連載は続く~SF掌編『色々な考えをこびりつかせた若者たちが閉じ込められたロシア経由のテレヴィドラマを時々見ている』編




私:お互い様、って、個々を大切にし合うっていう考え方と響き合ってるね。
君:あら、そぉお。けど、響き合う、っていう言い方、たとえにして、逃げてない、かしら。
私:ふふっ、ニュアンスにして、ね。わかる?
君:でしょう、ことばを交わし合ってれば、少しずつわかってくるわ、よ、ことばの癖、とか。
私:でも、さ、権利とかそういったことの方で使い慣れたタイプたちがいるわけじゃない。で、なにかあって権利だから、とか権利ゆえにこうこう主張できるとか、安心できるわけだけど、その時に、権利とか義務とかの類はお互い様の基本が通用し合って初めて成り立つように構想されている。とりあえずだれにとってもの、権利とかだ、っていう話。
君:そうね。
私:だれかが権利ゆえにこうこうできるし、この瞬間にもそれが自分にとってのこととして達成されてしかるべき、と実践されたとしてそのおかげで他のだれかが割を食うってことは想定外のはずなんだ、よ。
君:そうよ、ね。
私:けど、実際には、権利の行使の生々しい現場、って感じで、そういうけど、だれかがちょっぴりかもしれないけど、譲るとかが介在して初めてそのだれかにとっての権利がやや偏って実現するってことになる。多分、この程度の想定は法分野の議論の中でいつでもふれられているとは思うけど。時間差のお互い様が生々しく成り立っているように意識できる集団の営みがそこでありえているならば、きっと、円満な進み具合を想像しやすい。そうでない場合は、ちょっと、困りもの、ということで潜在化しているのかも、な。
君:多分・・・後者、じゃない、普通。
私:・・やっぱ?・・だよ、な。といって、折角気付けた権利の内容を無にするようなことも実にもったいない。うまくバランスさせにくいから、って。支払い手段のお金さえ得られればもう少し楽な晩年を送れる膨大な人々が居るのに、超難病っぽい一人を救うための巨額資金が、似た苦しみの人々にも、その他あいまいに苦労している晩年の膨大な人々にも資金は回らなくて、一時のニュースの場をにぎわせるってことは、非常に啓蒙の時期にあってはなんとも言い難い事態、とボクは、さ、受け止めてしまいがちだ、ね。ただ別の場面を考えてのことだけど一本釣り手法がダメと言いたいわけじゃない。そこは使いよう、と受け止めている。満遍なくでかえって時間軸を取り込んだ時に犠牲を多くしてしまうことだって考えられないわけじゃない。
君:?・・わからないわ、たとえば・・って聞いていいのかしら。
私:ほとんどの人々が、何かを考え、何かを考え損ねている。ドドドっと情報洪水手法が使われやすい時代状況の下では、先入観の固いのを人々として持ちやすくもなっている。理屈の交わし合いに不慣れになってしまう。異論を指摘されてその先へ進めない。そういう時代状況を棚に上げたとしても、何かをたまたま思いつける筋道をその時期の必要にやや近寄らせて持てている偶然は、やはり偶然で、だから多くが持つこともあるけれど、逆にたまたまごく少ないだれかたちがそれぞれの考え方を下敷きに持っていた、なんてことになりがち、と思う、わけ。でそこらを自らが関わってはいなかったけれど、そういう必要に近いところで考えたり、工学していたりしてそうだ、と目利きが気付いて、そこを少しでもフォローできれば、ってことは充分にありうる。長いもの巻かれる秩序貢献系な生きざまがその場合には、ちょっとだけ、別の貢献では物足りないかな、ってな感じ。その膨大な人々も実質、アイデア待ちの状態で、自らに準備のない辺りに気付けている。でもじゃどうできる、まで考慮するには忙しい日々だったりする。時代状況は人々が日々作り出して積み重ねもし、捨て去り、拾いで、換骨奪胎とか新陳代謝しているので、だから他から得られるなにがしが欠かせないことは言うまでもないのだけど、そうわかってはいても、自分のことを忘れないでねの、意識が多忙な日々では持ち込まれがちにする。生活費、稼がなきゃ、だから、ね。な、もので、他人たちの貴重な意識を流し込んでもらえるようなたまたまの生き方に居るだれかたち、仲間とかは一見そうで、企画後には役立つタイプ、に近いから、この場合の注ぎ口としては力不足なんだ。意外になんとなく注がれてしまう、ちょっとしたきっかけとかを沢山持てていた方がいい場合が、ある種、時代の相を個人として気付かせたりする。しかも、そこにおもねる発想だと形の無い状態でしかし投企してみる、ってことの大事なところを充たすものではない。そこらは時代のムードを嗅ぎ分けて、ではなく、もう少し時代時代を通じたヒトに近づけていないと、構想しずらい。世の識者たちがなぜローマを持ち出し続けるのか、帝国手法としてのローマ。その印象の像であるよりは、魂のところ、ヒトの集団の営み(直ぐにでも広範に人口も並じゃないことになる)をいかに工夫できるかに繋がってしまう。大上段の話のようでいて、切実に関わらざるを得ない。そう見方を工夫しないと、とらえられるものではない。それが即中央集権と張り巡らされた統率網ということにはならない発想をいつの時代でも工夫とか思考くらいはしてきている。端々の現場では面倒をどう感じるか次第で統率の縛り具合に違いを生じさせる。そこらを啓蒙がそう面倒くさがらなくても、いくらでも工夫できるよ、と情報扱いを工夫してきた。
君:長そうね。話も込み入ってきてるし。お茶、に、しない。
私:キミ、忙しかったのでは?
君:なによ、散々、話を聞かせておいて、老いて、ね。
私:くっ、・・くくっ。そこで笑わせる、か。・・お茶、いいなぁ。でも、散歩しながら、に、しない。忙しい、とは思うけど。
君:そうね、気分、転換、しよう、かしら。
私:しよう。
君:私、見える?
私:うん?いや、なんか、おぼろげに・・うーーん、影、形がうすぼんやりしてきた・・、やば、消えそうだぁ!
君:なによ、大げさ、にぃ。そこまで悪乗りしなくたっていいの!で、どうだった、うすぼんやりしてきて。
私:そりゃ、ちょっと、だけ、寂しく感じた、さ。記憶が薄れて、なんて、老いるってことの不安感、そんなところ、なんだろうか。
君:聞いてると、遠い将来見たい。お年寄りへの同情、そんな感じ、だけど、自分のことにしては、いない、な。
私:いや、断じて、キミの影が薄れて、寂しく感じた、よ。キミが居てくれることがどれだけ・・。
君:どれだけ?・・・いっ、かぁ・・・、さ、散歩、ね。歩きましょ。そしてお茶しましょ。