連載は続く~SF掌編『グローブの行先は?』編


お盆です。
意味合いはともかく列島生活習慣上のニュアンスで受け止めておいて、認知症を経験中だった(ある時期にお世話する関係を得て、少し後、離れることになり以後のことは詳らかにしない)方がお話しくださったことを紹介しておきたい。
何度か施設を転居されて今この施設に入居されてきた、とのこと。
その過程について、氏(80代の女性)がおっしゃるには、大騒ぎを起こして、それが原因で移ることになったと。
自らが、大騒ぎを起こしたと。
目の前にいらっしゃる氏は、記憶上の事態と現事態に変化を発見して、納得できない、と質問を浴びせ、就寝の時間帯にも関わらず、介護担当を話してくれないことがしばしば、になっていた。手のかかる、認知症の方、という受け止めがなされていた。
就寝の介助を終えれば、仕事終わりの時刻ということで、帰宅できるのだから、手こずらせないで、というのが介護担当に生じる本音のケースだ。
けれども、ほんの少々、傾聴を試みる介護担当も出てくる。
でたまたま私が当番の時にお話を聞けたわけだ。
個人史に当たる過去の出来事記憶はかなりをお持ちで、しかも相当に印象深い経験となる内容のこともお持ちと察することができた。機会があれば、ご本人が他人に聞かせるために語ったという筋を持つので、紹介できればしてみたい。
ここでは、自らの大騒ぎを伴う一連の経験について内省・考察を込めた語りの中身にふれる。
今の氏は、今したことの出来事の記憶を保つことが不得手な事が顕著だ。だからいつでも戸惑いがちにしている。
頻繁に交流されているお仲間についてはよく覚えておられる。なになにさん、と姓は出てくる場合もあれば、なんていったっけ程度に度忘れしている場合もおあり。
実際に起こっていることだけど、モノを整然と保持できないことを心配して、ご家族とも話合って或る方が自分の部屋にモノを預かったままにするということが生じた場合、氏の受け止め方は、家族やその或る方がグルになってモノを隠してしまうようだ、という疑念の吐露となる。
氏は忘れっぽくなってしまった自らへ戸惑いをこの語りの中では隠さない。覚えてられないし、丁々発止のようなやり取りとまではいかなくても、相手の言ったことへ、それに応じたやり取りを普通の速さで反応できない、ということをおっしゃっていた。そこで、戸惑って、伝えたいことの伝えにくさから、他人からすればパニックのような大騒ぎな自分を演じてしまうのだ、と言う。
緩やかな連続動作の中で、記憶を保たれて、にこにこされている氏の姿の場合もあれば、ふと気を緩めたか、他の関心を引き刺激で振り向くとかがあって、それをきっかけに何してたんだっけ、のような戸惑いを生じさせてしまう場合も同様にありで、まだらタイプと言えばそうなのかもしれないが、認知症状の過程についてなにげに、気付かせる内実を氏が紹介してくれているように当時の私は受け止めていた。
その手の知見とは少し離れて、やや大雑把にだけど、人生プロセスと認知症化の機縁のようなことも触れられるように、話題としては提供できていない部分を当方が持っているので、強引に紹介してみる。
人生の途中までは家業を仕切る立場で責任を引き受けてきた方の場合、引き際が適切であれば、衰えの一端を相手が感じる前に引いている、と想像できる。けれども、衰えを相手が感じるようになった時期に仕切ることは相当に難しいことになる。てきぱき感として衰えを相手に与えてしまうといったニュアンスで伝わるのではないか。衰えというよりは老いゆえの宝庫形成から辿る回路の長さが影響している可能性を一応してきしつつも、若さの反応系で推し量ることが経験上多いヒトの世だから、そこらは仕方のないところも指摘できる。つまり仮想老い=衰え現象として他人諸氏は受け止めがちにする。
その同期の不具合は、相手にとってはただ合わせってほしいのに、だけど年取った方にとっては少し待ってよ、のはず。でもそれが齟齬を生じその齟齬が更にの悪循環を生じがちにすれば先はすぐそこだ。
衰えて役に立たないけど立場だけはそこに現にあって、邪魔、だ。となりそうだ。
それは老いにとっては困ったストレス源モロだ。そうやっていつのまにか現記憶のための海馬系に疲れがつみ重なって機能マヒを起こす。そういう認知症のきっかけ、というのもあるのでは、と想像させた。
認知症の諸氏の中で、顔とか人物について多少頻繁に遭遇する中で覚えてもらえる、ということはしばしば起こることだ。けれども、しばしば似たような出来事が生じていても、それをある時点の特定の出来事として覚えるということがとにかくそのタイプの諸氏にとっては不得手の事態となる。ほんの少し前に起きていた出来事が生じたことすらあったかも程度のニュアンスすら欠けているやり取りがありがちなことだ。
先の氏の場合、もう少し、わが身を振返るくらいの意欲が機能しているように受け取れる。
強いてことばにするなら、”時間”軸めいた、記憶の辿りの道過ぎを模索はされている。でもそこをしつこく辿る手がかり的な新体感というのか手がかり感というのか、それっぽいのを得にくくして、ポカっとそれが抜けてしまった感から、即答えを内省的に出して、戸惑ってしまう。

介護から考慮できるこれからのヒトにとっての問題のいくつかのうち、メタボ系、認知症化については、それを心配できる今を諸氏は振返れるはずだ。
メタボな諸氏は、メタボな身体ゆえに、ストレスに強いその素ゆえに、心配をしないようにしてしまう。将来は大変なことになりかねないのに心配しないで済んでいるだけのことだ。介護にだれが当たろうが、そのメタボな身体は大変な負担を介護するどなたかにかけることになる。その実のところを心配できないから、メタボを改良する動機も生じにくくする。
一方認知症化の方は、心配事というか、脅迫的な心配事を暗にも表向きにも生じさせがちにしていないかどうか、ストレス源の腑分けが出来てるかどうか。
自らの趣味が嵩(こう)じて時に徹夜する諸氏ではなく、心配事から、急かされる圧ゆえに眠れない夜を体験中ではないかどうか、という腑分けが可能だ。
眠れず、薬依存。原因はだからそのままだ。そういう諸氏が目立つのだ。
世の中を変化させてみたいと構想中の諸氏がいらっしゃるなら、ここらも参考にしてもらいたいものだ。
心配事を持続させるような負荷をかける組織の営みを変えることも一つだけど、そういう受け止めにしなくても構わないとか、受け止めることは避けられないとして、でもそれをくせのように身体に植えつけないで済むヒト身体の知見を突き詰めて、その為のリハビリを開拓する(もちろん思い付き水準ではダメで、実用的に検証されたものでないとダメだ、ヒトにとっての新知見として継承していける中身が育たないと)という変化だって期待したいものだ。
温暖化とか騒ぐ割に、メタボでいられるのは先のように心配しない心身問題だ。温暖化なら、メタボが有利に働く機会は想像しにくいはずなのだ。
暑い日、身体を寄せ合う習慣からくるなにがしは強要されれば応じるかもしれないが、自発的行為としては実際的発想を育ててきた列島育ちの諸氏において、遠慮することの方が多と察する。汗かきタイプ諸氏を前に、やはり距離を置く遠慮も当然働きやすい。
メタボな諸氏が自らの条件を反省的に考慮して、改良に出られることがより望まれることのように察する。極端な寒冷化はずっと先のことだし、食わずに長期間暮らす生活の仕方を受け入れるような極く寒冷化したどこかの土地柄、という場合以外、寒冷化の土地柄でもそれなりに食糧を得られそうな知見が得られている。地球表面は広かった。全球凍結のような極端は別だ。

新型コロナウイルス騒動の最中、右中左という政治思想の立ち位置とは関係なく、集団の営みの中で余計なお世話を高圧的に行使しがちな危険な連中(命令系の上層の下、自らの信念とも混ざりながら、指令を型どおりに強いる中層・下層のタイプ諸氏)が具体的なだれかとして特定しやすくなっている昨今だ。こいつらが、たとえば極端には少年・少女兵たちように末端の現場に近いところで残虐な行為を担う、ないし担いやすい。その当面の担い手が具体的な名前とともに現れている。便利な世の中だけど、窮屈でもあるな。
公衆衛生部門の知見行使は厳格で窮屈にするけれど、必要な事だ、くらいは押さえて、指摘している。今時ならば、公衆衛生部門の力行使のためにはそれなりに合理的理由の開示やその過程での議論とかが必須だ。また行使後のフィードバックすら必須のはずだ。勘違いとか間違いの要素があれば即改良だ。
だからそれなりに納得づくの事柄のみ限定的に強制される(色々条件がついて抑制もはたらいているはずだ)。
でもムードで今回の事態では場合によっては現場の担当者が指示の下ということで、他人に強いるなにごとかを行使していたりする。何をしているのかその行為の実質の問題点を振返らないで済むと思い込めていることも、凄いことだ。
ただ危険人物(ムードに加担しない諸氏のことではない、ここは断っておくことが大事かも)諸氏の名簿がきっと作られてるんだろうな。極端な悪乗りし易い人物名簿の類。
海外では政府自体が悪乗りしてるし、ムードに乗らないだけでなく、悪ぶってムードにのろうとしない政治指導者も小国にはいたりするので混同されがちとは思うけれど、マスメディアの発信の仕方がそれらを煽ることも更に事態をこんがらかせてはいる。
工夫の経路を発明発見してしまえば医療部門でさえパンクするような事態は避けられる。それをしないまま医療現場は大変なことになると必死になりがちなタイプをマスメディアでは採用してしまうのかそういう発信も交えて現ムードは醸成中だ。
本当にインフルエンザでさえ確実なワクチンがないし直結の治療薬はないはずなのに、現コロナではそれらが解決策のような誘導もちゃっかり含ませてマスメディア発信されているしで、巷からは大丈夫か?と心配が募る。
以前、映画作品を参考にできたので紹介したのだけど、死に関わる医療は相当に困難だ。本人にとっての安楽死を如何に?でそのシミュレーションになっていた作品では、とにかく思い通りにはいかないのが安楽死なのだ、と強く印象付けた。だから安楽死は不可能に近い。インフルエンザでの死も年々膨大量が続いているけれど、それは弱い条件をある程度絞り込めている現象に当たる。子供が高熱で・・という場合も危険要素だ。で欧米系の医療は対症療法は得意だから、とりあえず体力消耗にならない熱を下げる方に力を注ぎ、それで当面をしのがせ、子供本人の生きようとする働きにゆだねて大抵は成功する。
熱にうなされる子たちでも信頼できる医師の声とか手触りとかちょっとした治療行為で深いところで元気づくという作用さえ起こってしまう。
新型コロナウイルス騒動であたふがした時期は超えた。医療はインフルエンザ経験を相当年数積み上げてきた。だったら・・・が可能なはずなのだ。
行政が右往左往しているような医療が政治的に活躍してしまえばいいのだ。そういう民主主義は歓迎ではないのか。
PCR検査は反応が微細に可能なので、ということで振り分けの初期段階に使う知恵を出したのは研究者だ。素の様々とは無関係にその素に対してしっかり反応してしまうことの逆手取りだ。そうやって振り分けて、その後に、問題ありの方かどうではないかを振り分ける。すると、見えない状態であたふたして、予防になるかどうかもわからない手段を悪戯に心配し合ってヒトの繋がりを断ちがちにしてしまう、新生活の一面、はヒトのフィルターを通して、必要なもののみを残していける。当方的には、密集させて儲ける会場集合タイプについては、ストレス面から両手を広げた空間で座り合える新生活の一面に賛成なのだけど、うるせぇやつらが騒ぐのに新生活だからと距離をおいてはすることもしにくくなってしまうので・・という向きにも異論はない立場だ。


災害後の不便をヒトにとって無理の少ない期間で克服して復帰ないし改良地点へ、という観点から、ヒトの生活する環境を構想してみたい。
で都市部と田園部という区分けはあまりに古臭いと受け止められてしまうかもしれないけれど、でも敢えてそういう区分が有効としてみたい。
都市部は今の欲望、デジタル系の高集積である完璧を目指す。
田園部は都市で働く人々の住むところ、という決めつけはしない。中にはそういう少数も居るだろう、くらいでいい。つまり都市好きはそこに住めばいい。職住の近さが大事だ。
田園部に住む人々はそこに職場を持つ。
以前ふれたけれど、電子系は脆い。あることに対しては致命傷を負う。その時に、PCでお馴染みの同期させた記憶装置が都市と田園に機能していて、どちらかの機能的全滅に備えている、という全体的作りを想像してもらいたい。
田園部にも膨大な人口、となると、農地はどうなる?そこらは今日までに得た知見を応用して、しかも都市部のデジタル化過多とは違う手法での農が機能していて、ある程度の篤農家育成策が行政的にも働いている。ここらは、農を市場の都合で製品が揺さぶられ過ぎない方策と考えてもらいたい。
農の民主化は数十年かけて上手くいかないことがわかってしまった。世の中の移ろいとも関わるからという面で考える向きもおありだろうが、農と研究しながら取り組むタイプは実は昔から少なかったことに気づけたわけだ。で小作的なあり方は相応しくない、となれば、限られた農の担い手を育て続けるしかない。デジタルな技術を応用したい面も含まれるから、そういう技能学習についての機会も優先的に提供され続ける。ここらは先のように、やり過ぎるとある事件でどこかしこも機能的全滅ということになりかねないから、逃げられるやり方での採用ということになる。そうでない場合は都市部でやってくれ、となる。
だからもう一つのつまり今でいうディープステートが都市部か田園部かに表向きで育てられているわけだ。
完璧な自動運転の恩恵を得たい諸氏は都市部で生活するしかない。オートマチック車以外、マニュアルでギアチェンジできる車を運転したければ田園部に来るしかない。だから時代遅れのサーキットがなぜか田園部では流行っている。騒音は、駆動系が今と違うので、問題になりにくくなっている。
そうそう50㏄のjazzが未だに走っているのも田園部だったりする(これは当方の勝手な希望なんですけど)。
特に自給自足な経済を目指しているわけではないのに、内陸の河川で釣った魚を調理して食べられるくらい水質は改善されていた。このことは万が一の時に食糧として役に立てられる保証だ。
携帯系の通信手段はどうなってる?
田園部は田園部なりに・・・ではなかった。田園部では中継基地を沢山置くことを止めた。
通信可能域とそうでない地域が地図化されている。じゃ、万が一に役立たない?密度が濃いから携帯系は役立つ。閑散としていれば、行方不明対処も別のやり方が可能だった。
列島をはじめ世界規模での人口減少長期趨勢を踏まえた構想であることに気付かれたろうか?
2050年問題を経て、やがて途中経過として有り余る数年を経て作り手の規模に応じた工夫次第の時期に至る。
昔の田園部は不便極まりなかった。今の田園部は便利が当たり前だ。その便利さは、都市部のある事件に致命的な場合とは異なる災害に対して、脆い。その場合に不便に成りきらない工夫が入れ込まれている、というのが新都市部・田園部の論のミソ。

 

君:で・・・。その先・・・。
私:そのうち・・。
君:なんでぇ!?
私:おなか空いた。
君:あら?
私:キミ、忙しい?
君:忙しい、わ、よ。
私:付き合ってくれない?
君:・・どっしよっかなぁ・・
私:・・・。
君:探偵さん・・。
私:亡くなった・・・・
君:ウソぉ!?
私:嘘、元気だよ。居ないだけ。
君:ったくぅ・・・。私、も、おなか、空いた、かな。
私:じゃ、散歩して、それから、で、いい?
君:うん。行こ。
私:うん。


* キャッチボールはお互いがお互いを必要とするようなやりとりが底流となっている。そういうやりとりに慣れて他のやり取り系のスポーツを田舎者が体験した時に別の趨勢と遭遇、というような話を今回し損ねた。食事中だとそちらに熱中するので、次回。