連載は続く~SF掌編『ちょっと寄り道、安保氏の知見引用』編




安保氏の3点に目を通して見た。
①『人がガンになるたった2つの条件』('12 講談社α文庫)既出本加筆、再編集
②『大往生できる生き方できない生き方』('13 PHP文庫)既出本加筆、再編集
⓷『放射線ホルミシスで健康長寿』から”免疫と放射線”の章('16 実業之日本社)新著
この頃には、安保氏はワールブルク効果に依拠して氏自らの仮説を展開しようとされている。
②においてp66のところで
(引用開始)
”交感神経が緊張するような生活とは”
(引用終了)
(中略)
(引用開始)
”ストレス解消もなかなかできなかったりするような「きつい生活」のこと。以前の私は、こうした生活が顆粒球を増やし、分裂サイクルの速い上皮組織におしかけた顆粒球から活性酸素がたくさん出て遺伝子異常を起こしやすくすると考えていました。”
(引用終了)
(中略)
(引用開始)
”しかし、がんの発症にはもっと本源的な背景があるのではないかと考えるようになり、次のような仮説に思い至ったのです。”
(引用終了)
p67で
(引用開始)
”がんというのは、過酷な環境下でミトコンドリアが生きづらくなったときに、本体細胞が先祖返りを起こして分裂し始めた現象である――。”
(引用終了)
組織というより、まずは細胞ということで押さえられること。
細胞内でのミトコンドリアの作用系との絡みであること。
とふれたところで、放送大経由での生き物細胞におけるエネルギー代謝についての新知見がより具体的になりつつあることの詳細を素人が未だ整理しきれず、ここではふれられないことを指摘しておきたい。
またリン・マーギュリス氏の説へ東大の佐藤氏が『細胞内共生説の謎』として新著を出されているのに、それにも未だ目を通さずに、安保氏の論を経由した話にしてしまっていることも指摘しておきたい。
安保氏は氏の仮説の基礎にワールブルク効果からの気付きを何度も指摘されている。
このワールブルク効果についてはネットで簡単に詳細を調べることが可能になっている。
まずは引用から
ワールブルク効果のウィキベディアページからリンクをたどることも可能。ハイパーリンクならではの効率的接近が可能になる。

https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1931/warburg/biographical/ にて

(引用開始)
”He has shown, among other things, that cancerous cells can live and develop, even in the absence of oxygen.”
(引用終了)と紹介されている。
原論文は以下から

24 February 1956, Volume 123, Number 3191 SCIENCE
http://www.succesboeken.nl/mailings/wk1633-12aug/5-Warburg1956Science.pdf

そこらを列島の医学系諸氏も受け止めて”昨年Scienceに発表された論文”とふれつつ座談会など開いていた。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/joma1947/70/12supplement/70_12supplement_143/_pdf
特別座談会Warburgの「癌細胞の起原」に就いて (岡山医学会雑誌、Vol. 70 (1958) No.12)

だからこそ安保氏は低酸素、低体温、高血糖状態を問題にして、そうならないための方法を紹介し続ける。

老化してそういうことも自らにおいてできにくくなる段階がだれにもやってくる。そういう寿命とか太田氏流には天寿とかがありうるわけだ。

免疫のある面での正論からする敵味方っぽい捉え方としての敵方のがん細胞ということはありえそうにない、という知見だから、免疫に委ねられないかというと、そういうことではない。ただその場合の免疫の機序としては自己にさえ向かってくるバカな免疫とも違ってミトコンドリア系が活発化することが自ずからがん細胞の持続にとってはとても不都合な環境になるといったものだ。体の免疫系が良好ならば持続的に大変な状態をいつでも免れているとも言えるので、ブロスたグランジンが働くタイプの負荷も次の安楽への一過的苦痛として押さえることができたりする。ミトコンドリア系が本体遺伝子に細胞分裂し易いのとは逆の効果となる遺伝子を持ち込ませたのでは、というのが、がん化しないミトコンドリア優位の状態の細胞の活性状態、と安保氏は見ている。
だからノーベル賞受賞者間でもサイエンス知見をめぐる素晴らしい方の切磋琢磨を生じさせ続けていることになる。





君:映画の話は止めたの、かしら?
私:ちと、寄り道したくなったニュースが流れたもので。
君:ということは、映画のことも同時進行?
私:うん、パソリーニ氏のことも改めて、気づけた気がしてきたんだ。時事問題とも絡めた感じはするけれども、一歩踏み込んで、ヒトはやはり生き物だし、体積とか重量とかと考えたり感じたりとか生きてるそのものが働いた状態で生きてるわけで、それをもてあまして知らんぷりして、極端な、だけど通りの良い人間みたいにふれてしまう普通へ映像の力を借りてオルタナティヴ快進撃が始まっていた時に事故に会ってしまったように、今は思える。映画の作り手はいつでもオルタナティヴ感受は突出しているので、きっと昔からパゾリーニ氏を応援してきた人々はそれに気づいてたのではないか、とか勝手に想像してしまうよ。
君:へぇーっ、パゾリーニ、って名の、役者?なに。
私:監督、さ。結構、晩年に近づくにつれてどぎつい、というか濃いめ、というか。単純に比喩表現にしたようにも受け取れるし、それでは収まりそうに無いはずだ、とも思えるし。そこらは『テオレマ』辺りがヒントかも、なんて、勝手に想像したりして。
君:と、いうことは未だ、見てない、の。
私:レーザーディスクでいくつか見た覚えがあるんだけど、NHKのBSでも放送してた、な。それとネットで粗い画像でなら『豚小屋』なんて、全編を見ることができる。個々のエピソードとしてなら単調な比喩表現での批判的扱いっぽく済ませかねないけど、全体として押さえようとすると、はみ出す、っていうボク流の言い方になってしまうけど、そういう溢れ感のある映像から受けるなにかしらに気付きたくさせる、よ。この間、ゴダール氏の映画にふれて、初対面ということばを使ったけど、ズルさを発揮することへ、謙虚さはどうにも対応能力を持てないのかどうか、ということはいつでもふれとく必用を指摘できるんだ。自分へは理解しづらいことをめぐっての謙虚さを求めて、相手へはこんなこともわからないのか、なんて結構ごうまんかます連中っているもので、そういう場合の不釣り合いの問題なわけ。或いはどうせわからないのだから、ほどほどにしておこう、っていう態度で、ことばの可能性をはじめから断ってしまうタイプも、やはり困りものには違いない。
君:・・・分かり合うべき、っていう、話、なの、かしら。
私:多分、違う。けれども、言い換えると、・・・わからないことをどう気付きあえたり、一応わかりあえそうなところに気付けたり、そうできることで、お互いのわからなさ加減に気付けたり、どの程度の分かり合いで上手く行けそうかに気付けたりとか、それがほどほどでいつも良いっていうノリではなくて、こだわってみたいことの探り合いの中で、なんとなく口論めいたのも楽しめたり、穏やかに話を詰めることにも挑んでみたり、形式的に厳密さを試せてみたりとか、そこらの試行錯誤の場を共有できる、ごく少数、一人でもいいし二人でもいいけれど、そういうことが少なければ可能になるし、やりがいはありそうだ、ね。
君:そぉ、・・それなら・・少し、安心したか、な。付き合えそう、よ。
私:ありがたい。じゃ、散歩、だ、ね。
君:あら、そっち?・・いいわ、よ。行きましょ。
私:それとも、エイガ?観る。
君:映画、は、遠慮する。散歩、でいいじゃない。少し、寄り道、しても、いいわ、よ。
私:行く前に、キミの頬にふれて、いい?
君:なによ。そういうことって、散歩しながら、雰囲気で、そうするもの、でしょ。ダメェ!
私:嬉(うれ)しがるべきか、それとも・・・。
君:油断しない、ことに、しよっと。
私:そう、くる?・・とにかく散歩、散歩。
君:そうよ、そうよ。行きましょ。ふふっ。