと、高額値段がついたちょっと少なかったタイプの話で流れていく。
 プロテストというよりも、もっと今の世の中の趨勢を読み込んで、芸術がヒトと交流するなにがしとしていかにも芸術な辺りを発揮してもらいたくなる。
 多分、ホストクラブ以外でも似たこと、また似ていない、別種のヒトのサガの辺りを熟知して利用してしまう連中がそれなりにワルの方で徘徊してそうだけど、芸術がヒトのいつもに準備とか気づきを提供してしまえることはいくらでもこれまでの芸術史からしてやってのけてきたのだから、そこらはいかにも芸術な表現のありかたをこの今でも摸索できそうだ。

 


   川柳もどき

    有軍尼一百二十人
    隋書に軍尼
    軍尼は国造のこと
     が現定説と『国造』(中公新書)

 

連載は続く~ SF掌編『ポトラッチのバタイユ氏のことはともかく、列島では高く青空』編


 ブルーバックスの大量絶滅本が三畳紀末大量絶滅を扱っていたとしたら、NHKBSの隕石衝突後の地球では6600万年前の大量絶滅の前後をコロラド州コラール・ブラフス(約1.5km四方)での発掘資料から描くように紹介されている。
 ざっと素人老人的整理で紹介すると(画面の図表を参照して哺乳類と植物の巨大化時期)
 想定巣穴生活などで生き延びた哺乳類がその後どう巨大化したのか。

  6500慢年前 **********************************************磁場逆転
        エオマノドン(70kg・1.5m) 豆
  
  6530万年前 **********************************************
        カルシオプトゥクス(40kg) ヤシ(花粉=昆虫)
        
        
  6570万年前 **********************************************磁場逆転
        プルガリウス(40g(巣穴))     シダ
        メソドマ(50g(巣穴))       菌類
  6600万年前 イリジウムの地層 ****************************

 欧米でも中肉中背な諸氏の方が圧倒的に多そうだ。
 そしてそういう中肉中背以下のタイプこそが、スモールワールドを形成しやすいため、地球的事情での大量絶滅の場合、偶然性込みになるけれど、種として生き延びる可能性を担いがちと想像できそうだ(6600万年前のテレビ番組とブルーバックス三畳紀末の事例から素人老人が空想して強引に推理してみると)。絶滅種に入ってしまう場合もあるから、その場合でもがっかりしないように。

 当分は現生人類は蔓延(はびこ)り続ける。喧嘩それも戦争も辞さないノリでヒトの一面の方に引っ張られ過ぎると、戦争による悲惨というよりも先細りの自滅へと向かいかねない、という想像の方がしやすそうだ。
 各地にヒトが溢れて様々が可能になってきたことにもっと自覚的でないと・・と素人老人空想からだと指摘してくれる感じだ。調子に乗って、他人をこき使って使い捨てにする(たまたまの豊かな生活の)その先の短いサイクルは史実としてそれなりに残ってそうだ。ただ英雄物語的な話に向かないエピソードだから歴史家は採用しづらいかもなど素人老人的には推測してしまう。
 自らが仕事(=(広く突き詰めたところから掴(つか)める意味合いとして)遊び)と関わる技量を身につけられればられるほど、仕事は楽しくなって、それゆえに可能になる仕事の様々が更なる技量を欲し、身につけできることの数々を楽しめ、だけどそのうち老いに気づいて、実質上は引退のような仕事との距離ができて、若者たちがその老人に教えられて一人前に育ちつつあり・・・もう少し前に熟練まで育てられた中年層が、老人を励ましつつ、無理に仕事に打ち込むよりは悠々自適の晩年にしたほうがいいんじゃない?!とか進めてもなかなか受け入れようとしてくれない頑固職人になっていたりする。
 だから若者たちが爺ちゃん爺ちゃんとかさんざん口にして、気持ちよく引退生活を満喫してもらえるほうに誘ったりもしている。
 そういう頑固職人的に生活できれば、たまたまとんでも裕福な生活をしていようが、若者たちをそだてつつの職人生活を続けるので精一杯という諸氏もいらっしゃることだろうが、戦争的喧嘩をふっかけてほとんど無関係に近い人々まで巻き込んで悲惨な目にあわせてしまうような人生よりは遥かに生きがいにつうじるのではないか、など素人老人だから、いつでも余計なおせっかいをつい焼いてしまう。

 ことしのオリンピックのメダル作りをワールドニュースは報じている。
 フランスチームでそのメダルを得る活躍をした選手諸氏には一等賞で8万ユーロ、二等賞で4万ユーロ、三等賞は2万ユーロもらえるとのこと。
 メダルは700トンのプレス工程を経て出来てくる。
 一個に2週間。合計5084個。直径85㎜で厚さ9.2mm。銀に6gの純金メッキだから、今だとかなり高価なものだ。ついでに中央にエッフェル塔の削り鉄のデザインが埋め込まれている。

 同じくテレビ番組ネタになるけれど、通販のみで売られている雑誌が50万部近くで安定的に売れている。
 ただ収支ということではその媒体を使っての物販やマーケティング(多業種他社がデータを知りたがっていた)が多くを占めている。
 それはそれ、一方、現列島環境での紙を使った雑誌販売は、西暦2010年の頃4000万部近い。それが2022年には1500万部ほどだ。
 宣伝媒体として諸雑誌が大いに稼いでいた時期の話を介護職仲間から偶然聞けた限りでは、個人の収入すらがべらぼうな桁のように受け取れた、とだけ紹介しておきたい。
 ヒトの心理として、通常の判断が通用しないような事態に不慣れなままだと、堅実にそれを貯めて将来につなげるということが難しくなってしまう(と推測できそうな)ような話も聞かせていただけた。
 人口の趨勢からしても、スモールワールド化はリアルそうだ(持続可能性的観点からは適しているかもしれないし、追々巨大産業ともどもの現生人類の無茶の始末がつくのかもしれないし)。

 そこで今回の最後に、高度成長の結末を記憶されている現役世代も大活躍している時期だからこそ指摘してみたい。
 給料も上がって・・だけどいつまでも先行して物価が上がり続け、時に国際環境が色々不可抗力的に生活の不自由をももたらし、それがクリアされたらまたもや他のどこかの事情がめぐりめぐって物価とか品薄とかに影響し出してなどなど、給料面以外でも落ち着かないことが繰り返される。
 それでも組合が頑張って賃上げだとか声を上げてくれる。としても無い袖は振れない。 もう少し内実的には賃上げが組合の役割と見なされるようなことを繰り返したために、事情如何に関わらずの賃上げ要請ということで、組合自身が困難をわざと引き受けるような運動にしてしまうような趨勢も生じさせてしまう(素人老人発想からだと、経営の様々性を想起した場合、また資金繰りを詰めに詰めて金融機関も含めて工夫し合って持続性を可能にしている膨大な企業の内的には相当ないい仕事をこなす技量の集積を可能にしているような各所が、そこで返って妙な無理に誘われそうな辺りも指摘できるのではと素人老人の年代になっていても想像したくする)。
 薄利多売的ないい仕事師諸氏がいてくれる幸せな、とか偶然的列島生活との出会いとかが持続的にしておけることも、オルタナティヴ発想としてはいいことのように思えるが諸賢・諸氏においてはいかがなのだろうか。
 ここらはムードとしての物価も上がれば給料も上がる好循環をプロパガンダに選んでそうな‟外圧‟(と素人老人は観察しているがここらも諸氏に問いかけてみたい気がする)が蔓延りがちにしている2024年初春だから、説得力を発揮しそうにない、くらいは素人でも老人だから感じることくらいはできる。
 だからもう一つ、何度か指摘してきたことをもう一度。
 そうやって物価上昇(それと並行する産業の動き)、給料上昇を繰り返すうちに、その起源を知らないだれかたち(若者層とその(老いていく)すぐ先)が現れるために、前提が違った発想でもってその趨勢に参入してきた連中の中には、その水準すら我慢ならん、とか、野心からか、なんのか、欲が出て、もっともっと儲けたいという心理的爆発を実際に表現してしまうタイプ(列島では俄かIT長者が派手に有名になったりした)が出てくるし、稼いだ金(支払い手段)だけではなしに、借金とか金融の様々を使って、資産増殖に走って、桁違いの上げ底状態の支払い手段拡大を生じさせてしまう。
 ゆるやかなバブル操作は好循環だとか当時うそぶいていた人々はいなかったかもしれないけれど、バブルそのものをいったん始めたらやめるわけにはいかないよ、と評論の長谷川氏などはテレビ番組でおっしゃっていた。
 多分、ゆっくりバブルも含めて発想の危うさへの警鐘をなさっていたのではないか、と今の素人老人はわかった風を装ってみたい気もする。
 とりあえずムードはムード、でも、その行先については一度経験済み、の辺りを覚えていらっしゃるなら、軌道修正は外圧があるからといって遠慮はいらないのでは、とかも老いぼれの余計なおせっかい発信になってしまう。

 

   川柳もどき

    ちょっと自転車で散歩・・・なんて気楽に出る
     数十分の距離だとやっとリズムが出てきた感じ
      もう少し、もう少し、もう少し・・・・
     てなわけで、いつもどおり
      2時間は走るコースを思いつきのルートで
      選んで
       実は3時間くらいかな
        そんな呑気な自転車散歩は
       日が伸びてきたから

 

連載は続く~ SF掌編『承前・・・雪解け水が騒がしい』編


 前回の文章はノリがいまいちだったか年寄ゆえか、清書が要る感じの読みにくい誤字脱字系が紛れ込んで読みずらそうになってしまった。一気書き込みでもノリが良ければ誤字脱字がごく少ない、というのは不思議なことだ、と老人年代ながらそう思えてしまう。
 時間が許せば(というよりはその気になったらの方がリアルに近いが)近いうちに清書して読み通しやすくしたい、ものですね。

 さて読みずらいながらに、それなりの言いっぱなし系を発揮させてもらって、説明も必要と当人的には感じており、そこらを少々。
 たとえば民主制なりを志向する向きに是であるならば、なぜ戸別訪問系に厳禁など指摘したのだ?とか疑問を持たれそうにも、振り返れば感じることができた次第。
 考え方の基本に、議論の質を保ててその議論を展開(つまり線形に一方通行的に同一関心ぽく話が進展しやすいイメージよりは、様々に脇道もとらせ、本題よりも逸れた方で話が盛り上がってなにがしに気づかせたりとか、ドラマとか小説とか話術系のではなくどちらかと言えばリアルに近い方での(偶然の出会いに満ちている)人生ドラマの展開のような感じで受け止めていただけたらそれに近い)するほうに促し合える関係が成り立ちやすくなっているか否かの辺りに、必要性を感じる関心。
 だから政党間には議論の展開をむしろ邪魔し合う力が働きやすいと判断されるなら、政党を前提の話にしないで新地(さらち)のところからの解決の方に関心が向くことになる。 政党内に仲間意識とかことばの個々観念性をことばとして指摘し合うことがないとしても、わからなさ加減について相互的に率直な指摘が可能で、説明とかの機会が適時採用され、それらが辞書的な理解の仕方を強制されるものではないくらいのところでの共有場が成り立っているようなことを、その仲間意識とか内輪とか同志とか列島生活の人々が使い慣れた言葉の範囲ででも、可能としていけるならば、議論可能な集団の営みと見なせる、といった辺り。
 だからできればヒトについての全体的知見を研鑽しつつも暫定的な共有領域を育てあえている状態がより相応しいし、暫定性を意識出来ていることで決めつけ議論の落とし穴をいつも避けていられる。
 自分以外の人生をも相手にすることになる刑事事件の捜査担当諸氏の複雑さの一面ともひょっとしたら似ているのかも、と(横山原作ものでも情に流すようでいてもう少し厳しめな観点が注がれているタイプを参照してもらえれば)テレビドラマを見過ぎている素人老人はニュアンスが伝わるかものたとえに使いたくなる。

 素人の老人の思いつきが日本語でいう思想とかの類の欧米出版の膨大な蓄積にどうこう指摘しても多分、どうってことないと思えるので、そこらを率直に指摘してみるだけなのだけど、民主主義とか民主制の内包について日本語的にも独り立ちできるだれかたちを育てることに熱心に、本気になれる人々のことを想起できる時、どの土地でもその一端をしっかり育てあってきたろうなくらいは、欧米の諸氏が他の歴史的流れをどう押さえていたとしても一応指摘しておきたくなるのが素人老人だ。
 そしてその時に、欧米系が無理をしている、と気づけてしまう。理念としての魅力はともかくそれを形にするにあたっていかなる工夫が持ち込まれているのか、持ち込まれようとしているのかが、戦術のパーティ手法の多用とかハグ挨拶とかからしても混乱を誘ってしまうわけだ。それって民主制を支えようとしているわけではないパフォーマンスだよな、と強烈な印象を誘うわけだ。
 しかも邦訳されたりもろ日本語使い諸氏が民主主義とか民主制を既成前提の話を読めたりすると、むしろ未完の民主主義や民主制の理念具体化に向けて、どうしょもなく困難を抱えてそうなことの方がより強く印象させられる。
 ろくなもんじゃないが民主主義よりも相応しいのが見つからない、の類の論は、民主主義があるていど現実的に作用していることを前提のことば使いとして受け取れる。
 素人老人からすると、民主主義とか民主制を実際的な状態で営めている状態をもたらせるかどうかはわからないけれど、理念的に構想できているいくつかをとりあえず具体化できるように努力し合えている状態は、個々の尊厳をそれなりに尊重し合える場を構成しやすくしそうだ、程度に、その難しさの度合いを感じつつ、それへの志向には是としたくさせる。
 代表制なり、段階的に、現代のような国をめぐる組織群を創始しておいて、段階的組織編制発信の数々をすべて相手にして実際的な時間内に応じることは不可能だから、各地の小さい組織のところからより広域を扱う部署に上るにつれて取捨選択されて数を絞っていく。こぼれが発信が小さいところで、解決できる範囲で採用される、ということもありえないわけではないけれど、より広域に関係する発信の場合、解決もなにもあったものではなくてより上の広域に権限を発揮する部署での採用が欠かせない。となると、取捨選択は実際的利害としては避けられないとしても、時々の利害関心からの取捨選択任せで選ばれた案件のみ採用され続ける仕組みは民主制とか民主主義とかのことばで言い表せるなんらかで語ってしまえる事態ではなさそうだ(と素人老人は見なしたい)。
 決定に当たっても当然のように多数決を持ち出すし、乱暴なやつ(と冷静に指摘してしまうが)だとそれこそ民主主義の約束事のようにことばにしてしまって自慢げだ。
 時間を限って決めたいことが議論の決着がつかずに先延ばしになっている。これもまずい。だからヒトの集団の営みの都合から多数決も是として応用されてきている。
 全会一致でないとダメだくらいに集団的決定の危うさとして慎重な仕組みを採用してきた集団の営みもこの世の中ではありうることを学問発信が色々紹介もしてくれている。
 列島の古代史においても、権限上、権威関係上のトップが制度として具体的なだれかがなっている時に、ごく近くで関わる(側近、取り巻きとか)その関わり方も(時代的、時期的、配置的ほかとして)様々に侍従、蔵人頭とか外戚とか側用人とかリーダー層が足を使って自らによる現情勢把握に挑戦的意欲を持たないと手前で情報取捨選択された事態に対応するのみのような権限なり権威の実際を呈してしまう。
 鷹狩に出ようとか、吉野詣だとかとにかく引きこもっていないで済む発想は欠かせそうにない。
 民主主義とか民主制ということでは一人一人にとっての似た機会を人生においていかに使いこなせるだろう。やはり個々にとっては制約が多そうだ。
 集団の営みとして初めてより多くを素材にできてしかも集団の知見の寄せ集めのようにして、時期時期の見解を編集可能となる。だから民主主義とか民主制ということの実際は理念的志向の辺りの重要さを意識出来て、しかも実際的現時点での可能性を探り続けるような動的把握、落としどころ探しが貴重となりそうに素人老人は押さえたくさせる。それらを強引にそれこそが民主制だ、とか民主主義とかいってことばの営みを混乱させることはないと察する。

 

   川柳もどき

    雪のあとも、寒い
     寒いけど出かける超・高齢老人
     1月も陽ざしを強く感じたっけと年寄発言
     2月も薄い雪原に
      キラキラキラキラ、キラ、
       まぶしくて
        こんな気分を味わえていいんだろうか
         な、老いぼれ

 

連載は続く~ SF掌編『能登も、関東平野も、中国でも、台湾でも、トルコ、シリアでも地表面各地が揺れ続けている』編


 稀に思い出したように引用を繰り返してきているので、中にはくどく感じられてしまいそうだが時期が時期、ということでまたもふれたい。
 数十年前、小選挙区制への移行が決まったかな・・という時期に、『読売』紙の夕刊に、中選挙区制に関するオルタナティヴ発想からする‟青い鳥‟案が連載コラムに載った。
 なんらか課題をめぐって議論し合えることが欠かせないという発想を基礎に置くタイプ諸氏は小選挙区制案というオルタナティヴよりは中選挙区制と派閥の並立の現状に改良を持ち込む考えの方を模索していた頃とも素人老人的なたよりない回想を持ち出したくさせる。
 その青い鳥の案を正確にコラム記事の複写とかで検証していないにも関わらず、同様にたよりない記憶から大雑把なところをことばにしてしまうと、中選挙区の数人の選出枠に一人を書き込む選挙投票方式に代えて、選出枠人数分を書き込める記入方式を提案されていたように記憶する。
 その心は、のところをいうと、当時の大人年代なら感受されているような列島気質を前提に、複数人記入の内、何人かは与党系を書き込んでしまうとしても、一人とか二人とか議論とかの発想の有無のことはともかく勢力発想から、他の意見を持ち出せる野党の中からもきっと選んで記入するだろうから、中選挙区制が、(つよく推すだれか以外は選べない)一人記入方式ではなく、複数記入方式によって、国会議員構成に変化をもたらすと、観測されての青い鳥案だった。
 素人老人ほど年を重ねていない若輩(じゃくはい)素人にとっては、なるほど、と思わせる案と受け止め、おしゃべりの中に結構、その当時持ち込んでいたと記憶する(ここらも老年を長らくすごしてきているあやふやさをともなわせるのだけど・・)。

 ちょっと話題そのものからは距離をとってパーティということも前置きとして話題にしておきたい。
 列島の若者たちは余計だと思うけれど、排他性を内包する結構それなりに人権発想からは遠い仕掛けだぜ、と指摘しても、そんなことをほぼ意識しないまま楽しんできたと(現素人老人からは)察する。
 弁証法役割分担系の仕掛けの一つだから敵味方を仕分けるフィルターとして作用するし、親密さ度合いを表示する装置にもなるし、内輪とよそ者を区別して表示することにも使えてしまえるし、そういう脈絡からいやらしく忖度を優動的に作動させる装置としても働かせやすいし、集まって事業開拓を一歩進められたり、ワイワイガヤガヤ大いに盛り上がってストレス発散、次の日は猛烈に仕事に集中できたり、脇の方で新たな関係を開拓出来て人生の糧を得たりも偶然起こり得たりもあったり。
 つまり政党が違うだけで、政党間の議論はディベート合戦へと質を劣化させてしまう。 そこらは政党へと結集する時に観念上作用しているはずの違いの利用の仕方が、自ずからそう仕向けてしまうはずだと素人老人的には考える。
 そういった発想からずっと、むしろ自党内での派閥的研鑽集団が激しく議論し合える場合の内実がより適した状態を誘いやすそうだ、とかここらは自民党議員生活などを踏まえた諸氏が発する話題をも下敷きに指摘したくさせてきた。
 それと右中左を問わず、弁証法役割分担的に観念系をがんじがらめにしがちな列島でも諸先輩に当たる諸氏・議員諸氏にとっては、気づけぬようにして、そう敵味方的に激論してさっぱり議論の脇道を楽しめないような寂しい結末をさらしがちにしてきていたようにもテレビ画面経由情報を得やすくなっていた時期を過ごしてきた素人老人年代からは指摘できそうに思える。
 戦後も戦前もパンアメリカーナなりちょっと初期は英連邦の端々という感じだったと察するので、アメリカンな英語を使いこなす官僚を担えと指令されればそれもこなす実務に長けた沢山の人々がその考えの啓蒙役として各部署に散らかって根付いて活動されてきたということも想像しやすい。
 そこらの前提を忘れたことにして反安保を指摘しても、無謀過ぎることは、植物の根の張り方よりも綿密に乱暴ではない方でしかし、地表面規模の安全・安心網を支えるという使命感なりが機能するかたちでの張り巡らし努力が効いていると予想がつくなら、こみいった工夫抜きに、関与からの離脱ということの実現可能性はほぼありえそうにない、ということに気づけて、工夫を重ねて、という面倒を引き受ける少数の余裕を育てられているのかどうか。そして、地表面規模での作用系と込み入って関わる仕組みとの対峙なのだから、そういう現実的にいつもの日常をできるだけ邪魔しないで変化へと誘える工夫こそが歴史を学んだ、という証(あかし)にもできるわけで、個々の散らかった問題解決と限定するならば、大げさな話にしないでその箇所をめぐって構成要素諸氏が質を伴う議論を時間をかけてか、話題によっては早急に議論を進めて暫定的結論を得たりを試みられる方が、相応(ふさわ)しそうだ。
 ただ各土地柄によってリーダーの権限が違うのだから、そのリーダー入れ替えが、たとえば列島事情において外国の軍がいてもらっては困る、で引っ越してと議論中だったのが、突如、もうそこからは移動するから、と断絶的にいなくなるようなことも起こりうる。 各国がならず者のように他国を脅したりは基本的に起こらないと素人老人は敢えてこの時代背景を前提に断言してみたいが、ただ、US英語の使い手諸氏の中の若めの話から相当前に受けた印象だと、US気質の一面に強がった風を装わないと付け込まれやすいという予(あらかじ)めの心配性を脅迫的に持っているようだ、と多少意外感、驚き感とともにと思えたものだ。
 ついでに言うと、そういうことを言ってしまう人々は、対人関係において、気分の置き所にもよるのだろうが、ごくたまに気分の在処がどうかして、油断してそうな誰かに対して、強圧にわがままを行使し合って、それ見たことか、言うことを聞いて参考にしないからそうなるのよ・・・程度のハプニングも偶然くらい極(ご)く稀(まれ)に起こってしまう感じだ。
 つまり片方だけ意識しての意味合いからではなく全方位として一応アンテナは張っておいたほうが余裕を持っていられそうだ。
 乱暴ごとではないのに、突然の変化に戸惑う、ということは外交上、各土地柄の事情の違いから起こりうる。そこにもアンテナを機能させつつ、事前に考え抜いての準備を怠れない。心配性をもらい過ぎて・・の方にも注意が要るわけだ。
 ある程度、自分たちを頼ってもらって良しを表現する大国タイプたちがいてくれるなら、それらとそれなりの外交を採用できる。
 また雑多に、様々な形で大国的な振る舞いは採用しない膨大な諸国が活発にいる状態の方が一般的な像とみなせるなら、その一般系との外交も満遍なく(だから担当部署はいつも忙しい)できれば濃密に付き合えて、気晴らしのイベントなども共催し合えていると、万が一の誤解を遠ざけて置きやすい。
 そういう多忙過ぎるかもしれない外交努力が日々行われていると勝手に想像しつつ、列島政治ということでは、政治家という区別を明確にさせて、政治家を選んだだれかたちは列島内での冠婚葬祭ほか祭りなどの行事でもお金のやりとりは現金で、じゃなく!厳禁、ということで法的に縛りを入れてしまえば、習慣化する前の段階において、お互いに現金をやり取りすることを遠慮し合えるように仕向ける。やがて習慣化すれば、法の方が形骸化して忘れ去られていく。
 戸別訪問、ビラ配りとかUS方式も厳禁。
 その替わり、国政レクチャーを有料で催す。収入は厳密に税との関係を持つ。
 地方政治なら、県政レクチャーとかで県政の現状についての緻密な質問に答える。或いは、議員の力量次第の報告を披露する。だから有料にして一応少しだけ稼ぐし、納税する。
 市政も同様。村も同様。区も同様。村、区規模となると事情通が多くなりそうだから、有料は売れない可能性大。別の方法が要る。
 もしも、自律した各地の代表が別々の政党に属してということであっても、議論の質を保てるのなら、多党制は有効、政党政治は有効、と見なせそうだ。
 わずかの試行錯誤しかしていない政党政治には、実はの欠陥、致命的性質を持つ辺りに気づいて、改良に乗り出すのに遅い、ということはないのだから地表面各地の知見がオルタナティヴに果敢に乗り出してもらいたい、と素人老人ゆえ思ったりする。
 数人規模の集団の営みから上下イメージで登って上層は数億人規模を相手に政治する。とイメージできるなら、最上層は是なりウイなりイエスなりヤーなり、とにかく断る以外で持ち込まれた課題にいかに答えるかに時間をついやすことになるから、昔の持続的仕組みほど、上層に持ち込む話題の扱いには工夫が働く仕組みを持っている。
 今時は、様々な話題を持ち込まれて短時間の議論の下、選別・決定され流れていく。持続性観点からは相当に脆弱と言えそうだ。
 ただし王様独裁的仕組みをイメージしてここらを想像している場合はまた別だ。
 更に、ローマの趨勢の弱点は以前(最近のローマ史研究の一端読書から)引用させてもらった。とはいえ、問題ありのローマの趨勢であっても登場人物扱いに問題がなかったわけではない辺りにも細かく注意を払うことが要ることを再放送だったかのNHKBSでのネロ氏の紹介番組で最近知った。世界中、地表面各地において歴史学者諸氏も日々研鑽を積んでおられるし、ジャーナリズムも好奇心逞しく取材して公開することに励んでくれているようだ。ただし、相変わらずワイドショーっぽい演出で不要なシーンが相当に挟み込まれやすい、と老人年台的には見た。
 むしろ知らされるのが足りなすぎる南米とか広域ユーラシアの諸土地柄における工夫の数々を王朝史っぽい豪華絢爛と乱暴狼藉とかの類以外の膨大な要素を発見してもらって番組にしてもらいたい気もする。
 列島ではNHKBSにてソグド系の末裔の営みかもの山地に定住する人々の生活史描写や現代中国での田舎の人々の中には蜂蜜取りで結構稼いだり収穫が悪くて酷いことになったりの不安定な生活の様を描写した番組だったりを見ることができたりする。
 地表面各地が逞しく自律的経営をこなしつつ、産業との付き合いにおいて、激動にさらされたちも起こってその短期間かもしれない大変な事態を短期であってもしのぎ切ることができなければ人生にとっては過酷となるわけだから、そこらを汲み取れる政治の仕組みはどの土地柄でも日々模索し続けられる必要はありそうだ。
 テレビ画面からは自民党でお金と帳簿記入に関わるズルについて、ムードを読んでなにやれかれやれと性急になるヒトらしい危うさを発揮させるよりは、国会(立法府)議員という立場を受けとめて各議員諸氏が国民に答えることが要る、と冷静だが、実質厳しすぎるくらいの指摘を淡々と語られている。


 なにごとも近代化ということでのお手本として欧米流を支えにして大英帝国方式から権威を継承してパックスアメリカーナへ移行して今に至る地表面の営み(試行錯誤)において、そのお手本性に疑問が内側からもあふれ出すご時勢となってしまっているのが、冷静に距離をおいて眺められる今時と察する。
 だからワールドニュースの数々が2月6日ということでトルコ・シリア大地震のその後を取材して報道してくれて、現状の厳しさが指摘されたとしても、そこを各土地(トルコやシリアや)柄のリーダー諸氏が、失敗の要素と良い所(とこ)取りしてよさそうなところを区分けして、普段のパフォーマンスに活かせないのはもったいない気が素人老人的にはした。
 列島でも服の色で仕切りを設けた時期を持つ。そこらの工夫の辺りに気づけないなら歴史を現代に応用するにしても感受のところでもうちょっとなんとか工夫してね、となりそうだ。
 けれども、集会とか今でも儀礼方式を採用する場をUSでさえ応用はしているけれど、多く、ワールドニュースに出てくる場面では一応スーツ程度に普段着でリーダー層は登場するようになっている。衣装の色のシンボルを使って秩序の落ち着きに応用するような回りくどさを不要とするように努力し合っていると察せられる。その替わり、古代ならありえないような、そして古代でもそうしていたような、事を起こした際の断固とした銃器を伴う威圧がUSの場合、派手だ。
 ヨーロッパでは問題も生じさせているが、移民を受け入れつつ、また農民がトラクターデモを整然と行い、同じく道路占拠を整然と交通取り締まりによって混乱させないように工夫したりを実践中だ。(市場原理主義過ぎとちょっとだけ市場原理採用の違いか)
 かしこまることを必要としない普段着の姿勢でもって地震後の悲惨な生活に耐える人々への再建、復興の遅遅の状態を説明しつつ、現状の工夫の辺りを普段着の姿勢でもって出向いて語りつつ現状を知る情報収集に専念できる。官僚任せはどちらかというと失敗の下で、大昔からリーダー層はなにかと言い訳を作って現地を視察する方を選んできた。そしてアイデアとかヒトを含む資源を把握して、残るは実践次第となるわけだ。

 ブルーバックスのかつての大量絶滅はなぜ本ではスモールワールド化から探ろうとしている。
 証拠の有無は不確かなまま素人推理の一つを持ち出したい。
 生き物たちは同じ仲間だとしても大小ごっちゃが普段の姿だ。
 ところがどれもが小型化していた、という考古の証拠だらけという。
 そこで、風説を持ち出す。
 強風吹き荒れて、小さいのが風を受けにくい影に入り込んでの生きやすさ説。
 生きやすい状態が続けば、生き残りやすい。
 この前提の場合、高層建築で賞をいただけるタイプの発想は絶滅お誘い系とみなせてしまう。恐ろしいことだ。
 たとえば、気象が荒れ狂い、頑丈な高層ビルに逃げ延びているとする。衣食は空輸すればいい、とかたかをくくっている。
 風にめっぽう弱いのがドローン。
 飛行機が荷物を窓めがけて爆弾の替わりに落とすやり方ならなんとかなりそうだ。
 ヘリは多分、事故多発でパイロットがいなくなる。
 が荷の投下によって壊れた窓からの風が内部にトンでも効果を出し始めて・・・もリアルそうだ。
 そうなるともう飢えて衰弱してを待つしかない人々の墓場が高層建築ということになりそうだ。
 だからいつのまにかスモールワールドになっている。けれど、さっさと亡くなっていった人々の方が少しは楽だったかもと思わせるくらい、スモールワールドが徐々に滅亡へと向かう過程はひどすぎるようなことにもなりかねない。
 その時期を耐えた生き物はどういう具合だったかを知ることで、ヒトの観念は今においてきっと活性しはじめる。

 クローズアップ現代のAIと医療からみの放送を見ていて思い浮かんだのだけど、正しい方に近づかせる情報を得るためにAIを使うとか、ヒトが正しい方に修正する役を引き受けてAIとともに正しい方に近づかせることで役立てるとかの発想よりも、正しいかどうかをちっともこだわる必要のない過程にAIの情報処理の力量を偏らせてしまう方が概念、単語使用の固定化由来の発想上の行き詰まり感をいだかせがちな現代においてはより有効と感じた次第。
 概念や単語やを規則性に乗せてディープラーニング過程に放り込んで成果を期待するのではなく、画像学習でも、概念とか言葉・単語とかが制御させていない脈絡での‟はだか‟の画像要素の膨大を通させて、けれども、なんらか既知以外の差異に気づけるようなアルゴリズムを持ち込んで、そこらはヒトの方の気分でもいいし、色々時々の思いつきで仕掛けてみて、結果をとりあえず視覚的に表現させる。
 なにかしらそこにヒトが読み取れるかどうか。
 読み取れないけれどAIにとっては差異的な要素を見ている。ならば、で発見をごくたまにくらいは起こりそうな気もする。
 ただ漠然と画像、ということではなくて、検討課題のなにがしについて、それを応用するならば規制の既知のなにがしでがんじがらめのこれ以上はないと自負しているかもしれない諸氏の高性能な頭脳にひょっとしての気づきをもたらすこともありうる。
 ここらは画像ばかりではなく、とにかく既存の規則と結びつけた概念やことばとしてのの学習から離れてのデータ処理にさらせるかどうか、と言えそうだ。
 こうなると医療にはまったく役立たないけれど、AIは大いに力を発揮し出しそうだ。

連載は続く~ SF掌編『雪が降りだして籠(こも)ってしまった老人語り』編


 地デジの放送をBSの3chにて見ることがたまたまできている、というわけからながらONの状態のテレビモニターより時事政治討論番組も放送しているのが漏れ聞こえてきた。
 たまにのことだったのでちらっと見れば、横文字表現にてSUNDAY DEBATE。
 debate は討論、論争のニュアンスのことばとして三省堂の小さめの英和辞典には載っている。
 けれども、かつて好意的に登場して話題となり騒がれた頃以後を経て、ディベートは結構ヤバい方へヒトを即誘ってしまう辺りに気づかれている現状を素人が指摘しておいて無難なところと察する。
 論争相手を言いくるめて、或いは言い負かして、片方の言い分を通せれば勝ち、めいた順路で落ち着かせる程度の手法なことが鮮明になってしまっている。
 その場で決着をつけることを苦手とするヒト観念系にとって、何億人もいる地表面では中には、その場で決着をつけることができてしまえる事態に無頓着だし意欲を持続できるごく少数の変わり者諸氏が出てきてもおかしくない。そういった特異なだれかたちが言い勝ったとして、なにほどの意味、意義を見出せるのかの辺りは、距離を置ければ、課題はその暫定的結論も含め宿題として持ち帰って検討したうえで・・で当面の決着をつけられそうだ。
 テーマと関わる情報をより多く持つ側が、余裕をもって、落ち着かせどころへと相手の相対的無知につけこんで誘う、というやり方のいやらしさは、相手にもおいおい気づかれるから、論争・討論よりは、相手に言い負かされないようにするだれかと、ろくに知りもしないくせに生意気な相手だとしても言い分を聞きながら、こちらの考え付いている結論へいかに誘い込むかをずっと思惑しているだれかの騙し合いのような事にしがちと察せられる。
 ないし弁証法敵味方布陣発想を染み込ませた論争相手間がいかにもな敵対的激論を演じて聞き入る人々を唸らせて場は盛り上がっても、結論は人々の切実な必要の肌理にとっては埒外のところで落ち着かせられてしまう。盛り上がり気分のまま帰宅して、そこでやっとその結論の実際のニュアンスに気づけたりが起こる。
 素人老人的な諸賢の指摘を踏まえた押さえ方からだと、相手との間に知見に関する隔たり、格差なりを感知できている場合、それを相手の弱みとか強みとしてディベート作戦を練る方へ向かうことなく、知らないとか知っているとかの違いを教え合うことである程度均したところから話を出発させて、途中で、やはり知見の持ち方に、込み入った解釈のこんがらかりを感知できるならば、そこでまた論議を中断して、論じあう前提のための言葉の共有のあたりを探ることに時間を費やす。そういう行ったり来たりを繰り返しながら、話を詰めていくことは可能と見る。
 またより多くを知っているからと言って、肝心の事態について熟知できているかどうかは不確かだ。像の表面をさすっているだけの膨大な知見持ちだったりもありうる。もう一方は骨や内臓の標本まで触れて調べていて、食生活や子育てまで知っているけれど、断片的で膨大な知識とは言えないようなことだって珍しくない。サーカスの像はその狭い箱に乗ってどうしてバランスを崩してこけないのだ?の答えをめぐってでさえ、論争相手諸氏の観念系は相互的に偏りがちにもする。そして弁舌だけはヒトっぽく絶妙にも育ちうる。 ただNHKのテレビ番組が採用するくらいの単語だから、地表面のある領域においては、通りのいい標準の意味を帯びさせた用語なのだろうな、と推測しやすい。
 一方で、経験知として列島では多分と素人観測に過ぎないけれど、ディベート上手をいくら育てても世の中での集団の営み上、良いことはなさそうだな、くらいでは普段着思考の方で受け止められて馴染んでしまっているように察する。議論とか言葉のやりとりを工夫して問題に当たり、なんらか解決を目論むことと同値におかれていない程度のニュアンスを指摘できそうだ。論理や心理や脅しやを駆使して言いくるめる、丸め込むとかお互い強弁し合って結果一方が一気に圧しまくるニュアンスの方がディベートということばの内実には近そうだ。論理、心理、脅しそれぞれだけでも、ヒトがすべてをある年台においてパーフェクトにしているわけではないし、ありえない。そこら。
 標準とか規則とかが、その射程を広げれば広げるほど、実質のところでは、ヒトの無知加減をもしも隠さないことが可能ならば、そのこと自体がある思いつきの汎用使用への注意報を気づけるようにする。ないし、気づけないならば、その善意は追々錯誤の要素に気づかれて、信用を落とす。

 前置きが長くなり過ぎた。
 日々更新され続けるブロードキャスト系ワールドニュースの時事ネタの数々は、それなりにバラエティに富むと素人老人は最近、受け止められるようになった。
 その中で新鮮な方から、麻薬大国として自他ともに認めてきたUSにて、今はなんと合成麻薬が既存の麻薬を押しのけ始めているらしい。
 かつての小史としてスペイン領から米領となったフィリピン国の事情は、そこらを見る時に参考にできそうだ。
 ついこの間までの政府が麻薬撲滅に熱心だったのと似た事態をエルサルバドルの政府が行っているようだ。
 ニューヨークのかつての市長氏が悪評を跳ね返しつつ挑んだ荒(すさ)んだニューヨークの衣替え作戦とも似ている感じだ。強圧策を伴う。
 時間が許すなら潜入捜査と地元人材の養成とと、人の輪を広げて、心もとない方につい陥りがちな連中の安心できる側を荒んでない側に用意していくことでの、‟療治‟が結果的に持続性を持たせての解決へと導きやすくする。
 当面の暴力沙汰の応酬を避けるうえでの強圧策であるなら、その先についての密かな策も準備されていると予想できる。
 どっちつかずのまま暴力系に誘われてだけどリーダーっぽく地元の連中とともに何かをこなす意欲のある連中まで強圧的に叩いてしまうと、心もとない方に陥りがちな連中だけげ多めに地域に蔓延(はびこ)るような途中経過も起こりうる。
 ただし、目利きたちがよほど根付くように地域の連中の中で、人の様を観察して判断しないと、心もとない連中がまた危ない方に誘われるその悪い方で賢いだれかたちを放ったままにさせかねない。そこらは専門家・事情通諸氏からはもっと詳細に複雑に対処されているのだろうが、素人老人だとこの程度の表現になってしまう。
 そして、そういう弱点に付け込む世界の諜報網の端々の関与ということも、19,20世紀利害では当たり前に機能しているのだから(麻薬が絡んでいる場合は特に)、実態は素人考えが及びそうにない。
 そうではあっても、USにて合法麻薬が占めるようになり、ヨーロッパでは大麻の合法化が今時になって実施されるようになったり、USの犯罪情報網の応用は素人老人の主にはUS映画経由からの想像に過ぎないけれど、ヨーロッパも弄(もてあそ)ばれがちとつい見たくする。
 合成だから石化産業が主な舞台として移ってきたのか?どうなのだろう。そこらをネット発信で活躍される諸氏こそ、気前よく一般向けに発信していただきたい。
 多分、そこらは未だUS映画の作りて諸氏でも素材にしてエンタテインメント性込での情報発信には向かっていないのではないかと最近は最新の映画を最新の状態で見に行っていない怠け者の素人老人の憶測だ。

 対イランチームとの試合も2-1で負けたらしい男子日本代表チームの幾人かが実に直(すなお)に自らも関わる失敗の当たりをふれて試合を振り返ってくれている。
 監督は失敗の具体的なところを踏まえて、そこも含めて改良にとりかかる熱意とか意欲に満ち溢れている。素直な選手たちと熱意・意欲をあわせもつ指導者なんていう様は大昔のテレビ版青春物語のまんまな気がするのは素人でも老人すぎるからだろうか。
 いずみたく作曲の青い三角定規(女中心に両脇に男ひとりずつ)が歌っていたカラオケでも有名な曲を鼻歌で歌える年齢の諸氏は今なら更に元気老人をやってそうだ。

 諜報脈を応用した安全策が行使され続ける世の中では、広くシステム的に押さえた世の中の営みにおけるサブセクションっぽい各種の営みが、世間を渡り歩く膨大な人生たちをフィルター通過させる役を担いがちにしている。
 もろ危ない闇の組織しかり、芸能系しかり、麻薬取引自体がそういうフィルター役をこなすしていることで極端を抑止しつつ多少の起きなくてもいい使用したがゆえの逮捕劇など世間に話題を提供する有名人ほかを登場させてしまう。お金もそういう分野ではまとまって動いたりするから、その線でのフィルター役もこなして、怪しい脈は簡単に探索されてしまう。表向き賑やかに興行を演じつつ、その各分野は近現代社会の仕組みとしては、それなりに限定した役割を担わされるようなことになっている。
 そういうことの先に、一見独立して立法部門を担うように振る舞っているようで埒外の勢力から弄(もてあそ)ばれがちにしてそうなのが地表面各地の近現代的仕組みを採用しての選出過程を経た議員諸氏だ。
 そういう立場だからこそ、選出の建前は‟国民‟とかだったりするけれど、恐らくどの土地柄においても選出している気になっているにも関わらず、その多くにとっては隔靴搔痒感あじわわれているのではないか。
 ことば使い上、ひょっとして弁証法役割分担的な発想の埋め込み作用を多様な現代社会の発信から受けたりで、素人老人よ、いったいお前はどちらの味方なのだ。だいたいお前の言い方から、どちらを敵と見なせるのか、どちらを味方と見なせるのか。
 などお決まりの文句がでてきそう・・かもしれないけれど、地表面規模の(とりあえず現地表面体制を是としてその権威の階梯を認め合う暫定的決断を経ている有力脈脈に(連なる人々に)おいて)選択として現状はUSを承認してきたということから、USが為にする様々に不都合な要素が混じっていたとしても余程の事がない限り、作戦の一つとして試行の成り行き任せは容認のうち、ということになってそうで、列島での報道の限りではテロ系犯罪を犯してしまったように受け止められるようにことばが放たれているけれど、"ハマス"集団は端的に刑事罰方面で現行犯的な脈絡から逮捕して裁判で裁かれる立場の集団のように映るのだし、その集団が乱暴なことをしでかしやすいことを承知でガザ域の仕切り役を担わせ資金の通路にもしてきたイスラエル政府っていったい何者?とまで列島報道(同時通訳版ワールドニュースも含め)からは察しがついている事態の受け止め上、いくらなんでもガザの人々の平穏については直接、現困り果てているガザの人々の中になんらか工夫してもらって代表を選んでもらって、直接の平和のための交渉を持つのが当たり前のように列島在住での情報を得た感じからは指摘したくさせる。
 ハマスは人質事件を進行中の犯罪を犯した集団であって、その脈絡からの交渉はありうる。人質をめぐる交渉ということだ。
 でもガザのことはガザの住民自治をこれまでの暴力系集団の脅しを意識しながらの控え目自治だったりしたら尚更なのだが、今からでも遅くはないから自治代表を選んで平穏化へ向けた交渉相手となってそれをイスラエル政府はしっかり受け止めて、ハマス集団についてはあくまでも人質と殺人事件ということで国際手配するくらいの意気込みで追いかけ続ければいいのではないか。
 またもしもハマス集団の指揮命令系がその犯罪行為を他のだれかがやったことだ、と判明しているのなら、それを表の場に出てきて議論にさらすことは可能なのではないか。
 事態の当事者ということで交渉に関わる関係筋に列島在住の報道からのみの情報で判断される限りで、USにしろイスラエルにしろ、相手を間違えているように思える。
 更に、イスラエルは戦争にしているけれど、重大な刑事事件の類ではなかったのか、という印象をぬぐえないのが、列島での報道環境の密度だった。
 という具合に、US国内でさえ議員諸氏に自分でじっくり考えて物事に対処可能、という環境がしっかり用意されているのかすら、わかりにくい、といった感じで、USですら、ということは地表面各地において、オヤ?(上向き調)というかおや(下降調)、だ。
 ここらもまた敵味方的発想を持ち込ませやすいようにも読めてしまうかもしれないけれど、(隣接するとはいえ国際刑事)犯罪系のことは事の真相についてそれなりの報道がなされているから敵味方の論と混同は避けられる。
 埒外の位置を相対的に保てるだれかたちにとっては、その他の膨大な構成要素間で市場原理を土俵にいざこざっぽく競っていてくれればそれで御の字のように押さえられそうだ。直接的当事者関係なんだったら、その間柄でなんとかせいよ、で流して置ける。ついでにシステム的に警察機能も働かせている。裁判だって使える。それぞれサブの要素として構成の内だ。
 それらが金本位のうちはなかなか実力を発揮しきれなかったのが、金融バブルにしたことで、埒外ゆえにそれを使いまわして、責任もなんとかしてよね利害の当事者間でね。と放(はな)っておけたりする。
 しかも埒外はその危なっかしいバランスが機能している間だけと素人老人からは空想しやすい。いつでも、いつまでもということはありえそうにない。
 そういう仕組みでずっと行っていいのかどうか、という問いかけくらいはSF的に持ち出せそうに老人年代からは思える。
 で弁証法役割分担が誘う敵味方の論でない発想ゆえに、地表面住民発想での共有からどう何を担いあえることで事態を円(まる)く収めうるかを試行・思考・志向できそうにも思える。

 紛争をサッカーの試合の方が面白いということで当事者諸氏の大半が試合のスタジアムに詰めかけて戦争とか大騒ぎどころではない、ゲームに夢中の大騒ぎになって・・・食い物も大売れだし、飲み物は底をつくくらい売り切って、早速追加を運ぶ輸送トラックが渋滞に巻き込まれて、観客席では汗を出し過ぎて脱水症状の客もちらほら出てきて、救急車を呼ぶ呼ばないで客席の場所によってはゲーム観戦どころではない騒ぎも起こり、早くソフトドリンク、ソフトドリンクと和製英語を乱発する変な客も現れて、紛争・戦争を追っていたジャーナリストの群れが、戦争の気配のない現場を訝しがって、騒がしいスタジアムに来てみれば、やんやの喝采でそれぞれのチームを楽しそうに応援する戦闘員どころか指揮命令を担うトップクラスの連中までもが、熱を入れて応援中ときて、おい、どうなってんの?!とジャーナリストどうしで手持無沙汰感をあらわにしつつ、どうもこのゲームすごいぞ、と急ごしらえのスポーツ記者となって、たちまち衛星配信を使って世界中に現ゲームを送り始めたりもしている。
 地表面各地ではそのパスサッカーの巧みに魅了されて、視聴率を取っているところではうなぎ上りだし、ネット配信系では集中して、サーバーがひいひい言っている状態で、幹部にケチらずにもう少し性能のいいサーバーを買っときゃよかったとか、突然の繁盛にてんやわんやの状態。
 各地のメジャーなサッカーのリーグの採用担当諸氏は、だれが稼げる選手かとか現金なことしか頭に浮かばない連中も、伝統的発想から芸術的プレーを見せる逸材はいないかなとかで探りを入れるだれかたちも凝視し続ける。
 また荒稼ぎ狙いの各地の業者が、試合中の時間帯のどこかにCMを入れられないかどうか交渉相手はどこだとか色々情報が行きかい出している。
 たまたま公営放送がその試合を流していたため、交渉をインターセプトして、サギ系がインチキ交渉までやってのけて、だけど即ばれてそちらも大騒ぎになってしまう。
 前半が終わって、スタジアムのだれかれが速攻輸送されてきた飲料を買い求める。
 更に何度目かの食事だ。居合わせた、先ほどまで銃を向け合っていたはずのだれかれが、応援するチームが一緒ということで話に華を咲かせていたり、同じ側どうしが、応援するチームの違いで、反目してしまったり、妙なことにもなっている。
 そこへ子供たちがわいわいやってきて、おじさんたち(子供たちからすれば二十才近くなればもうおじさん扱い)、ゲームをたのしまなきゃあ・・と、魅了する試合に熱くなっているおじさん連中からすれば余計なお世話なのだけど、お説教される始末で、子供相手じゃしょうがないかぁ・・で流している。
 元気に兵隊をやっているくらいだから体力には自信たっぷりで、中には実際にサッカーをプロ級にやってきたのがいたりして、その類も偶然に出会ってしまって、今度、チーム作って、それもプロチーム、だからスポンサーも探すし、そして試合しない?とどちらからともなく誘っている。
 そこへ国際的サッカー組織のだれそれがたまたま来ていて、その話を聞きながら、そういうけどやっと蹴れる程度なんだろう?とけしかける。
 うむ?じゃ、とさきほどの子供たちが持っていたボールを借りてきて、話し相手とパス交換を始めたところが、おどろきモモノキ山椒の木、うまいのなんの、こいつは逸材だ、大発見、と、そのチーム構想に口出しし始める始末。
 そろそろ後半が始まる頃だ。審判がぐるっと両チーム選手を見回して、ぴーっ、とホイッスル。

 

連載は続く~ SF掌編『多分、各地が膨大な年月、工夫してきている・・・』編


 もやもやっと前方後円墳の頃も含めて列島古代をめぐる広域について、いかにも素人っぽく老いぼれは形、流れなど空想してみようとしていたのだけど、素人のもやもやだからたよりなげそうであり続けていた。
 魏志倭人伝という括りにして馴染みのことば使いから接しうる小冊子が、実に古い時期のことのようにすら感じつつ。
 そんな関連から岩波書店刊吉村武彦編『前方後円墳』も参考文献一覧に見て図書館にて借りて読み始めた。
 申氏の指摘にはそんな感じで接しえた。
 手元において、繰り返し読みしてみたくなる内容なことをふと感じ、ネット書店から購入。
 というわけでしばしば引用することになる。
 加耶諸国というあり方をより濃い目に意識させられる以前は、せいぜい金官国のだれそれ程度にしか即反応する範囲ではなかった。
 知らない事ごとを控えさせて素人中の素人っぽいノリで列島古代を眺めていること自体にはそう変わりはなさそうだけど、申氏の紹介によって、魏志倭人伝の頃がより身近に、いつのまにかなのだが、なっている。
 その連続性において前方後円墳の列島を想起(にしても大した材料を持っているわけではない素人老人なのだが(現時点では田中裕著『古代国家形成期の社会と交通』同成社2023年刊を踏まえることができるようになった))して、諸国的あり方が集団の営みの状態な加耶勢を前提に、列島への移住の像を(申氏の考古知見を踏まえた紹介により)イメージし易くしてくれている。
 だから、相当以前に手元に置いていた高田貫太著『海の向こうから見た倭国』(講談社現代新書 '17刊)を九州でも大宰府近辺を中心圏のような思い込みから追っていた関心において、紹介データにピンと来なかったままでつんどく状態だったのが、俄然、高田氏の関心の置き所(氏は、加耶諸国、大伽耶圏などを特集した企画展示などこなしている)に多少素人関心の範囲でだけど気づけるようになってきた。
 酒井本にて大宰府近辺仮説へは素人流に過ぎないけれど、離れて、別の可能性を探りたくさせつつ、今のところ、"権威筋(卑弥呼倭の五王~・・・)"が酒井氏仮説ないし、その探索の手法を参考に、読者独自に模索できての九州域のどこからか移動後、そして倭の五王の頃、推古の頃などどの辺りを拠点にしていたのだろうなど、考古知見の現代版、将来版を知りたくさせてもいる。
 万葉集の成り立ちの大づかみのところは、山口博氏の指摘を踏まえられれば、早急な時代考証にはなじみそうに無いことに気づけるし、まったく時代を誤っているわけではない第一巻目のごく初めの方についてはそれなりに検証対象にできそうだけど、では、模倣の時代的気運をも意識する必要のある時期の資料としてのたとえば万葉集=詩歌部門をどう解釈してみせることがより相応しいのかなどは、更に検討対象とできそうだ。
 歌内容として解釈はいくらでも可能だけど、時代検証は棚上げ状態になってしまう辺り。
 前方後円墳の時期の特異性に気づけた専門家、事情通諸氏においては、既に気づきの過程での時代検証を成されていたと察するけれど、そうではない特に一般書店とか一般の接し易い図書館経由での読書から知見を得ていた人々は、中には、異説を魅力的に感じて、有名なだれそれはきっと、他の有名なだれそれのことだという流れに乗せられがちにしてきたかも、など素人読書からはつい推測したくなる。
 けれども、申氏の指摘以来の素人老人的感想からすると、前方後円墳期前後を含む時代相(伽耶諸国と大伽耶分岐の前後を含む考古軽油の史実ヒントの辺り)について列島~半島の考古知見からする関連性と独自性の辺りに感じるところをちょっともてる程度からも、以前までの安易な関連付け不要の流れを読みたくさせると察する。
 とにかく未だにそうだと思うけれど、生々しく半島の場合は現代政治においても諸国性が露骨に激しくぶつかり合っている。南北なんていうのはあくまでも近現代の欧米利害からの産物の方で理解し易い。それよりは、史実が語るように、統一はなったけれど、列島の諸国以上に(半島)各地にしっかり物(二つどころではない)集団が育っている感じだ。近現代の趨勢はそこらの足元を見て、とばかり騒乱に誘いつつ、世界的支配につなげようと19、20世紀はしてきたのだった。
 列島では一応、日本国をお互いに認めつつを成せて、けれども各地性を認め合おうということば使いがつたないままに、だけど本音、そういう共存を望み続けてきた感じ。
 ドイツのニュースもフランスのニュースもど派手に扱っているEU体制下での農業経営の軋みの辺りが興味を惹く。
 EUが嫌われたのは、広域利用の錯覚肥大だったと想えるけれど、列島では軌道修正が地道にはじまっていて、貿易依存の農業とかUS農業形態からの圧に引っ張られて失敗し続けてきたことを多分、踏まえられるようになりつつありそうで、各地の工夫込みでの自律経営の意欲を封じない世論工作誘導の逆の方向での各地農家の工夫努力の辺りを応援するような感じになっている。農業をある種の工場的に営む工夫も含むけれど、多くは、その発想に偏ることなくと察せられる。ヨーロッパ(ニュースではフランスのだけど)の、大きなトラクターを駆使しての農業経営だけど、それでも主な農生産物消費は地元産ので成り立つ農業をフランス政府は採用すべしで頑張っている。その巨大トラクターでだと、農の規模もそれなりかも、で多少、素人的には心配だけど、US的に貿易無しには成り立たない規模に育ててしまうくらいならば、EU圏の広域での扱いになることも避けにくくさせそうで、微妙な感じにも受け取った。ただ、農はできるだけ"地産地消"の巧みの方で基礎を築けたほうが万が一の場合、他所の土地を助けられるし、いつもは、新鮮、安全チェックこみでの食を楽しめそうだ。その脈絡からフランス農民のことば上の発信には説得力を認めたくさせる。
 連邦制とかの決めことば以前に、列島ではとっくの昔から各地性の上で統一を成し遂げてやりくりしてきた感じだ。
 ただ意識的に、概念とかを用いて、括りを入れ込むようなことをしてこなかったために、突如近現代的概念での百科全書的分類の地表面規模の統一性を模索されて、逆に戸惑う羽目になっている面もありそうだ。
 世界各地の(欧米それ自体も含め)19、20世紀欧米勢が攪拌した多くの土地柄は、新規に立ち上げて、これから1000年、2000年、どうなるかといった試行錯誤の段階にもかかわらず、世界大での啓蒙に走ろうとさせかねない辺りは脆いし、危ない感じだ。
 産業革命と豊かな社会とのセットの将来が実際的に不安視されている一方で、19、20世紀以来を勢いの支えにしてしかも金融バブル依存に偏りすぎた現超大国の試行錯誤に付き合う地表面の人々としては、むしろそれら21世紀もリーダー的に振舞いたいし、思い込んでいる民主主義とかのある集団性についての安心・安全なありかたが、他によって踏みにじられるのではの心配性ともごいっしょな感じでの身構えの方向性も込みと察せられるので、かつては早く過ぎ去って欲しい嵐のような乱暴な連中だったかもしれない欧米勢力であっても今では共存を目指す先端になりたいという発信くらいは感じさせる辺りを大幅に過去のことをくり返さないだろうと察して、お互い様で地表面各国が、協力し合えるような、試行錯誤へ軌道修正できるなら、古代以来の歴史知見は相当に機能していることになりそうだ。(民主主義、民主制、自由の通用させ易いタイプが内包させている志向性には、氷河期以後大繁栄することになるヒト集団ならではの発想が埋め込まれてそうだ、という仮定がリアルそうであるならば、ことばにして使って魅せるようになった古さ、新しさを比べることは元々なかったことに気づけさえすると素人老人的に察する。むしろ近現代+純化発想がもたらす政治思想が片や紙上原理主義へと誘いがちにし、片や権威をおっかぶせるようなやり方でないと人々を統制できないとか秩序を保てないとか心配性に誘わせがちにしてしまう。どこでも地域の自律性とそれらの合意的統一志向の動態に慣れていれば、たとえば列島のような統一っぽいあり方も柔なりに持続性を発揮してしまう。傍目に曖昧模糊と映るとしても、それなりに1000年間程度は内部の中心勢力の意欲を保ち続かせるし各地の有志が試行錯誤・模索に応じてもくれる。列島版仏の多少いい加減さを飲み込める辺りもいい方で働いてくれたかもなどは素人のただの思いつきだけど)
 列島古代をめぐる人脈、ネットワーク論などを専門家、事情通諸氏ならではの手腕で解明してもらいたいものだ。


 時期的なものか、専門家諸氏において、将来観測が働き始めたのかどうか。
 ブルーバックスの新刊に尾上著『大量絶滅はなぜ起きるのか』、小学館新書新刊で国際通貨研究所編『イスラーム金融とは何か』が出た。
 前者は一般向けに、どういうことが考古資料から探れるかの一歩手前、その雑多でもいくつかの顕著な事象が紹介されているので、著者の流し方に流されること無く自己流に探索も可能とざっと読みからは観測してみた。
 後者については(流し飛び飛び読みの範囲でしかないが)一般の立場においてはなんとか銀行ということで一時話題になった程度のことではなく、ひょっとしたら大規模、広域ないし多段、多層、錯綜も含めての金融を整然と可能にしうるあたりがシステムとかメカニズムを説明することばとして語られてそうだった。

 


   川柳もどき

    女子サッカー中堅・ベテランたちはヨーロッパの技チーム・巨体チームと
     互角でとりあえず対する圧行使をめぐる
      からだのこなしを積極的に瞬時に発想してそうだ
     2022年U-20世代でもヨーロッパのトップチームとの試合を経る幸運を得た
      選手たちは、自らもその有効性をイメージできるようになって
      、自らがゲームの中で応用しているさまをファンの前で披露してくれている
     自分がその技、体圧によってプレーを抑制されている辺りについて
      そのからくりを相手のからだのこなし方と符合させてイメージできてしまえば
      話は簡単だけど、それと気づけぬうちは・・・
     (これからの世代の選手諸氏にとっては)
     だれかがちょっとヒント発信してやらないと、攻撃の時はいざしらず、守備に廻った時に同じ量や質での守備技、圧の行使として表現できにくいままにする
      そこがもろそのチームの守備の弱点となってしまう
      攻撃モードを邪魔されて思うように出来ない相手のプレーとしてことばに翻訳できて
       それが巧みと気づかされて、自分が守備に廻ったときに逆に応用する気になる
     そうなれば、攻守ともに、たいしたものだ、だし、ゲームとしても面白くなりそうだ
    時に体を寄せるだけでも守備の効果を発揮するし、距離をとってパスコース封じ、というケースもありうるけれど・・・
    ゲーム展開中での視野の使い方と関わってきそうだし、いつでも瞬時の判断だろう(ただし海外のトップチームからも学ぶといっても乱暴・ダーティ技まで学ぶことはないと老人的感想)
    男子代表チームのぎくしゃくは、構成メンバー諸氏がお互いのくせに精通することをどれほど志向できているかが関わってそうだ
     老人素人話をするなら
       怪我させられないように、上手たち以外の仲間の動きのくせを観察することを覚えはじめた
       すぐその応用にも気づかされれば、パスサッカーの醍醐味に近づけたかも     ベレーザチームのいくにんかはゲームっぽく溶け合ってパス回しはばつぐんだ
       時にFWのだれかが同様にパスに溶け込んでシュートを決めてくれる
         WEリーグか皇后杯の1月最終かひとつ前はそんなだった(勝った試合の方)

連載は続く~ SF掌編『年寄り過ぎてもぐもぐ、ぼそぼそ』編


 ワールドニュースを見過ぎ・・・だからかも、などぐずぐずと色々が頭に浮かんで書き込む事柄がちらかりがちないかにも年取り過ぎぃな日々の素人老人ということで、少々。
 そのノリからすると、そして介護現場の仕事を想起できてなども加えて、昨夜の能登半島地震後をめぐる時事番組の出演者諸氏から得た印象の辺りをまず書き込みたくした。
 介護を担うということではそれなりにかなりの専門的トレーニングが必須だ、というあたりは何度もかつて指摘してきたつもりの素人老人にとって、だからといって、素人諸氏が介護に不向きなようなことを強調するつもりもないことは言うまでもない。
 発想、観点さえ押さえて現場感覚を発揮できるならば、素人だろうが玄人だろうがかわりはない。
 さてその夜の番組では、いつもの熱心な司会進行役氏が色々質問してどうお考えですかノリから場を盛り上げていた。が、政治系話題には適切でも、ヒト相手の話題となるとそれも絞って高齢者相手の話題、となると、多少具合が悪くなるというか大雑把な側面が露呈しやすくなっていた。
 氏もだけど、サポート役としてのもうお一人の若手進行役氏も、出演のヒマラヤ登山の方で鳴らした氏もどうも視点の急所を極端に外した観点から事態に接近しがちにしている。
 出演者でも能登の公務系責任部署の諸氏やスタジオの医療系出身だったかの議員氏はそれなりに高齢者相手の急所を意識した言葉選びをこなされている。
 どういうことかと言うと、前者諸氏は何もしない状態でいると高齢者諸氏は落ち込んでしまうのではないかというニュアンスたっぷりの方で事態を把握したがっている。そうことばを選ぶことでなにごとかに関心を寄せているようにできると思い込んでいる。
 一方、介護知見を恐らく学んできたと思える(議員氏も含め)公務系諸氏は高齢者の気分がどうだろうが、とにかく日々、時々刻々衰えに抗うというわけではないが、個々の事情に応じた動きを生活の中に埋め込み続けないと、単純、ただただ衰えて、何かしようとちょっと動くそのこと自体がなにげにできなくなって、それゆえに億劫とかの気持ちも伴わせるようになってフレイル越えを簡単に誘ってしまう辺りの切実さを踏まえた高齢者への動きの誘い方の個別性について知見を踏まえた言葉選びがなされている。
 ここらは絶大なくらい対処の違いが時々刻々、日々として表れてしまうので、肝心中の肝心な観点だったり発想だったりする。
 とにかく大災害に遭遇して気分は滅入る方で移ろいやすい。動いてもらって気分を高揚させることも一時的には可能だろうけれど、そこらに関心を向けても移ろいに逆にもてあそばれやすくするだけだ。
 それよりも、肝心なのは、気分はともかく、ないし、肯定的に受け止めるノリから、体を使ってもらえる機会に誘える場面をとにく工夫することになる。
 普段の動きを知っている誰かが、その普段のいつもをお互いにしましょうね、とかで動き出してもらえるだけでもいいわけだ。
 そうすることで、たとえばたった一週間の拘束っぽい扱いを受けた医療系入院後の衰えをいとも簡単に誘いかねない高齢者の心身にとっては、衰えへの方向づけをなんとか緩和し続けられる。
 動きなれれば、逆に、いつものこととして、億劫がらずに日々をこなすようにそうしていてくれる。したいこと、生活への目標っぽい動因が惰性的にも思い浮かぶようになれば、自らがごく当たり前のようにして動き続けるようになる。ちょっと無理してとかの場面もありうるから、そこらは逆に周りが無理することもないのではとか、日常会話ノリの波を立てることも可能になる。自分の生活リズムが底流として脈づくようになれば、他人との距離感も保てるようになり、個々性が復活して、必要に応じてサポートできればそれでよしの状態に近づく。
 日々、時々刻々の心身の動きに誘えることないし、そうしたいのにそれを削いでしまう別の動きを観察の中で察知できた時の関心の向きからの関与として、高齢者向けに個々の事情に応じた対応が必須な辺りだ。高齢者はたった一週間のやや拘束的入院でさえ極端に衰えてしまう、という知見を共有しておきたい。


 NHKBSのドキュメンタリー番組にて、専門家筋の恐ろしいノリの辺りを紹介されていた。
 列島事情としては、賀建奎氏という特異な個性がそうさせたかのような事件として受け入れさせる報道が蔓延したので、実は・・の辺りは、余程の事情通諸氏以外はそのまま今に至っていたのではないかと素人老人は想像する。
 その実はのところを、遡った頃から取材していたソースを編集して流れとして紹介してくれたのが2022年アメリカ発の原題『Make People Better』だ。
 制作はRhumbline Media/Random Good Films/Diamond Dous
 ディレクター兼撮影がCody Shoehy
とロールにあった。
 遺伝子編集の自在さを可能にする発見を成したお一人ジェニファー・ダウドナ氏はノーベル賞を得て表向きにも超有名人となったある日、ミーティングの類を開催した。
 集まった中には知る人ぞ知るジョージ・チャーチ氏やワトソン氏がいた。
 そして問題の賀建奎氏もダウドナ氏から招かれてそこにいた。
 チャーチ氏は得意の分野の知見を披歴していた。どの遺伝子をいじれば、導入すればどうヒトの機能に変化をもたらすかのいくつかを紹介していた。
 賀氏はもろヒト胚の研究をしていた関心から、ワトソン氏に質問して、下手な英語が通じにくかったので、文字にして‟会話‟することになる。
 ワトソン、クリック両氏による発見をふまえて遺伝子操作を予見できたかの問に、イエスだった。
 操作できることをどう受け止めるかの問いには、make people better の答えだった。
 賀氏は、専門家すぎるとそうなるのかなんなのか勇気百倍状態になってしまったようだ。そういうノリの方で受け止めてしまった。そのように発言している。
 大人の交流を濃く濃く交わり続けておられる諸氏においては察しが付くだろうし、子供たちであっても、慣れた連中ならば、ある程度の察しがつくような話題だ。
 乗せられて、推移を観察されて、都合よくその後を扱われるシチュエーションを素人老人的にも読める。
 もっともっと複雑に絡み合った利害がその底を流れていたろうくらいは指摘できそうだけど、そこは素人、まったく具体的には想像しにくい。事情通諸氏の小説化かノンフィクションなどが出ているかもなど現時点では想像したくなる。
 とにかく専門家諸氏であっても市場原理優先でほったらかしにして自滅するならそうすれば良しで事態任せにしておく場合、こういうケースはそこかしこではびこって可能性の種が素人諸氏にとっての不可抗力的危険の種にさせかねないままにしてそうだ。
 介護現場では医療の専門性がそれなりに良い方で軸となる権威を機能させてくれたりするが、別の面が蔓延り過ぎると、先の議員氏タイプの貴重な発信すらが軽く流されかねなくする。


 同じ番組でも政治的時事の話題ではその大雑把さが露見しにくく構成可能になる感じだ。
 東大先端研のフェロー氏と細川氏とのセットで今話題の河野洋平氏が出演して、現話題について貴重な経験談こみでの見識を示されていた。
 河野氏が言うには、細川氏とのセットで話題になるテーマに世論が誘われ政治的にも決定事項となる方向づけに強く作用していたのは、実は、権力の集中や政治・行政処理のスピードを求める圧力系脈の押しだったとのこと。
 小選挙区制を押す圧す脈の背景にはそういう圧が作用していたということだ。
 新自由主義的経済圧を目論むのとセットなわけだ。
 そういう脈が今、実は背後で今でもノスタルジーノリからいたずらしていないかどうか。
 ある種の仕分けの目利き努力も改良作業には欠かせそうにない。
 フェロー氏は学者として、当時、政権交代が政治の腐敗防止には必要だ。そのために二大政党制は便利に使える。ならば、そう仕向ける条件付けに小選挙区制が相応しい、という理屈の筋をうっかり受け入れてしまっていたらしい辺りにふれつつ、当時のムードの絞られ方をそう鮮明に紹介された。
 そう受け止めていたつもりが、そして直面して一方に感じ取ってもいたわけだが、別のムード形成のほうで是としてしまった河野氏が、今になって振り返ればと、率直に背景を語ってくれている格好だ。
 政治話題では進行役氏はそういう話を見事に引き出しているのだけど、その進行役氏ご本人はそこに重点はおかず流してしまっていた。

 関心をもって熱心に取り組んでくれるのはありがたいことだ。けれども、その発想、観点のこともいちいち検証できるリード役は不可欠のようだ。
 夜の経済時事番組では、一カ月たった能登半島地震事情を特集にしていた。
 都立大で教授をされていた中林氏は様々なインフラ系が寸断状態であるため回復には相当な時間のかかりそうなことを指摘されていたが、その長期間を想定して、仮設住宅の類に移った能登半島住民諸氏が、規則上、そこ(最初に移った仮設)に住み続けるようになっているのを、早急に法的に緩和して、住民コミュニティー温存が個々の心身にも好作用するし、復興に好循環として作用しやすくするからと提案されている。
 一方、危機管理部門の専門家日大の福田氏は寸断ゆえの交通マヒが多くの困難を生じさせている初期が現状までを踏まえて、制約が悪循環の方で作用して初期対応や復興の邪魔をしないようにするためには災害インテリジェンスとか災害ロジスティクスの備えが必要と訴えておられる。
 ここらは素人老人観測としては、もう軍事機密が多くの場面で不要になるような交易系を育てるべきだということと抱き合わせに、衛星情報とグーグルが一般向けに使っているような3D地図化の応用で、ある程度まで現場の状況を立体的に把握できる詳細GIS応用のようなデータ駆使に向かわせたい気がする。
 とにかく軍事利害さえ邪魔しなければ、相当な情報を災害時に応用できそうに素人老人的には思える。
 ここらはパンゲア以後を生きる現生人類が、実は、その次の超大陸化に向けて動き続けている地表面規模の動きにメディア業界の事情通諸氏すら鈍感になってそうなこの時期であっても、激しく動いてる辺りを、ワールドニュースならでは、世界各地が地面を動かし、雨を降らせ、地を乾かしして激しくダイナミックな様を紹介し続けてくれている。整理整頓した自然番組とは違って、未消化なままだけど生々しく現状を伝えてくれる。時には簡単な整理くらいはして知見の先端に触れられるような感じで自然の現象を現代の人々に届けてくれたりもしている。
 その点では、地表面各地の報道とか取材とかで生に現地をつかむ人々が育ってそうなことも気づかされる。
 できれば、自然を相手にしたとき、地表が激しく長時間かけて動いて、その先で様々な生き物の種が出会い交雑して、冠進化を生じさせ、或いは、地底まで動かしその過程で、激の方の放射性を帯びたマグマ活動も生じて局所的絶滅を引き起こしたり、また全球凍結タイプの大量絶滅を引き起こしたりで茎進化の契機としたり、地球生命にとっての激動のあたりをフォロー、想起しながら、大自然と向き合ってワールドニュースでの長期間を要して為される激動を映していただければ。

 


   川柳もどき

    オフトのトレーニング本は実に見やすいつくりだ
    しかし練習時間が試合時間内という
    たとえ技が身に付いた達者そろいだとしても
     それだけで連係プレーを豊かにできるか
     疲れさせてもダメだ。わかりきっている
     パスサッカーの巧みは
     一体・・どう育てられているのか
      素人にとってはなぞだらけなことになった