連載は続く~SF掌編『膨大に個性がひしめき合う』編




君:駄洒落て。
私:ビジョ!
君:ふふっ。





安保氏がワールブルグ効果を下敷きにがん細胞起源の問題を仮説したことを、取り込むことは、近藤氏が発信する肝心のところへの修正を迫る、はずだ。なのに、当方は、ここでの先日の記述の直ぐあとにそのことを気付くくらい、安保氏が面前におられたら、なんてわからないやつ、と思われかねない理解力だったりするわけだ。
つまり近藤氏にとっては学説的な記述としては安保氏仮説からは退けられることに通じる。素人は近藤氏の発信の別の要を重要と今でも思っていて、だから医療に非常に通じる特異な医療ジャーナリスト的な発信源としてこれからもどんどん率直な発信を期待したい。
具体的には近藤氏のがんのとらえ方でがんをとらえることの混乱原因ということを指摘できるようになる。
がん細胞にもどき概念は使えない。ここからがん細胞として診療上観察できる大きさになっていてもその後の治癒が可能になるのを、これまで素人は結果もどきだったことがわかる、という風にことばにしてきたことが、そうではなく、と安保仮説理論に沿った言い方を採用することになる。
ミトコンドリア優位な状態へと誘うことがなんらか可能になって治癒へと向かったし、がんはそもそもそういうタイプの細胞なのだ。と指摘できる。
がん細胞はむやみに自身と敵対的に増殖してしまう細胞ではない。自身のためを”思って”対応上そうなっているだけだから、環境が変化すればそれに応じる自身のための方向性を取る。それだけのことなのだった。
ここらは、安保仮説理論に素直に耳を傾けられる医療事情通な医療資格をお持ちの諸氏ならば、もっと具体的にピンと来るのではないか、と察する。
謎とかもやもやが解けてしまうのではないか。
手術や薬品による生理への侵襲を極力避け得た偶然の治療過程の諸氏には治癒の機会がたまたま訪れ、がんも治るのお一人になっている。でも実態は多くがお亡くなりになりがちだった。
がん治療の散々な情景については近藤氏が多くの有名人の事例を紹介されている。その際に、安保仮説を想起しながら読める必要をここでは強く指摘できる。勘違いしないために。
安保仮説は免疫が機能する上での逆戻り現象、より原初の免疫が働きやすい環境醸成へと体が動くことを示唆され、その逆をたどる治りの向きを紹介されている。だから時間がかかるけれど地道にその逆方向を、元気にたどる、沈鬱にたどってもなかなか治りには結びつきにくい、免疫が作用しやすくなる気分も大事だ。
昨今は、偶然というか、三大がん治療はなしてしまっていると思うけれど、その過程に気分を刷新させるような工夫を持ち込む医療が流行るようになって、だから・・でしょ!そこがかえって好い作用になってがんではない環境醸成に通じてしまう。面白い。
むしろ医療専門家諸氏はそこに気付いて方向転換できればよかったけれど、医療専門家にとっての治癒仮説が邪魔してきた。安保氏のワールブルグ効果前提の、治癒仮説を学べていれば、全然違う、そして社会的資金負担も別のところへ回せるくらいの治療費負担を患者諸氏に強いる程度で、営めたのに、ということを想像しやすい。沢山の分野に需要が散らばっているのに、特定箇所で膨大量がつぎ込まれてその回りまわっての結果待ち、だと働く側の意欲がマクロとしては、効果しずらくなるはずだ。そこらもだから変化すると予想できる。
一方で、その散らばり方の油断面を、困った方で使ってしまう方々も、意識的、そうではなく結果的にも生じさせかねない、危うさに注意は払える。
ただし、がん細胞のそういった性質ゆえに、修正プロセスを持ち込みにくくなる肉体の老化とともに、穏やかなお亡くなりの過程も避けられない、ということになる。他のプロセスも沢山あるから、この過程ばかりでお亡くなりになる、とは限らないことは言うまでもないのだけど。

ところで、先日の図は、ずれてわかりにくくなっていた。少し修正しつつ、もう少し研究史のこともふれられそうなので、そうすることでもっと簡略に理解可能かも、と更なる引用をしてみたい。
ヒトとか生き物にとってのエネルギー発生源はATPだけに限らない。ここは一応押さえておける。しかしATPをめぐるエネルギー代謝のことを知っておくことはそれなりに重要で観察応用しやすくする。


『化学と生物』誌 vol.12 no.4

https://www.jstage.jst.go.jp/browse/kagakutoseibutsu/12/4/_contents/-char/ja

の連載コラム”量子生物学の窓”に永田義親氏が発エルゴン反応、共役、自由エネルギー、エンタルピー、エントロピーなどの概念を押さえつつ、加水分解によってなぜ高エネルギーを得られるのか、2つの仮説の検討研究を紹介している。
拮抗共鳴の説に無理のあることを1972年のAlving、Laki氏らの研究が現れ、”きびしい批判が現れた”と指摘されている。
一方、その後あらわれた静電反発の説についてもp260の左欄下から右欄上のところで、計算結果からの無理を引用されている。そしてp261の左欄においてATP構造内での高エネルギー結合理解にも無理のあることが引用され、すでに1974年当時において、鈴木氏らの研究の前提となる疑問は出ていたことに気付ける。
『筋肉はすごい』の著者杉晴夫氏による『栄養学を拓いた巨人たち』を参照できるならばp153以降の”第5章 エネルギー代謝解明をめぐるドラマ”に目を通していただきたい。エネルギーが発生する厳密な細部はブラックボックスにしておいても、サイエンスの追及はとりあえず可能だ。ことば運用の一つと見なせる。安保氏らが引用する解糖系では2個、ミトコンドリア系では36個生じるATP産生のからくりについての研究史だ。
けれどもサイエンス上、ブラックボックスにしておけない局面がありうる。たとえばどういう摂食素材が要るか、など、生き物によって相当に違うけれど、その要素的なからくりを問われた時には、ブラックボックスにしておくわけにはいかない。長い船旅での壊血病対策の話が一つのヒントにできる。
そして常在菌とか腸内細菌叢の話題とか、根本になる知見が昨今わんさか研究中だったりする。ひとたび動物たちの栄養源とかの話になると、ヒトの常識は吹っ飛ぶ。牧草で育つやつらが肉たっぷりで活動的だったりする。信じられるはずがない。のに、長年お付き合いしてきているからごくごく当たり前にしてきた。サイエンス知見で、となるととんでもなく知りたいことだらけになる。今時の研究道具仕立てではかなり短い期間で多くを知りうるかもしれない。そのための研究者がいてくれれば。しかも知り得て、その後のことを考えて、そこに就く研究者が沢山いてくれるかどうか、の問題があり得そうにも思える。しかし、ヒトのことと同じ緻密さで動物たちの食と”肉体”形成の問題群はすぐさま解明される必要アリだ。
或いは、からだとどういう状態にしておけることがエネルギー発生にとって好都合化などの話題に答えられることの厳密度ということでも、きっとそこでのより実際にちかいメカニズムに通じていた方が応用に好都合のように思える。
時代はより分子とか量子とか大きさで各具体的要素が動くことをめぐって知りたくなって、先に引用しておいた児玉氏の『生物物理』誌 50 (2), 094-095 (2010) の紹介記事の形になる。
同じく先に引用した図式は、それでは説明がつかない一方の拮抗共鳴説の為の図だった。
この図ほかを理解するには生化学の高校の教科書以後の教科書に目を通す機会を持っていない人々には親しみのない記号ばかりで面食らわせられてしまいかねない。そこで少しだけ調べてみたので、紹介しておきたい(自分用にもできるので)。

ヴォート 『基礎生化学 第2版』('07 : '18 現在第5版が出ている) p9、p249 参照
G = H - TS
    G はギブスの自由エネルギー

    H はエンタルピー(H=U+PV)
         U はエネルギー、P は圧力、V は体積
    T は温度
    S はエントロピー
⊿G
⊿G:活性化自由エネルギー(遷移状態自由エネルギーから反応物の自由エネルギーを引いた値)
⊿G° :物理化学標準(pH0とか)による自由エネルギー変化
⊿G°′:生化学での標準状態(pH7とか)による反応の自由エネルギー変化


    O  O  O
     ||  ||  ||
アデノシン―Pα-Pβ-Pγ-OH
    |  |  |
    O- O- O-
簡略には
 AR―P~P~P

アデノシル基ARにリン酸基Pが結合している(~は高エネルギー結合の記号)
それで、ヴォート本のp249中段を見てもらうと、ここでのアデノシル基にリン酸基を付けるリン酸エステル結合と、αとβ、およびβとγのいわゆる”高エネルギー結合”とは電子的にあまり差があるとは思われない。と著者は指摘して、この結合については特に加水分解ではなしに切り離すのに必要なエネルギーということからの比較と断っている。

(引用開始)”高エネルギー結合”という言葉は正しいとは言えない。(引用終了)

ATP加水分解して得られる高エネルギーの事実は事実として観察できる。その秘密は?となるわけだ。

とにかく細胞、たとえばバクテリアなどは条件が揃って、約20分間に一度細胞分裂して増える。このペースはヒトにとっての通常の感受性にとって大変な事態だ。一昼夜(24時間)では膨大な桁違いの数になってしまう。
20 : 初発・・・・・・・・・・・・・ 1

21 : 2 つに割れる・・・・・・・・・・ 1 → 2 (20分経過)
22 : 各 2つが 2つに割れる・・・・・・ 2 → 4 (40分経過)
23 : 4つのそれぞれが 2つに割れる・・ 4 → 8 (1時間経過)


26 : 32のそれぞれが 2つに割れる・・32 → 64 (2時間経過)


29 : 256のそれぞれが 2つに割れる・・256 → 512 (3時間経過)


212 : 2048のそれぞれが 2つに割れる・・2048 → 4096 (4時間経過)
215 ・・・・・・・・・・・・・・・16384 → 32768 (5時間経過)
218 ・・・・・・・・・・・・・・131072 → 262144 (6時間経過)
221 ・・・・・・・・・・・・・1048576 → 2097152 (7時間経過)
224 ・・・・・・・・・・・・ 8388608 → 16777216 (8時間経過)


 これで未だ半日も経ってない。(からだの中でも同様なことが起こる)

 272 (24時間を20分間で割ると1時間当たり3回になるので72回分裂していることになる)
しかも割れたそれぞれが分裂していく、という計算と数値だ。
少しイメージしやすくするなら

 23x24 → 824
 6412 ならばもう少し数量の辺り、イメージしやすくなるか。
   40966 → 40962x3
 167772163 → 16.7772163x(106)3 → 16.7772163x1018 : 桁のケタ外れの辺りに気付ける
 おおざっぱに、
 17x17x17x1018
   4913x1,000,000,000,000,000,000
      百京   兆 十億 百万 千



倍々というわけではないけれども、一つ一つコツコツと積み重ねて、の原理を応用する気になり、仕掛け上も長持ちする設計にできれば日本式のイオンエンジンとして形にできてしまう。
なにしろ宇宙では”無重力”。映画『ゼログラヴィティ』の中でのモノの動きを参照できる。

こうバクテリアの数のことを想像できるならば、生命の今日、ということの内実についても色々想像すべきことがあるのでは、と問いかけることはできそうだ。
条件次第では変化を被(こうむ)る。だから今日の多様な形を得てきた。物理的に変形した場合もあるかもしれない。伝わってきたことの初発はもともとそう成って、伝えうるからだった。
そう考えられるのだから、もともと持っていたに違いない、と簡単に想像しておいて良さそうだ。
一応、系統の分類として初発のある時期において古細菌原核生物(真性細菌)、真核生物という知見を今日得ている。もちろん初発に共通祖先をもつ。

太陽系の一惑星として地球独自の内実を得てそれで今日までに至っている。持ち物のほとんどはその初発の時期に得ているし、その後についても大方は太陽系内構成物で成り立ってきた。
宇宙線のような系外からの入りは、どう考えられるか。
バクテリアが同じようでいて、その後の多様な形の内実は備えていたと考えられるならば、すでに環境や集団性との絡みから個性を準備していた、と考えないと無理がありそうだ。
では宇宙線には個々性は内実として含まれていないのか。ある程度の組織になっていないと個々性の内実は含まれていないのか。それは起源話になると、変だ。それでは説明しづらくなる、と思える。いかがだろう。
素粒子論に個々性を導入することはできないのか、素粒子論の中で無理のない個々性、とはどういうことばとしてあてはめ、可能になるのだろうか。
当方は素人ゆえの自由さ、自在さにおいて、エネルギー状態”仮説”(””で括ったのは学説のような大それた精度で持ち出せていない現時点の押さえ方だから)を持ち出す。すると程度問題のバラバラ性くらいは想像させやすい、と察する。
今時は学問分野でもグラデーション概念で、たとえば両極端を想起できる事態へは必ずと言ってよいくらいグラデーション問題を含ませることを示唆するようになっている。その両極端を別の差異の指標に使おうとしても、グラデーションということから、その差異の意味したいほどの違いを逆の方に示さざるを得ないような事態もありえてしまうし、そういう事実こそを示せる。そこまで認識は試されてしまっている。とりわけ昨今の性をめぐる話題にはピッタリ適用しやすい。

ヒトはストレスに振り回されやすい。中には元気年代においてがんを発症させてしまうことがある。しかし安保知見からは早期発見のストレスでへとへとにすることも害悪になる。或いは治療だとかで薬や手術で体を侵襲してしまうことも害悪だ。気持ちをリラックスさせて、我が生活パタンを振り返り、無理がどこらにあったのか探る。そして謙虚に生活パタンの改造に打って出る。その際もできるだけ頑張る力みを抜く。肩の力を抜いて、いい気分の方で策を練る。そして温泉に浸かったり、適度に体を動かしたり呼吸法を振り返って改良して酸素を取り込み、食事を工夫してみる。ビタミン・ミネラル類の摂取の工夫も忘れてはいけない。ただし、動物たちの食物知見からして、個々性におけるわが身が育てた細菌叢に委ねる謙虚さも必要になってくる。急遽健康食だとかで、食事内容を変える前に、自らに合った食事内容ということがありうるわけだ。
好き嫌いにも一定の説得力が含まれる。
自らの探求力によってそこらに取り組めることがよりストレス関係ということを考えるならば相応しい。そのためには日ごろからそのための知識と心身に身に着けた習慣が物を言ってくれる。

儲け動機はその他を生かすための便法になるかもと思われて酷使されてきたことによって、実はのところがわかった。その他を犠牲にしても儲けのため、で動機を極端に細らせてしまう。そういうことが経験的にはわかってしまっている。
もうとっくに社会工学的には使えない代物だ。
色々世間を騒がせる忖度(そんたく)も経験上、”上下関係”を孕ませがちにする動機付けだ。それゆえに使用上は歓迎されない。そういう忖度抜きにお互いを尊重し合う約束でまとまろうとする市民社会の方は、お互い様の水準をある程度、無理のない範囲で保てているのかどうか。それにかかる仕組みだ。ことば上スッキリし過ぎた意味でのモナド化を前提としない個々性尊重の機運が含まれている。原動力として期待されている。個々性尊重とことは向きを含ませるから、同情心とかで想起されるヒトの動きをたとえ少しでも作動させる動機付けとなる。慣れれば、そういうことのわざとらしさ感も失せる。いつものこととして平然と行使できている。
そこに啓蒙が目指すなにがしを想像してもらって、その大変さをお互いのものにできていれば、子育てからも類推できる他の膨大な困難な辺りにきっと謙虚になれる。とんでもないことに挑戦している最中、ということに気付けるし、ある幻醸成の試行錯誤だとしても、なんとかそれでやりくりできている幸せを、持続していけるしくみの工夫できる辺りへの探求は欠かせない。それくらい、未完の状態を力づくの努力でなんとかやりくりしてきた19、20世紀後の今日だ。だから粗は極端には理念を忘れたのか、と思わせもする。そこらを無視しないで、できるものたちがなんとか支え、それをまた支え、しかも他の手はなかったか、ないか、と考え続けないとやっていけないヒトというのがリアルのようだ。

そんな事例を一つ。その昔岩波新書にて画家のクールベ氏を紹介したのを坂崎著で読んだことがあった。数十年前のことだ。そこでは西欧の裸描写統制の過酷さが匂わされていた。
今ほど列島版の春画がおおっぴらに公開されていなかった当時であっても、田舎者にとっては窮屈な西欧の印象を十分に持てた。
そして昨今の状況とクールベ氏の作品『』、について、並置して意識させた。ずっと流せてきたのに、なぜかたまたま、そうなった。
ゴダール氏の映画を見ればお分かりの通り、列島の人々からすれば、多少持ったいぶっているけれど、自由にあからさまだ。
『グッドバイゴダール』の(ベジョ氏の夫でもある)アザナヴィシウス監督ともなれば、もう身軽なものだ。もうちょっとで春画作者と読者の自在空間と同居できるくらいになっている。春画は生活の中にどうはめ込まれていたのか、想像するしかないけれど。
列島のイメージとしての「昼夜」はしっかり明確だ。だからズルズルとかダラダラなイメージはそぐわない。生活習慣がそれなりにしっかりしている、と言ってみたい。そういうことをわざとらしくなく自らのものにしてきた。そういう身軽さを指摘できる。当方流の表現を許してもらえるならば、わがままなやつらにまかせっきりにしないだけの習慣を身に着けてきている。
欧米、列島ほか地表面規模で、だからといって生殖活動、わがままなやつらが扇動しがちな人生時間に一定以上の負担を強いてくるそれ、の妨げとはなっていない。和合を愉しむ、ではなく生殖活動に専念させる負担、なのだけど、それは妨げられていない、というリアルはどう理解できるか。自然現象からの大規模なかく乱での人口減を被らない限りで、一定水準の人口規模をほこって持続していることを想起したい。個々の生活上の工夫とかを遥かに凌駕する時間的な事態を置いて理解している。興味を誘わないか。
とは言え、土地柄によっての、時代相を変える極端な違いを考慮させるヒトの内実の不思議。
しかし、多すぎだろう、だれもがきっと引きずっている。桁違い。京だ。京だぜ。東京じゃない、単位の京だ。ケイと読む。懐かしいスパコンの名。K、だ。ケイ。
ルマン24時間のレースを楽しんでいたら、こんなだ。
ヒトの体の場合、同じくらいに休息に3日くらいで免疫系が働きだして、抗原抗体反応の賑やかなお祭りとなる。そして少し発熱したり、傷んだりしながら、いつのまにかケロッとしてる。なんて不思議!だけど、だ。その数のことを思おう。間違いなく、自分とは別に勝手なしかもその連中からすれば放っておけない出来事に違いない。自分も困る事態にはなっているけれど、自分でどうにかなるものではない何かしらとして生じてくれる。
食べ物の種類にこだわるのも観念肥大系と体が発信してくれる快とかとの応答がなんとも大事なはずなのはわかっている。そうは言っても、ここでも腸内細菌叢ほかが大活躍してくれていてい、というかそいつらが勝手なことをしてくれて、快とも関わらないわけではないけれど、勝手に作った管理栄養なって糞くらえくらいな勢いで、栄養素の不思議を未だに発散させ続けている。そこに素直に応答することなく、知れた20世紀のお土産程度の知見で開き直り勝ちにしているのが現状だ。寂しいことだ。けれども動物たちを丁寧に育ててきたヒトにとっては、もっとリアルに、食い物とからだのふしぎについては素直になれているはずなので悲観材料にする必要はない。ヒトはずっと賢い。一般大衆は個々性に満ちている。好みは十人十色、流行りを一緒くたにしたくなった、現状のマスメディアを生んだかつての惰性についての思い込みが過剰にならない限りで、リアルな大衆もきっと健在に違いない。それにしても、数が、その数の桁が想像を絶する。ヒトに限らず、フンの大方にその残骸が含まれるのだ、と”腸内フローラ”の話題経由で多くが知ることになった事実も、安心というよりは、数の膨大さに、つかみどころの名さを味わわされているだけじゃなかろうか。
その膨大量の個々性にどう向けというのか。個々性を尊重し合いたければ、そういう感受性を鍛えておかないと、きっと台無しにしてしまう。油断だらけにしかねない。





君:焦ってる・・・?
私:個々性を、と他人に向けてことばにした時、そう軽くないな、という意味でなら、一種の焦り感もあるのかも。
君:流しなさい、よ。
私:こだわらずに・・・?
君:そう、よ。こだわってら、切りのない話、よ。
私:かもしれないし、それでは、なにか失いかねないと、も、思えるし。
君:素粒子?それにも個々性とか言ってなかった、かしら。私は、細菌にも個々性を言ってたところが少しは受け取り易かった、わ、よ。そこまで言うか、って。その程度には話として受け止めることができた、もの。
私:うん、そこね。バクテリア、ね。やつらに個々性を見るしかない、としたら、その数や・・それに免疫が働いて、ゴミになって体外へ。その数や・・・。といって、新陳代謝で細胞も入れ替わって、その数も膨大、だから、細菌とかのイメージで封じてしまうとカン違いちがいだよ、な・・・。
君:たとえば、よ、一人一人、一匹一匹にそんな数、としたら、その世界の人口分、動物の数の分、でしょ・・。
私:・・・だからその数や、もうやめときたい。個々性・・・ためいき。そこで面倒くさがれば、個々性の話?なに、それを自分でやってのけてる感じ。
君:春画、って卑猥、でしょう。
私:・・?そりゃ、そうだ。そうさ。でも、・・・やくざな平等論の視線抜きで、が要る。ヒトのリアルな側面、っていうニュアンスのところでことばを当てはめることは可能、でも、その場合、ちとヤバそう。やくざな平等論、わがまなやつらのお誘いが働きやすい。
君:そうは、言うけれど・・・。どうなの?
私:そこにも個々性で答えとかないと、ね。端折った言い方をすれば、一般的な平均した形を捏造はできても、同じ形はありえない、ってことも、付けたりかもしれないけど個々性へ誘うきっかけになる。自分からするちょっと気にかかる他人の形、っぽいオンナでもオトコでも持つ気がかりみたいなの、って所。爬虫類とかなにか奇怪な小さな生き物への好奇心めいたいかがわしいかもしれない関心とも違う。
君:そうきたわね、なるほど。おもしろい、わ、よ。だから、スキよ。あなたのこと。
私:ボクからは同じことばを使ってしまうと、多義の方じゃなくて、キミへの選択の困惑のようなことを提供してしまうので、やっぱ、使いにくい、よ。
君:マジ?!そこまでこだわる?言っちゃいなさいよ、○○って。
私:なぜかだからか、春画は小さな生き物へのいかがわしい関心にならないような大きさで表現されてる感じ、がしてる、よ。不思議だね。
君:あれって、性教育にも使ってたとか。
私:人によっては母親が娘に、なんて話は本で色々紹介されてたよ。
君:あなたから聞いた話、よ。ヒトの細胞は60兆ではなく、37兆、という話。
私:言った。
君:その一つ一つにミトコンドリアが入っていて、細胞の種類によってばらつきがある、っていう話。
私:うん、そう。それ言われると、またもや数に・・・どうする。多すぎでしょ。37兆掛ける、一つ一つのミトコンドリアの数、だから、さ。更に、一つ一つのミトコンドリアの中でエネルギー代謝の活動があって・・・。足す?どうだってもう、いいかも。それくらいの数。といって、それは観念肥大系がつい、うっかり考えてしまうだけの話、で、実際にうまくバランスさせながら動き続けている。とてつもない。
君:そうよ、そうよ。いいことよ、心配すること、ないわ。難しことは任せておけば、いいの。そして私たちは楽しもう、それで、いいの。でも仕事もあるから、忙しい、の、私。
私:東京はいつも忙しい街だし、ね。情報も溢れていて、魅力も発散してくれている、けれども、忙しくて付き合ってくれない?
君:散歩、でしょ、行きましょう、よ。
私:!そうし、よ。行こう、行こう、町に出て、自分では気づけない体内の膨大な数を観察してみよう、っと。
君:?趣味、悪くない・・・。
私:・・そう、か、な。
君:・・あれっ、冗談、ジョウーダンだから。それも一つのアイデア、いいんじゃ、ない。
私:ふーっ。
君:なによ、ため息。
私:ちょっとした自由を感じさせてくれる、キミに、○○、って言っておくよ。
君:えっ、なんて、言った?聞こえなかった、わ、よ、・・・ふふふっ。