大掃除、というわけではなかった。けど、埃(ほこり)まみれになる程度のことはやっていて、たまたま2001(平成13)年7月18日付け夕刊(読売・3版)の第15面の記事を目にしていた。
君:何気(なにげ)に、ことば使い・・演出過剰、してない、かしら?
”映画『クレーヴの奥方』”とタイトル。書き手は蓮實重彦氏。 ネットで文字資料を追い始めるとついつい流し読みで多量に走り去るようなことにしがちなのだけど、新聞記事の一ページ分の”切り抜き”を手にしながらだと、しっかり読み進めていたりする。
クレーブ伯爵の奥方ということらしい。
そしてそれを演じているのはカトリーヌ・ドヌーヴ氏とマルチェロ・マストロヤンニ氏の間にできた娘である新人役者キアラ・マストロヤンニ氏だ。
当方はとりあえず三つほど注目する箇所を印象づけられた。
ロック歌手がクレーヴの奥方に一目惚れする。奥方も同時にそうだったようだ。
当方の受け止めように関わるけれど、映画とともにの時間的体験として、映画での出来事として身体に入ってくる諸々の要素にキアラ氏演じる奥方の心の乱れ、を観客として見てしまうことをさらっと指摘されている、4K・8K映像だとより身近な出来事として入ってきてしまうはずだ。(当方は紀伊国屋製のDVD・日本語字幕付)。なぜキアラ氏に演じさせたのか、(この監督は、それ)への答えを見ることで体験させる。
当方的には、ワイドショーっぽい演出や出来事もなくと付け加えたいのだけど、 物語が成立するその時を映画時間の中でやはり体験できる。この監督だから、という辺り。
そして何かあったのか無かったのか、むしろ人生上の出来事の思いで作りということからすれば、無かったことに近いのだが、この二人はクレーヴ伯爵の母親の葬儀の場面で”ヒチコックを超えたサスペンスをみなぎらせている。”そこらを観客諸氏は映画的に体験することになる。
そう先入観を持って、その当時は機会を得られずにいたことをふと思い出しつつ、DVDを今ではネットで探せば何とかなるということで購入。すぐに見ていた(普段は積んでおいて、数か月後、思いついたように見たりするので)。
そしてつい余分なことも言及したくさせていた。
クレーヴの奥方が登場して自らを語る場面は、聞き手に恵まれすぎてはいないか。
自らを決して押し出すことなく聞いて、ことばもそれなりに返してくれる。そんな聞き手がこの世にありうるのか?カウンセラーの類型?・・・そうではない。
ならば、と思えた。奥方氏は懊悩の最中だ。積極的に様々な機会を捉えて近づこうとするロック歌手とは違って、唯一、見舞いの手前のようなことをしたに過ぎず、体面上は拒み続ける奥方にとって、内なる会話に或る理念的形態が要った、ということではなかったか。
ヒトはそういうだれかを会話相手に出来ることで、何かしら落ち着きどころを得るし、会話に内容を与えられる。何かしらが生じる。
しかし、内なる会話は粘着へと誘うし、自分だけわかるタイプのことばの世界を紡ぎがちにする。バタイユ氏の指摘するところだ。
一方で相談相手になりえない個々や個々の多忙さ、ということも想起される。忙しいゆえに粘着に向かうことなく済ませられるし、話し相手としては物足りなくさせる。そこに時間の要素が絡んでいる。同じ時間を何事かを成しつつ、ないし成すゆえの試行錯誤の思考が働いているのと、あることに焦点を当てて粘着寸前まで様々に理解しようとしてしまえること。それゆえに個々性の方向性が否応なく身にまとわれてもしまう。
ことばを覚える老若女男がいたとして、すぐその先に個々性への変成が伴わざるを得ない。なんらか共有し合えていると思えるたまたま、については、今でも厳密ではない。それがむしろ当然のようにふるまいがちで、間違いが集団の結果として起こりやすい。
しかもあいまいには似たような理解は可能になってもいる。
意味の違い、用いられ方の違いへと拡散し続けてしまう。
啓蒙は実は大変な作業だし、無理強いにも通じかねないし、しかしそこでの”理念”はことばの(内包する意味での)”共通性”を超えて、恐らく腑に落ちる事柄を秘めている。
私:もう少し、付き合ってもらえる?
君:いいわよ、仕事しながら聞いてるから・・。それに探偵さんのその後も大分ご無沙汰しているので聞きたいわ、よ。
ということで次回に続く。