連載は続く~SF掌編『水和とリン酸が関わる話』編




たとえば
ATPの図式
      O   O   O
      ||α  ||β  ||γ
アデノシン―P―O―P―O―P―O-
      |   |   |
      O~   O~   O~

 (注)O~はマイナスイオン
    P―Oは結合||も同様

ストレスのハンス・セリエ氏の説の脈絡から知ることになった杉氏の著作で最新の『筋肉本当にはすごい』のp60の図と文を参照されたい。
図2-1(B)にATPからγリン酸が外れる時化学エネルギーが発生する。と指摘される。
ここらは氏のというよりも通説となっている指摘に当たる。
そういう状況について『生物物理』誌50(2)、p94-95 (2010) に児玉孝雄氏が”ATPのエネルギーとはなにか?”として簡略に紹介されている。
(引用開始)
「生命系におけるエネルギー需給ダイナミクスの媒体分子であるATP(アデノシン三リン酸)をはじめとするいわゆる”高エネルギーリン酸(~P)”化合物の加水分解反応の大きなギブズ(自由)エネルギー変化(ΔhydG)の起源に関して、古くから静電反発説や拮抗共鳴説が提唱されたが(図1)、最新の理論計算をもってしてもの定量的説明にはいたっていない。しかし、生体エネルギー変換(化学エネルギーの相互変換、運動、輸送などの仕事への変換)の真の分子論的理解には、この問題を避けて通ることはできない。」
(引用終了)
続けて、生命分子は水中に存在し、水と相互作用しつつ、他の分子との相互作用によって機能する。~P化合物もこの例外ではない。などと指摘されて、1970年文献でのGeorge氏の指摘を紹介している。
(引用開始)
「~P化合物の加水分解反応系が多数のイオン種で構成されていること、イオン、とくに多価イオンの水和が、エネルギー的に共有結合を凌駕するほど大きいことに着眼し、’反応系と生成系の水和エネルギーの差’がΔhydG°の値に大きく寄与している可能性を実験、理論の両面から示唆した。」
(引用終了)
そして松林氏に関する報道記事やネット発信がすぐに見つかるはずですが、ここでは平成29年3月28日付けの東北大学大学院理学研究科・工学研究科によるネット発信記事から少々引用して、一応の整理の段階を示せそうだ。
短い文章なので現物を参照するのが一番。
それでも部分的に引用紹介してみたい。
(引用開始)
「1960年代まではATPエネルギーはATPイオン自体の分子構造に内在するものとされ、その高エネルギー性を量子力学計算により説明する試みがなされましたが、実験値を定量的に説明することはできませんでした。1990年代に入り、水の影響を連続体として取り入れた量子力学計算がなされたものの」
(引用終了)
ということで東北大の高橋英明准教授や京都大の松林伸幸教授の計算に関わる基礎固めによって、量子力学計算が可能になった。
参照資料の最後の方、計算によると・・・の続きにざっと目を通せば
イオン価によらずほぼ一定の値になることの微視的メカニズムが初めて明らかにされました。と明解に指摘されている。

一方、リン・マーギュリス説への検討研究の佐藤氏の本の結論のところを早速目を通して見たので、ほんの少し紹介。
マーギュリスチームの独自な研究というよりは他の膨大な研究の成果をまとめて、細胞内共生説を啓蒙できてしまったことの貢献の方で凄かったように、佐藤氏は押さえておられるようだ。肝心の細胞内共生説についてもステレオタイプな理解は研究の今後に迷惑そうで、遺伝子の入り込みなどの膨大な経過、変転の辺りをもっともっと微細に啓蒙できていた方が良さそうな指摘だった。





君:似てる?
私:似てる。ベジョ氏はキミにかなり似てる。
君:ふーん、そぉお。
私:だからシリアスっぽい一方で笑いのある内容の作品がきっとぴったり、って勝手に考えた、よ。
君:ふーん、そぉお。
私:いそがしい?
君:いつもの、こと、よ。
私:太田氏が強めに指摘してたことなんだけど、いかにもモナドっぽい方へ個々性を尊重し合える状態の要素イメージを近づけるならそれは間違っていると。
君:?!なによ、急、わからない。・・・モナド、って、それもわかりにくい、し。
私:とりあえずある文献読みの範囲では通じやすいことばたちなんだ。で、個々性を保ちあえることの貴重さ、と同時に、その個々ということの内実をめぐっても問題はおおあり、ってことが伝われば。そこにヒントになるかどうかということで言うなら、バタイユ氏の自分だけわかってどうになるってものじゃなし、のニュアンスとか、フーコー氏の自らが埋没してだれでもないような位置にしっかり個々性として居ることの指摘とか、啓蒙の線のフランス思想では相当以前から気付かれていたみたいなんだ、ね。それとは長い説明を要して関連を指摘できると思うけれど、党を抜けた抜けていないとは全然無関係に、どこかしら政治系の専門集団に属すような人々にも新世代が既に育ってしまっている、と気付かされた。筆坂氏の新書を何冊か読んでみたんだ。そして気付けた。もう個々性抜きには知識系はありえない。そういう気付きを経た世代が実は今の政党にごっそり育っている。ことばとか弁証法役割分担圧が働くからなかなか、リアルの事態に反映しづらいかもしれないけど、実際のところ、もうとっくにそうなっている。だから安心、と慢心はできないけれど、とにかく思い込み過剰系では居られない内面が育っている。だから列島の政党政治についても相当な換骨奪胎がありえる。政党政治という欧米啓蒙の線のところまで換骨奪胎の療治ができるくらい啓蒙の行き渡りができているかどうかは未だよくわからない。といって政治は形になっていないことへの挑みも背負ってる分野のはずなので、そういう感性は秀坂氏世代でも未だ、と言った感じ。それは沖縄をめぐる鳩山氏への見解が指標にできて、そう政治素人からは指摘できるように思ってる。
君:ありがとぅ。長々と。お茶、飲みたいわ。
私:ヴェトナムコーヒー?でイイ。香り。ギターも・・。なんて。
君:駄洒落ぇ、おやじ、の、ギャグぅ・・。ん、もう。仕事中断、よぉ!
私:少し、待っててね。
ということで続く。