連載は続く~SF掌編『全体を感じ取る』編




受験予備校手法のニュアンスに気付けたのは介護のための具体的学習の機会を得た時だったことはここで相当以前にふれたこと。
そこからいかにもな(大学受験のために)進学校の授業のあり方、(落語に似た)おもしろい話を聞ける場からは相当にかけ離れた進み方が大半との印象の強い、そういったことを振り返れたりもしたことを、うっかりふれていた。
ここが出るの相当な”読み”を賭けに似た感じで取り込んで、そこを覚えておきなさい、っぽい流れとポイント抽出な感じ。で当たれば、相当に効率よく、高得点につながる。
ただそれがどういうことかのニュアンスにまで想像は達していなかったことについ最近気付けた気がしている。
介護施設ではポイントを押さえた仕事したいタイプたちが相乗している場合に限っては好循環の結果としていい雰囲気での施設の営みの様をたまたま訪れたようなその場を初見とするような人々にすら感じ取らせてしまう。
けれども、ポイントを押さえているので、一見、仕事を効率よくはかどらせて、落ち度のないように受け止められそうなのに、なぜか不満たらたらな入居の状態があらわか、時に愚痴としてこぼれてしまうような、だったり、ことばとしては聞こえてこないのだけど、表情からしてちょっと・・・、という印象を濃くする施設の営みにしている列島介護施設のもう一方の場合もありうる。
そしてこの後者の場合については先のポイント押さえの観点からより察しがつくようになると受験予備校授業事情については素人が気付けた。多くの諸氏は既にお気づきとは思うけれど、素人ゆえ少しふれたくなっている。
介護はポイントで仕事ができない。業務上の必須事項(食事、入浴、排せつに関わる生活のお世話)、その具体的時刻に応じた業務、をこなしたことで介護が成り立つわけではない。
何度か指摘してきたことだけど、早くする生活介護は力の作用を相手に感じさせて、気持ちの落ち着きを奪い、返って生活のお世話としては失敗に近い。介護としては不適切になる。けれども、未だに早くすることを急くような妙な風潮が介護現場の部分に介在しやすい。そこは不思議だけど、きっと世の中的にそういう風潮の流れがありそうに思えている。
もちろん、相手と関わらない隙の作業、まったく関わる必要のない雑事においては素早くできてかまわない。そこで時間を(短縮するのに)稼げる。けれども身体介助と関連する流れにおいては、安全ということもあるけれど、それ以上に実質の介護となるために必須として相手のペース、相手の生活のリズムの介助に過ぎないことをちょっと意識さえできれば、その乱れがどう相手(入居者)の気持ちに響くかくらいは想像しやすい。生活のお世話だし、介護保険の理念もベースにできるから、お世話し過ぎの必要もないけれど、お世話の質を保つことは欠かせない。それをたんたんとこなせれば、お年寄りの寛容さゆえにそれほど不穏を誘うようなことにはならない。
ただしと言って置けるのが、生の人間関係だから集団の心の作用の下で、たまたま不平不満の渦の中での損な役回りを担ってしまう、ということもありうるので、そこは間違いなく不穏を避け得る、と言い切ることも難しい。とはいえ、大抵は円満な人間関係を営みやすくする、と指摘しておいて間違いない。
ポイント押さえ、ができてしかも不穏か不満を蔓延させがちな施設での介護職の担い手諸氏はそこらを実は押さえていない、と簡単に予想できる。いつでも面でお世話し続ける介護職の仕事であることに気付ければ、即修正できてしまえる。
その代わり、いつものことだから、多少忙しい。気を抜けるような暇がなくなる。休み時間をしっかり休むとかが要る。結果的に面を構成させる。経過中はできていたりできていなかったり大変なことになりがちにする。熟練度に応じて、不足への指摘を使い分けしないと、いちいち煩い、中断を強いる発信になってしまう。
ポイントを押さえて業務をこなせているのだから、という業務達成度アピールが有効になり過ぎないような注意力がきっと要る。面で動いている介護職たちは、一見損になるようなことを忙しさの中で発揮しているはずだ。けれども結果的に一日を通して、なんとか納めていもする。そういう観点が要る。それは結果的に施設での入居者諸氏がどういう生活を送れているかで判断可能になる。部屋を整理する力が弱まっている入居者の部屋が本人の意思に反して散らかりすぎていないかどうかは意外にわかりやすい”ポイント”だ。
今の若者はお金をかけてボサボサヘアのファッションを楽しんでいる。施設のお年寄りは、放置されて整容からは程遠い姿でうろうろしている、ではどうしょもない。お年寄りほど、今時の感じ方とは異なって整容を対他人として意識されていた。だからここらも観点になる。ポイントを押さえているから、と経営層が安心はできにくいのが多分介護(現場)の仕事だ。
現場の事情を詳しく話すし、業務上のポイントもしっかりこなしてくれて、こんな面子に仕事をしてもらってありがたい、と半分の方で受け止め、しかし現場での入居者諸氏の様は生気に乏しい感じだ、とそこらの醸すなぜをもし感じ取られているなら、面の要素をこなしていない具体像を一辺見通してみるといい。多忙でやり切れない、という要素にも気付けるだろうし、受験生よろしくポイントを押さえておけば、給料査定には十分の油断も蔓延させがちかもしれない。ここらは職人かたぎに依存できた列島から相当に逸脱してしまった昨今の事情が相当に絡んでいるはずだ。US事情を知らしめた映画の話は最近したことだ。列島もきっと似たり寄ったりだ。介護保険下、いかに営んできたか、その熟練度、熟練をいかに育ててきたかの結果が現れるのが2020年以後の介護現場ということになる。”20年選手”諸氏がいかにお年寄りに向けて仕事上のお手本となってくれているか。そこらだ。介護保険法以前の発想を引きずったまま身に着けてしまったことを修正することは大人の身体にとっては相当に大変なはずで、一夜漬けでその技を修正できそうにない。だからだれもがその達成度を気付ける。いつもの施設での入居のお年寄り諸氏がどう生活できているか。どういった気持ちを保てているか。晩年も晩年のお年寄りたちだ。少しくらい”わがままさせてもらっている”かどうか。
施設に入って介護のプロとの付き合いゆえにそれまでの生活により近い晩年生活を送れているかどうか。つまり今は難しいことになっている外出とその応用の在り方も、列島では相当に試されている。ここらは法のことも、より広く方法論としても開拓の余地があるところだ。道具もそうだ。
そして『八月の鯨』のブルーレイ版は出ていた。
本日、4Kデジタル版にした黒澤明溝口健二小津安二郎3氏の映画紹介のBS放送を見てしまった。
一か所でまとめて、というのではなかった。各地で各プロジェクトとしてこなされていた。
道具の方はデジタル機器の開発によってこれからも更に凄いことができてしまう気配を感じた。
映画館でも4K(や8K)の映像での上映をするようになっているので、家庭での万全の装置を持たなくても時々楽しむ程度ならば、一般が享受できるようになっている。





君:4Kで見たの?
私:残念、2K。
君:何を?
私:何本も紹介していた、よ。たとえば溝口健二監督の『近松物語』に出てた香川京子氏が、何度やってもオーケーを出してくれなくて、たまたま演技中に転んでその勢いで相手役とのからみに体当たりの演技をしたらオーケーが出たそうで、黒澤組で映画に参加できるにはそれなりの取り組み方が必要なことを言ってた仲代氏の話とも通じる感じで、気持ちの入れ方というのはその演技が穏やかだろうか激しかろうが一歩踏み込んでいる状態、というのか作品にしていく協働作業ということを感じさせる発言をしてたね。『近松』は何度も見てるけど、古い画質でだから、今度機会があればまた見てみたい。『山椒大夫』は森鴎外原作のを下敷きにしてるらしいけど、これは見てない作品。小津監督のは『東京物語』がもちろん登場してたけど『浮草』に多くが割かれていた。テレヴィ放映されてた版は各局とも同じように色がどぎつかった。それが修正版は普段の色に変わってた。驚いた、よ。
君:映画好きな人たちってデジタル画像とフィルム映像と区別してなかった?
私:そうね。以前は、ね。パソコンのモニター、今時は1920x1080だから。4K、つまり3840x2160で見てるPC使いたちも今は相当いるんじゃない。少しお金に余裕があればもう8K(7680x4320)だって使える。画像に関しては質がこれからも改良され続ける、って感じ。その精細さをヒトの営みにとって上手に使いこなしてみたい、よ。
君:たとえば?
私:使いこなすってことに直接関わらない、たわいないことだけどひょっとしたら応用につながるかも、ってことで言うと・・・、目で見てる映像とちょっと距離を置いた巷の8K画面の映像が紛らわしいほどの経験をもたらす。それくらいの力を発揮するはず。交信に使うなら、よりリアルな対面が可能になる。それを目の前での出会いに逆に感受性を切り替えるヒト発想が生じて、妙なことになる、という想像もできそうだし・・・。
君:妙?
私:目の前すら、画像を通した対面の付き合いのような受け止め、にするっぽい。逆に、映像対面が面と向かっている関係性をより意識させる、っていう想像もできるんだけど。これはこれで、生な対面で生じる様々の機会がそこでも生じやすくなって・・なんていう想像が働く、ってきょう、この今気づいた。
君:ふふっ。