以下のようなことに時間を費やし、年末恒例の賀状書き停滞中、ということで届けばの話だけど、遅れることを心で詫びつつ、本題へ。
防災、というより被災時グッズの類についての推論。
とりあえず甲南大の奥田和子氏*1(ほかに料理研究家の坂本廣子氏*2)のラジオ深夜便での発言を参考にした上で。
①電気はおよそ1週間で回復する。(千葉での大停電は2週間かかった)
②スーパーなど運搬流通を含めて1ヶ月くらいして営業再開する。
③ガス網、水道網の復旧には2、3ヶ月かかる。
これらから
エネルギー源(晴天でソーラー発電器具がうまく機能する、とか、燃焼系発電装置、とかは想定しない条件の下)である乾電池、カセットガスの数量を一週間分想定で試算可能。 一ヶ月すると現金等(支払い手段)が物を言うようになる。
ただし肝心の水は給水車等が頼みという状態が継続している。
そこで一般化できるような表現を用いるなら、
その時に使える状態にしている(現状で非常用に確保できているとか日常メンテナンス十分な状態で使いこなせている道具の中で)乾電池やカセットガスで使える道具の一覧を用意する。 それらが一台一台いくつ乾電池、カセットガスを必要とするかを押さえる。
・・・・・Ll(L:各道具名、l:数字、Ll:各設置時の数量)
一台一台にその乾電池、カセットガスの量でどれくらい時間もつのか、を押さえる。 ・・・・・Lm(Lm:使用可能時間) 1週間想定だから24時間×7日間で一台当たり168時間を押さえる。
・・・・・Ln(1週間各機器に必要な量、n:数字、Ln=Ll×168÷Lm)
更にn個分の和が必要総量になる。(Lnでnについて1からn個目までを合算)
例えばカセットガスなら
電気回復すればIH器具など直ぐに使えるようになるけれど、それまではガス器具が重宝。
調理器具一台が一日三食として、湯沸しと簡単な調理で一日二本と節約できたとする。
またたまたま寒い時期でキャンプ道具として人気らしいアラジンの小型ガス暖房なら強火使用でおよそ1時間30分/カセットガス一本(弱火で4時間位、で我慢して一本のみ)。
ということで、
カセットガスの場合
2本+1本が一日分。すると単純に一週間分が計算可能。
3×7日で21本常備できていれば、万が一になんとかなる計算。
さて乾電池。こちらは機器が種類も豊富に日ごろ準備されがちと察する。
ひとまず一覧を作ることをすすめたい。
頭に浮かぶのは照明器具。
ランタンや懐中電灯は必須として常備されていることでしょう。
それにラジオやパソコン(以下PC)。
ラジオは広域での進行中の事態把握のために参考になる(しかしその程度のはず)。
通信による情報交換や自ら探る情報ツールが要る。それをPCやスマートフォンの類が一応役立てられる(通信網が障害されてしまうと、困ることになる)。ミニFM局はこういう場合、役立つ。行政の準備でもいいし(これだと情報の入りのルートは築きやすいと想定できる、その情報をFM波から入手できる)、周波数を広めつつの有志によるものでもいくらでも代替は可能だ。商用の広域タイプは先の通り。
ランタンには”単”いくつのを何個要るか。そしてどれだけ時間がもつのか。
懐中電灯も同様に計算する。
ラジオも同様。
PC系は事前に充電していた分を使い切る形になりそう。
*ソーラータイプ、自家発電タイプでの充電機器も出回っている。
とりあえず照明とラジオに限って想定計算。
単nそれぞれについて個々の機器ごとに数量を押さえる。
個々の機器ごとに使用可能時間で一週間の168時間を割る。
そして掛け算と足し算。
単1から4あたりまで細かく正確に最低必要量を計算できる。
一週間だとそれなりに常備に無理のない数値がでるはず。
それらをカセットガス同様、陳腐化しないようにローリングストックっぽく消化しつつ充填し続ける。
*1*2:両氏は神戸の震災を経験されその後の経験も織り込んだ知見を広く発信してくださっている。
介護施設での仕事生活から、頭寒足熱知見が老人諸氏になるまでに体的に習慣付いていると体の心配の幾分かは避けうると予想できる。
折角の列島版漢方が薬多用への警戒心を解いてしまいがちにするとのことで、体をとことん多量のくすりを常用して疲弊させてそうなこともなんとなく頷けてしまう。
特に介護の世界では地道に指摘されている割に改善が進んでいないようだけど、薬剤性の諸病状や精神科系の薬剤による転倒を含む体調不調持続など。ここらは薬大好きな(世代とか・・・)ということで、ご本人次第のところがある。
くすりの場合、薬品間の”政治”が絡んで評判争いが生じがち、だけど、それはそれとしておけて、むしろ安保知見のような欧米系の近代化の知見を踏まえたたとえば消炎鎮痛剤系ならば多くが(プロスタグランジンの機序に作用するタイプなら)血流阻害に通じるとかでその危うさを指摘できる、という理解が要る。一般的機序として対処療法に偏ったタイプならば、解熱はその個々の体力と発熱継続での消耗との相談の上で、無理のない解熱を探られるより専門的な対処のはずだけど、結構、お手軽手法にして乱用されがちだ。
つまり自力(免疫の作用)のなんらかに任せられる度合いを探ることなく、やみくもに、のやり方にしがち。
もう少し、一般的な医療とか健康に関わる知見ということで安保氏の指摘を紹介するならば、放射線とか電磁波に寄せての知見として栄養を広く押さえられる啓蒙が成されにくいままに来ている列島では、こういう引用をする当方ですら、既存の日々の微量な被爆の上に災害的な過剰で余分な被爆的な理解でしか応じられていない。そこらの微細な知見が既に整理されているはずなので、そこらを踏まえた広く栄養の学を披瀝されたい。
もちろん、腸内細菌知見というトンでもな意味ではない正当な脈絡でのとんでもない新知見も踏まえてくれないと困る。つまり動物たちのことで語られるように腸内細菌が必要な成分を作ってそれを利用できる動物たちという不思議そうで、ずっと当たり前にやってきたことを謙虚に踏まえた栄養の学が要る。
先日のBS4Kではアフリカのンゴロ・ンゴロ地域の生中継を放送していた。動物の多くは身の危険を踏まえて、ヒトにとってちっとも優しくない。これが自然のありさまのリアルのようだ。しかし、京大学長氏の紹介から優しくて、果物食のそれでいて非常にたくましいゴリラたちのことを今時のヒトは踏まえることができる。ある種のルールを踏まえているならば、相当近くにいっしょに居られる。多くの動物は馴らし家畜化でもしないと危険だ。身を守るため、子らを守るために襲ってくる。中には餌のつもりで襲うのもいる。
昔の不良たちのようにじいさん、ばあさんのことに切実に同情できるタイプが介護の現場でストレスのたまりやすい仕事に就くようなことでもない限り、施設か住み慣れた我が家かが終の棲家かどうかの緊張関係は後者に分のある状態での推移に変化は起こりそうもない。ならばナマジッカ家族とともに老後をなんていう期待はむしろ終の棲家の我が家を失いかねない選択なのだから、老人だけの世帯という選択は決して不幸なことではないと、指摘できそうだ。それくらい子が親を心配しているはずはないにも関わらず、ずっと同居なんていうことも不可能な条件が実際ということだ。
より小説っぽい深みにはまれば、個々性をより濃くしつつの老化なのだから、そりゃそうだろう、とちょっと前までの世間を通過してきた諸氏にはツーカーに違いない。
それに個々性としての発言もよりしやすい世の中として回復してきている昨今だ。統制的とは違う。
ここらはもともとのことだから世界的な趨勢には違いない。ただ戦争戦争で、統制的なことに疑問を持ちにくいままの推移にさらされやすい土地がらと同居のグローバルなわけだ。
でも正気を回復できれば、個々を大切にするし、必要以上は関わらないでお互い様を大切に、言い換えれば、他人を相対的にだけど振り返らない世間が穏便に推移していくわけだ。
伝承の機会は?と心配されそうだ。だから、若い時期、それぞれの若い時期の短年月ということを改めて意識しあえる。ある時期を共有はするし、それは相当に目的意識的な文化の繕いに違いない。その時期を過ぎれば、個々性にゆだねられるし、老後を孫や子に期待するタイプはそれが可能だった住まい方の再現可能性を推量できる必要を指摘しておける。
頭寒足熱系は幼少期から身につくようにしてやる。生活習慣が集団の営みへの参入心理を気安くするようにするなら、それこそじっくり身につくようにできるに越したことはないけれど、自らそこに出る自立の年限も実は必須のことだ。その先は自ら試すしかない。
だからそうやって独り立ちして、別の集団に属すだれかたちとなって、家族内でのもめごとは成立しにくくできる。老人たちは心の平安を保ちつつ、体の強健さの持続と相談で老後生活を堪能できる。ないし老人体力を踏まえた、そういう別の生き様を試行錯誤できる。
カンフル剤経済運用方式はいつでも景気循環タイプの無茶を計画性からある程度調整可能にしてみたものの、たまりにたまって微調整ではすまないことを繰り返しがちにする。そのことを海外の学者も熟知して、先送りじゃない別のやり方を発明発見開拓、育てて、など著作にしてきていたはずだけど、どうもカンフル剤方式を手放せない以上に酷使しがちのようだ。
消費が増えないのは給料が少ないせいだ。
一方でこの今、やっておければ災害時に役立つと思える施設つくりはコスト(原材料費もだけど人件費がばかにならない)を賄いきれないということで、放置される。
ええい、やってしまえ、公共事業。と、コスト高覚悟で作ってしまう場合もありそうだが、つけはしっかり帳簿に載る。
そこでやめることができない、やめるわけにはいかないバブル期待を別の表現で押し込んだりすることも、だれもが無知を装うような時代なら、ありえた。今は違う。
啓蒙はそれなりに情報を行き渡らせるようにしてきている。
だからどこか変なのだ、と気づければ、経済の営みに関する学の今時に担い手諸氏にあっても当然オルタナティヴで集中思考できるのでは、と年寄りは推察する。
理論が思うように浸透しないのはありがちで、実際の世の中の思惑の渦について、ヒトについての知見をもっともっと啓蒙と研究の中で侃侃諤諤(かんかんがくがく)し合っても役に立つには違いない。
大げさな話題を一つ。
神、のこと。当方は読書によって、イスラム圏、アラブほか圏においてヒトにとっての確実さをめぐる試行錯誤という必須の一つを工学ということばであらわせるはずだけど、それは神というヒトが想起するという意味で概念とのすり合わせの中で、応用的に伝承され続ける役を見事に引き受けた事例を知った。ガッザーリー氏のことだ。
ブラックボックスを想定して、そこでの厳密、精密な意味での確実な筋は不明だ。けれども、インプットとアウトプットについての再現性は相当に確かだ、という事態把握が可能な場合。より複雑な事態だろうと、それはヒトが集団の営みの中で試行可能となる。
長い目で見れば失敗となるかもしれない。けれども、当面、しばらくは持続可能だ。だから応用する。そうやって厳密でより慎重な態度の一方で、実際に役立つ道具たち、モノ達をヒトは営為として作り続けてきた。より個々では不可能な細工、巨大な橋、建物、複雑な車、飛行機ほかに応用してきたし、化学の方では、それこそ、地表面での営みと即す化学のエネルギー状態の応用としてだったことがわかるまでにやっと届いて、しかも、では、どう無理があってどう長い目に耐えうるのかの当たりへの検討の段階かもしれない。
つまり神概念ということだ。宗派利害も延々とヒトの集団の営みとともにあるくらいの年月を重ねてしまっているけれど、神概念に託した確実さをめぐる思考、個々や集団個々にとっての確実さをめぐる思考の方が先だったはずだから、宗派利害で神を独占することはむしろヒトにとっては危うい。ここらに各宗派の営みが気づけて、軌道修正できて、宗派って一体ヒトにとって何?と歴史性にだけでも気づけるだけで、かなりのことを考えるきっかけにできるのではないか。
個々がさ迷いがちにして、お互い様性を尊重し得ない人格形成にしがちのときなど、集団圧、宗教的紐帯を踏まえた集まり性からの誘導が善導に誘うということも確かなことだし、昨今の暴虐に誘ってしまうようなことも当たり前のように起こる。そこらはだから神概念を踏まえた確かさをめぐるヒトの思考について、なら、宗派的営みはヒトの営みとしては工学とか科学とかの営みほどには取り込みえていない可能性もあるかもしれない、とここでは仮定として指摘しておきたい。もちろん、工学や科学の惨憺たる有様を、あなたは知らないのか、と逆に返したくなる諸氏もきっとおられよう。そこはほんの少しだけ押さえている。
まとめてよいしょ、のところが今時は整合性にいまひとつ、なのだから、つつけば、いくらでもボロは見えてしまうに違いない。でも、啓蒙の世の中、すべてを知って語れるわけではないけれど、語り合わざるを得ない。
とにかく試行錯誤し続け、お互い様性を尊重し合えるぎりぎりを模索し続ける。
君:どうよ。
私:探偵のことすっぽかしてしまった。
君:そうね。
私:・・・。
君:お疲れ?
私:キミのことじっと見てたら、疲れ、とれたかも。
君:・・それ、ほめて、る、の?いやぁ・・なによぉ。変なのぉ。
私:変?!それこそ、なにぃ?
君:二人で、なによ、ね。ふふっ。
私:老後は老人どうしでなんとかしないと・・。
君:あら、先取り、したつもり?どうかしら・・・・。
私:結論でないうちに、散歩に出ましょう、か。
君:どうしよっかな・・、って。いいわ、よ。
私:新しい店、できたの知ってる?
君:知らないわ、よ。でまかせ?
私:そうね、知ってるかな、って、思って、さ。つい。・・じゃ、いつもの、とこ、行こうか。
君:そうね。いいんじゃない、散歩。年寄りには寒さからだに悪いって・・。
私:ふーん。
君:心の中で若ぶってない?くくっ。
私:くくっ。