連載は続く~ SF掌編『多分、各地が膨大な年月、工夫してきている・・・』編


 もやもやっと前方後円墳の頃も含めて列島古代をめぐる広域について、いかにも素人っぽく老いぼれは形、流れなど空想してみようとしていたのだけど、素人のもやもやだからたよりなげそうであり続けていた。
 魏志倭人伝という括りにして馴染みのことば使いから接しうる小冊子が、実に古い時期のことのようにすら感じつつ。
 そんな関連から岩波書店刊吉村武彦編『前方後円墳』も参考文献一覧に見て図書館にて借りて読み始めた。
 申氏の指摘にはそんな感じで接しえた。
 手元において、繰り返し読みしてみたくなる内容なことをふと感じ、ネット書店から購入。
 というわけでしばしば引用することになる。
 加耶諸国というあり方をより濃い目に意識させられる以前は、せいぜい金官国のだれそれ程度にしか即反応する範囲ではなかった。
 知らない事ごとを控えさせて素人中の素人っぽいノリで列島古代を眺めていること自体にはそう変わりはなさそうだけど、申氏の紹介によって、魏志倭人伝の頃がより身近に、いつのまにかなのだが、なっている。
 その連続性において前方後円墳の列島を想起(にしても大した材料を持っているわけではない素人老人なのだが(現時点では田中裕著『古代国家形成期の社会と交通』同成社2023年刊を踏まえることができるようになった))して、諸国的あり方が集団の営みの状態な加耶勢を前提に、列島への移住の像を(申氏の考古知見を踏まえた紹介により)イメージし易くしてくれている。
 だから、相当以前に手元に置いていた高田貫太著『海の向こうから見た倭国』(講談社現代新書 '17刊)を九州でも大宰府近辺を中心圏のような思い込みから追っていた関心において、紹介データにピンと来なかったままでつんどく状態だったのが、俄然、高田氏の関心の置き所(氏は、加耶諸国、大伽耶圏などを特集した企画展示などこなしている)に多少素人関心の範囲でだけど気づけるようになってきた。
 酒井本にて大宰府近辺仮説へは素人流に過ぎないけれど、離れて、別の可能性を探りたくさせつつ、今のところ、"権威筋(卑弥呼倭の五王~・・・)"が酒井氏仮説ないし、その探索の手法を参考に、読者独自に模索できての九州域のどこからか移動後、そして倭の五王の頃、推古の頃などどの辺りを拠点にしていたのだろうなど、考古知見の現代版、将来版を知りたくさせてもいる。
 万葉集の成り立ちの大づかみのところは、山口博氏の指摘を踏まえられれば、早急な時代考証にはなじみそうに無いことに気づけるし、まったく時代を誤っているわけではない第一巻目のごく初めの方についてはそれなりに検証対象にできそうだけど、では、模倣の時代的気運をも意識する必要のある時期の資料としてのたとえば万葉集=詩歌部門をどう解釈してみせることがより相応しいのかなどは、更に検討対象とできそうだ。
 歌内容として解釈はいくらでも可能だけど、時代検証は棚上げ状態になってしまう辺り。
 前方後円墳の時期の特異性に気づけた専門家、事情通諸氏においては、既に気づきの過程での時代検証を成されていたと察するけれど、そうではない特に一般書店とか一般の接し易い図書館経由での読書から知見を得ていた人々は、中には、異説を魅力的に感じて、有名なだれそれはきっと、他の有名なだれそれのことだという流れに乗せられがちにしてきたかも、など素人読書からはつい推測したくなる。
 けれども、申氏の指摘以来の素人老人的感想からすると、前方後円墳期前後を含む時代相(伽耶諸国と大伽耶分岐の前後を含む考古軽油の史実ヒントの辺り)について列島~半島の考古知見からする関連性と独自性の辺りに感じるところをちょっともてる程度からも、以前までの安易な関連付け不要の流れを読みたくさせると察する。
 とにかく未だにそうだと思うけれど、生々しく半島の場合は現代政治においても諸国性が露骨に激しくぶつかり合っている。南北なんていうのはあくまでも近現代の欧米利害からの産物の方で理解し易い。それよりは、史実が語るように、統一はなったけれど、列島の諸国以上に(半島)各地にしっかり物(二つどころではない)集団が育っている感じだ。近現代の趨勢はそこらの足元を見て、とばかり騒乱に誘いつつ、世界的支配につなげようと19、20世紀はしてきたのだった。
 列島では一応、日本国をお互いに認めつつを成せて、けれども各地性を認め合おうということば使いがつたないままに、だけど本音、そういう共存を望み続けてきた感じ。
 ドイツのニュースもフランスのニュースもど派手に扱っているEU体制下での農業経営の軋みの辺りが興味を惹く。
 EUが嫌われたのは、広域利用の錯覚肥大だったと想えるけれど、列島では軌道修正が地道にはじまっていて、貿易依存の農業とかUS農業形態からの圧に引っ張られて失敗し続けてきたことを多分、踏まえられるようになりつつありそうで、各地の工夫込みでの自律経営の意欲を封じない世論工作誘導の逆の方向での各地農家の工夫努力の辺りを応援するような感じになっている。農業をある種の工場的に営む工夫も含むけれど、多くは、その発想に偏ることなくと察せられる。ヨーロッパ(ニュースではフランスのだけど)の、大きなトラクターを駆使しての農業経営だけど、それでも主な農生産物消費は地元産ので成り立つ農業をフランス政府は採用すべしで頑張っている。その巨大トラクターでだと、農の規模もそれなりかも、で多少、素人的には心配だけど、US的に貿易無しには成り立たない規模に育ててしまうくらいならば、EU圏の広域での扱いになることも避けにくくさせそうで、微妙な感じにも受け取った。ただ、農はできるだけ"地産地消"の巧みの方で基礎を築けたほうが万が一の場合、他所の土地を助けられるし、いつもは、新鮮、安全チェックこみでの食を楽しめそうだ。その脈絡からフランス農民のことば上の発信には説得力を認めたくさせる。
 連邦制とかの決めことば以前に、列島ではとっくの昔から各地性の上で統一を成し遂げてやりくりしてきた感じだ。
 ただ意識的に、概念とかを用いて、括りを入れ込むようなことをしてこなかったために、突如近現代的概念での百科全書的分類の地表面規模の統一性を模索されて、逆に戸惑う羽目になっている面もありそうだ。
 世界各地の(欧米それ自体も含め)19、20世紀欧米勢が攪拌した多くの土地柄は、新規に立ち上げて、これから1000年、2000年、どうなるかといった試行錯誤の段階にもかかわらず、世界大での啓蒙に走ろうとさせかねない辺りは脆いし、危ない感じだ。
 産業革命と豊かな社会とのセットの将来が実際的に不安視されている一方で、19、20世紀以来を勢いの支えにしてしかも金融バブル依存に偏りすぎた現超大国の試行錯誤に付き合う地表面の人々としては、むしろそれら21世紀もリーダー的に振舞いたいし、思い込んでいる民主主義とかのある集団性についての安心・安全なありかたが、他によって踏みにじられるのではの心配性ともごいっしょな感じでの身構えの方向性も込みと察せられるので、かつては早く過ぎ去って欲しい嵐のような乱暴な連中だったかもしれない欧米勢力であっても今では共存を目指す先端になりたいという発信くらいは感じさせる辺りを大幅に過去のことをくり返さないだろうと察して、お互い様で地表面各国が、協力し合えるような、試行錯誤へ軌道修正できるなら、古代以来の歴史知見は相当に機能していることになりそうだ。(民主主義、民主制、自由の通用させ易いタイプが内包させている志向性には、氷河期以後大繁栄することになるヒト集団ならではの発想が埋め込まれてそうだ、という仮定がリアルそうであるならば、ことばにして使って魅せるようになった古さ、新しさを比べることは元々なかったことに気づけさえすると素人老人的に察する。むしろ近現代+純化発想がもたらす政治思想が片や紙上原理主義へと誘いがちにし、片や権威をおっかぶせるようなやり方でないと人々を統制できないとか秩序を保てないとか心配性に誘わせがちにしてしまう。どこでも地域の自律性とそれらの合意的統一志向の動態に慣れていれば、たとえば列島のような統一っぽいあり方も柔なりに持続性を発揮してしまう。傍目に曖昧模糊と映るとしても、それなりに1000年間程度は内部の中心勢力の意欲を保ち続かせるし各地の有志が試行錯誤・模索に応じてもくれる。列島版仏の多少いい加減さを飲み込める辺りもいい方で働いてくれたかもなどは素人のただの思いつきだけど)
 列島古代をめぐる人脈、ネットワーク論などを専門家、事情通諸氏ならではの手腕で解明してもらいたいものだ。


 時期的なものか、専門家諸氏において、将来観測が働き始めたのかどうか。
 ブルーバックスの新刊に尾上著『大量絶滅はなぜ起きるのか』、小学館新書新刊で国際通貨研究所編『イスラーム金融とは何か』が出た。
 前者は一般向けに、どういうことが考古資料から探れるかの一歩手前、その雑多でもいくつかの顕著な事象が紹介されているので、著者の流し方に流されること無く自己流に探索も可能とざっと読みからは観測してみた。
 後者については(流し飛び飛び読みの範囲でしかないが)一般の立場においてはなんとか銀行ということで一時話題になった程度のことではなく、ひょっとしたら大規模、広域ないし多段、多層、錯綜も含めての金融を整然と可能にしうるあたりがシステムとかメカニズムを説明することばとして語られてそうだった。

 


   川柳もどき

    女子サッカー中堅・ベテランたちはヨーロッパの技チーム・巨体チームと
     互角でとりあえず対する圧行使をめぐる
      からだのこなしを積極的に瞬時に発想してそうだ
     2022年U-20世代でもヨーロッパのトップチームとの試合を経る幸運を得た
      選手たちは、自らもその有効性をイメージできるようになって
      、自らがゲームの中で応用しているさまをファンの前で披露してくれている
     自分がその技、体圧によってプレーを抑制されている辺りについて
      そのからくりを相手のからだのこなし方と符合させてイメージできてしまえば
      話は簡単だけど、それと気づけぬうちは・・・
     (これからの世代の選手諸氏にとっては)
     だれかがちょっとヒント発信してやらないと、攻撃の時はいざしらず、守備に廻った時に同じ量や質での守備技、圧の行使として表現できにくいままにする
      そこがもろそのチームの守備の弱点となってしまう
      攻撃モードを邪魔されて思うように出来ない相手のプレーとしてことばに翻訳できて
       それが巧みと気づかされて、自分が守備に廻ったときに逆に応用する気になる
     そうなれば、攻守ともに、たいしたものだ、だし、ゲームとしても面白くなりそうだ
    時に体を寄せるだけでも守備の効果を発揮するし、距離をとってパスコース封じ、というケースもありうるけれど・・・
    ゲーム展開中での視野の使い方と関わってきそうだし、いつでも瞬時の判断だろう(ただし海外のトップチームからも学ぶといっても乱暴・ダーティ技まで学ぶことはないと老人的感想)
    男子代表チームのぎくしゃくは、構成メンバー諸氏がお互いのくせに精通することをどれほど志向できているかが関わってそうだ
     老人素人話をするなら
       怪我させられないように、上手たち以外の仲間の動きのくせを観察することを覚えはじめた
       すぐその応用にも気づかされれば、パスサッカーの醍醐味に近づけたかも     ベレーザチームのいくにんかはゲームっぽく溶け合ってパス回しはばつぐんだ
       時にFWのだれかが同様にパスに溶け込んでシュートを決めてくれる
         WEリーグか皇后杯の1月最終かひとつ前はそんなだった(勝った試合の方)