連載は続く~SF 掌編『(秋の夜長)今頃考える近未来』編


理念的には一般の巷生活での恐るべき個々性というごく普通の生活のあり方から公務員としての姿勢を踏まえたあり方までの幅を想起できる。
宣伝発信が濃い目に機能しやすい現巷環境という(時代的)特殊事情を考慮しても、各家庭で日々利便的に形成され続ける個別性の圧が有意に働いてその形を成す。
そういう個別性を内に秘めた個々が仕事場でごいっしょする、というのが今時の他者が集う場の姿とざっとは指摘できる。
だから馴染みの動物たちならお互いの尻の匂いをかぎあったりで近さ加減を確かめ合っているような振りをヒトの場合だと、それぞれの一見生な個別習慣を漂わせるなにかしらを共有しあう機会を持つことで確かめ合ったりしている。
そこで通常においては密かにながら、力関係などが意識され合って、オピニオンリーダー的に振舞う部分と従う部分とが第三者的には観察されるような集団の営みが成立しやすい。
一応仲間内を形成しておいたほうが良いとされる集団性が意識されやすい塊とそうでない塊がそこにありうるような仕事の場では、そうでない塊がたとえば介護施設の入居者集団だったりすれば(もちろん内輪人脈に介護職のだれかがいるとかの場合は例外が生じる)、その集団にとっては不利な状況を持ち込まれやすくする。
そこを理念的公務員のあり方が制御しようとしてずっと育てられてきたわけだ。
差別の類がもちこまれにくくしておく。強圧的な指示系統が法治の下で厳格に制御的にしか使われない、とか。
理念的な理想型へと近づくにつれ、その解釈の問題が立ちはだかるので、この場合なら、理念的公務員的あり方での振舞いへと近づくにつれ、ただ融通の利かない、現実対応において劣るような形だけのあり方になりかねないし、そうでないかもしれない。
ただ言えることは、個別性生活を引きずってその馴染ませ合いのところで思考停止させてしまうと、そのつけを施設の老人諸氏が負うというようなことが意外に簡単に起こりやすいのだ、ということに気づけるせめてリーダー層がいつでも育っている列島介護事情であってほしい。
地域社会でのゆるい連帯感めいたつながり感を持つ体験的機会すら皆無の育ち環境を経てきた人々がほとんどになってきた世の中だと、そのゆるさ体験抜きの落とし穴をしょっていること自体にも気づきにくいと察する。
ゆるい信頼のネットワークを作りにくくしてしまう。
ここらは自由の国の試行錯誤の19、20世紀版を引き受けたUS事情を参考に出来ると素人は今でも受け止めている。
素人考えに過ぎないけれど、階層的あり方が厳格な責任の重さの持ち合いと抱き合わせで成り立っていたのが列島事情かも、と押さえられるなら(と一応仮説的に持ち出している)集団の営みの試行錯誤にとっては、その営みとしてのバランスの論としてどう機能させえていたのかなど熟慮が要る、と指摘できる。
ただし、時代物ドラマでお馴染みの階層ゆえの仕事占有のような事態が通常でその間の人の行き来は不自由だったとか、仕事に限ってのその場での力量発揮を志す人々の意欲をそぐようなことが固く機能していたとするならそれはそれで集団の営み上不都合だったと想像できる。
しかも時代物のドラマだとその階層次第で上下的な威圧的振る舞いがまかり通るようなことが起こりがちだったとするなら、集団の営みにとっては本末転倒な事態だ。
けれども、均して、だれもが馴れ馴れしく丁寧ことばを使い分けられない世の中、巷の不自由さをかもすようになることも、集団の営みとしては不都合、と思えないか?
いつでも内輪とは限らないからこそ、列島のこの狭い集団性においてすら他者の丁寧な対応を態度でもことばでもお客としての他者として育ててきたし、馬鹿丁寧なことば使いに熟成させてしまうどなたかたち的脈も尾ありかとは思うけれど、それはいつでも列島においてはローカルな流行の連綿には違いない。巷でそうはしてこなかったことがなによりの証拠だ。しかも丁寧に旅人というか訪問者にことばかけし、態度を示すことは決して忘れてこなかった。ここらが、地域社会のゆるさ体験を欠く膨大な人々にとっては記憶から抜け落ちている事象に違いない。
だから仲間内を作ることに精を出し、仲間と意識されないだれかたちには実質相当に危なく振舞えるようになっている。この趨勢と仲間として被災者を救えとが相反すると思えるならそれは勘違いで、一応空気(だれかしらが恣意的にこしらえたはずだ)の形成上、仲間とみなしていると察知してその仲間との交流という発想に、膨大なやってきた世代、人々は漬かっていると察する。
このことは列島状況としては脆弱性の強力な一つとみなせる。
ゆるさ(だからある種の自由度を共有しあえる)を欠いて、内外を意識することの、心の狭さを内在させている事態は、ヒトにとってもいいことではない。生活習慣病の元となりやすい。
力で介助されやすい環境下の施設のお年寄りの拘縮の一原因をそこらと以前紹介したように、お年寄りはその力への反作用を体で表現する。それが力を入れての防御態勢ということになる。許し合ったからだのもたれ合いの場合、その重さが相当と感じ合えるし、だからこそお互いが動きに添うようにして同期の旨みを得る。
そういうことが無く、むしろ固体を動かすような不具合の事態に近い。
その力の抜き加減がいつのまにか抜けきらない惰性となってこわばりがむしろ固定的になってしまう。普段の、寝ているときの、そういう長い時間取る姿勢を観察してみるといい。自分たちの介助の力の加え方がそこに鏡のようにして表現されている。
ここらをお年寄り諸氏が踏まえられるなら、家族による、施設介護職による介護、介助を受け続ける際、どういう注意をしておけばなんとか良好な状態で年を取っていけるかどうか、参考にしてもらえるのではないか。
介護施設での老後生活は実質のところ現場で直に触れ合う介護職お一人お一人次第のところが極端に濃い。その技量次第、ということだ。
資格でどうこうは言いたくないけれど、同じ資格を取らせるなら、しっかり熟す教育をしておかないとその先困ったことになる。それくらいストレス管理の難しい職場には違いない。

新型コロナウイルスが騒がしている。
その影響が世の中の営みにすら達してしまった。
でも、だ。素人はこう考えている。とにかく早く、”インフルエンザの猛威”を”毎年”のようにこうむってきたにも関わらずそれにめげないヒトの営みを育ててきたのだから、騒動に早く慣れて、この場合、新種らしさをしっかり区別的に押さえて、そこに対処することと並行して、いたずらに踊らされずに、インフルエンザ流行時のおざなりな新規感染になる世代や免疫弱体な年齢層や体調層への対処をもう少し今回の騒動時の接近法を参考に丁寧にできるようにして、新アイデアの中で採用していきたいのはそうして、とにかく早めに活動状態を復活させていきたいね。
ぎゅう詰め状態でもかまわない鑑賞形態を受け入れる人々もそれを拒む人々も同じようにある舞台也を楽しめるような興行のあり方を是非模索してもらいたい。
すごく有名で、すごく立派で、すごく厳かで、のような舞台なのに、客席がぎゅう詰めだったりする放送映像には馴染んできたけれど、素人の一人はなぜかいつでも違和感を持ち続けている、ということもあるわけだ。
ここらへの知見の一つは一尋間隔が大事ということ(お茶の場でこれを試し続けるといい)。
究極に近い面倒な状況をグローバルに生じているときに、ベーシックインカム概念を即採用できるような既存の準備システムの有無は相当にその後を左右するはずだ。
それは臨時採用であり、状況次第で中止する。その持続力によって次の展開は可能になっている。戦時の農地の育てながら保つのにUSはしっかりライアン二等兵を命がけしてまで探しにいっている。農地に限らないけれど、その後にとっての今の保持に最低限の条件を見いだしてそこは確保し続ける方法をすでに編み出している。
戦時は極端な例だし、これからはそういう事態ではないだけどヒトの集団の営みにとって不都合な重大事には備える必要が同様に想定できる。
経済の営みについて元になっているような一面をリアルには把握できていないまま経済の学をまとめようとしてきたかもしれない。
今はスパコンとその計算のためのモデル作りに慣れてきている。
実際にお金がどうめぐってしまうのか。ヒトの性質を知らなくてもそのリアルな様を計算描画できれば、それこそが経済に影響しやすい濃い一面と指摘可能だ。
一人ひとりの支払い手段なりクレジット払いなりが実際にどう動いてしまうのか、大口のことは熟知されているかもしれないが、ヒトの生活密着型での支払い手段の流れをかなりの量について把握できるなら、それ自体が思い込みの通りだったのか、想定経済学と同様だったのかとか心理学と同様だったのかとか、それを無視したほかの指標での操作で十分なのかとか、が判明してしまう。
貿易商品が膨大に絡むからそれなりに膨大なネットワーク的流れでの計算となる。結果数量であるより流れ自体にも関心が行かないとまずい。
いつでも経過だから。
お金をどんどん刷らせるけれど、やたら貯めこんで使わない部分が明確になってしまうかもしれない。
細々系は貯めはするけれど、いつでも使い続けている。そこはハッキリしている。
だから別の脈々のどこかだ(それくらい巷には莫大な量が出てしまっている。帳尻あわせしながら、細々とというようなことをして来なかった金融の世界を生じさせてきたのだから、そこは謙虚に認め合わないと、というかその先の問題群にどうしましょうか?の状態が続いている)。
ここらも踏まえて抜き差しなら無い事態にも市民社会試行錯誤の方からは基本の生活資金は保つ会うぞ、というような準備精度を準備しておいて、万が一を支え合って、その次のステージの要員を絶やさない。
コロナ騒動でこういう発想も可能になった。
有機農業的意味合いでの有機ではない可能性のある石油資源からその蔓延することの危なっかしさを素人は感じるのだけど、石油使いを制限していこうという向きも生じているようだ。
材料としての石油資源が膨大に普及してしまっているので、極端なことはできそうにない。
でも石油以前を江戸時代とかのイメージで想像できる列島という事情を他の諸国も持っているはずだから、きっと上手く代案を成功させると思える。

ただ2050年以後問題、例の丸山氏の食料の問題だけど、そこは本当にグローバルに緊張感を失わないように氏ながらクリアできるといい。表向き暢気。だけど準備までの大変さと実践中の緊張感を失わない裏方の膨大な担い手諸氏のやりくりがそれを支える格好というのは格好良すぎるかどうか。

自分ですることの内容が生活ばなれしてしまっては元も子もない。
どういうことかというと、色々な情報処理がしっかり整備されて、たとえば天気予報がやたらと良好な情報を適時発信するようになると、何もすることがなくなるというか、逃げるならそのタイミングは他人任せに近くなって、ほとんど自分の体、身近なだれかの体のことなどほとんど考慮無く指定どおりに動く慣れに流れやすくなる。これはこれまでの便利になった列島事情での諸々ニュースから知れる。
生活密着発想なら、何をどうするとどうなるとかの関係性の網の目を即イメージできて対処行動の諸々とともにの時間を得るのに、ほとんどを略すことができて、必要な何かをして済ますことが出来てしまう。そういう心身のヒトが出来上がってしまう。それらが世代として伝わり続けるとその先は遺伝しているかのような当たり前に生じやすいことになってしまっている。歴史を学びなおして、え?!ってな事態になりかねない。
けれども、わざともったぶる発信手法もまた問題を生じさせかねない。啓蒙の試行錯誤は大変なことだ。