連載は続く~SF 掌編『長い人生、お互い様(法治上の)民主制でどぉ?』編

 


民主主義という言葉運用がかなり安易に流れ始めた時期というのを中東での出来事と絡めて考える視点ということを無理なく提示できるはず、ということを押さえて、かなり小規模な土地所有での解決こそが民主的な一つのあり方、ととらえてしまう勘違いについて、ちょっと前にふれてみた。人がどう関わり合うかの面からは、時に発揮される田舎の人間関係上の古い弊害、状況によっては正しく効果を発揮することもあったかもしれないが、いつもそうしてしまうと意見交換が発揮してしまう効果を当てにできにくくするタイプの発言できることへの立場の違いの影響圏形成などを大雑把にはたとえに出来るけれど、通常の民主主義的営みにおいても実は相当な巧みがヒトの知恵において発揮されてそれらしく営まれてきたのだ、ということに気づける、なんとも軽々しくも重々しくもことばにしにくいおたがいが共有できそうな辺りはなんとなくでも前提にしたくさせる。
極く小規模ゆえ、あるいは小麦を大量に使う業界を意識的に広範に巨大に育ててもきたこともそうだし、土地政策それ自体の趨勢も加担してきたのかもしれないし、それでも、兼業での継続意欲を損なうような何かしらと継続意欲とのせめぎあいにおいて、前者が圧倒してしまって後継者難の事態は農家とは相当に距離のあるだれかたちですら気づいたような年月を過ぎてきている。
生活のあり方をまとめて、その上で民主主義的なあり方の難しさと直面してじっくり考えるという方向を採る事は難しいことなのだろうか。
お互い様という一見当たり前そうな事態を法治的な権利の方で押さえてまで意識してみれば、それがどれほど貴重かくらいには気づける。法治とかの制度面からの支えだって運用次第だから、人々の意識的支えってことが大事には違いないのだが、お互い様はことばの通りお互い様なので、だれもにとって似たように硬く言えば尊重しあえること、と押さえることができる。で、実際生活上もあまり他人にしゃしゃり出るようなことはしないようにする工夫をかなりの低年齢の頃から身につける。ただ時代の移ろいから、お互い様の立場を踏まえて、しかも意見を提示しあって、くらいまでは普通通るくらいの世の中にしてきたように年寄りからは思える。更に、そのそれぞれの意見をめぐって(つまり多少記憶保持の労苦をいとわないようにして)なにやらかにやら検討しあうくらいのところくらいも、慣れた集団の営みの中ではやってのけるようになっていて、それが上手く機能してくれるとアイデアの出が良くなるし、形への試行錯誤へと通じる。だれかれともなく意見百出で収集が付かないあり方への反省上、身分制的な制約を課す手法もありえたかもしれないけれど、そこではある条件がそろえば恐らく、言ったことへの責任も伴うとしても率直な意見交換的な内実を得られていたと想像する。お互い様の巷では面倒な話を避けるという旧弊が生じがちだから、それが災いして、企業的な形への試行錯誤が生じにくくなる。そうでない場での率直な意見交換の場ではオルタナティヴが可能になる。でも今的によりさらにの可能性に賭けていくことだってできる。
USでありがちな現場の警察官による暴力沙汰がグローバルな世間を騒がして、その後のUSでのローカルな場での暴走が生じたときに、被害のご家族の中から暴走は止めてくれのような抑制をうながす発信がネットの時代グローバルに走った。と同時期にUSの大統領は個性からではなく、恐らくUSの大統領ならばだれでもが、民主主義前提の法治の発想から、その暴走した意見表出について、行き過ぎた暴力と率直に指摘して対抗措置に出た。そういう経緯を列島在住であってもテレヴィニュースないしネットを流れるニュースとしてもつかむ時代になってきた。
実際、民主的な社会改革を相当な熱意が生じてこなしているときに、商店を壊して略奪する悪乗り連中を放置できるだろうか?できやしない。そのノリを放置できる発想は、相当にヤバイ。なにかしでかすやつらへの視線を生じさせにくくする。これはリベラルな立場とは無縁な姿勢だ。世の中を構成する人々への責任を有するのが社会を営む主だった役柄を引き受けようとする人々の要素の一つだ。民主主義であっても内容な分業や協業やにゆだねられる。中身がわかり切っているということではないけれど。
ここで視点ということについて先日のスポーツのことからヒント発信できそうに思えた。
一方がキャッチボールの視点で、相手と現状の動作を継続するために相手と自分を意識した動作上の関心・視点を活動させて心身へとフィードバックし続けている。もう一方は、そのお互いの動作を自分の動作は更に続けられることを目論みながらも、相手の連続性を中断させるための動作観察眼がフル稼働する。この両者はあたかもゲシュタルト知見のように両方をフル稼働した状態で有効に使いこすことは至難。コーチ役で、適度のスピードとか頻度の中でならば、工夫次第のところはありそうだけど、各人が集中して、という行為の中では、一見見えてそうでいて、片面の惰性の方しか意識されにくくなる。サヴァイヴァルの為には、しかし、敢えて両方を意識できる意識上の中断というか断続性を駆使することになりそうだ。
議論しあう間柄においても何をみているのかのことばから探れる認識上のなにがしのこともあれば、もう少しゲシュタルト知見的な見えているからこそ見えない側面が生じてしまう、ということも意識できることはとても便利なことだ。
意見を聞く耳を持ってるよ、という寛容そうな振る舞いが膨大な意見提示と出くわすようになって、こりゃかなわん、ということで無愛想表現を用いるようになってしまう、ということくらいは、SF掌編の範囲でふと想像くらいはつく。が、そういうタイプと出くわす相手にとってはかなり迷惑な表現に違いない。だから巷の民主化においても様々に障害が生起し続けていて、それとどう改良的付き合いを可能に出来るかとか、考えることが沢山続き続けそうだ。

で、生起というか生成というか、そういう事態こそが生き物の世界だ。
新型コロナ騒ぎをただその一手の上手さに翻弄され続けるのは列島在住の一人としては多少悔しい。多少ですけど。
インフルエンザは冬場を切り抜ければ、多くが安心してしまう。恐らく忘れ去る。警戒アンテナの要素から外れてしまう。
ところが今回のタイプのコロナウイルスは、当初観測されていたのとは異なり、この猛暑の中もヒト細胞を媒介に使っている。
大胆に素人想像してしまうなら、インフルエンザすら無症状感染の状態かもしれない。ただこれは即調べることができるので、簡単に素人想像の間違いはバレそうだ。
今回のコロナウイルス(SARS-COV2)は猛暑でもヒトの細胞を使いまわして騒いでいる。
インフルエンザはシベリア方面から渡ってくる鳥の細胞を根城にしているのか季節とともに残存量が極端に減る。
風邪症状のコロナウイルス知見を踏まえれば、猛暑だろうが、なんだろうが、列島ではなじみのウイルスということも考えられる。
で、それだけ騒ぐからそれだけが見つかる。他のコロナウイルスが見つかってそれも騒げば素人想像上では、何種類ものコロナウイルスが流行っていることになりそうだ。
そして飛ばすが、大抵の症状は免疫系が引き受けた結果生じる現象のことだ。それが発熱であり炎症やだ。
今回のも死亡例についての知見がかなり整理されてきたようで、血栓が血流をとめるようなことになって死亡に繋がるようなことを素人耳には伝わっている。
病気の整理も現代版が活発だから、多くが整理されて病気分類そのものが変化するかもしれないのだけど、免疫系がもたらす症状を病原因によると見なしてきた過去もありそうで、そこらは現代医療においては仕分けが始まってそうだ。コロナウイルス由来の風邪症状やインフルエンザウイルスによる風邪症状にしろその主なのは免疫反応ゆえだったりする。そして免疫系の知見はそれなりに精密でなのに免疫抑制知見となると質ががたっと落ちる辺りを素人知見で時にふれたりしてきた。
ヒトはわが身を守るために免疫系が活発になる条件付けもすれば、その条件下、活発に働く。その結果を回収して丸く治める、ならいいのだが、そこらはちぐはぐというか、自らの耐性についてフィードバックが足りないようで、自らの我慢を超えてまで奮闘してしまってわが身を滅ぼすような事態を招くこともある。或いは、慢性的な病気の状態にしてしまう。特定疾患の様々、見やすくはリウマチなどが典型だ。自分の免疫系がなぜ?と思わずにはいないだろう。
常在菌、腸内細菌、遺伝子上の過去での紛れ込み群、ミトコンドリアほか・・・一体生き物ってなに、と思わずにはいられない。
しかも、生き物はここまで来てそれに幸いかもしれないが、あることを経ての積み重ねだから、選択においても、その後としての経路を既に持っていると素人想像は思い浮かべる。
わずかの要素がある躍動において作ることを成し継続を目論み続ける。
当初の要素に応じたべらぼうな方向性がその時々の条件付けに制約されて生き残ったり残りにくかったりする。である絞られた変種群の中でのやりくりとなるけれど、しかし、べらぼうに分岐する程度の時間的経過の頃であれば、未だ、想像を超える変種が様々に生じうるし、生じても残るのは限られる。しかもその当時の条件付けにおいて、でしかない。
その当時の条件付けを引きずって、条件変化とのコミュニケーション下、次々に別種も生じさせ、丸山氏が紹介してくれた(放送大学以外にもNHKのカルチャー放送でも詳しい)規模の断層的変化を経てくれば、その過程が担いでしまった変化の広がりについての制約をしょってしかしべらぼうに変化したがって次世代を生じさせる。そこに同様にその時点での条件が制約となる。だから同時期にはいつか経た条件づけを組み込んで、しかも今の条件付けともコミュニケーション中のべらぼうに変化固体を生じさせたい生き物たちがいる。
でもべらぼうの度合いが組織化された生き物ほど広がりを持ちにくくなっていて、特異なのが特異だ、と見つかるほど、珍しい現象になってしまう。けれども内実において、いつでもべらぼうに変種をしょうじさせている。生き物の躍動はそういうことになってしまう。
適者生存的な発想も便利そうで、実際の生き物の生々流転とは程遠い、と思えるのが素人想像の現状だ。

そのことも一応踏まえて、人生が相当にだれもにとって長そうだ、という事態を引き受けてみたい。
介護施設の構成として、ランダムに集まった入居者であるほど、当方にとっては、聞き書きしたくさせる。
介護職とかとなんらか人脈を同じくして介護の現状を改良することの邪魔になりかねない情報ルートを形成する入居の人々だったりがいたりすれば、それはそれで、流しておきたいタイプだ。せいぜい、沢山の入居の方々にとって楽しい晩年になるような生き合いを試してもらいたくなる。
とにかく、だからちょっと古い事例しか持ち出しにくいのが現状で、ここらは許されたい。
その時、他の入居の方を心配しつつもわが身も転んでしまう可能性のあることをしっかり意識されていれば、その後も愚痴を言っていれば済んだものを、という方については、その高齢にも関わらずの頭脳明晰な落ち着きについて何度かふれてきている。
百歳近くなると、生きててもね・・・、と愚痴るのだけど、それも現状の介護施設の集団扱いゆえと推測することは簡単だ。高口氏ですら、なかなかそこを突破することは困難に違いない。せいぜいイヴェント攻勢で、ということにならざるをえない。アイデアと親しく関係を作れば構成員であれば、そのくらいは出来る。日ごろから口やかましくしているだけで、どう日々の業務を時間どおりこなして上司たちのご機嫌はとれても入居者からは内心困った人たちだ、と決め付けられてしまうのが落ちだ。だから、楽しくイヴェントすらこなしにくい。それに集団扱いだから参加もいやいやの内心だ。そういう意識遡上が得意でなくなった認知状態の入居者諸氏の状態では、介護職のいいなりか、感情的反発かで反応がわかる。
個別対応を細やかにこなして、人生の晩期をご家族から任せてもらう。ここらは介護保険の内実を踏まえて最低限指摘できることだ。
皆で一緒に騒ぐ、一見楽しそうだけど、家族でそうやってるかい?COVID-19の巷でそのご家庭でそろそろ退屈を紛らしたくなってないのかい?
ここらには一応の列島知見というかかつての山口(昌)氏らが活発に発信してたことなど参考にできる。山口氏らの発信が列島の先行の研究をも踏まえていたことを指摘しておけば失礼にならない。
まれびと演出がなぜか、飽きを取り払う、景気良く取り払って、場を楽しくしてしまう。
ちょっと違った時間を得たかのように、その日のそのすぐ後くらいまでは気分が持続するようだ。
ボランティアなり舞台商売系を呼ぶなりして、小さな舞台を作る。何かを演じてもらう。もうそれだけのことなのだが、入居者諸氏は大喜びだ。享(う)ける。気持ちがわくわくするようだ。
介護職がたとえばデイサービスのような演出で工夫しまくったとして、飽きられる。飽きられないようにとか思い初めて仕事に差し障りがでてくる、というような悪循環をデイサービスの極く初期に経験できてしまった列島介護業界という貴重な体験をネットではその当時において発信されていたのだ。
まれびとが要る。芸人諸氏は新型コロナ騒動でかなり振り回されてしまった。けれどもこの原理の強靭さ、強固さを覚えておけば必ずオルタナティヴの手法をそれぞれの事情に合わせて使いこなす日が来ると推察する。
典型的には骨折、これをなんとか避けるようにする。でこれだけは他人任せは不可能なんだ。これも少し前の事例だけど、頑固者ゆえに介護職からは敬遠されていた方、でもその頑固さが手すりにも向かっていて、歩くときにはそれを手放さなかった。だから薬とかで歩きがぎこちなくなってきた時期にも転ぶことがなかったんだ。
そういう”工夫”はできる。他人の評判を気にしない。
そして楽しくということでは何度も引用させてもらっている方をやはり登場させたい。
脳血管系に絶えず心配の種があったメタボな方。でも、食事の場だろうがお茶する場だろうが、他人を材料にワイドショーねたのような悪口を話題にすることを厭(いと)うタイプでそういう場を促せるタイプの方だった。そういう方の場合、他人を引き寄せる。そうなんだけど、つい愚痴の中身に他人の悪口を挟むようだと距離が出てきてしまう。そこら辺をしっかりわきまえて付き合いもできる方だったので、悪口こそ話題で迫るタイプな諸氏にとっては追々、付き合いにくいかもなど思わせもしていたようだ。
ただし、悪口というよりサヴァイヴァル要件である個々の性質について踏まえる言葉発信、人物評価は不可欠だから、それはまた悪口話題とは異なる。そこらはセンスの問題だ。
世の中を忙しなくだけど、見渡していると、元気な年寄り諸氏が目立つ。本当だ。体の使いすぎは即体が反応するから、そこらは、運動選手の真似をすることは一つもない、と心得ることができる。プロ運動選手は体を酷使して稼げても、使いすぎの副産物とご一緒の老後が待っている。それは稼ぎとのバランス問題になる。
一般はそういう酷使をしないで済ませられればそれに越したことはない。そして長持ちさせられる心身条件を下敷きに、老後というより本当は、長生きしだした列島の人々と言う発想から世界に先駆けて若者文化の刹那性質を踏まえた人生設計の発想に転轍機を切り替えていなければならなかった。
今は勘違いして若者たちに親が使わせているから若者文化ともてはやされているけれど、ほんの数年間でしかない。その時期は確かに大事だが、大事といえば、同じくらい、その後の経験の中で得ることも更に大事になる。
そして自覚できるなら、考えの更新も可能で、老年で落ち着ける、観念世界なんてことはありえそうにない。学問という絞込みでさえ、考え続け、調べ続けが要る。
いわゆる暗記インテリの場合、どうしても概念の整合性を踏まえた内容理解どまりになって、事態としての生々しい(インヴィボとか)データとの直面での戸惑いとかその暫定的整理とかの苦闘の後のない整然さゆえの軽々しさ、馬鹿っぽさが目立つような生インタヴューとかが、それを踏まえていない場合、露骨に弱点として出てしまうことばのやりとりになりかねない。ただ制度の営みは様々な知見状態の人々の織り成しだから、知識の学を一般教養にしてお互いに謙虚に率直にでしぶとく時間もおしまずが少なくとも可能だといいな、とは思う。
とにかく、長く生きる人々が沢山の世の中なのだから、その老後云々でくくる年代の幅が広すぎる。そこでの消費生活もきっと理解の土台が変化すればガラッと変わるはず、と思える。
そういう方へ突入する気は有りや無しや、だ。
年寄りは早くオサラバすればいい、と先の百年老人女史のように愚痴られるかもしれないが、半分冗談のりでおっしゃっていたことを忘れないでいたい。
この女史はお米飯が好みだった。それでいて明晰なままだった。ゆっくりタイプになられていたけど。
免許返上はご本人任せで済ませられればそれが一番だろう。わかることすらわからない状態ならいざ知らず、わが身のことは自分で判断できし、それが生きがいに通じる。
列島では大川弥生氏発信が今でも貴重で、とにかくその心身に無理なくでも活動的であれ、が欠かせない。なぜか年寄りは躓きやすい。それが致命傷にならない工夫を他人にゆだねないことが大事だ。施設でも一応見ることが”商売”だからそれを引き受けるようなことをことばにするけれど、それは実際問題として、ごく限られた条件以外、ご本人の自律に任せるしかないところがある。ここらを法治の上でもなんとかことばにしてもらえると更に介護施設の生活は快適条件の一つにできるようにする。見てたような振りで心身を消耗させても介護職としては、不本意に違いないが、現状はそういうことに誘いがちにする。
だから個々性のために個々の住居でできるだけ最晩年まで生活してみる意欲と認知機能を保持させる学からの働きかけなどが大事かも、とも思える。知見だ。安易な代替医療っぽい何を食べたらとかではなくて、もっと原因とか要素っぽいところで、どのような経路を経て認知症っぽくなってしまうとか、薬害とか色々利害のところも学系なら率直に指摘できそうに思えるがいかがか。
で集団扱いなれした人々の面倒見の良さとそのトンでもな弱点、困った点についてはなんどか指摘してきたので、個別性重視の人生観へといざないたい。
特に年をとるほど観念系が個々性帯びざるを得ない。
付き合いは付き合いとして、自分で観念を遊ぶことを余計なお世話系が邪魔してはいけない。ここらのセンスは必須で、お互い様の要件だ。
年寄りがバランスを失わずに(ここらも更新される知見を絶えず発信していくことが要る)心身を踏まえた考察を育てていけるということは、かつてなら夢物語だったのが現実に可能になっている。多くが意見を出し合ってそれを時間を置いて検討しあえるのがネットの一側面。かつて即時対応で暑くなっていたぶり合ってしまう掲示板事件は頻繁だったらしいけれど、それを踏まえて、別のオルタナティヴなネット活用を志したい。
そういう老年期の使い方も一案じゃないか。
動かし続けることが苦になってきたらそろそろお迎えかな、とか冗談半分で愚痴ることも、素人落語のネタくらいにはできそうだ。
こまめに面倒くさがらず調査して学問して、まとめて整理して発信くらいまではもって行き、家庭内の分業にもいそしみ、掃除くらいは嫌がらずにこなす。なんなら食事をつくるくらいのサーヴィスで構成員を世転ばせるくらいはお手の物だったり。
でちょっと散歩にでて顔見知りがいたとしても、会話したこともないのだし、礼儀として、さらりと行き交って、それで済ませられる近所の距離感を保てるなんてのも大事だ。寄り合いの地域社会で会話する間柄でもちょっと挨拶する程度で通り過ぎることが良しとし合える時間の使い方上手がなにより、災害近しで情報交換したいような時こそは、近寄って情報交換すれば済む。情報源にあふれ、しかも日々更新されるタイプに接せられる昨今では、個々にとって心身の刷新の機会は隣近所の長話は要らない。年寄りたちが構成しているという前提で、必要な機会を必要なことばと時間で満たす。それ以外では個々性が発揮される余地を尊重しあえる。同好の士のお付き合いの様も似たものであった方が上手くいきそうだ。大本はまれびと。いつものことで埋め尽くすことはない。そういう工夫をし合えることが逆に親しみを長く持たせる。
で、老年になって何かを始めるではない、老年期への突入方法を早く若者たちは開拓しておかないと後悔先に立たずは本当だし。その年月は若者期の何倍もだから。食って持続させてがやっとだった心身記憶においてうるせぇやつらの誘導は他を見させないくらい圧倒的だったかもしれないのだが、既に選択的人生の時期を人々は実は経験してきている。一時的に子作り子育てを担うことになるとして、しっかり伝承が可能ならば、かつてのように本当にそのごく限られた時期にやることをして、それを超えて自立させたら沢山の人々が長く生きるようになった世の中にいるわが身に気づけていい、という時期を経ている最中。ヒトはそういう間氷期を経験中だ。動物にも長生き系と短命系がいて、短命系が仕込む生存中に要る知恵群の伝承の中身は独特だ。長生き系もまた独特だ。そして勝手に考える縛るバインドを緩めることに成功したヒトの場合はなおさら独特の生活を可能性として秘めさせている。秘めさせているという”秘”文字を使うと色々想像させてしまうかもしれないが、そう単調な方で想像しないことが肝心だ。認識の学から、調べてわかるわかり方の襞の育て方が長生き系になっている。わかってほしいことを相手の観念系の育ち方ゆえにわかってもらえないというもやもや感を相手も長生き系ということで多少なりとも可能性に変えてその相互性にまで期待できるようにする。
(* 現生人類は継続性での試行錯誤を偶然にも得ていると素人は見ている)

 

ところでコウノメソッド2020版のpdf小冊子は出ていない。でも音声版で出ていた。
入居者の動静に翻弄されがちだ。心身ともの介護職として疲弊の極みだ。
ならば、是非、このユーチューブ動画をご覧あれ。
対応に何が足りないからそうなるのか、コウノメソッドの薬対応にも頼れるのだけど、その前に自らが出来ることについて・・・・。
など対応に関わる前後関係を押さえたフローチャートなどを描けるような内容になっている。

 第一回目 https://www.youtube.com/watch?v=T09oQ0EGlTY

 


君:あら、終わった、の?お話。忙しくって・・。聞いてなかったかも。
私:じゃ、お茶しながら、また話そうか。
君:・・・・、聞いてた・・、仕事しながら。聞いてた、わ、よ。こっそり。
私:嬉(うれ)しいね。
君:喜ばせちゃった?
私:うん。ま、ね。
君:同じ話はいいから、さ、お茶、誘って、よ。
私:そぉお?じゃ、行こ、か。ふふっ。
君:いい、わ、よ。